ヒシアマゾン単語

ヒシアマゾン
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ヒシアマゾンとは、アメリカ合衆国生まれ、日本調教の元競走馬・繁殖である。

ダイイチルビーニシノフラワーシンコウラブリイノースフライトホクトベガフラワーパークファビラスラフインエアグルーヴと並ぶ1990年代の女傑[1]の代名詞である。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するウマ娘については
ヒシアマゾン(ウマ娘)を参照して下さい。

1991年3月26日生まれ。な勝ち1993年阪神3歳牝馬ステークス(GⅠ)、1994年エリザベス女王杯(GⅠ)。

馬主は「ヒシ」の冠名を使うことで知られる阿部一郎。管理調教師関東・美中野良(たかお)。担当厩務員は小泉守男。担当した調教助手は南田美知雄、田端正照、田勇。全20戦のうち18戦で手綱を取った騎手中舘英二だった。

厩舎における称は「ネス」で、伝説の女軍団アマゾネスからの連想で名付けられたという[2]

黒鹿毛体で、脚にのバンテージを付けているのが印だった。

当記事では、ヒシアマゾンの活躍した時代の表記に合わせて、特に記載がい限り年齢旧表記(現表記+1歳)で表記します

産声を上げる

ヒシアマゾンは1991年3月26日アメリカ合衆国ケンタッキー州のテイラーメイドファームという巨大牧場で生まれた。このため外国産馬[3]という扱いになった。

「ヒシ」の冠名を使う馬主の一代である阿部信は内を好んでいた。しかし1976年から1977年阿部信の所有する内ヒシスピードが持込[4]マルゼンスキーに敗れ続けた。阿部信の息子阿部一郎は、マルゼンスキーの強さをの当たりにして外国産馬を好む馬主になった・・・ といわれることがあるが、これは俗説である[5]

阿部一郎は優秀な自由に購入できるアメリカ合衆国を付けており、そこで競走馬を買って日本の厩舎に預けたり、さらにはそこで購入した繁殖アメリカ合衆国牧場に預託して競走馬を生産するというプランを進めていった。

阿部一郎は1000ギニーやコロネーションステークスを制したマイラKaties1989年11月アラブの王族の代理人と競り合いつつ100万ドルで購入して[6]テイラーメイドファームにて繁殖入りさせた。1990年まれのシアリダーはオープンまで出世し、1994年まれのシナイルフラワーカップGⅢ)を勝ち、1996年まれのヒシピナクルはローズSGⅡ)を勝っているので成功した取り組みであったといえる。その最も大成功した例が1991年まれのヒシアマゾンであった。

ヒシアマゾンという名は世界一の大河アマゾン伝説の女軍団アマゾネスの両方が由来である[7]

ちなみに、ヒシアマゾネスで登録するつもりだったが日本種馬登録協会に却下され、苦し紛れにヒシアマゾンで登録しなおしたらOKとなった、と言われている[8]

漆黒の弾丸

2歳の11月から3歳の6月まで千葉県市原市の大東牧場トレーニングを積み、それから「ベガベガでもホクトベガ!」で1993年エリザベス女王杯を勝って波に乗るころの関東・美中野良厩舎に入厩した。

新馬戦中山ダート1200m)はクビ差で勝ったが、プラタナス賞(500万下 東京ダート1400m)はクビ差の2着になった。このころはソエ(管膜炎)という若駒特有の怪が出ていて、脚への負担を減らすため2戦までダートを選んだ[9]

ソエの状態が良くなってきたので芝のレースに挑戦することになり、京成杯3歳SGⅡ 東京1400m)を2着に入った。1着とはわずかにクビ差で、3着とは4身差であり、しかもヒシアマゾン以外は全だったこともあって、内容が良かった。初めて芝を走ったときの感触を中舘英二が「ダートとは全く違う印アサエンペラー[10]のときにも感じたゾクゾクッという感覚。このはちょっと違うとそのとき初めて思った」と絶賛している[11]。このレースから現役最終戦まで芝を使い続けることになった。

 
阪神3歳牝馬ステークス(GⅠ 阪神1600m)では絶好のスタートから3番手に付けて先行し、そのまま直線に向かった。驚くような勢いで突き抜け、レースレコード更新しつつ5身差の圧勝を収めた(動画exit)。

3歳の4戦は、いずれも絶好のスタートを切ってから意欲的に脚を使って先行して3番手以内につけるという教科書どおりの競馬をしていた。1994年を迎えて4歳になると、スタート直後から後方に下がるようになっていく。

年が明けて1994年になっての京成杯GⅢ 中山1600m)では、圧倒的人気を背負いながら11番に入り、好スタートを決めたがやや後方に下がる。4コーナーで外を回さず内を突き、直線でインから末脚を発揮しようとするが、インを突いていくときにすこしもたつき、のちに短距離GⅠで3回2着となる実ビコーペガサスに2身差で敗れて2着となった。

クイーンカップGⅢ 東京1600m)では格下と見られた相手に残り50mまで前に出られ、最後に末脚を発揮してクビ差前に出て辛勝した。「弱い相手に僅差しかつけられない」と見るべきか「勝負根性が凄くて僅差で確実に勝つ」と見るべきか判断に迷うところだが、後者の捉え方をするべきであることがのちに判明していく。

当時の外国産馬桜花賞オークスに出られず、NHKマイルカップもまだ創設されていなかったため標がイマイチ設定できないまま、距離適性からスプリントも行けるだろうと、クリスタルカップGⅢ 中山1200m)に出走。ペースイマイチ乗り切れず後方のまま4を回るがっ気野郎タイキウルフ逃げ切る勢いを見せていたところを弾丸のような勢いの末脚でぶっ差して勝利する。この勝利は多方面に衝撃を与え、井崎脩五郎氏にいたっては1994年ベストレースナリタブライアンレースを差し置いてこのクリスタルカップを選定したほどである。このレースの後はツメの甘さがを潜め、本格化したと言えるほどの大活躍を始める。

 

4月10日桜花賞ではオグリローマン動画exit_nicovideo)、5月22日オークスではチョウカイキャロル戦を制しており(動画exit_nicovideo)、そうしたやかな晴れ舞台を横に見ながら6月5日の「残念ダービー」「マル外ダービー」とも称されていたニュージーランドトロフィー4歳SGⅡ 東京1600m)に出走し、マチネアレグロを半身ねじせて快勝した。ちなみにこのレースからいバンテージを4つの脚すべてに巻くようになった。

このGⅡレースを最後として4歳の競馬が終わった。GⅠに挑戦することができない外国産馬の悲哀であった。

皐月賞ダービー桜花賞オークスといった4歳クラシックを歩む路線は表街道と呼ばれており、ニュージーランドトロフィー4歳SGⅡ)が大標になる路線は裏街道と呼ばれていて、1996年NHKマイルカップ(GⅠ)が創設されるまでそういう表現が使われていた。ヒシアマゾン以外に裏街道を通ったことで有名なのはオグリキャップヒシマサルである。

