ネスという愛称で呼ばれていた。
戦いを終えた素顔は、輝くように優しかった。
この美しさのどこに屈強な牡馬たちを競り落とそうとした闘志が潜んでいたのか。
エリザベス女王杯をはじめ、20戦10勝中、重賞9勝。
最強牝馬の記憶は、誰の胸にも深い。
ヒシアマゾンとは、アメリカ合衆国生まれ、日本調教の元競走馬・繁殖牝馬である。
ダイイチルビー・ニシノフラワー・シンコウラブリイ・ノースフライト・ホクトベガ・フラワーパーク・ファビラスラフイン・エアグルーヴ・シーキングザパールと並ぶ1990年代の女傑[1]の代名詞である。
主な勝ち鞍
1993年:阪神3歳牝馬ステークス(GI)
1994年:エリザベス女王杯(GI)、ニュージーランドトロフィー4歳ステークス(GII)、ローズステークス(GII)、クイーンカップ(GIII)、クリスタルカップ(GIII)、クイーンステークス(GIII)
1995年:産経賞オールカマー(GII)、京都大賞典(GII)
馬主は「ヒシ」の冠名を使うことで知られる阿部雅一郎。管理調教師は関東・美浦の中野隆良(たかお)。担当厩務員[2]は小泉守男[3]。担当した調教助手は南田美知雄、田端正照、田春勇。全20戦のうち18戦で手綱を取った主戦騎手は中舘英二だった。
厩舎における愛称は「ネス」で、伝説の女軍団アマゾネスからの連想で名付けられたという[4]。
黒鹿毛の馬体で、脚に白と青のバンテージを付けているのが目印だった。
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については 「ヒシアマゾン(ウマ娘)」を参照して下さい。 |
※当記事では、ヒシアマゾンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載が無い限り年齢を旧表記(現表記+1歳)で表記します。
産声を上げる
ヒシアマゾンは1991年3月26日にアメリカ合衆国ケンタッキー州のテイラーメイドファームという巨大牧場で生まれた。このため外国産馬[5]という扱いになった。
「ヒシ」の冠名を使う馬主の一代目である阿部雅信は内国産馬を好んでいた。しかし1976年から1977年に阿部雅信の所有する内国産馬ヒシスピードが持込馬[6]のマルゼンスキーに敗れ続けた。阿部雅信の息子の阿部雅一郎は、マルゼンスキーの強さを目の当たりにして外国産馬を好む馬主になった・・・ といわれることがあるが、これは俗説である[7]。
阿部雅一郎は優秀な馬を自由に購入できるアメリカ合衆国に目を付けており、そこで競走馬を買って日本の厩舎に預けたり、さらにはそこで購入した繁殖牝馬をアメリカ合衆国の牧場に預託して競走馬を生産するというプランを進めていった。
阿部雅一郎は愛1000ギニーやコロネーションステークスを制したマイラーKatiesを1989年11月にアラブの王族の代理人と競り合いつつ100万ドルで購入して[8]、テイラーメイドファームにて繁殖入りさせた。1990年生まれのヒシアリダーはオープン馬まで出世し、1994年生まれのヒシナイルはフラワーカップ(GIII)を勝ち、1996年生まれのヒシピナクルはローズS(GII)を勝っているので成功した取り組みであったといえる。その最も大成功した例が1991年生まれのヒシアマゾンであった。
ヒシアマゾンという馬名は世界一の大河アマゾンと伝説の女軍団アマゾネスの両方が由来である[9]。
ちなみに、ヒシアマゾネスで登録するつもりだったが日本軽種馬登録協会に却下され、苦し紛れにヒシアマゾンで登録しなおしたらOKとなった、と言われている[10]。
運命の出会い
2歳の1992年11月から3歳の1993年6月まで千葉県市原市の大東牧場でトレーニングを積んだ。場長の三好順二は、大人びていて落ち着いているヒシアマゾンを見て「年が1つ違うんじゃないか」と思ったという。この年代の馬が1頭になるとソワソワするものだが、ヒシアマゾンは1頭だけいるときも実に落ち着いていた[11]。
1993年6月に関東・美浦の中野隆良厩舎に入厩した。ちなみに中野厩舎はこの5ヶ月後の11月にホクトベガで1993年エリザベス女王杯を勝っている。そのレースは「ベガはベガでもホクトベガ!」の実況で有名である(この動画の2分30秒頃)。
1993年の9月に中山競馬場で新馬戦が開催されるので、それに合わせてヒシアマゾンをデビューさせることになった。中野隆良調教師は美浦トレセンの調教師スタンドで誰にヒシアマゾンの騎乗を依頼しようか考えていた。この年にウイニングチケットを駆って念願のダービージョッキーになった大ベテランの柴田政人か、それともライスシャワーでこの年の天皇賞(春)を勝った的場均か、と考えていたが、2人とも函館開催に行ったままで美浦トレセンに帰ってきていない。さて誰にしよう、と考えて調教師スタンドを出ようとしたら、通路でばったり中舘英二と出くわした。
中野調教師は中舘英二に騎乗を依頼したことはあったが、回数は少ない。ヒシアマゾンの騎乗を依頼することは考えていなかった。しかし中舘英二に「先生、乗る馬、なんかいませんか」と切り出された[12]。
このとき、中野調教師は「そうだなあ、たまには、勝つ馬にお前を乗せてやろう」という言葉が反射的に出た。
なぜこの言葉が出たのか中野調教師にはよく分からなかった。「このとき中舘英二に出くわさなかったら中舘英二にはヒシアマゾンの騎乗を依頼することはなかったかもしれない」と中野調教師は語った。
中野調教師は、「一度コンビを組んだらめったなことでは乗り替えしないのがわたし流のやり方。『ミスったら降ろされる』と騎手に不安感を与えたら乗り方までギクシャクしてくる。オーナーが口を出してくるのなら騎手を替えますが、阿部雅一郎オーナーはいっさい口を出さない人です」と語り、その言葉どおりに中舘英二とヒシアマゾンのコンビは3年2ヶ月の長きにわたって続いた。
※この項の資料・・・『Number356号 37ページ 石田敏徳の文章』
漆黒の弾丸
新馬戦(中山ダート1200m)はクビ差で勝ったが、プラタナス賞(500万下 東京ダート1400m)はクビ差の2着になった。このころはソエ(管骨骨膜炎)という若駒特有の怪我が出ていて、脚への負担を減らすため2戦目までダートを選んだ[13]。
ソエの状態が良くなってきたので芝のレースに挑戦することになり、京成杯3歳S(GII 東京芝1400m)を2着に入った。1着とはわずかにクビ差で、3着とは4馬身差であり、しかもヒシアマゾン以外は全馬が牡馬だったこともあって、内容が良かった。初めて芝を走ったときの感触を中舘英二が「ダートとは全く違う印象。アサヒエンペラー[14]のときにも感じたゾクゾクッという感覚。この馬はちょっと違うとそのとき初めて思った」と絶賛している[15]。このレースから現役最終戦まで芝を使い続けることになった。
阪神3歳牝馬ステークス(GI 阪神1600m)では絶好のスタートから3番手に付けて先行し、そのまま直線に向かった。驚くような勢いで突き抜け、レースレコードを更新しつつ5馬身差の圧勝を収めた(動画)。
1993年の3歳時における4戦は、いずれも絶好のスタートを切ってから意欲的に脚を使って先行して3番手以内につけるという教科書どおりの競馬をしていた。1994年を迎えて4歳になると、スタート直後から後方に下がるようになっていく。
年が明けて1994年になっての京成杯(GIII 中山1600m)では、圧倒的人気を背負いながら1枠1番に入り、好スタートを決めたがやや後方に下がる。4コーナーで外を回さず内を突き、直線でインから末脚を発揮しようとするが、インを突いていくときにすこしもたつき、のちに短距離GIで3回2着となる実力馬ビコーペガサスに2馬身差で敗れて2着となった。
クイーンカップ(GIII 東京1600m)では格下と見られた相手に残り50mまで前に出られ、最後に末脚を発揮してクビ差前に出て辛勝した。「弱い相手に僅差しかつけられない馬」と見るべきか「勝負根性が凄くて僅差で確実に勝つ馬」と見るべきか判断に迷うところだが、後者の捉え方をするべきであることがのちに判明していく。
ちなみにこのクイーンカップは、周りの馬がすべて「斤量53kgの牝馬」であるのに対し、ヒシアマゾンだけが斤量55kgを背負っていた。このあたりが苦戦の要因であったのかもしれない。
当時の外国産馬は桜花賞とオークスに出られず、NHKマイルカップもまだ創設されていなかったため春の目標がイマイチ設定できないまま、母の距離適性からスプリントも行けるだろうと、クリスタルカップ(GIII 中山1200m)に出走。ペースにイマイチ乗り切れず後方のまま4角を回るが馬っ気野郎タイキウルフ[16]が逃げ切る勢いを見せていたところを弾丸のような勢いの末脚でぶっ差して勝利する。この勝利は多方面に衝撃を与え、井崎脩五郎氏にいたっては1994年のベストレースにナリタブライアンのレースを差し置いてこのクリスタルカップを選定したほどである。このレースの後はツメの甘さが影を潜め、本格化したと言えるほどの大活躍を始める。
4月10日の桜花賞ではオグリローマン(動画)、5月22日のオークスではチョウカイキャロルが激戦を制しており(動画
)、そうした華やかな晴れ舞台を横目に見ながら6月5日の「残念ダービー」「マル外ダービー」とも称されていたニュージーランドトロフィー4歳S(GII 東京1600m)に出走した。1000m通過61秒4のスローペースからの末脚勝負となり、牡馬のマチカネアレグロを半馬身ねじ伏せて快勝した。ちなみにこのレースから白いバンテージを4つの脚すべてに巻くようになった。
