ヒッグス粒子(ヒッグスボソン、Higgs boson)とは、物になぜ質量があるのかという疑問に回答を与えるかもしれない素粒子である。
概要
物質を形作る素粒子は大きく二つに分類することが出来る。クォークや電子、Wボソンといった質量のある粒子と光子(光の粒子)のような質量のない粒子である。なにがこれらの粒子の性質を分けたのだろうか?
実は宇宙の始まりビッグバンの当初はクォークや電子、Wボソンといった粒子も質量がゼロで、光速で好き勝手に飛び回っていた。ところが宇宙がある温度以下に冷えると、ヒッグス場という場が宇宙を海のように満たすようになった。すると好き勝手に飛び回っていた素粒子はヒッグス場と相互作用を起こす粒子と起こさない粒子に分かれるようになった。相互作用を起こす粒子は海をかき分けて進む船のように動きづらくなり、光速以下でしか動けなくなったのである。こうして粒子に生まれたのが質量であるというのがヒッグス機構である。
このシナリオによればヒッグス場に対応する素粒子、ヒッグス粒子が存在する筈である。これを検証するには実際にヒッグス粒子を作り出して調べる必要がある。そのためには巨大な加速器でビッグバン直後の宇宙の状態を再現するしかない。しかしこれは容易な作業ではない。なにしろヒッグス粒子の質量は軽いとしても重金属原子並の重さがあると考えられ、これを生み出すには相当なエネルギーを必要とするのである。欧州原子核研究機構(CERN)がフランス・スイス国境に建設した世界最大の加速器である大型ハドロン衝突型加速器(LHC)の最大の目的はこのヒッグス粒子を取り出してその質量を特定することである。
ヒッグス粒子発見
2012年7月4日、LHCでヒッグス粒子を見つける実験を行っているアトラスとCMSという二つのグループは、CERNのセミナーで新粒子の発見を報告した。この新粒子はヒッグス粒子と解釈できる(今のところ実験データと理論の予言との間に矛盾は見られない)ということだった。その後も更に実験を続けて、2013年3月にヒッグス粒子「らしさ」はより高まったと発表した。
実験で見つかったヒッグス粒子の質量は126GeVくらいであるとのこと。これは、陽子(0.938GeV)の約134倍の質量である。このGeV(ギガ電子ボルト)というのは素粒子の質量を表すのによく使われる単位で、1GeV=1.78×10−27kg。
現在LHCは休止中で、2015年に更なる高エネルギーで実験が再開される予定である。再開後の実験ではヒッグス粒子のより詳しい性質の解明が期待される。例えば、ヒッグス粒子が5種類あると予言する理論もあるので、その正否の検証が課題になる。
ちなみに2012年の新粒子発見報告の半年前、2011年12月13日に行われたセミナーはニコ生公式でも生中継された。このときはヒッグス粒子の存在を示唆するデータが得られた、という発表であった。
よくある疑問・誤解
Q. 重力子と違うの?
A. 違います。全く別の粒子。重力子はその存在が理論的に予想されているものの、検出できるような実験はいまのところない。
Q. でも質量を与えるんだから重力発生と関係あるのでは?
A. ほとんど関係ない。一般相対性理論によれば重力を発生させるのはエネルギー。質量がない粒子もエネルギーを持つから重力相互作用をする。質量のある粒子は静止していてもエネルギーを持っていることが最大の違い。
Q. 真空はヒッグス粒子で満たされている?
A. 正確な表現ではない。真空でヒッグス場がある決まった値をもつ(真空期待値をもつ)というのが正確な表現なんだが、それにはヒッグス場の説明をしないといけなくなるので、妥協して不正確な表現を使っているのだろう。
Q. ヒッグス場とヒッグス粒子の違いは?
A. 水面にたつ波を想像してほしい。水位に相当するのがヒッグス場の値で、波に相当するのがヒッグス粒子。量子力学では波も粒子の性質を持つ。真空にはヒッグス粒子は存在しない、つまり波はたっていないが水位に相当するヒッグス場はある決まった値を持つ、これがヒッグス場の真空期待値。