ちなみに1994年に入ってからヒシアマゾンが勝利を争ったは、京成杯のビコーペガサスクイーンカップエイシンバーモント、クリスタルカップタイキウルフニュージーランドトロフィー4歳Sマチネアレグロだが、これらはすべて外国産馬である。

決闘

になり、ヒシアマゾン営は4歳限定で外国産馬の出走が可なGⅠレースであるエリザベス女王杯京都2400m)を大標に定めた。

それに向けてステップレースを2回使うことになり、クイーンSGⅢ 中山2000m)とローズSGⅡ 阪神2000m)を連勝した。どちらのレーススタート直後に最後方へ下げ、残り1000mから外をマクっていって進出し、4コーナーで先頭に並びかけ、直線で他のに合わせて脚を使って1身~1身1/2程度の差で勝つという、横綱相撲としか言いようのない安定した勝ち方だった。

そのうちローズSではオークス3着アグネスパレードに1身の差を付けて勝している。時計は2分00でレースレコード更新する優秀なものだった。

ローズSの結果を受けて「もしヒシアマゾンがオークスに出ていれば圧勝していただろう」というも当然のようにささやかれるようになった。オークス1位・3位を占めたチョウカイキャロルアグネスパレードにとって、オークスと同じ2400mで争われるエリザベス女王杯は己の名誉を守るため絶対に勝ちたいレースとなった。

迎えた本番レースで、36番のヒシアマゾンは上手にスタートを決めたが、包まれることを嫌がったのか後ろに下げ、最後方から3番で1~2コーナーを回っていった。バースルートが最初の1000m58.1ハイペースで大逃げし、テンザンユタカハイペースで走り、それに対して3番手以降はバースルートから3.3ほど離れたスローペースとなりやや固まって進んでいく。3コーナーに向けて坂を上っていく残り1000mのあたりでヒシアマゾンが動き、外をマクっていく。坂を上りきって残り800mを切り、坂の下りでさらに勢いを付けて先行勢にとりつき、6番手で4コーナーを回った。

直線に入ったところで17番のチョウカイキャロルが外にヨレて、ヒシアマゾンもその煽りを食って外に振れた。しかし中舘英二が左ムチを連打し進路を内に向け、チョウカイキャロルに再度襲いかかっていく。

16番のアグネスパレードはインをすくうようにして突き、残り300mあたりで先頭に立った。その外でチョウカイキャロルが脚を伸ばし、その外でヒシアマゾンがチョウカイキャロルを追いかける。

200mを切って先頭のアグネスパレードの脚色が衰えてきた。チョウカイキャロルとヒシアマゾンがアグネスパレードをかわし、さらにヒシアマゾンがアタマ差だけチョウカイキャロルの前に出る。チョウカイキャロルとのクビの上げ下げとなり、そのままゴールインした。

10分にも及ぶ長い写真判定の末、着順掲示板の一番上にともったのはヒシアマゾンの6だった。着差はわずか3cmハナ差だった。

勝ち時計は2分243で、レースレコード更新し、ヒシアマゾンのみならずこの世代のレベルの高さを示した。

これでメジロラモーヌオグリキャップタマモクロスに並ぶ当時の重賞連勝記録6を達成した。

 

ヒシアマゾンは年末の有馬記念への出走を決めた。このレース三冠馬ナリタブライアンが単勝1.2倍の圧倒的1番人気となっており、それに対抗するがどのになるのかが最大の焦点となった。

天皇賞(秋)を勝ったネーハイシーザー中山競馬場が得意なサクラチトセオー補に考えられたが、この2頭は2000mまでを得意とする中距離のようで絶対的信頼ができない。1年8ヶ前に天皇賞(春)を勝ったライスシャワーは9ヶの休み明けで確信が持てない。マチカネタンホイザナイスネイチャアイルトンシンボリは善戦マンなのでどうせまた3着か4着だろう・・・いやひょっとすると今度こそ来るかもしれない・・・このように予想は困難を極めた。

一方、ヒシアマゾンは6番人気の単勝19.1倍になった。キズ一つない重賞6連勝の身でありながらこの評価は低いような気もするが、この当時は「有馬記念で勝ち負けすることはかなり難しい」という固定観念があり、その固定観念が抵抗となっていたようである。

ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切り、スタート直後の行き脚もよく、ナリタブライアンから2身ほどの後方に付けた。

ツインターボが後先考えずに爆走する一方で2番手集団の先頭を走るネーハイシーザーが最初の1000mを推定61.0で走るスローペースに落とし、群が圧縮されてレースが進んだ。2コーナーを回るころにはナリタブライアンが3番手に浮上し、3コーナーにさしかかるころにはナリタブライアンが加速して先頭に躍り出た。

レースが始まってからサクラチトセオーブライアンをぴったりマークする格好でブライアンの外側の直後を追走していて、3コーナーブライアンペースアップしたときも懸命に食らいついていた。その外から漆黒体を踊らせてヒシアマゾンがすごい勢いでマクっていき、サクラチトセオーに噛みつかんばかりの勢いで顔を右に曲げながら猛然と4コーナーを曲がっていく。

直線の入り口でナリタブライアンに1身半程度の差まで迫ったヒシアマゾンは芝を蹴り上げながら快に走る。しかしナリタブライアンも根性を発揮し、中山の急坂を強く駆け上がっていく。ブライアンとヒシアマゾンの差がじわりじわりと広がり、3身差に開いたところでゴールインした。

ヒシアマゾンと3着ライスシャワーの差は2身半にまで広がっていた。4歳有馬記念で古を圧倒するという、当時の競馬ファンにとってはを疑いたくなるような偉業が達成された間である。「ブライアンやはり強い!古の壁、見事打ち砕きました!」とフジテレビ堺正幸アナが実況したが、古の壁をあっさりとぶちこわしたヒシアマゾンの勇姿も讃えられてよいだろう。ヒシアマゾンは新時代の女王として高らかに名乗りを上げたのである。

有馬記念が2着以内に入ったのは、1978年インターグロリア以来16年ぶりの快挙だった。また、有馬記念で4歳が2着以内に入ったのは1973年のニツトウチドリ以来21年ぶりだった。

女傑の往く道

1995年アメリカ合衆国への遠征を表明した。

3月4日日本を出発し、9時間の輸を経てカリフォルニア州ロサンゼルス郊外ハリウッドパーク競馬場へ辿り着いたはいいが、そこで入検疫のため48時間も検疫房へ閉じ込められた。四方がコンクリートで囲まれてが2つしかない刑務所のような間に閉され、ヒシアマゾンは相当なショックを受けていた。小泉守男厩務員が検疫房にベッドを持ち込んで寝泊まりして世話したが、この検疫で精的に大きく疲弊し、3月6日サンタアニタパーク競馬場リチャードマンデラ厩舎の房に入ったときにはあまり良くない状態になっていた。さらに運が悪いことに、の少ないはずのカリフォルニア州ロサンゼルスで、29年に一度とも30年に一度とも言われる記録的なが降っていたのである。あまりの量でダートコース閉鎖されることもあり、調教を上手く積めない。しかもダートコースの砂が流れて路盤が露わになって硬くなり、ヒシアマゾンの脚に負担がかかっていったようである。もともとヒシアマゾンは柔らかいウッドチップでの調教を多くこなしていただったので、硬いダートに慣れていなかった。さらには砂が集まって泥田のようにドロドロになった場所も出現するなど、脚を痛めやすい危険な状況になっていった。