このGIIレースを最後として4歳の春競馬が終わった。GIに挑戦することができない外国産馬の悲哀であった。
皐月賞・ダービーや桜花賞・オークスといった4歳春クラシックを歩む路線は表街道と呼ばれており、ニュージーランドトロフィー4歳S(GII)が大目標になる路線は裏街道と呼ばれていて、1996年にNHKマイルカップ(GI)が創設されるまでそういう表現が使われていた。ヒシアマゾン以外に裏街道を通ったことで有名なのはオグリキャップとヒシマサルである。
ちなみに1994年に入ってからヒシアマゾンが勝利を争った馬は、京成杯のビコーペガサス、クイーンカップのエイシンバーモント、クリスタルカップのタイキウルフ、ニュージーランドトロフィー4歳Sのマチカネアレグロだが、これらはすべて外国産馬である。1990年代中盤のこの当時は外国産馬がとても強く、マル外のマークが光り輝いて見えた時代だった。
ちなみに2010年代以降の日本競馬はサンデーサイレンス系の種牡馬の産駒がやたらと強く、外国産馬があまり勝てなくなっており、隔世の観がある。
決闘
秋になり、ヒシアマゾン陣営は4歳牝馬限定で外国産馬の出走が可能なGIレースであるエリザベス女王杯(京都2400m)を大目標に定めた。
それに向けてステップレースを2回使うことになり、クイーンS(GIII 中山2000m)とローズS(GII 阪神2000m)を連勝した。どちらのレースもスタート直後に最後方へ下げ、残り1000mから外をマクっていって進出し、4コーナーで先頭に並びかけ、直線で他の馬に合わせて脚を使って1馬身~1馬身1/2程度の差で勝つという、横綱相撲としか言いようのない安定した勝ち方だった。
そのうちローズSではオークス3着馬のアグネスパレードに1馬身の差を付けて完勝している。時計は2分0秒0でレースレコードを更新する優秀なものだった。
ローズSの結果を受けて「もしヒシアマゾンがオークスに出ていれば圧勝していただろう」という声も当然のようにささやかれるようになった。オークスで1位・3位を占めたチョウカイキャロルやアグネスパレードにとって、オークスと同じ2400mで争われるエリザベス女王杯は己の名誉を守るため絶対に勝ちたいレースとなった。
11月13日を迎え、曇り空の下で本番レースが始まった。「出ろ~」の掛け声と共にゲートが開き[17]、3枠6番のヒシアマゾンは上手にスタートを決めたが、包まれることを嫌がったのか後ろに下げ、最後方から3番目で1~2コーナーを回っていった。バースルートが最初の1000m58.1秒の超ハイペースで大逃げし[18]、テンザンユタカもハイペースで走り、それに対して3番手以降はバースルートから3.3秒ほど離れたスローペースとなりやや固まって進んでいく。3コーナーに向けて坂を上っていく残り1000mのあたりでヒシアマゾンが動き、外をマクっていく。坂を上りきって残り800mを切り、坂の下りでさらに勢いを付けて先行勢にとりつき、6番手で4コーナーを回った[19]。
直線に入ったところで17番のチョウカイキャロルが外にヨレて、ヒシアマゾンもその煽りを食って外に振れた。しかし中舘英二が左ムチを連打し進路を内に向け、チョウカイキャロルに再度襲いかかっていく。
16番のアグネスパレードはインをすくうようにして突き、残り300mあたりで先頭に立った。その外でチョウカイキャロルが脚を伸ばし、その外でヒシアマゾンがチョウカイキャロルを追いかける。
200mを切って先頭のアグネスパレードの脚色が衰えてきた。チョウカイキャロルとヒシアマゾンがアグネスパレードをかわし、さらにヒシアマゾンがアタマ差だけチョウカイキャロルの前に出る。チョウカイキャロルとのクビの上げ下げとなり、そのままゴールインした。
10分にも及ぶ長い写真判定の末、着順掲示板の一番上にともったのはヒシアマゾンの6だった。着差はわずか3cmのハナ差だった。
勝ち時計は2分24秒3で、レースレコードを更新し、ヒシアマゾンのみならずこの世代のレベルの高さを示した。
これでメジロラモーヌ・オグリキャップ・タマモクロスに並ぶ当時の重賞連勝記録6を達成した。
ヒシアマゾンは年末の有馬記念への出走を決めた。このレースは三冠馬ナリタブライアンが単勝1.2倍の圧倒的1番人気となっており、それに対抗する馬がどの馬になるのかが最大の焦点となった。
天皇賞(秋)を勝ったネーハイシーザーや中山競馬場が得意なサクラチトセオーが候補に考えられたが、この2頭は2000mまでを得意とする中距離馬のようで絶対的信頼ができない。1年8ヶ月前に天皇賞(春)を勝ったライスシャワーは9ヶ月の休み明けで確信が持てない。アイルトンシンボリは6ヶ月前の宝塚記念で2着に入ったがその次のGII3戦で4着2着2着となってジリ脚に戻っている。マチカネタンホイザやナイスネイチャはどうせまた3着か4着だろう・・・いやひょっとすると今度こそ来るかもしれない・・・このように予想は困難を極めた。
一方、ヒシアマゾンは6番人気の単勝19.1倍になった。キズ一つない重賞6連勝の身でありながらこの評価は低いような気もするが、この当時は「牝馬が有馬記念で勝ち負けすることはかなり難しい」という固定観念があり、その固定観念が抵抗となっていたようである。有馬記念における牝馬の成績は悪く、1986年の3冠牝馬メジロラモーヌは9着、1987年の二冠牝馬マックスビューティーも10着、1993年の二冠牝馬ベガも9着であり、「有馬記念において、牝馬はとても牡馬にかなわない」という思いが広がっていた。
ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切り、スタート直後の行き脚もよく、ナリタブライアンから2馬身ほどの後方に付けた。
ツインターボが後先考えずに爆走する一方で2番手集団の先頭を走るネーハイシーザーが最初の1000mを推定61.0秒で走るスローペースに落とし、馬群が圧縮されてレースが進んだ。2コーナーを回るころにはナリタブライアンが3番手に浮上し、3コーナーにさしかかるころにはナリタブライアンが加速して先頭に躍り出た。
レースが始まってからサクラチトセオーはブライアンをぴったりマークする格好でブライアンの外側の直後を追走していて、3コーナーでブライアンがペースアップしたときも懸命に食らいついていた。その外から漆黒の馬体を踊らせてヒシアマゾンがすごい勢いでマクっていき、サクラチトセオーに噛みつかんばかりの勢いで顔を右に曲げながら猛然と4コーナーを曲がっていく。
直線の入り口でナリタブライアンに1馬身半程度の差まで迫ったヒシアマゾンは芝を蹴り上げながら豪快に走る。しかしナリタブライアンも根性を発揮し、中山の急坂を力強く駆け上がっていく。ブライアンとヒシアマゾンの差がじわりじわりと広がり、3馬身差に開いたところでゴールインした。
ヒシアマゾンと3着ライスシャワーの差は2馬身半にまで広がっていた。4歳牝馬が有馬記念で古馬を圧倒するという、当時の競馬ファンにとっては目を疑いたくなるような偉業が達成された瞬間である。「ブライアンやはり強い!古馬の壁、見事打ち砕きました!」とフジテレビの堺正幸アナが実況したが、古馬の壁をあっさりとぶちこわしたヒシアマゾンの勇姿も讃えられてよいだろう。ヒシアマゾンは新時代の女王として高らかに名乗りを上げたのである。
有馬記念で牝馬が2着以内に入ったのは、1978年のインターグロリア以来16年ぶりの快挙だった。また、有馬記念で4歳牝馬が2着以内に入ったのは1973年のニツトウチドリ以来21年ぶりだった。
女傑の往く道
1995年になり5歳となったヒシアマゾンの陣営は、アメリカ合衆国への遠征を表明した。
3月4日に日本を出発し、9時間の空輸を経てカリフォルニア州ロサンゼルス郊外のハリウッドパーク競馬場へ辿り着いたはいいが、そこで入国検疫のため48時間も検疫馬房へ閉じ込められた。四方がコンクリートで囲まれて天窓が2つしかない刑務所のような空間に幽閉され、ヒシアマゾンは相当なショックを受けていた。小泉守男厩務員が検疫馬房にベッドを持ち込んで寝泊まりして世話したが、この検疫で精神的に大きく疲弊し、3月6日にサンタアニタパーク競馬場のリチャード・マンデラ厩舎の馬房に入ったときにはあまり良くない状態になっていた。さらに運が悪いことに、雨の少ないはずのカリフォルニア州ロサンゼルスで、29年に一度とも30年に一度とも言われる記録的な豪雨が降っていたのである。あまりの雨量でダートコースが閉鎖されることもあり、調教を上手く積めない。しかも雨でダートコースの砂が流れて路盤が露わになって硬くなり、ヒシアマゾンの脚に負担がかかっていったようである。もともとヒシアマゾンは柔らかいウッドチップでの調教を多くこなしていた馬だったので、硬いダートに慣れていなかった。さらには砂が集まって泥田のようにドロドロになった場所も出現するなど、脚を痛めやすい危険な状況になっていった。
最終追い切りが行われる予定だった3月15日の朝になって、小泉守男厩務員がヒシアマゾンの脚の異常に気付いた。左前脚の球節の捻挫と診断され、これで3月18日のサンタアナ・ハンデキャップ(古馬牝馬限定GI 芝1800m)への参戦がとりやめとなり、何もできないまま帰国の途につくハメになった[20]。
帰国後、6月15日に行われるエンプレス杯に同厩舎の先輩ホクトベガと共に登録し、川崎競馬場を震撼させた。登録の時点ではヒシアマゾンという存在の大きさばかりが注目されていた。そりゃ中央競馬最強のナリタブライアンに真っ向勝負を挑める牝馬がやってくるなんて、衝撃通り越して何のいじめ?という話である。そのアマゾンは登録のみにとどめて高松宮杯に向かったため、川崎競馬場は一瞬胸を撫で下ろした。実際に出てきたもう一頭のGI馬・ホクトベガの走りを見てアゴが外れたであろうが(動画)。
