基礎データ | |
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正式名称 | パラオ共和国 Beluu er a Belau |
国旗 | ![]() ※クリックで原寸大表示 |
国歌 | 我等がパラオ |
公用語 | パラオ語、英語 |
首都 | マルキョク |
面積 | 488km² |
人口 | 19,907人 (2005年国勢調査) |
通貨 | 米ドル(USD, $) |
パラオ(Beluu er a Belau)は、太平洋上のミクロネシア地域の島々からなる国である。
正式名称パラオ共和国。首都はマルキョク州。中華民国(台湾)からの借款によって整備され、2006年10月7日に旧首都コロールから遷都した。
戦前日本が統治していた名残で現在も日系人が国民の4人に1人を占め、歴代の大統領もそのうち2人は日系人である。
概要
国名
日本語の表記は、パラオ共和国。通称、パラオ。漢字では、帛琉と書き、帛と略す。
また、現地ではベラウと呼ぶこともある。
日本の委任統治
第一次世界大戦の戦後処理をするパリ講和会議によって、パラオは日本の委任統治領になった。
日本の統治が始まってからは、ドイツの統治下ではほとんど進んでいなかった学校や病院、道路など国民福祉の向上と国民経済の発展に必要な公共施設の整備も重点的に行われ、1920年代頃になるとコロールは近代的な町並みへ変化していった。
1922年には「公学校」を設置、日本語による学校教育が現地人に対しても行われるようになった。これは島に住む日本人子弟の教育機関とは別のものであった。パラオの教科書編纂に携わった著名な日本人として、後に小説家となる中島敦がいた(彼は日本人と現地人の教育格差、ひいては植民地政策自体に対して批判的な文章をいくつか残している)。
日本による近代的建設が進んだ反面、村の族長たちは日本の植民地官僚に権力を奪われた。日本、朝鮮、沖縄から多数の労働者が移住し、パラオの人々の土地は売却や没収を通じて失われたため、伝統的な相続のしきたりは廃れていった。
1930年代後半、日本はパラオと諸外国の交流を遮断し、総力を挙げて島々に軍用基地の建設を進めた。第二次大戦の終盤、パラオに置かれた日本の軍事施設は連合軍の攻撃の標的となった。
コロールは海軍の重要な基地として北西太平洋方面の作戦拠点となった。そのため、西方のフィリピン戦線の状況と連動して連合国軍の攻撃対象となり、1944年にはペリリューの戦いなどで両軍に多くの戦死者を出した。なお、ペリリュー島の戦いではパラオ民間人に1人の死者も出なかった。
藤岡信勝等の自由主義史観研究会関係者は、「(日本統治が終わった後のアメリカの)統治初頭にアメリカがパラオに浸透した日本の文化の排撃(神社や日本人と共同でつくったインフラ・畑等の破壊)や反日教育を行ったが全く浸透しなかった」と主張している。実際現在も非常に親日的な上に、アメリカに次いで日本から莫大な援助を受けている。
ジャングルに眠る遺骨
洞窟陣地は日本兵の遺体とともに、米軍のブルトーザーで埋められた。その一カ所が昨年、慰霊に訪れた旧米兵の証言で判明。神職の有志が手堀りで十八柱の遺骨を収集している。その洞窟内に足を踏み入れると、軍靴、短刀パイナップルの形の手榴弾が散乱していて、その奥を進むと出口がある。出口はジャングル、その先にも埋もれたままの洞窟が、続いていると言う。日本を遠く離れたジャングルの中で見えたのは二十世紀中に「戦後処理」を終えられなかった敗戦国日本の姿だった。
独立
1990年代初頭の冷戦終結を受けて、アメリカにとってパラオの利用価値がなくなった後の1992年に行われた住民投票で、憲法内の非核条項をアメリカとの自由連合協定においてのみ凍結することが決まり、コンパクト承認のための住民投票の可決条件を緩和(75%から50%へ)する憲法改正のための住民投票が行われ、これを可決。同時に行われた大統領選挙でクニオ・ナカムラ(日本名:中村國雄)が当選した。