最終追い切りが行われる予定だった3月15日になって、小泉守男厩務員がヒシアマゾンの脚の異常に気付いた。左前脚の球節の捻挫と診断され、これで3月18日サンタアナ・ハンデキャップ(古限定GⅠ 芝1800m)への参戦がとりやめとなり、何もできないまま帰の途につくハメになった[12]

後、6月15日に行われるエンプレス杯に同厩舎の先輩ホクトベガと共に登録し、川崎競馬場を震撼させた。登録の時点ではヒシアマゾンという存在の大きさばかりが注されていた。そりゃ中央競馬最強ナリタブライアンっ向勝負を挑めるがやってくるなんて、衝撃通り越してのいじめ?という話である。そのアマゾンは登録のみにとどめて高松宮杯に向かったため、川崎競馬場は一胸を撫で下ろした。実際に出てきたもう一頭のGⅠホクトベガの走りを見てアゴが外れたであろうが(動画exit_nicovideo)。

さて、ヒシアマゾンは7月9日に中2000mで行われる高松宮杯に出走した。1995年までの同レースの到来を告げる七月の名物重賞だったのである。ヒシアマゾンの勇姿を一見ようと6万5850人の観衆が押し寄せ、中京競馬場史上2番の客入りとなった。ちなみに史上1番1974年ハイセイコーがやってきたときの6万8469人である。単勝1.5倍の断然1番人気となり、57番のん中に入ったヒシアマゾンはゲート内でバタバタと落ち着かない様子である。

ゲートが開くとヒシアマゾンはまずまずのスタートを切ったが、その直後に56番ダンシングサーパスが左に行き、68番アラタマワンダーがっ直ぐ走って、ヒシアマゾンの前がパカッと開いた。

上の中舘英二中京競馬場馬場を意識して「少し行っとかなくちゃ」と思ってスタート直後にヒシアマゾンを押っつけて、背中を押していった[13]。素直なヒシアマゾンは騎手示に従い加速したが、そのとき周囲の騎手たちが首を傾けてヒシアマゾンの方を見つつを押さえ込んだ。813番のトーヨーリファールは前走の宝塚記念で速いペース逃げを見せていただが、このも素直に騎手示に従いペースを落とす。

結果として、ヒシアマゾンが押し出されて逃げる形になった。1~2コーナーでも3~4コーナーでもヒシアマゾンが最内を通るというめったに見られないとなり、先頭で直線に入った。しかしそこから末脚が伸びず、5着惨敗。デビューからの連対記録も12で途切れ、遠征でピークが過ぎたかに見えた。

ちなみにデビューから13戦のこのレースで、ヒシアマゾンは初めてに先着を許している。1994年有馬記念まで負ける相手はだけだったのである。

このレースのあとの帰りの新幹線中舘英二は「このには、もう2度と乗れないな」と思ったという[14]

 

再び立て直しをかけ、競馬にヒシアマゾンは帰ってきた。9月17日(日)に台風12号exit関東地方に接近したため、その翌日の9月18日)に中山2200mのオールカマーが開催された。わずか10頭立ての少頭数で、前日の台風もあって芝が稍重だったので、前半1000m65.2々々スローペースとなった。出遅れたヒシアマゾンは残り1100mになって引っかかり気味に外をマクっていき、残り1000mの時点でくも2番手に立った。4コーナーを回って310mの直線に入ってきたときには先頭に抜けだす。襲いかかってきたアイリッシュダンス[15]に合わせて末脚をガッチリ伸ばし、「永遠に縮まらないクビ差」と評された勝利を得る。

そして10月京都2400mで行われた京都大賞典に出走した。まずまずのスタートを切ってから後方に下げ、大逃げしたレガシーワールドが最初の1000m59.7で引っるなか、13頭立てで最後尾13番手という貫レースを展開していく。3コーナーでも上がっていかず、4コーナーになってやっと加速して大外へ持ち出した。京都の400mの直線で前を走る10頭を全に抜き去り、2身半の差まで付けてゴールインした。このときの末脚は「1ハロンで11を切って10台に突入した」と言われるもので、競馬界に衝撃を与えるものだった。

 

ヒシアマゾンは東京2400mで行われるジャパンカップに向かった。この当時は天皇賞(秋)外国産馬に開放されておらず、古が参加できる限定GⅠレースも存在しなかったので、ジャパンカップ一の選択肢だったのである。故障復帰から2戦ナリタブライアンが1番人気3.7倍で、ヒシアマゾンが2番人気4.3倍となった。1994年有馬記念の時は大きく離れていたオッズの差はほんの僅かにまで縮まっていた。

この年のジャパンカップは出走15頭で日本が6頭。ナリタブライアンとヒシアマゾンの他にはタイキブリザード宝塚記念2着)がおり、そのほかはマチカネタンホイザロイスアンドロイスナイスネイチャというおなじみの善戦マン3頭だった。天皇賞(春)宝塚記念の勝ちは故障で出走できず、天皇賞(秋)の1着と2着有馬記念に備えて回避していた。

ペースを作るとみられていた逃げタークパサー(Turk Passer)がレース直前になって出走を取り消し、一気に逃げ不在となり、先が読めない混沌とした状況になった。

814番のサンドピットがなかなかゲートに入ろうとしなかったので、712番に入ったヒシアマゾンはゲートの中で暴れ、そのせいもあって出遅れた。

59番のタイキブリザードと610番のエルナンドと611番のストーニーベイは3頭とも好スタートを切ったが、ストーニーベイが出直後にダッシュを決めて左側に切れ込み、エルナンドの前を塞いだ。ストーニーベイに釣られてエルナンドも左によれてタイキブリザードと接触した。前を塞がれつつ左のタイキブリザードと接触したエルナンドが今度は大きく右にふらつく。ふらついたエルナンドがヒシアマゾンの前にやってきて、それを避けるためヒシアマゾンも右に進路を変えざるを得ず、さらに後方へ下がる羽になり、ポツンと離れた最後方に位置した(動画exit)。

58番のデーンウィンオーストラリア)と611番のストーニーベイ(ニュージーランド)がスタート直後から好ダッシュをして、それに遅れてはならないと59番のタイキブリザードも勢いを付けた。ところが1コーナーに入る直前に、デーンウィンとストーニーベイの両騎手がグイッと手綱を引っって急ブレーキを掛けたので、タイキブリザードが押し出されて先頭に立つことになった。オセアニア競馬ではこういうことがよく発生するのだが、そのことを知っていたタイキブリザード岡部幸雄騎手は「やっぱりな」と思った[16]