さて、ヒシアマゾンは7月9日に中京2000mで行われる高松宮杯に出走した。1995年までの同レースは夏の到来を告げる七月の名物重賞だったのである。ヒシアマゾンの勇姿を一目見ようと6万5850人の観衆が押し寄せ、中京競馬場史上2番目の客入りとなった。ちなみに史上1番目は1974年にハイセイコーがやってきたときの6万8469人である。単勝1.5倍の断然1番人気となり、5枠7番の真ん中に入ったヒシアマゾンはゲート内でバタバタと落ち着かない様子である。
ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切ったが、その直後に5枠6番ダンシングサーパスが左に行き、6枠8番アラタマワンダーが真っ直ぐ走って、ヒシアマゾンの前がパカッと開いた。
鞍上の中舘英二が中京競馬場の馬場を意識して「少し行っとかなくちゃ」と思ってスタート直後にヒシアマゾンを押っつけて、背中を押していった[21]。素直なヒシアマゾンは騎手の指示に従い加速したが、そのとき周囲の騎手たちが首を傾けてヒシアマゾンの方を見つつ馬を押さえ込んだ。8枠13番のトーヨーリファールは前走の宝塚記念で速いペースの逃げを見せていた馬だが、この馬も素直に騎手の指示に従いペースを落とす。
中京競馬場のメインスタンドには大勢の観衆が詰めかけていて、スタート直後に各馬が通過すると大声援を上げた。普通ならその大声援で引っ掛かって暴走して先頭に躍り出る馬が出てくるのだが、こんな時に限って、ヒシアマゾン以外の各馬がきっちりと折り合っている。
結果として、ヒシアマゾンが押し出されて逃げる形になった。1~2コーナーでも3~4コーナーでもヒシアマゾンが最内を通るというめったに見られない光景となり、先頭で直線に入った。しかしそこから末脚が伸びず、5着に惨敗した。
ストライド(歩幅)が大きくて大外を回して速度を乗せるのがふさわしい馬であるにもかかわらず3~4コーナーで最内を通り、普段よりも窮屈な走りになって速度が落ちた。斤量が初体験の57kgで馬が慣れていなかった。直線で伸びなかったのはそういった要因が考えられた。
デビューからの連対記録も12で途切れた。ちなみにデビューから13戦目のこのレースで、ヒシアマゾンは初めて牝馬に先着を許している。1994年有馬記念まで負ける相手は牡馬だけだったのである。
このレースのあとの帰りの新幹線で中舘英二は「この馬には、もう2度と乗れないな」と思ったという[22]。
降板を覚悟していた中舘英二に対して、中野隆良調教師は「しょうがないな。次は頑張ろう」と声を掛けた[23]。
再び立て直しをかけ、秋競馬にヒシアマゾンは帰ってきた。9月17日(日)に超大型の台風12号が関東地方に接近したため、その翌日の9月18日(月)に中山2200mのオールカマーが開催された。わずか10頭立ての少頭数で、前日の台風の影響もあって芝が稍重だったので、前半1000m65.2秒の超々々スローペースとなった。
ヒシアマゾンはゲートで暴れて出遅れたが、前走で引っ掛かって痛い目を見た中舘英二は「スタートで引っ掛からないように、そっと優しく出ることだけを考えよう」と肝に銘じていて、出遅れも気にしていなかった[24]。
残り1100mになって中舘英二が「そろそろ、ゆっくり進出しようか」と手綱を緩めたら、その瞬間にヒシアマゾンの闘争心に火が付き、一気に引っ掛かり、凄い勢いで外をマクっていき、残り1000mの時点で早くも2番手に立ってしまった[25]。4コーナーを回って310mの直線に入ってきたときには先頭に抜けだす。襲いかかってきたアイリッシュダンス[26]に合わせて末脚をガッチリ伸ばし、「永遠に縮まらないクビ差」と評された勝利を得る。
このオールカマーで中舘英二は「思った以上に引っ掛かるなあ」と感じた[27]。この引っ掛かりに対する警戒心が、次の2戦に大きな影響をもたらすのである。
そして10月に京都2400mで行われた京都大賞典に出走した。まずまずのスタートを切ってから後方に下げ、大逃げしたレガシーワールドが最初の1000m59.7秒で引っ張るなか、13頭立てで最後尾13番手という貫禄のレースを展開していく。3コーナーでも上がっていかず、4コーナーになってやっと加速して大外へ持ち出した。京都の400mの直線で前を走る10頭を完全に抜き去り、2馬身半の差まで付けてゴールインした。
ヒシアマゾンは残り400m地点から残り200m地点までの1ハロンで11番手から4番手にまで浮上している。この区間のレースラップが11秒2なので、ヒシアマゾンの走りはそれよりももっと速い。畠山直毅は「1ハロン10秒6」と推定している[28]。こうした数字は競馬界に衝撃を与えるものだった。
ヒシアマゾンは東京2400mで行われるジャパンカップに向かった。この当時は天皇賞(秋)が外国産馬に開放されておらず、古馬牝馬が参加できる牝馬限定GIレースも存在しなかったので、ジャパンカップが唯一の選択肢だったのである。故障復帰から2戦目のナリタブライアンが1番人気3.7倍で、ヒシアマゾンが2番人気4.3倍となった。1994年有馬記念の時は大きく離れていたオッズの差はほんの僅かにまで縮まっていた。
この年のジャパンカップは出走15頭で日本馬が6頭。ナリタブライアンとヒシアマゾンの他にはタイキブリザード(宝塚記念2着)がおり、そのほかはマチカネタンホイザ、ロイスアンドロイス、ナイスネイチャというおなじみの善戦マン3頭だった。天皇賞(春)や宝塚記念の勝ち馬は故障で出走できず[29]、天皇賞(秋)の1着馬と2着馬は有馬記念に備えて回避していた[30]。
ペースを作るとみられていた逃げ馬タークパサー(Turk Passer)がレース直前になって出走を取り消し、一気に逃げ馬不在となり、先が読めない混沌とした状況になった。
当日の東京競馬場は薄い雲が広がっていて、弱い日光が差し込んで芝生に馬の影が薄く映ったと思えば、その次の瞬間は日光が遮られて芝生の緑色が濃くなる、という様子だった。
8枠14番のサンドピットがなかなかゲートに入ろうとしなかったので、7枠12番に入ったヒシアマゾンはゲートの中で暴れ、そのせいもあって出遅れた。
5枠9番のタイキブリザードと6枠10番のエルナンドと6枠11番のストーニーベイは3頭とも好スタートを切ったが、ストーニーベイが出馬直後にダッシュを決めて左側に切れ込み、エルナンドの前を塞いだ。ストーニーベイに釣られてエルナンドも左によれてタイキブリザードと接触した。前を塞がれつつ左のタイキブリザードと接触したエルナンドが今度は大きく右にふらつく。ふらついたエルナンドがヒシアマゾンの前にやってきて、それを避けるためヒシアマゾンも右に進路を変えざるを得ず、さらに後方へ下がる羽目になり、ポツンと離れた最後方に位置した(動画)。
5枠8番のデーンウィン(オーストラリア)と6枠11番のストーニーベイ(ニュージーランド)がスタート直後から好ダッシュをして、それに遅れてはならないと5枠9番のタイキブリザードも勢いを付けた。ところが1コーナーに入る直前に、デーンウィンとストーニーベイの両騎手がグイッと手綱を引っ張って急ブレーキを掛けたので、タイキブリザードが押し出されて先頭に立つことになった。オセアニアの競馬ではこういうことがよく発生するのだが、そのことを知っていたタイキブリザードの岡部幸雄騎手は「やっぱりな」と思った[31]。
逃げるはずではなかったタイキブリザードが逃げることになったので、最初の1000mが61.0秒というスローペースとなり、馬群が圧縮されている。3コーナーが始まる地点の残り1000mでヒシアマゾンはまだ最後方だった[32]。
3~4コーナー中間地点の残り800mを過ぎてもヒシアマゾンはまだ最後方だった。残り750mぐらいになって大けやきの向こう側から各馬が出てくると、ついにヒシアマゾンが外をマクっていった。このときのヒシアマゾンの凄まじいマクリ脚を見た7枠13番アワッドのエディ・メイプル騎手は「勝つのはヒシアマゾンだろう」と思ったという[33]。
ヒシアマゾンは500mの直線に入るところで大外に出た。火を噴くような勢いで末脚を炸裂させるが、最後まで勢いを保ったランドに1馬身半だけ届かない0.2秒差の2着に終わった。ランドの上がり3ハロンが34秒8で、ヒシアマゾンの上がり3ハロンが34秒7。残り600mの時点で発生していた1馬身半ほどの差をほとんど詰められなかった。
この当時は牝馬が牡馬に混じって2000m以上のGIを勝つことは夢のような話といったところであり、その夢をもう少しでつかみ取るところだったのだが、大魚を逸した。ジャパンカップは1992年から1994年まで日本馬が3連覇していたのだが、その連勝も止まってしまった。
ヒシアマゾン陣営は気をとりなおして1ヶ月後の有馬記念への出走を決めた。ジャパンカップの激走を評価されてファン投票1位・1番人気に支持された。牝馬が1番人気になったのは1958年のミスオンワード以来37年ぶりであり、そのとき以来の史上2度目の快挙だった。ちょうど12月24日に開催されるのでいつも控えめな中舘英二騎手も日刊スポーツに「僕がサンタになる」とリップサービスを飛ばしていた。2番人気はナリタブライアン、3番人気は天皇賞(秋)を2着に入った皐月賞馬ジェニュイン[34]、4番人気は天皇賞(秋)を勝ったサクラチトセオー、5番人気はジャパンカップ4着のタイキブリザード、6番人気は菊花賞馬マヤノトップガンである[35]。