Q. ヒッグス場が万物の質量の起源?
A. 万物、というのはちょっと違う。普通の物体(人体とか惑星、恒星)の質量は陽子や中性子の質量に由来しているが、ヒッグス場が関係しているのは数%程度で残りは別の機構(カイラル対称性の破れ)によって説明される。
電弱統一理論
なぜヒッグス粒子なるものを考えるのか?それは力の統一に関係している。物理学というのは自然現象をなるべく少ない基本法則から理解しようという学問である。なので、一見違う現象が統一的に理解できるようになると物理学者は喜ぶ。
今話題になっているヒッグス粒子は電磁力と弱い力の統一理論に関係している。この理論によれば、電磁力と弱い力は全く別の現象にみえるのだが、非常に高いエネルギーでは二つの力は統一される。ちなみに強い力や重力はさらにずっと高いエネルギーにならないと統一されないと考えられている。
宇宙は非常に高いエネルギーの状態から始まったと考えられているので、宇宙の歴史からいうと、最初全ての力は統一されていて、それがだんだんと分かれていったことになる。そして電磁力と弱い力が分かれるようになった原因こそがヒッグス場である。
弱い力というのはあまり馴染みがないかもしれないが、非常に短い距離でしか働かない力で、原子核物理が発達するまで知られていなかった。力が働く距離が短いか長いかと、力を媒介する粒子が質量を持っているか否かは関係している。電磁力は光子という質量を持たない粒子が媒介するので長距離にわたって働く。弱い力は媒介となるWボソンやZボソンが質量を持つので、短距離でしか働かない。
電磁力と弱い力が分かれる以前の世界では、WボソンとZボソンと光子は全て質量ゼロで区別はなく、電子(の左巻き成分)とニュートリノとの間にも区別はなかった。この区別のつかない(高い対称性がある)状態から、区別のつく(低い対称性を持つ)状態に変わることを「対称性の自発的な破れ」という。これはもともと物性物理学からでてきたアイデアで、素粒子物理学に応用された。ヒッグス場の真空期待値がゼロが対称性が高い状態で、ヒッグス場がゼロでない真空期待値を持つと対称性が破れる。
ヒッグス場は2つの複素数で表される場で、4成分ある。これに対応してヒッグス粒子も4つあるのだが、対称性が自発的に破れた結果、このうち3つはWボソン(W+とW−の二つある)とZボソンに吸収されてしまい、WボソンとZボソンは質量を得る。吸収されずに残った1つがLHCで見つかったと思われるヒッグス粒子である。この、WボソンとZボソンが質量を得る仕組みのことをヒッグス機構という。
さらに、対称性が高い状態では質量を持たなかった電子やクォークも、対称性が破れると、ヒッグス場との結合の強さに比例した質量を持つようになる。ちなみに、対称性を破るのにヒッグス場を使わない模型も提案されていたのだが、1995年に発見されたトップクォークというとても重いクォークの質量を説明するのに苦労した。ヒッグス場を使えばこれがすんなり説明できるので、ヒッグス場を使った模型が有力視される一因となった。
性質
ヒッグス粒子は素粒子の「標準模型」と呼ばれる理論によって予言された粒子である。ここではその基本的な性質を列挙する。
- 質量: (新粒子がヒッグス粒子なら)126GeVくらい
標準模型ではヒッグス粒子の質量は予言できない。これだけが分かっていないパラメータだった。 - スピン: 0
スピンというのは素粒子を分類するうえでの基本的な量。電子やクォークのような物質を構成する素粒子はスピン1/2、光子やグルーオンのような力を媒介する粒子はスピン1を持つ。実験結果は新粒子がスピン0であると示唆している。 - 電荷: 0
電磁相互作用をしない。新粒子も電荷0。 - 色荷: なし
強い相互作用をしない。新粒子も色荷を持たない。 - パリティ: +
パリティは空間反転に関係した物理量。実験データは新粒子のパリティも+であることを示唆している。 - 寿命:1.6×10−22秒(質量が126GeVの場合)
短すぎて直接的には測定できない。 - 崩壊モードは後述
探索
ヒッグス粒子を作るには巨大な加速器(いかに巨大かは関連動画を参照されたい)で陽子を加速して正面衝突させる。衝突のエネルギーによってヒッグス粒子ができるのだが、一瞬のうちに崩壊してしまう。この崩壊によってできた粒子を捕まえることで、ヒッグス粒子が作られたか否か、その質量はいくらか等々を調べるのがヒッグス粒子探索実験である。