逃げるはずではなかったタイキブリザード逃げることになったので、最初の1000mが61.0というスローペースとなり、群が圧縮されている。3コーナーが始まる地点の残り1000mでヒシアマゾンはまだ最後方だった[17]

3~4コーナー中間地点の残り800mを過ぎてもヒシアマゾンはまだ最後方だった。残り750mぐらいになって大けやきの向こう側から各が出てくると、ついにヒシアマゾンが外をマクっていった。このときのヒシアマゾンの凄まじいマクリ脚を見た713番アワッドのメイプル騎手は「勝つのはヒシアマゾンだろう」と思ったという[18]

ヒシアマゾンは500mの直線に入るところで大外に出た。火を噴くような勢いで末脚を炸裂させるが、最後まで勢いを保ったランドに1身半だけ届かない0.2差の2着に終わった。ランドの上がり3ハロン348で、ヒシアマゾンの上がり3ハロン347。残り600mの時点で発生していた1身半ほどの差をほとんど詰められなかった。

この当時はに混じって2000m以上のGⅠを勝つことはのような話といったところであり、そのをもう少しでつかみ取るところだったのだが、大を逸した。ジャパンカップ1992年から1994年まで日本が3連覇していたのだが、その連勝も止まってしまった。

 

ヒシアマゾン営は気をとりなおして1ヶ後の有馬記念への出走を決めた。ジャパンカップ走を評価されてファン投票1位・1番人気に支持された。が1番人気になったのは1958年ミスオンワード以来37年ぶりであり、そのとき以来の史上2度の快挙だった。ちょうど12月24日に開催されるのでいつも控えめな中舘英二騎手日刊スポーツに「サンタになる」とリップサービスを飛ばしていた。2番人気ナリタブライアン、3番人気天皇賞(秋)を2着に入った皐月賞ジェニュイン、4番人気天皇賞(秋)を勝ったサクラチトセオー、5番人気ジャパンカップ4着のタイキブリザード、6番人気菊花賞マヤノトップガンである。

逃げらしい逃げが見あたらない状況のなかでゲートが開いた。ヒシアマゾンが手に出遅れて最後尾からの競馬となった一方で、それまで逃げの経験がなかったマヤノトップガンが意表を突いて逃げていく。大歓が湧き起こったメインスタンド前でもマヤノトップガンは全く引っ掛からずにペースを保ち、最初の1000mを推定62.1というスローペースに落とした。向こう正面でもペースが相変わらず遅く、ヒシアマゾンは出走12頭中10頭という後方を追走した。ヒシアマゾンのすぐそばにサクラチトセオーが位置している。

残り1000mになってマヤノトップガンペースを上げた。それに適応できたのはナリタブライアンで、一頭だけ異なる脚で3~4コーナーを加速していく。一方、ヒシアマゾンやサクラチトセオーは3~4コーナーでのマクリが遅く、4コーナーを後方の位置で回った。直線に入った時点でヒシアマゾンがサクラチトセオーよりも1身ほど前にいたのだが、ヒシアマゾンは直線でも伸びず、サクラチトセオーに追い抜かれて離されていく。サクラチトセオーは勝ちから0.4差の3位、そしてヒシアマゾンは勝ちから1.0差の5位に入った。

中野良調教師によると、レース当日のヒシアマゾンの体にはハリがなく、にも元気がなくて、敗戦を直前で予想できたという[19]

この当時からすでに「JCジャパンカップ)の反動」というのが有馬記念におけるキーワードだった。1992年トウカイテイオージャパンカップで1着になって1ヶ後の有馬記念で11着に大敗したことで盛んに「JC反動」が言われるようになった。1994年有馬記念で見せた凄まじいマクリができなかったのも「JC反動」が原因だったのだろうか・・・。

黄昏

1996年になり、旧表記の6歳になったヒシアマゾンは蹄(ひづめ)の調子が悪くなっており、以前ほど頻繁にレースを使うことができない身体になっていた[20]3月大阪杯GⅡ)を使うことができず、6月になってやっとGⅠの安田記念にぶっつけで臨むことになった。

この年の安田記念メンバーと称されていて、前年の覇者ハートレイク、前年のマイルトロットサンダー、前年のスプリント王ヒシアケボノ、1ヶ前にスプリント界の頂点に立ったフラワーパーク、スプリントGⅠで2着3回のビコーペガサスといった短距離マイル路線の強が一堂に会していた。しかも前年の天皇賞(秋)2着のジェニュイン、前年のGⅠ戦線で何度も掲示板に乗ったタイキブリザードオークスダンスパートナー良血のレコードヤマニンパラダイスも参戦しており、まさに移りするような顔ぶれとなった。

この多士済々なメンバーに割って入ったヒシアマゾンは、1800m以下のレースを走るのが2年ぶりなのにもかかわらず4番人気に支持された。この当時の馬券購入者たちがヒシアマゾンを警していたことがよく分かる。ヒシアマゾンは血統的にもマイルをこなせそうだし、なんといってもを軽々と差しきる快な姿が人々の裏に焼き付いていた。

ヒシアマゾンはやっぱり出遅れたが意欲的に中を走り17頭の中の9番手あたりまで押し上げた。しかし、マイル戦の急な流れに戸惑ったのか0.8差の10着に敗れた。ちなみにヒシはヒシでもヒシアケボノがあわや逃げきりかといった好走を見せて3着に入っている。

 

このあとは阪神2200mで行われる宝塚記念に出走する予定だった。1600mの安田記念で速いペース競馬をしてシャキッと気持ちを切り替えた2200mの宝塚記念で好走することはよくあることで、1999年グラスワンダー2002年ダンツフレームがこの例に該当する。しかも阪神2200mは3~4コーナーが緩やかな度で、外からマクっていくヒシアマゾンにとっては絶好の舞台と思われた。ヒシアマゾンのファンにとっては期待が膨らむところだったが、蹄(ひづめ)の不安が発生してこのレースを回避することになってしまう。結局1996年競馬安田記念を走っただけに終わった。

4歳の5歳東のトレセンでを越していたヒシアマゾンだったが、6歳となる1996年になってついに期放牧に出されることになった。放牧先は北海道・門別ファンタストクラブだった。

になってもステップレースを思うように使えず、11月エリザベス女王杯にぶっつけ本番で臨むことになった。この年から4歳向けに秋華賞が創設され、エリザベス女王杯が古に開放されていたのである。京都外回り2200mが舞台で、最後方からマクっていくスタイルのヒシアマゾンにはうってつけのレースと思われた。

611番に入ったヒシアマゾンはゲート内でしく暴れ、前に潜り込もうとする[21]係員4人の手によっていったんゲートを出されて大外からの発走となる。大外に入ったのが良かったのか、ヒシアマゾンにとって絶好のスタートを切り、そのまま気分良く先行して2コーナーを回るときには4番手にまで進出した。あのヒシアマゾンが「好スタートを切って先行する」という優等生競馬をしている。これはなのか・・・[22]