この日の中山競馬場は晴れ渡っていて、夕日が差し込んでおり、芝生を柔らかな黄色に染め上げていた。そして風が非常に強く[36]、直線で追い風になり向こう正面で向かい風になるという風向きだった[37]。
逃げ馬らしい逃げ馬が見あたらない状況のなかでゲートが開いた。ヒシアマゾンが派手に出遅れて最後尾からの競馬となった一方で、それまで逃げの経験がなかったマヤノトップガンが意表を突いて逃げていく[38]。大歓声が湧き起こったメインスタンド前でもマヤノトップガンは全く引っ掛からずにペースを保ち、最初の1000mを推定62.1秒というペースで走った[39]。向こう正面で、ヒシアマゾンは出走12頭中10頭目という後方を追走した。ヒシアマゾンのすぐそばにサクラチトセオーが位置している。
マヤノトップガンの田原成貴は、「この馬は切れるタイプではない。あまりひきつけてはどうか」と思い、残り800mから意図的にペースアップした[40]。それに適応できたのはナリタブライアンで、一頭だけ異なる脚で3~4コーナーを加速していく。一方、ヒシアマゾンやサクラチトセオーは3~4コーナーでのマクリが遅く、4コーナーを後方の位置で回った。直線に入った時点でヒシアマゾンがサクラチトセオーよりも1馬身ほど前にいたのだが、ヒシアマゾンは直線でも伸びず、サクラチトセオーに追い抜かれて離されていく。サクラチトセオーは勝ち馬から0.4秒差の3位、そしてヒシアマゾンは勝ち馬から1.0秒差の5位に入った。
中野隆良調教師によると、レース当日のヒシアマゾンの体にはハリがなく、馬にも元気がなくて、敗戦を直前で予想できたという[41]。
この当時からすでに「JC(ジャパンカップ)の反動」というのが有馬記念におけるキーワードだった。1992年にトウカイテイオーがジャパンカップで1着になって1ヶ月後の有馬記念で11着に大敗したことで盛んに「JCの反動」が言われるようになった。1994年の有馬記念で見せた凄まじいマクリができなかったのも「JCの反動」が原因だったのだろうか・・・。
黄昏
1996年になり、6歳になったヒシアマゾンは蹄(ひづめ)の調子が悪くなっており、以前ほど頻繁にレースを使うことができない身体になっていた[42]。3月の大阪杯(GII)を使うことができず、6月になってやっとGIの安田記念にぶっつけで臨むことになった。
この年の安田記念は超豪華メンバーと称されていて、前年の覇者ハートレイク、前年のマイル王トロットサンダー、前年のスプリント王ヒシアケボノ、1ヶ月前にスプリント界の頂点に立ったフラワーパーク、スプリントGIで2着3回のビコーペガサスといった短距離・マイル路線の強豪馬が一堂に会していた。しかも前年の天皇賞(秋)2着のジェニュイン、前年のGI戦線で何度も掲示板に乗ったタイキブリザード、オークス馬ダンスパートナー、超良血のレコード牝馬ヤマニンパラダイスも参戦しており、まさに目移りするような顔ぶれとなった。
この多士済々なメンバーに割って入ったヒシアマゾンは、1800m以下のレースを走るのが2年ぶりなのにもかかわらず4番人気に支持された。この当時の馬券購入者たちがヒシアマゾンを警戒していたことがよく分かる。ヒシアマゾンは血統的にもマイルをこなせそうだし、なんといっても牡馬を軽々と差しきる豪快な姿が人々の脳裏に焼き付いていた。
ヒシアマゾンはやっぱり出遅れたが意欲的に道中を走り17頭の中の9番手あたりまで押し上げた。しかし、マイル戦の急激な流れに戸惑ったのか0.8秒差の10着に敗れた。ちなみにヒシはヒシでもヒシアケボノがあわや逃げきりかといった好走を見せて3着に入っている。
このあとは阪神2200mで行われる宝塚記念に出走する予定だった。1600mの安田記念で速いペースの競馬をしてシャキッと気持ちを切り替えた馬が2200mの宝塚記念で好走することはよくあることで、1999年のグラスワンダーや2002年のダンツフレームがこの例に該当する。しかも阪神2200mは3~4コーナーが緩やかな角度で、外からマクっていくヒシアマゾンにとっては絶好の舞台と思われた。ヒシアマゾンのファンにとっては期待が膨らむところだったが、蹄(ひづめ)の不安が発生してこのレースを回避することになってしまう。結局1996年の春競馬は安田記念を走っただけに終わった。
4歳の夏も5歳の夏も栗東のトレセンで夏を越していたヒシアマゾンだったが、6歳となる1996年になってついに夏期放牧に出されることになった。放牧先は北海道・門別ファンタストクラブだった。
秋になってもステップレースを思うように使えず、11月のエリザベス女王杯にぶっつけ本番で臨むことになった。この年から4歳牝馬向けに秋華賞が創設され、エリザベス女王杯が古馬牝馬に開放されていたのである。京都外回り2200mが舞台で、最後方からマクっていくスタイルのヒシアマゾンにはうってつけのレースと思われた。
6枠11番に入ったヒシアマゾンはゲート内で激しく暴れ、前扉に潜り込もうとする[43]。係員4人の手によっていったんゲートを出されて大外からの発走となる。大外に入ったのが良かったのか、ヒシアマゾンにとって絶好のスタートを切り、そのまま気分良く先行して2コーナーを回るときには4番手にまで進出した。あのヒシアマゾンが「好スタートを切って先行する」という優等生競馬をしている。これは夢なのか・・・[44]
このレースは逃げ馬が不在で、最初の1000mが63.1秒の超スローペースとなった。あまりのスローペースに後方では騎手との折り合いを欠く馬も出てくるほどである。ヒシアマゾンはさして引っかかりもせず、順調に3~4コーナーを回って4番手あたりで直線に入ってきた。しかしそこから1995年の秋のような爆発的末脚が発揮されず、なかなか先頭に突き抜けることができない。そしてインを縫って先頭に躍り出たダンスパートナーをとらえられず、ほんのわずかの首差でゴールインした。
更にそれだけではなく、直線で斜行してオレンジの帽子の14番シャイニンレーサー[45]の進路を妨害したことを問題視されて、7着に降着となった。ゴール板の直前でシャイニンレーサーが立ち上がっており、危ないところだった。
ヒシアマゾン陣営は12月の有馬記念に駒を進めた。前走の降着の責任をとらせる形でついに中舘英二を降ろし[46]、牝馬GIレースを何度も勝ったことがある関西のベテラン河内洋を鞍上に迎えた。牝馬限定レースで勝ちきれなかったことで人気が落ちるかと思われたが、5番人気に支持された。カネツクロスが前半1000m推定61.6秒程度で逃げていて、馬場状態が悪いことを考えると平均ペースの流れになっていた。いつものように出遅れたヒシアマゾンは最後方を追走した。残り800mになっても後方13番手でマクることができず、そのまま4コーナーを回った。直線では13番手から5番手まで追い上げ、そこがゴール板だった。全くの惨敗でもないが1995年のころの周囲を震撼させる走りを再現することができなかった。
1997年になっても現役続行が発表され、5月の京王杯スプリングカップ(GII 東京1400m)を目標に調整が進められていたが、4月30日に右前脚の浅屈腱炎を発症し、そのまま5月1日に引退となった。
繁殖生活
5月3日には北海道静内の出羽牧場に移動して、5月24日には静内のアロースタッドでヒシマサル(二代目)と交配した。そのあと1997年10月29日にアメリカ合衆国のケンタッキー州のこの場所にあるテイラーメイドファームへ移動して繁殖生活に入り、10頭の子馬を産んだが[47]、日本デビューとなった馬もアメリカでデビューした馬も重賞勝利までたどり着いた産駒はいない。
彼女の活躍を受けて輸入された半姉ホワットケイティーディド(代表産駒:スリープレスナイト)、ケイティーズファーストは一大勢力を構築しており、姪に当たるマイケイティーズ(代表産駒:アドマイヤムーン)、ケイティーズハート(代表産駒:エフフォーリア)らは繁殖牝馬として一定以上の成果を挙げているだけに残念である。ヒシアマゾン自身の子は活躍しなかったが、2番仔ヒシシルバーメイドの娘のアミカブルナンバーがオープンまで出世しており、後の世代の活躍に期待を持たせてはいる。
テイラーメイドファームに入ったときからヒシアマゾンを世話していた人の1人は、日本人スタッフの新木信隆だった。
2011年に繁殖生活を引退し、ケンタッキー州のこの場所にあるポロ・グリーン・ステーブルという牧場で余生を送ることになった。この牧場の経営主は先述の新木信隆であり、テイラーメイドファームを退職したあとに開業した[48]。
2012年頃とされる動画があり、体を洗ってもらっている様子が映っている。
そして、平成が終わりを迎える2019年4月15日夜、老衰で死亡した。享年28歳。
最後は人目につかない時と場所を選んだかのように静かに息を引き取ったという。晩年はIda's Image(アイダスイメージ)という4歳年上の1987年生まれアリダー産駒牝馬と一緒に過ごしていたが、そのアイダスイメージが2018年の末に31歳で亡くなってから、ヒシアマゾンも急激に力を失っていった[49]。
体格・体質
テイラーメイドファームにいたときの馬体の評価はBかBマイナスだった。この牧場はABCの3段階で馬を評価して、それから必要に応じてマイナスやプラスを付ける[50]。つまり「中の下」といった程度の評価だった。ヒシアマゾンの半兄のヒシアリダーはAやAプラスばかりだったので、その差は歴然だった。
このため馬主の阿部雅一郎は、ヒシアリダーが千葉県市原市の大東牧場にいたときは2回も見に行っていたのに、ヒシアマゾンが2歳の11月から3歳の6月まで大東牧場にいたときは一度も見に行かなかった[51]。