1993年には、緩和された可決条件の下、8回目の住民投票でアメリカ合衆国とのコンパクトが承認された。これにより、1994年10月1日に、コンパクトによる自由連合盟約国として独立し、国連による信託統治が終了。同年に国際連合へも加盟した。信託統治領としては最後の独立となる。
政治体制・内政
アメリカからの財政援助が終了する2009年までに財政自立を達成することを目標とし、海外投資促進と援助による農業、水産業、観光業を中心とした経済活性化を行っていた。しかし、依然として財政・経済とも外国からの援助に大幅に依存している。財政援助終了までに自立経済達成は困難な状況にあり、パラオとしては今後のコンパクト改訂の可能性を含め援助の継続を望んでいる。
最近の出来事
- 2008年3月 【日本にて】ナカムラ元大統領(鯨類の持続可能な利用に関するセミナー出席)
- 2008年4月 在ミクロネシア日本国大使館による兼轄開始
- 2008年12月 【日本にて】レメンゲサウ大統領が来日(非公式)
- 2009年1月 【パラオにて】森喜朗特派大使(元総理)(大統領就任式出席)
KBブリッジ
パラオを構成する多数の島々のうち、旧首都があったコロール島とパラオ最大の島であるバベルダオブ島は、日本の援助で建設されたKBブリッジ(Koror-Babeldaob Bridge)によって結ばれている。2002年1月に完成した橋で、同月11日に行われた開通式典では「日本-パラオ親善の橋(Japan-Palau Friendship Bridge)」と紹介され、橋のそばに建てられた記念碑にも「Japan-Palau Friendship Bridge」と刻まれている。
旧KBブリッジ
そもそも日本が建設する以前にもコロール島とバベルダオブ島を結ぶ橋は存在した。韓国の建設会社によって作られたコンクリート橋であったが、1996年9月26日に崩壊した。この崩壊により数名の死傷者が発生し、島間の水道・電気が遮断されてしまった。
この橋を建設した韓国の会社は、橋の建設業者を選定する入札において、日本の建設会社である鹿島建設の半額を提示したという。完成後半年ですでに歪みが生じていた。各国の建設会社により何度も補修されたが、1990年にはすでに橋の中央部が陥没していた。
橋の崩壊後、多くの国が支援を開始した。日本からも、遮断された水道に代わって飲料水の輸送を行う、崩壊した橋の代わりとなる浮き橋を仮設するなどの支援を行った。
パラオ政府が財政的理由により橋の再建を断念したことを知り、日本政府は橋を無償で再建することを決定した。建設には鹿島建設が選定され、1997年に建設を開始し2002年に完成した。
ちなみに日本が再建した新KBブリッジのコロール側の真下に、旧KBブリッジの(ハングルと英文による)記念碑も存在するのだが、何者かによって「KOREA」の部分のみ削り取られているという(参照)。
観光
- あいさつ:
おはよう Ungil tutau ウンギル・トゥタォ
こんにちは Alii アリー
こんばんは Ungil kebeseugeii ンギル・ケベセンギ - ビザ:
観光目的の場合30日以内は不要(最長90日まで延長可能) ※パスポートの残存期間6ヶ月+滞在日数以上が必要です。 - 名産品:
パラオの伝説を彫り込んだストーリーボード、おしゃれなマネービーズ、パラオのデザインの記念切手、植物の葉で編んだ民芸品 - 主な観光地:
パラオ国立博物館、エピソン博物館、ロックアイランド、ストーンフェイス、ガラスマオの滝、カヤンゲル島
在日パラオ大使館
〒160-0001 東京都新宿区片町1-1パレクリスタル201
Tel:03-3354-5500
パラオ政府観光局(PVA)日本事務所
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関連項目
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