このレース逃げが不在で、最初の1000mが63.1スローペースとなった。あまりのスローペースに後方では騎手との折り合いを欠くも出てくるほどである。ヒシアマゾンはさして引っかかりもせず、順調に3~4コーナーを回って4番手あたりで直線に入ってきた。しかしそこから1995年のような爆発的末脚が発揮されず、なかなか先頭に突き抜けることができない。そしてインを縫って先頭に躍り出たダンスパートナーをとらえられず、ほんのわずかの首差でゴールインした。

更にそれだけではなく、直線で斜行してオレンジ帽子の14番シャイニンレーサーの進路を妨したことを問題視されて、7着に降着となった。ゴールの直前でシャイニンレーサーが立ち上がっており、危ないところだった。

 

ヒシアマゾン営は12月有馬記念に駒を進めた。前走の降着の責任をとらせる形でついに中舘英二を降ろし、GⅠレースを何度も勝ったことがある関西ベテラン河内洋上に迎えた。限定レースで勝ちきれなかったことで人気が落ちるかと思われたが、5番人気に支持された。カネツクロスが前半1000m推定61.6程度で逃げていて、馬場状態が悪いことを考えるとペースの流れになっていた。いつものように出遅れたヒシアマゾンは最後方を追走した。残り800mになっても後方13番手でマクることができず、そのまま4コーナーを回った。直線では13番手から5番手まで追い上げ、そこがゴールだった。全くの惨敗でもないが1995年のころの周囲を震撼させる走りを再現することができなかった。

 
1997年になっても現役続行が発表され、5月京王杯スプリングカップGⅡ 東京1400m)を標に調整が進められていたが、4月30日に右前脚の浅屈腱炎を発症し、そのまま5月1日引退となった。

繁殖生活

5月3日には北海道静内の出羽牧場に移動して、5月24日には静内のアロースタッドでヒシマサル(二代)と交配した。そのあと1997年10月29日アメリカ合衆国ケンタッキー州のこの場所exitにあるテイラーメイドファームへ移動して繁殖生活に入ったが、日本デビューとなったアメリカデビューした重賞勝利までたどり着いた産駒は今のところいない。

彼女の活躍を受けて輸入された半ホワットケイティーディド(代表産駒:スリープレスナイト)、ケイティーズファーストは一大勢を構築しており、姪に当たるマイケイティーズ(代表産駒:アドマイヤムーン)、ケイティーズハート(代表産駒:エフフォーリア)らは繁殖として一定以上の成果を挙げているだけに残念である。ヒシアマゾン自身の子は活躍しなかったが孫のアミカルナバーオープンまで出世しており、後の世代の活躍に期待を持たせてはいる。

テイラーメイドファームに入ったときからヒシアマゾンを世話していた人の1人は、日本人スタッフの新木信だった。

2011年に繁殖生活を引退し、ケンタッキー州のこの場所exitにあるポロ・グリーン・ステーブルという牧場で余生を送ることになった。この牧場の経営は先述の新木信であり、テイラーメイドファームを退職したあとに開業した[23]

そして、平成が終わりを迎える2019年4月15日、老衰で死亡した。享年28歳。

最後は人につかない時と場所を選んだかのように静かに息を引き取ったという。晩年はIda's Imageexitアイスイメージ)という4歳年上の1987年生まれアリダー産駒と一緒に過ごしていたが、そのアイスイメージが2018年の末に31歳で亡くなってから、ヒシアマゾンも急を失っていった[24]

体格・体質

テイラーメイドファームにいたときの体の評価はBかBマイナスだった。この牧場ABCの3段階でを評価して、それから必要に応じてマイナスプラスを付ける[25]。つまり「中の下」といった程度の評価だった。ヒシアマゾンの半のヒシアリダーはAやAプラスばかりだったので、その差は歴然だった。

このため馬主阿部一郎は、ヒシアリダーが千葉県市原市の大東牧場にいたときは2回も見に行っていたのに、ヒシアマゾンが2歳の11月から3歳の6月まで大東牧場にいたときは一度も見に行かなかった[26]

中野良調教師からの評価も同じで、「体が薄く、ヒョロッとして華奢な脚長という印で、2歳時は特にそんな印が強かった。もちろんあれほどの成績を残すとは想像もしませんでした」とっている[27]。また、小泉守男厩務員も「薄っぺらなで、幅がなかった」と振り返っている[28]

しかし、成長するに従いヒシアマゾンには筋肉が付いてきた。成長したあとのヒシアマゾンは体格が雄大で、1994年エリザベス女王杯では体重480kg、現役最終戦1996年有馬記念体重500kgに達している。1996年エリザベス女王杯は他のべて明らかに大きい体をしていてすぐに判別できる。

体質はかなり健康で、3歳にソエが治してから4歳有馬記念まで脚に不安が出ることもなく極めて順調にレースを使うことができた。ただし5歳1995年アメリカ遠征で左前脚の球節を捻挫して、そこから脚に不安が出るようになった[29]。6歳になると蹄(ひづめ)が悪くなり、小泉守男厩務員が装蹄師と色々話をして工夫をしたが、なかなか上手くいかなかった[30]

1997年になって引退して出羽牧場に入ったとき、蹄(ひづめ)が殻のようにペシャンコで薄い状態だった。かなり特異な形状で、関係者の苦労を想像させるものだった[31]

走法

トライド(歩幅、一歩)が大きいストライド走法をとるで、脚に巻いたいバンテージがゆったりと揺れる感じで、体の大きさもあいまって優な雰囲気があった[32]

毎度のごとく外を回して距離を損していた。中舘英二騎手が他のに包まれるのを嫌がったのか、あるいは体格が大きいストライド走法なので外を回した方が適しているのか、「インを突いて群を割っていく」という競馬はほとんど見られない。インを突いたのは1994年京成杯ぐらいであり、そのレース後に上の中舘英二騎手は「イン慢したのが裏に出てしまった。(中略)全なミス」とコメント[33]、このレース以降は決してインを突かず外を回すようになった。

脚質としては差し・追い込みの典で、スタート直後はスッと後方に下げる。先行したのは3歳の4戦と1995年高松宮杯1996年エリザベス女王杯ぐらいである。4歳になってから後方待機をするようになったが、4歳初戦の京成杯から1番人気になり続けて他のとの接触を避けることを優先する立場になったこともしているだろう。

しょっちゅう出遅れるというイメージが付いている。ヒシアマゾンが出遅れるたびにスーパー競馬ドリーム競馬解説者が「まあ、このは、後ろからの追い込み競馬をしますから・・・」などという言葉でフォローしていた。ただし、出遅れ癖が付いたのは1995年オールカマー以降のことで、それ以前はまあまあ上手にスタートを決めていた。中舘英二騎手も「ゲートで暴れるようになったのは1995年オールカマーのころから」とっている[34]