中野隆良調教師からの評価も同じで、「体が薄く、ヒョロッとして華奢な脚長牝馬という印象で、2歳時は特にそんな印象が強かった。もちろんあれほどの成績を残す馬とは想像もしませんでした」と語っている[52]。また、小泉守男厩務員も「薄っぺらな馬で、幅がなかった」と振り返っている[53]。
しかし、成長するに従いヒシアマゾンには筋肉が付いてきた。成長したあとのヒシアマゾンは体格が雄大で、1994年のエリザベス女王杯では馬体重480kg、現役最終戦の1996年有馬記念は馬体重500kgに達している。1996年のエリザベス女王杯は他の牝馬と比べて明らかに大きい体をしていてすぐに判別できる。
体質はかなり健康で、3歳秋にソエが完治してから4歳秋の有馬記念まで脚に不安が出ることもなく極めて順調にレースを使うことができた。ただし5歳春の1995年アメリカ遠征で左前脚の球節を捻挫して、そこから脚に不安が出るようになった[54]。6歳になると蹄(ひづめ)が悪くなり、小泉守男厩務員が装蹄師と色々話をして工夫をしたが、なかなか上手くいかなかった[55]。
1997年になって引退して出羽牧場に入ったとき、蹄(ひづめ)が貝殻のようにペシャンコで薄い状態だった。かなり特異な形状で、関係者の苦労を想像させるものだった[56]。
関西に遠征するなどして環境が変化しても動じることがなく、カイバ食いの心配もなくて、本当に仕上げやすい馬だ、と中野隆良調教師が褒めていた[57]。
走法
ストライド(歩幅、一完歩)が大きいストライド走法をとる馬で、脚に巻いた白いバンテージがゆったりと揺れる感じで、馬体の大きさもあいまって優雅な雰囲気があった[58]。
毎度のごとく外を回して距離を損していた。中舘英二騎手が他の馬に包まれるのを嫌がったのか、あるいは体格が大きいストライド走法なので外を回した方が適しているのか、「インを突いて馬群を割っていく」という競馬はほとんど見られない。インを突いたのは1994年京成杯や1995年高松宮杯ぐらいである。1994年京成杯のレース後に鞍上の中舘英二騎手は「インで我慢したのが裏目に出てしまった。(中略)完全な僕のミス」とコメントし[59]、このレース以降は決してインを突かず外を回すようになった。
岡部幸雄は「フットワークが大きい馬が内ラチ沿いを走ると負担になる」という意味のことを語っている[60]。ストライドの大きい馬がインべったりの走行をするのは望ましくない。なぜそうなのかというと、やはり、「本来よりもストライドを小さくして窮屈な感じで走らざるを得なくなるから」という理由が考えられる。
脚質としては差し・追い込み馬の典型で、スタート直後はスッと後方に下げる。先行したのは3歳の4戦と1995年高松宮杯と1996年エリザベス女王杯ぐらいである。4歳になってから後方待機をするようになったが、4歳初戦の京成杯から1番人気になり続けて他の馬との接触を避けることを優先する立場になったことも影響しているだろう。
しょっちゅう出遅れるというイメージが付いている。ヒシアマゾンが出遅れるたびにスーパー競馬やドリーム競馬の解説者が「まあ、この馬は、後ろからの追い込み競馬をしますから・・・」などという言葉でフォローしていた。ただし、出遅れ癖が付いたのは1995年オールカマー以降のことで、それ以前はまあまあ上手にスタートを決めていた。中舘英二騎手も「ゲートで暴れるようになったのは1995年オールカマーのころから」と語っている[61]。
イン側の馬を見るためなのか、顔を傾けてコーナリングする癖がある。1994年有馬記念でそれが顕著である。
パドックでは路面を強く踏みつけるように歩いていて、「ガチッ」とか「ビシッ」といった音が聞こえてくるかのようだった。この動画の6分44秒あたりにその様子が映っている。競馬予想家の大川慶次郎は「ヒシアマゾンの良いところというと、後ろ脚の踏み込みだ」とこの動画
の7分28秒頃で解説していた。
勝負根性が凄くて、しばしば僅差で相手をねじ伏せている。その姿は中野隆良調教師が「シンザン型」と表していたほどで、それを受けてマスコミも「女シンザン」と書いていた[62]。シンザンも僅差で勝つ馬だった。
坂路での調教でいつも凄まじい脚を発揮していて、一番時計の常連だった。ほんまゆみは、次のように記している。「その朝も彼女は坂路を恐ろしい勢いで駆け登ってきた。ヒシアマゾンの調教を見たことがある人なら、あの迫力には、つい無言になってしまったことがあるだろう。(中略)無意識に調教時計をノートに書き込んでから、「あれ?」と思って数字をまじまじと見直した。「機械、壊れちゃったんですかネ?」隣の競馬記者に視線を時計に釘付けになったまま聞く。(中略)「いや、あってるよ。ヒシアマゾンってそうなんだよな」 他の馬の時計とは格段に違う。違いすぎる。こうしていつも、ヒシアマゾンが走る日は彼女が坂路の一番時計をさらっていく。トレセンの馬場担当者はヒシアマゾンの時計で坂路の基準を計るともいっていた」[63]
性格
レースや調教から離れたときのヒシアマゾンは、とてもおとなしい馬だった。
小泉守男厩務員が「普段はおとなしい馬」「普段は品のいい控えめな女性」と語っており[64]、ほんまゆみも次のように語っている。「そして北馬場にほど近い中野厩舎へ到着したのであるが、右手の洗い場に、ぽや~んとした黒鹿毛の馬が目にとまった。顔に見覚えがある。でもこの馬のおとなしさはタダモノではなく、猫がやってきて威嚇したら、ずりずりと下がって困惑しそうなほどであった。手入れがすんで厩務員さんが引き出し、歩かせた。その様子がまた、『老犬の散歩なのかな?』と思うほどおとなしい。だらりとのびた引き綱。厩務員さんの後を、首をだらりと下げて、ぽてりんぽてりんと素直について歩く。ふたりの間にひだまりが見えるようであった。まさかとは思ったが、集まった取材陣がこの馬を注視するところを見ると、どうやら彼女こそがかのヒシアマゾン様である」「筋金入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」「いままで見てきた馬で、(レースでのイメージと素顔の)イメージギャップが最も激しかった馬、それが、ヒシアマゾンだった」[65]
中舘英二騎手も、次のように語っている。「(ヒシアマゾンはいつもあんな感じにおとなしいんですか、と問われて)・・・そうなんだよね・・・」「あの馬はよく分かんないっていうか・・・。パドックでまたがっても、なんかイマイチ闘志ってものが伝わってこなくて、『こんなんで今日、走るのかなあ?』って不思議で不思議で。ゲート前に行ってもそんな感じで。『だいじょうぶかな』と思いながら、スタートきって、それでレース中もまだあんな調子なんだよね。走る気あるのか半信半疑で、・・・でも、いつも走るんだよねえ」[66]
中野隆良調教師も、「ヒシアマゾンは、『女戦士』という意味を持つアマゾンという名の通りの女傑ですね!」とほんまゆみに言われた際、いつも複雑そうな顔をしていた。そして「ほんとは、そんなにアマゾンって感じの馬じゃないのに・・・」とポツリと呟いたこともあったという[67]
そしてヒシアマゾンは、おとなしいだけではなく、とても人なつっこい馬だった。
田端正照調教助手は「人なつっこくて甘えん坊で、優しい目をしていた」と語り[68]、阿部雅一郎オーナーも「やたらと人なつっこくて周りに人がいることを好む。自分が前に行くと、『なにかくれ』と前掻きして甘える」と言っており[69]、1997年5月から10月までヒシアマゾンと接した出羽牧場の高田勉牧場長も「性格が良さそうで、人がかわいがって育てたせいか、人間がそばを通っただけで、何かちょうだいというんですよ」と証言している[70]。
阿部雅一郎オーナーは、「小泉守男厩務員が本当にかわいがって優しくしたので、あんな風に甘えん坊で人なつっこい性格になったのだろう」と語っている[71]。
パドックでは小泉守男厩務員に首を傾けて甘えている姿がしばしば見られた。1994年エリザベス女王杯(この動画の2分35秒頃)やや1996年有馬記念(この動画
の7分25秒頃)などである[72]。
リンゴが大好物で1日平均2~3個食べていた。1997年5月から10月まで滞在した出羽牧場では、高田勉牧場長がそばに寄っていくと必ず前掻きしてリンゴをねだっていたので、甘え上手のヒシアマゾンに対して牧場長もついついリンゴを与えていた[73]。
阿部雅一郎オーナーは家でヒメリンゴを作っていた。ヒシアマゾン以外の馬にそのヒメリンゴを与えたら、あまり甘くない味だったので嫌がってすぐに食べるのをやめた。しかしヒシアマゾンに同じヒメリンゴを与えたら、ボリボリと食べていたという[74]。
ただし、小泉守男厩務員がプラスチックのおもちゃのリンゴを馬房に吊しても、それで遊ばなかった[75]。
主戦騎手 中舘英二
ヒシアマゾンの競走生活の大部分を共にしたのは関東所属の中舘英二騎手である。
重賞・GIに出て高額賞金を狙うよりは地方のローカル開催に多く出場して少額の賞金を稼ぐことを好み、「ローカルの鬼」「福島の鬼」と言われることがある。積み重ねた勝利数は1869勝で、歴代10位の記録である。
かなり控え目な性格で、「自分は能力が高くてここまで来たとは思っていませんよ。周りには山ほど天才がいますし。ノリ(横山典弘騎手)だのユタカ(武豊騎手)だの、やっぱり天才肌だから。」という言葉を発したことがある[76]。
「逃げの中舘」と言われるほど逃げが上手い。本人も「“逃げ馬”っていうカテゴリーの引き出しはいっぱい持ってる」と自負するほどである[77]。その反面、差し・追い込みの馬を操る技術を誇る発言が本人の口から出てくることが少なく、「中舘は差し・追い込みが少し苦手」という印象をもたれやすい。