イン側のを見るためなのか、顔を傾けてコーナリングする癖がある。1994年有馬記念でそれが顕著である。

パドックでは路面を強く踏みつけるように歩いていて、「ガチッ」とか「ビシッ」といった音が聞こえてくるかのようだった。この動画exit_nicovideoの6分44あたりにその様子が映っている。競馬予想大川慶次郎は「ヒシアマゾンの良いところというと、後ろ脚の踏み込みだ」とこの動画exit_nicovideoの7分28頃で解説していた。

勝負根性が凄くて、しばしば僅差で相手をねじせている。その姿は中野良調教師が「シンザン」と表していたほどで、それを受けてマスコミも「女シンザン」と書いていた[35]シンザンも僅差で勝つだった。

坂路での調教でいつも凄まじい脚を発揮していて、一番時計の常連だった。ほんまゆみは、次のように記している。「その彼女は坂路を恐ろしい勢いで駆け登ってきた。ヒシアマゾンの調教を見たことがある人なら、あの迫には、つい言になってしまったことがあるだろう。(中略)意識に調教時計ノートに書き込んでから、「あれ?」と思って数字をまじまじと見直した。「機械、壊れちゃったんですかネ?」隣の競馬記者視線時計釘付けになったまま聞く。(中略)「いや、あってるよ。ヒシアマゾンってそうなんだよな」 他の時計とは格段に違う。違いすぎる。こうしていつも、ヒシアマゾンが走る日は彼女が坂路の一番時計をさらっていく。トレセンの馬場担当者はヒシアマゾンの時計で坂路の基準を計るともいっていた」[36]

性格

レース調教から離れたときのヒシアマゾンは、とてもおとなしだった。

小泉守男厩務員が「普段はおとなしい」「普段は品のいい控えめな女性」とっており[37]、ほんまゆみも次のようにっている。「そして北馬場にほど近い中野厩舎へ到着したのであるが、右手の洗い場に、ぽや~んとした黒鹿毛にとまった。顔に見覚えがある。でもこのおとなしさはタダモノではなく、がやってきて威嚇したら、ずりずりと下がって困惑しそうなほどであった。手入れがすんで厩務員さんが引き出し、歩かせた。その様子がまた、『老散歩なのかな?』と思うほどおとなしい。だらりとのびた引き綱。厩務員さんの後を、首をだらりと下げて、ぽてりんぽてりんと素直について歩く。ふたりの間にひだまりが見えるようであった。まさかとは思ったが、集まった取材がこのを注視するところを見ると、どうやら彼女こそがかのヒシアマゾン様である」「筋入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」「いままで見てきたで、(レースでのイメージと素顔の)イメージギャップが最もしかった、それが、ヒシアマゾンだった」[38]

中舘英二騎手も、次のようにっている。「(ヒシアマゾンはいつもあんな感じにおとなしいんですか、と問われて)・・・そうなんだよね・・・」「あのはよく分かんないっていうか・・・。パドックでまたがっても、なんかイマイチ闘志ってものが伝わってこなくて、『こんなんで今日、走るのかなあ?』って不思議不思議で。ゲート前に行ってもそんな感じで。『だいじょうぶかな』と思いながら、スタートきって、それでレース中もまだあんな調子なんだよね。走る気あるのか半信半疑で、・・・でも、いつも走るんだよねえ」[39]

中野良調教師も、「ヒシアマゾンは、『女戦士』という意味を持つアマゾンという名の通りの女傑ですね!」とほんまゆみに言われた際、いつも複雑そうな顔をしていた。そして「ほんとは、そんなにアマゾンって感じのじゃないのに・・・」とポツリといたこともあったという[40]

そしてヒシアマゾンは、おとなしいだけではなく、とても人なつっこいだった。

田端正照調教助手は「人なつっこくて甘えん坊で、優しいをしていた」と[41]阿部一郎オーナーも「やたらと人なつっこくて周りに人がいることを好む。自分が前に行くと、『なにかくれ』と前掻きexitして甘える」と言っており[42]1997年5月から10月までヒシアマゾンと接した出羽牧場高田牧場長も「性格が良さそうで、人がかわいがって育てたせいか、人間がそばを通っただけで、何かちょうだいというんですよ」と言している[43]

阿部一郎オーナーは、「小泉守男厩務員が本当にかわいがって優しくしたので、あんなに甘えん坊で人なつっこい性格になったのだろう」とっている[44]

パドックでは小泉守男厩務員に首を傾けて甘えている姿がしばしば見られた。1994年エリザベス女王杯この動画exit_nicovideoの2分35頃)や1995年京都大賞典動画exit)や1996年有馬記念この動画exit_nicovideoの7分25頃)などである。

リンゴが大好物で1日均2~3個食べていた。1997年5月から10月まで滞在した出羽牧場では、高田牧場長がそばに寄っていくと必ず前掻きしてリンゴをねだっていたので、甘え上手のヒシアマゾンに対して牧場長もついついリンゴを与えていた[45]

阿部一郎オーナーヒメリンゴを作っていた。ヒシアマゾン以外のにそのヒメリンゴを与えたら、あまり甘くない味だったので嫌がってすぐに食べるのをやめた。しかしヒシアマゾンに同じヒメリンゴを与えたら、ボリボリと食べていたという[46]

ただし、小泉守男厩務員がプラスチックおもちゃリンゴ房にしても、それで遊ばなかった[47]

主戦騎手 中舘英二

ヒシアマゾンの競走生活の大部分を共にしたのは関東所属の中舘英二騎手である。

重賞・GⅠに出て高額賞を狙うよりは地方ローカル開催に多く出場して少額の賞を稼ぐことを好み、「ローカル」「福島」と言われることがある。積み重ねた勝利数は1869勝で、歴代10位の記録である。

かなり控えな性格で、「自分はが高くてここまで来たとは思っていませんよ。周りには山ほど天才がいますし。ノリ横山典弘騎手)だのユタカ武豊騎手)だの、やっぱり天才肌だから。」という言葉を発したことがある[48]

逃げの中」と言われるほど逃げが上手い。本人も「“逃げ”っていうカテゴリーの引き出しはいっぱい持ってる」と自負するほどである[49]。その反面、差し・追い込みを操る技術を誇る発言が本人の口から出てくることが少なく、「中は差し・追い込みが少し苦手」という印をもたれやすい。

このため1995年ジャパンカップのあとは「中舘英二を降ろすべきだ。大レースの経験を持っていて差し・追い込みが上手い騎手に代えろ」という批判が増えることになった。

血統表

Theatrical
1982 黒鹿毛
Nureyev
1977 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Special Forli
Thong
*ツリーオブノレッジ
1977 鹿毛
Sassafras Sheshoon
Ruta
Sensibility Hail to Reason
Pange
Katies
1981 黒鹿毛
FNo.[7-f]
*ノノアルコ
1971 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Seximee Hasty Road
Jambo
Mortefontaine
1969 鹿毛
*ポリック Relic
Polaire
Brabantia Honeyway
Porthaven

5代目までに生じたクロス Nearctic 4 x 3、PharosまたはFairway 5 x 5


競馬界に革命をもたらしたノーザンダンサーである。ノーザンダンサーの血が入ると「根性があって勝負強く底がある」といった性質がに宿ると言われる。

ヌレイエフで、競争成績はながら血統の良さを買われて種牡馬入りし、アメリカ合衆国欧州で繁殖を行い、欧州の芝マイルで活躍する競走馬を多数輩出した。

シアトリカル(theatrical)で[50]アイルランドで生まれ、最初は同で競走生活を送り、旧表記5歳からアメリカ合衆国に拠点を移した。1987年になって旧表記6歳になるとアメリカ合衆国の芝路線でGⅠを連戦連勝するようになり、ブリーダーズカップターフ(芝2400m)も制した。1988年から種牡馬入りし、20頭以上のGⅠを輩出した。凱旋門賞Sassafrasササフラ)の血を引いているためか、シアトリカル自身は2400mのレースで活躍し、シアトリカル産駒も2000m以上の中長距離戦で走る傾向にある。

ちなみにシアトリカルの半タイキブリザードで、ヒシアマゾンと同期である。1995年1996年のGⅠでヒシアマゾンはの半、つまり「叔父さん」と走ったことになる。

ヒシアマゾンを作るためにシアトリカルがKatiesと種付けしたのは1990年だが、このときは産駒がどうなるか未知数の種牡馬であり、かなり安い種付け料だった。ミスタープロスペクターアリダーが30万ドルシアトルスルーが20万ドルといった時代で、シアトリカルは4万ドルだった。Katiesを管理する牧場の人には「なぜこんな種牡馬を付けるのか」と反対されたが、阿部一郎が反対を押し切って配合を決断した[51]

阿部一郎はヌレイエフが好みだったので、1990年Katiesに種付けするときヌレイエフを配合することも検討したが、Nearcticの3×3となって近配合になりすぎるので却下した。1990年から種牡馬入りしたヌレイエフ産駒のZilzal(ジルザル)も検討したが、1989年11月ブリーダーズカップ・マイルでひどくイレこんでいて発しているのを見て、やっぱり却下した[52]


はノノアルコ[53]欧州の芝マイル路線でGⅠを制したである。フランスアイルランド種牡馬になって7年間ほど繁殖生活を送り、欧州の芝マイルを得意とするを世に送り出した。そのあと日本種牡馬として輸入され、マイル重賞の勝ち2500mの有馬記念を勝ったダイユウサクとなった。

Katiesケイティーズ)で、ノノアルコアイルランドにいたときの産駒であり、アイルランド1000ギニー(GⅠ)やコロネーションステークス(GⅡ)というマイル戦を勝った名である。先述の通り、アラブの王族の代理人と競り合いながら阿部一郎が100万ドルで購入した。アメリカ合衆国ケンタッキー州で繁殖入りした。Katies2007年JRA年度代表馬アドマイヤムーン2008年スプリンターズS勝ちスリープレスナイト2021年皐月賞エフフォーリアである。

オープンにまで出世したヒシアリダー、半1996年フェアリーSGⅢ)勝ちのヒシナイル、全1999年ローズSGⅡ)を勝って秋華賞を3着に健闘したヒシピナクルがいる。

関連動画

関連商品

関連項目

脚注

  1. *1990年代競馬界において「混合レースを負かすような強い」に対して女傑(じょけつ)という称号を与える傾向があった。1994年有馬記念堺正幸アナが「女傑ヒシアマゾン」と表現していたが、1994年ニュージーランドトロフィー4歳Sでヒシアマゾンがを負かしたことを受けてその表現をしたものと思われる。ちなみに、「限定戦で強い競馬をした」には名(めいひん)という称号を与える傾向があった。『ヒシアマゾン~女傑から名牝へ(宝島社)exit_nicoichiba』の23ページに女傑と名の違いが解説されている。
  2. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  3. *外国産馬とは、外牧場で生まれて幼いころに日本に輸入されて日本の厩舎に所属するである、と憶えておいて差し支えない。競馬新聞柱には外という漢字を○で囲ったマーク画像exit)で示されるので「マルガイ」と呼ばれる。かつてのJRAは「日本牧場で生まれたを保護して日本牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、外国産馬に様々な出走制限を掛けていた。1999年まで外国産馬天皇賞に出走することができなかったし、2000年まで外国産馬ダービーに出走することができなかったし、2002年まで外国産馬オークスに出走することができなかった。
  4. *持込とは「外牧場で種付けして受胎した繁殖」を日本に輸入して日本牧場出産させることで生まれたのことをいう。「父親母親が外牧場ゆかりがある」という点で外国産馬とよく似た存在であり、持込母親日本牧場にいて外国産馬母親が外牧場にいる、という点だけが異なる。1971年から1983年までのJRAは「日本牧場が所有する種牡馬を保護して日本牧場の育成を図りたい」という方針を持っていて、持込に様々な出走制限を掛けていた。
  5. *ヒシスピードのWikipedia記事exitに出典しでこの説が書かれている。『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)』の100ページでは、「あまり勝てない冠名ヒシの1988年までにリストラした阿部一郎は北海道静内のセリに行って優秀な内を購入しようとした」と記されている。ちなみにそのセリであまり良いが出品されておらず、「競走馬の6割が庭先取引exitで購入され、セリには良いが出品されない」という日本競馬閉鎖性に気付き、アメリカ合衆国で良い競走馬を購入しようと思い立ったと書かれている。
  6. *このときのアラブの王族はUAEアラブ首長国連邦)のドバイのマクトゥーム一族だったようだ、と阿部一郎がっている。マクトゥーム一族はドバイの首長(君)を輩出する柄で、競馬に熱中していることで知られている。『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』48ページ、『名馬物語―The best selection(エンターブレイン)exit_nicoichiba109ページ
  7. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)49ページ名馬列伝ヒシアマゾン(光栄)exit_nicoichiba86ページ
  8. *この話を裏付ける言は『ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)』や『名列伝ヒシアマゾン(光栄)』や『Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社)』や『優駿1995年1月号(日本中央競馬会)の97~102ページ阿部一郎特集部分』や『ヒシアマゾン A Heroic Womanポニーキャニオン)』や『名物語―The best selection (エンターブレイン)』や『ヒシアマゾン 癒しささやき講談社)』には出ておらず、偽不明である。

    仮にその逸話が事実であるとすれば、次のような事情を推察できる。1973年に『アマゾネス』というイタリア映画日本開された。映画007シリーズの初期の監督として知られるテレンスヤング監督を務めた作品だが、内容はだいぶエッチなもので、Wikipedia記事exit読んでみた画像検索結果exitを見てみたりするとそのことがよく分かる。しかもイタリア語の原題『Le guerriere dal seno nudo』を日本語に直訳すると『裸の胸の戦士』である。映画開から20年程度しかたっておらず『アマゾネス』の記憶が人々に残っているので却下となった、というのが有力説である。