このため1995年ジャパンカップのあとは「中舘英二を降ろすべきだ。大レースの経験を持っていて差し・追い込みが上手い騎手に代えろ」という批判が増えることになった。
血統表
Theatrical 1982 黒鹿毛 |
Nureyev 1977 鹿毛 |
Northern Dancer | Nearctic |
Natalma | |||
Special | Forli | ||
Thong | |||
*ツリーオブノレッジ 1977 鹿毛 |
Sassafras | Sheshoon | |
Ruta | |||
Sensibility | Hail to Reason | ||
Pange | |||
Katies 1981 黒鹿毛 FNo.7-f |
*ノノアルコ 1971 鹿毛 |
Nearctic | Nearco |
Lady Angela | |||
Seximee | Hasty Road | ||
Jambo | |||
Mortefontaine 1969 鹿毛 |
*ポリック | Relic | |
Polaire | |||
Brabantia | Honeyway | ||
Porthaven | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Nearctic 4×3(18.75%)、Pharos=Fairway 5×5(6.25%)
父の父の父は競馬界に革命をもたらしたノーザンダンサーである。ノーザンダンサーの血が入ると「根性があって勝負強く底力がある」といった性質が馬に宿ると言われる。
父の父はヌレイエフで、競争成績は平凡ながら血統の良さを買われて種牡馬入りし、アメリカ合衆国や欧州で繁殖を行い、欧州の芝マイルで活躍する競走馬を多数輩出した。
父はシアトリカル(theatrical)で[78]、アイルランドで生まれ、最初は同国で競走生活を送り、旧表記5歳からアメリカ合衆国に拠点を移した。1987年になって旧表記6歳になるとアメリカ合衆国の芝路線でGIを連戦連勝するようになり、ブリーダーズカップターフ(芝2400m)も制した。1988年から種牡馬入りし、20頭以上のGI馬を輩出した。凱旋門賞馬のSassafras(ササフラ)の血を引いているためか、シアトリカル自身は2400mのレースで活躍し、シアトリカル産駒も2000m以上の中長距離戦で走る傾向にある。
ちなみにシアトリカルの半弟がタイキブリザードで、ヒシアマゾンと同期である。1995年や1996年のGIでヒシアマゾンは父の半弟、つまり「叔父さん」と走ったことになる。
ヒシアマゾンを作るためにシアトリカルがKatiesと種付けしたのは1990年春だが、このときは産駒がどうなるか未知数の種牡馬であり、かなり安い種付け料だった。ミスタープロスペクターやアリダーが30万ドルでシアトルスルーが20万ドルといった時代で、シアトリカルは4万ドルだった。Katiesを管理する牧場の人には「なぜこんな無名種牡馬を付けるのか」と反対されたが、阿部雅一郎が反対を押し切って配合を決断した[79]。
阿部雅一郎はヌレイエフが好みだったので、1990年春にKatiesに種付けするときヌレイエフを配合することも検討したが、Nearcticの3×3となって近親配合になりすぎるので却下した。1990年春から種牡馬入りしたヌレイエフ産駒のZilzal(ジルザル)も検討したが、1989年11月のブリーダーズカップ・マイルでひどくイレこんでいて発汗しているのを見て、やっぱり却下した[80]
母の父はノノアルコで[81]、欧州の芝マイル路線でGIを制した馬である。フランスやアイルランドで種牡馬になって7年間ほど繁殖生活を送り、欧州の芝マイルを得意とする馬を世に送り出した。そのあと日本に種牡馬として輸入され、マイル重賞の勝ち馬や2500mの有馬記念を勝ったダイユウサクの父となった。
母はKaties(ケイティーズ)で、ノノアルコがアイルランドにいたときの産駒であり、アイルランド1000ギニー(GI)やコロネーションステークス(GII)というマイル戦を勝った名牝である。先述の通り、アラブの王族の代理人と競り合いながら阿部雅一郎が100万ドルで購入した。アメリカ合衆国のケンタッキー州で繁殖入りした。Katiesは2007年JRA年度代表馬アドマイヤムーンの母母母、2008年スプリンターズS勝ち馬スリープレスナイトの母母、2021年皐月賞馬エフフォーリアの母母母である。
半兄にオープン馬にまで出世したヒシアリダー、半妹に1996年フェアリーS(GIII)勝ち馬のヒシナイル、全妹に1999年のローズS(GII)を勝って秋華賞を3着に健闘したヒシピナクルがいる。
関連動画
関連リンク
関連項目
- ホクトベガ(1つ前の世代で同じ中野隆良厩舎に所属する先輩牝馬)
- サクラチトセオー(1つ前の世代でしばしば対戦した。脚質が似ている)
- ランド(1つ前の世代で1995年にジャパンカップの勝敗を争った馬)
- ビコーペガサス(同世代の強豪の外国産馬。短距離GIの2着に3回入った)
- チョウカイキャロル(同世代のライバル牝馬)
- ナリタブライアン(同世代の宿敵)
脚注
- *1990年代の競馬界において「牡馬・牝馬混合レースで牡馬を負かすような強い牝馬」に対して女傑(じょけつ)という称号を与える傾向があった。1994年有馬記念で堺正幸アナが「女傑ヒシアマゾン」と表現していたが、1994年ニュージーランドトロフィー4歳Sでヒシアマゾンが牡馬を負かしたことを受けてその表現をしたものと思われる。ちなみに、「牝馬限定戦で強い競馬をした牝馬」には名牝(めいひん)という称号を与える傾向があった。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)
』の23ページに女傑と名牝の違いが解説されている。
- *厩務員は競走馬の身の回りの世話を一手に引き受ける人である。「厩務員は非常に重要であり、厩務員によって競走馬の走る気が決まる」と言っても過言ではない。木村幸治という作家は様々な調教師に対して「競走馬は誰のために走るのでしょうか」と問いかけたが、「調教師である自分のために走る」と答えた人は皆無で、「騎手のために走る」と答えた人も数人だけで、「毎日献身的に世話してくれる厩務員のために走る」と答えた人が最も多かったという。『馬は知っていたか(祥伝社)木村幸治』112~114ページ。
- *写真や動画を見る限りでは、小泉守男厩務員は1993年~1997年の時点で40代ぐらいの年齢だったようである。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』の56ページで「この世界に入って22年になるけど、GIを勝たせてくれたのはヒシアマゾンが初めて」と本人が語っている。パドックでの周回や本馬場への入場のときにヒシアマゾンを引いていて、『ヒシアマゾン A Heroic Woman(ポニーキャニオン)』を再生しているとしょっちゅう画面に映る。飾らないタイプの人で、ヒシアマゾンが勝利した後の口取り式では作業着にヘルメットという姿で参加することが多く、JRAが発行する『優駿』の重賞勝利馬紹介ページの写真にそうした姿が見える。この動画
の5分38秒あたりにもその姿がある。唯一の例外は1995年ジャパンカップの時で、このときはJRAの意向もあり、すべての馬の厩務員・調教師が黒いスーツ姿だった。この動画
の6分42秒あたりにその姿がある。
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)56ページ
- *外国産馬とは、外国の牧場で生まれて幼いころに日本に輸入されて日本の厩舎に所属する馬である、と憶えておいて差し支えない。競馬新聞の馬柱には外という漢字を○で囲ったマーク(画像
)で示されるので「マルガイ」と呼ばれる。かつてのJRAは「日本の牧場で生まれた馬を保護して日本の牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、外国産馬に様々な出走制限を掛けていた。1999年まで外国産馬が天皇賞に出走することができなかったし、2000年まで外国産馬がダービーに出走することができなかったし、2002年まで外国産馬がオークスに出走することができなかった。
- *持込馬とは「外国の牧場で種付けして受胎した繁殖牝馬」を日本に輸入して日本の牧場で出産させることで生まれた馬のことをいう。「父親と母親が外国の牧場にゆかりがある」という点で外国産馬とよく似た存在であり、持込馬は母親が日本の牧場にいて外国産馬は母親が外国の牧場にいる、という点だけが異なる。1971年から1983年までのJRAは「日本の牧場が所有する種牡馬を保護して日本の牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、持込馬に様々な出走制限を掛けていた。
- *ヒシスピードのWikipedia記事
に出典無しでこの説が書かれている。『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』の100ページでは、「あまり勝てない冠名ヒシの馬を1988年までにリストラした阿部雅一郎は北海道静内のセリ市に行って優秀な内国産馬を購入しようとした」と記されている。ちなみにそのセリ市であまり良い馬が出品されておらず、「競走馬の6割が庭先取引