    ちなみにnetkeiba.comにおいて『アマゾネス』で検索すると1978年生まれや1994年まれのアマゾネス」というヒットする(検索結果exit
  9. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)14~15ページ
  10. *アサエンペラー中舘英二が騎乗して1986年皐月賞3着・ダービー3着の好結果を残した名である
  11. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)14ページ
  12. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)24~25ページ、名列伝ヒシアマゾン(光栄)74ページ、87ページ、93ページGallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 9ページ、名物語―The best selection(エンターブレイン110ページ
  13. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ
  14. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ
  15. *アイリッシュダンスハーツクライとして有名。
  16. *Number 382号(文藝春秋) 79ページ
  17. *このことを振り返った中舘英二騎手は、次のようなコメントを残している。「確かにペースが遅いと思ったけど、く動くとオールカマーの時のようにシマイが甘くなってしまう。それほど、前が遠いようには感じなかったので、とにかくを信じて慢した」「は自分のが一番だ、と信じていたので、3コーナーから動く必要はないと思っていた。これなら届くと思いました」Number 382号(文藝春秋) 79~80ページオールカマーレース中舘英二騎手の心理にを与えていたのである
  18. *Number 382号(文藝春秋) 80ページ
  19. *列伝ヒシアマゾン(光栄)94ページ
  20. *物語―The best selection(エンターブレイン112ページ
  21. *実際にゲートの前をくぐってしまった例を1つ挙げると、1997年弥生賞サイレンススズカである(動画exit_nicovideo)。
  22. *ゲートで暴れたときにヒシアマゾンは頭をゲートにぶつけていて、大きなタンコブを作って血がにじむほどだった。小泉守男厩務員は「頭をぶつけたヒシアマゾンは、頭がクラクラッとした状態、震盪に近い状態になっていたんじゃないだろうか」と推測していた。名列伝ヒシアマゾン(光栄112ページ
  23. *海外生産育成調教実践研修報告exit』37ページ、99ページ
  24. *週刊Gallop2019年4月28日号(産業経済新聞社)190ページ
  25. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ。ちなみにGallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 49ページでは「ABCDの4段階でを評価し必要に応じてプラスマイナスを付けるがDはめったに付けない」と報じている。
  26. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85~86ページ
  27. *列伝ヒシアマゾン(光栄)91ページ
  28. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  29. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)50ページ
  30. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56~57ページ
  31. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ
  32. *ちなみにストライド走法の反対ピッチ走法で、ピッチ(脚の回転)を増やすという走りである。ドリームジャーニーが典例とされる(動画exit_nicovideo)。
  33. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 6ページ
  34. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)55ページ
  35. *列伝ヒシアマゾン(光栄)27ページ114ページ
  36. *列伝ヒシアマゾン(光栄110ページ
  37. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)56ページ
  38. *列伝ヒシアマゾン(光栄110~111ページ
  39. *この中舘英二の言葉に対してほんまゆみは先述のように「筋入りのふわふわしたお嬢様ぶりなのである」と評した。名列伝ヒシアマゾン(光栄)111ページ
  40. *列伝ヒシアマゾン(光栄110~111ページ
  41. *Gallop臨時増刊 週刊100 Vol.48 ヒシアマゾン(産業経済新聞社) 10ページ
  42. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
  43. *列伝ヒシアマゾン(光栄104ページ
  44. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ、ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)49ページ
  45. *列伝ヒシアマゾン(光栄104ページ、ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ
  46. *列伝ヒシアマゾン(光栄)87ページ
  47. *ヒシアマゾン~女傑から名へ(宝島社)59ページ
  48. *【祝】JRA通算1600勝達成!競馬ラボ 2010年2月12日記事exit
  49. *『スローにすればいいと思ってる騎手はダメだね』逃げ職人・中舘英二 netkeiba.com 2012年7月3日記事exit
  50. *theatricalとは「演劇」という意味。theatricalのヌレイエフロシアダンサー名前で、ヌレイエフノーザンダンサーは「北の踊り手」という意味なので、3代続けて演劇関係の名が血統表に並ぶ格好になっている。
  51. *列伝ヒシアマゾン(光栄)85ページ
  52. *列伝ヒシアマゾン(光栄)84ページ
  53. *ノアルコNonoalco)はメキシコティ近くに点在する地名で(検索例exit)、アステカ文明と深い関わりがあるという

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ヒシアマゾン

9 ななしのよっしん
2019/04/08(月) 18:57:39 ID: NItYWjTJwW
勝負根性がすごいといえばまずアマゾンが浮かぶ
10 ななし
2019/04/17(水) 16:40:23 ID: t/I/mZOY1O
2019/4/15に繋養先の牧場死亡していたことが判明
歴代最強論争は結構見るがリアルレースを見たことある身としては最強の一と言ってもいいレベルだったと思う
11 ななしのよっしん
2019/04/17(水) 16:44:35 ID: DaMKnfEG/c
ウオッカ亡くなったばっかやぞ…
12 ななしのよっしん
2019/04/17(水) 17:54:42 ID: f1RshhL4rq
今日は復活をとげ悲願のG1前に亡くなったシャケトラ予後不良で落ち込んでたのにさらに訃報が・・・
ご冥福をお祈りします・・・
13 ななしのよっしん
2019/04/17(水) 23:17:31 ID: nivBVfCmAn
>>5
JRAヒシマサル2代目を根に持ってた説。
ヒシマサル名申請したときは一旦拒否。根拠ははっきりしないけど昔の安田記念G1という解釈(妄想)。
だったらアメリカで登録してやんよ→輸入で日本ローカルルールJRA面子を潰す。
今は昭和]58年以前の安田記念名保護対じゃないのがはっきりしてるからヒシマサル3代普通に登録できた。
当時は昔の安田記念の扱いがはっきりしてなかったけど、役所の事なかれ義で認めないことにしたのに強行突破されたら根に持つんじゃないかな。
妄想だけど。
14 ななしのよっしん
2019/04/18(木) 20:04:45 ID: DaMKnfEG/c
ホクトベガ姉さんに会えたであろうか
15 ななしのよっしん
2019/09/13(金) 15:54:52 ID: f1RshhL4rq
エリ女アマゾンがわずかの差で破ったチョウカイキャロルもまたわずかの差で逝ってしまった・・・
16 ななしのよっしん
2021/06/11(金) 06:43:23 ID: Z+vf4BJW5h
名前の勇ましさと、強い走り方を見せるレースと逆に、厩舎だと本当に大人しいだったらしい。
新聞とかで「女傑」とか「男勝り」みたいなこと書かれるごとに担当の厩務員の方は、そうかなあ?と首をかしげていたと。
17 ななしのよっしん
2021/06/25(金) 21:40:31 ID: DaMKnfEG/c
ソコんとこはウオッカにも言われてたから…
18 ななしのよっしん
2021/07/05(月) 05:52:35 ID: bGHNO2+TDh
溢れるwikiだな。
今は孫世代がけっこう走ってるね。

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