で購入され、セリ市には良い馬が出品されない」という日本競馬の閉鎖性に気付き、アメリカ合衆国で良い競走馬を購入しようと思い立ったと書かれている。
- *このときのアラブの王族はUAE(アラブ首長国連邦)のドバイのマクトゥーム一族だったようだ、と阿部雅一郎が語っている。マクトゥーム一族はドバイの首長(君主)を輩出する家柄で、競馬に熱中していることで知られている。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』48ページ、『名馬物語―The best selection(エンターブレイン)
』109ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)49ページ、名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)
86ページ
- *この話を裏付ける証言は『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』や『名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)』や『Gallop臨時増刊 週刊100名馬 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社)』や『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)の97~102ページの阿部雅一郎特集部分』や『ヒシアマゾン A Heroic Woman(ポニーキャニオン)』や『名馬物語―The best selection (エンターブレイン)』や『ヒシアマゾン 癒しのささやき(講談社)』には出ておらず、真偽不明である。
仮にその逸話が事実であるとすれば、次のような事情を推察できる。1973年に『アマゾネス』というイタリア映画が日本で公開された。映画007シリーズの初期の監督として知られるテレンス・ヤングが監督を務めた作品だが、内容はだいぶエッチなもので、Wikipedia記事を読んでみたり画像検索結果
を見てみたりするとそのことがよく分かる。しかもイタリア語の原題『Le guerriere dal seno nudo』を日本語に直訳すると『裸の胸の戦士』である。映画公開から20年程度しかたっておらず『アマゾネス』の記憶が人々に残っているので却下となった、というのが有力説である。
ちなみにnetkeiba.comにおいて『アマゾネス』で馬名検索すると1978年生まれや1994年生まれの「アマゾネス」という馬がヒットする(検索結果)
- *『優駿1994年2月号(日本中央競馬会)』 149ページ
- *『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』の52ページでは中舘英二の回想がある。「最初の騎乗依頼はどういう形だったんですか」と問われた中舘英二は、「たまたま(調教時に)スタンドの前を歩いていたら、中野先生(隆良調教師)に『英次、勝てる馬に乗せてやる。たぶん、馬なりで勝つだろう』と言われたんです。」と中舘英二が語っている。中舘英二が中野調教師にアピールしたシーンは省略されている。
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)14~15ページ
- *アサヒエンペラーは中舘英二が騎乗して1986年に皐月賞3着・ダービー3着の好結果を残した名馬である
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)14ページ
- *タイキウルフはパドックでいつも馬っ気を出していたことで有名である。馬っ気とは発情して男性性器がみょーんと伸びること。他に馬っ気で有名なのは1997年ジャパンカップのピルサドスキーである。
- *JRAは2007年頃までJSS20型という発馬機を採用していて、係員が「出ろ~」と掛け声を上げると同時にゲートを開けていた。2007年ダービーでもその発馬機を使っている(この動画
の14分00秒頃)。2007年の中頃からJSS30型が導入され、「出ろ~」の掛け声を必要としなくなった。
- *エリザベス女王杯の1週間前の11月6日には菊花賞が行われていて、スティールキャストが大逃げをしていた(動画
)。このため2週連続の大逃げ劇となった。
- *京都競馬場で2400mのレースを開催するときは外回りコースを使用する。残り1200mあたりから長い坂が始まり、残り800mあたりで3コーナーの坂の頂点に達して下りが始まる。直線は400mで平坦である。残り1200m地点や残り1000m地点にはハロンポール(ハロン棒)がなく、残り800m地点や残り600m地点には赤地・白文字で「8」とか「6」と書かれたハロンポールがある。この動画
の4分01秒頃に逃げ馬が残り1200m地点を通過し、4分13秒頃に逃げ馬が残り1000m地点を通過し、4分25秒頃に逃げ馬が残り800m地点を通過する。京都競馬場のウェブサイトの芝コース高低断面図(右・外回り)
も参照のこと。
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)24~25ページ、名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)74ページ、87ページ、93ページ、Gallop臨時増刊 週刊100名馬 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 9ページ、名馬物語―The best selection(エンターブレイン)110ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)55ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)55ページ、『Number378号(文藝春秋)』 38ページの畠山直毅の文章
- *『Number378号(文藝春秋)』 38ページの畠山直毅の文章
- *『Number378号(文藝春秋)』 38ページの畠山直毅の文章
- *『Number378号(文藝春秋)』 38ページの畠山直毅の文章
- *アイリッシュダンスはハーツクライの母として有名。
- *『Number378号(文藝春秋)』 38ページの畠山直毅の文章
- *『Number378号(文藝春秋)』 39ページの畠山直毅の文章
- *1995年天皇賞(春)を勝ったライスシャワーは1995年宝塚記念で事故を起こした。1995年宝塚記念を日本レコードで勝ったダンツシアトルはレース後に屈腱炎を発症した。
- *天皇賞(秋)は1着サクラチトセオーで2着ジェニュインだった。
- *Number 382号(文藝春秋) 79ページの島田明宏の文章
- *このことを振り返った中舘英二騎手は、次のようなコメントを残している。「確かにペースが遅いと思ったけど、早く動くとオールカマーの時のようにシマイが甘くなってしまう。それほど、前が遠いようには感じなかったので、とにかく馬の力を信じて我慢した」「瞬発力は自分の馬が一番だ、と信じていたので、3コーナーから動く必要はないと思っていた。これなら届くと思いました」Number 382号(文藝春秋) 79~80ページの島田明宏の文章。オールカマーのレースが中舘英二騎手の心理に影響を与えていたのである。
- *Number 382号(文藝春秋) 80ページの島田明宏の文章。エディ・メイプル
はこのとき46歳の大ベテラン騎手だった。
- *この当時の岡部幸雄はジェニュインとタイキブリザードの両方がお手馬だった。その岡部幸雄があえてジェニュインを選択し、タイキブリザードは坂本勝美に乗り替わっていた。このため「ジェニュインを買うべき」という判断が広まり、ジェニュインが3番人気となった。
- *マヤノトップガンは速いペースで流れた菊花賞を先行しつつ押し切って菊花賞レコードを更新していたが、その激走の反動で体調が思わしくなく、プール調教で鼻血を出し、左前脚の様子が少し悪くなっていて(『名馬物語―The best selection (エンターブレイン)79~81ページ)、坂口正大調教師がさんざん「万全な状態に戻らないのなら回避する」と言っており、レース1週間前になってやっと参戦を決定したほどだった。ついでにいうと、菊花賞の一番人気はオークス馬ダンスパートナーで、18年ぶりに挑戦してきた牝馬が獲得していたので、菊花賞に参戦した4歳牡馬たちのイメージがあまり「強い」というものではなく、「弱い牝馬に1番人気を持っていかれる小粒な馬たちの寄せ集め」というものだった。こうした要因が重なって、マヤノトップガンは6番人気にとどまった。さらに付け足すと、1995年日本ダービーの勝ち時計は良馬場で2分27秒3であり(記事
)、その1週間前の1995年オークスの勝ち時計は良馬場で2分26秒7であって(記事
)、この年の4歳牡馬は「牝馬より遅い時計の低レベル世代」というイメージがつきまとっており、それも影響していたようである。
- *フジテレビ系列のテレビ中継では、発走直前にスタート地点の発馬機の後ろで12頭の出走馬が輪乗りしている様子を映していた。このとき、大きく揺れている木々の姿が映っており、風の強さを感じさせた。また、フジテレビ系列のテレビ中継にてスタート地点でゲートリポートを務めた青嶋達也アナが「今年は特別に風が強いです」と報告している(この動画
の3分47秒あたり)。
- *①フジテレビ系列のテレビ中継にてスタート地点でゲートリポートを務めた青嶋達也アナが「スタートすると向かい風になる。馬は風に向かってスタートすることになる」と報告している(この動画
の3分47秒あたり)、②競馬場の中央にある巨大な日本国旗がその方向になびいている(①と同じ動画の2分35秒あたり)、③スタートするまで発馬機の近くで黄色い旗を垂直に持ち上げているJRA職員がいるが、その職員がもつ旗がその方向になびいている(①と同じ動画の7分01秒あたり)、④12頭の馬がゴールに駆け込むとき観客席で紙吹雪が舞っているが、その紙吹雪がその方向に移動している(①と同じ動画の9分38秒あたり)、といったことから、そのように判断できる。
- *マヤノトップガンの鞍上の田原成貴は、レース前日のトークイベントで逃げることを示唆していた(『名馬物語―The best selection (エンターブレイン)81ページ)。とはいえ、それまで逃げたことがない馬を逃げさせるのはなかなか考えづらかった。日刊スポーツの展開予想は、タイキブリザードが逃げると予想していた。
- *1000mを62.1秒で走るのは、通常なら超スローペースと表現される。しかし、この日の中山競馬場は帽子が飛ぶほどの結構な強風が吹き荒れていた。向かい風や横殴りの風が強く吹いているのなら、なかなか馬に負担が掛かる。「決してスローペースなどではなく、よどみない厳しいレースだったのではないか。1995年有馬記念
の時計が2分33秒6で、同日に同距離で行われた900万下条件戦のグッドラックハンデ
の時計が2分38秒4である。1995年有馬記念は1995年グッドラックハンデより4秒8も速い時計であり、距離でいうと30馬身ほど速い時計である。1995年有馬記念は数ある過去の有馬記念のレースの中でも最上位にランクされるレースだと思われる。ちなみに1990年有馬記念
の時計は2分34秒2で、同日に同距離で行われた900万下条件戦のグッドラックハンデ
の時計が2分33秒6である」と平尾圭吾が『優駿1996年2月号(日本中央競馬会)』の107ページで指摘している。この指摘の中の1990年有馬記念は「スローペースであり、衰えていたオグリキャップが勝ってしまうような低レベルなレースだった」という評価がついて回っているレースである。
- *『優駿1996年2月号(日本中央競馬会)』 145ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)94ページ
- *名馬物語―The best selection(エンターブレイン)112ページ
- *実際にゲートの前扉をくぐってしまった例を1つ挙げると、1997年弥生賞のサイレンススズカである(動画
)。
- *ゲートで暴れたときにヒシアマゾンは頭をゲートにぶつけていて、大きなタンコブを作って血がにじむほどだった。小泉守男厩務員は「頭をぶつけたヒシアマゾンは、頭がクラクラッとした状態、脳震盪に近い状態になっていたんじゃないだろうか」と推測していた。名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)112ページ
- *シャイニンレーサーはフジキセキの半姉である。
- *このとき、中野隆良調教師が中舘英二に対して「今度は他の人を乗せるから」と告げたという。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)』55ページ
- *Wikipedia記事
では10頭の馬を産んだことが記述されている。netkeiba
に登録されているのはそのうちの7頭である。
- *『海外生産育成調教実践研修報告
』37ページ、99ページ
- *週刊Gallop2019年4月28日号(産業経済新聞社)190ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ。ちなみにGallop臨時増刊 週刊100名馬 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 49ページでは「ABCDの4段階で馬を評価し必要に応じてプラスやマイナスを付けるがDはめったに付けない」と報じている。
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)91ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)56ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)50ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)56~57ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)59ページ
- *『優駿1994年12月号(日本中央競馬会)』 148ページにおけるローズステークスの回顧文章。
- *ちなみにストライド走法の反対語はピッチ走法で、ピッチ(脚の回転)を増やすという走りである。ドリームジャーニーが典型例とされる(動画
)。
- *Gallop臨時増刊 週刊100名馬 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 6ページ
- *534kgの大型馬であるタイキブリザードに乗って1995年ジャパンカップに参戦したことを回顧するとき、「僕の馬はフットワークが大きいから、埒(ラチ)沿いを走ると負担になるんだ」と語っている。Number 382号(文藝春秋) 80ページの島田明宏の文章
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)55ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)27ページ、114ページ、Number356号 37ページ 石田敏徳の文章
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)110ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)56ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)110~111ページ
- *この中舘英二の言葉に対してほんまゆみは先述のように「筋金入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」と評した。名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)111ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)110~111ページ
- *Gallop臨時増刊 週刊100名馬 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 10ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)104ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ、ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)49ページ
- *馬が首を傾けるのは、信頼する相手に甘える仕草である(記事
)。それにしても、騎手や調教師や馬主がそろって緊張しているGIのパドックで厩務員にデレデレと甘えているヒシアマゾンの姿は実に面白い。
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)104ページ、ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)59ページ。ちなみにヒシアマゾンに限らず競走馬は総じて甘いものを好み、リンゴ、ハチミツ、角砂糖を大好物にするという(記事
)。
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
- *ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)59ページ
- *【祝】JRA通算1600勝達成!競馬ラボ 2010年2月12日記事
- *『スローにすればいいと思ってる騎手はダメだね』逃げ職人・中舘英二 netkeiba.com 2012年7月3日記事
- *theatricalとは「演劇」という意味。theatricalの父ヌレイエフはロシアのダンサーの名前で、ヌレイエフの父ノーザンダンサーは「北の踊り手」という意味なので、3代続けて演劇関係の馬名が血統表に並ぶ格好になっている。
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)85ページ
- *名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)84ページ
- *ノノアルコ(Nonoalco)はメキシコシティ近くに点在する地名で(検索例
)、アステカ文明と深い関わりがあるという
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