崩壊モード
重い素粒子は何か特別な理由がない限り、複数の軽い素粒子へと崩壊する。ヒッグス粒子は重いので様々な粒子に崩壊する可能性があり、どんな粒子に崩壊するかは確率的である。
ヒッグス粒子との結合の強さは、その粒子の持つ質量に比例するので、重い素粒子へと崩壊する確率がより高くなる。以下はヒッグス粒子の質量を125GeVとしたときの主な崩壊先とその確率
なお、Wボソン2つやZボソン2つへの崩壊では、崩壊後の粒子の質量の和のほうが崩壊前のヒッグス粒子の質量より大きい。このような崩壊は古典力学では許されない。だが、ヒッグス粒子の崩壊でできたWボソンやZボソンもまた一瞬で崩壊するため、最終的な崩壊後の粒子の質量の和のほうがヒッグス粒子より軽いならば、全体で帳尻が合う。量子力学ではこのような仮想的な粒子を経由した崩壊が許される。
生成
LHC実験では陽子同士を衝突させている。陽子同士といっても実際には陽子を構成するクォークやグルーオン同士の衝突によってヒッグス粒子が生成される。ヒッグス粒子の生成過程には3種類ある。
- 2つの陽子に含まれるグルーオン同士が衝突しトップクォークと反トップクォークの対生成が起こる。このトップクォークと反トップクォークがぶつかってヒッグス粒子ができる。このトップクォーク・反トップクォークのペアは先に述べた仮想的な粒子である。
- 一方の陽子に含まれるクォークがW+ボソンを放出し、もう一方の陽子に含まれるクォークがW−ボソンを放出。W+とW−が衝突してヒッグス粒子ができる。Wボソンの代わりにZボソン同士が衝突する過程もある。
- 一方の陽子の中のクォークと一方の陽子の中の反クォークが衝突してZボソンが生成され、そのZボソンがヒッグス粒子を放出する。Zボソンの代わりにWボソンが生成されて、というのもある。陽子を構成するのはクォーク三つなのだが、陽子の中はクォーク反クォークの海みたいになっているので、反クォークも含まれている。
1の過程がLHC実験における主たる生成過程であるが、陽子のエネルギーを上げていくと2の過程が起こる確率も大きくなってくる。3は特定の崩壊モードを検出するのに便利だったりする。
検出
クォークやグルーオンのような色荷を持った粒子を単独で取り出すことはできない。加速器でできたクォークやグルーオンは、特定の方向にたくさんのハドロン(クォークや反クォークの結合状態)が飛び出す「ジェット」とよばれる現象として検知される。
LHC実験では陽子同士を衝突させるため、毎回たくさんのジェットが出てくる。ジェットばっかりの事象(一回の衝突を一つの事象、イベントという)が殆どなので、その中にヒッグス粒子が生成された事象があったとしてもノイズに埋もれてしまって見えない。ヒッグス粒子は約6割の確率でボトムクォークと反ボトムクォークに崩壊するが、これはジェットばっかりの事象として観測されるので、この崩壊モードは使えない。ではどうするかというと、ジェット以外のものが出ている事象、具体的には荷電レプトン(いまの場合、電子とミューオンおよびそれらの反粒子を指す)や高エネルギーの光子が生成される事象に注目することで、ヒッグス粒子生成と関係ない事象をごっそり落とす。
Wボソンは荷電レプトンとニュートリノに崩壊することがある。また、Zボソンは荷電レプトンとその反粒子に崩壊することがある。よって、先に挙げたヒッグス粒子の崩壊モードのうち、Wボソン2つ、Zボソン2つ、光子2つのモードは有望そうである。
特に、光子への崩壊では、2つの光子のエネルギーと運動量を計測することで、元のヒッグス粒子の質量を求めることができる。Zボソンへの崩壊も両方のZが荷電レプトンとその反粒子に崩壊する場合も、4つ全てのレプトンのエネルギーと運動量が計れるので、ヒッグス粒子の質量に感度が高い。
Wボソンの場合、崩壊してできたニュートリノは検出器を素通りしてしまうので、もとのヒッグス粒子の質量を直接求めることはできない。だが、どういう運動量の荷電レプトンが検出されるかなどの確率は予言できるので、ヒッグス粒子がないと仮定した場合と比べて、どの質量の範囲にヒッグス粒子が有るか無いかが分かる。
タウも荷電レプトンの仲間なのだが、電子やミューオンと違い、検出器に達する前に崩壊してしまう。タウはニュートリノ2つと電子またはミューオンに崩壊することがあるので、タウと反タウへの崩壊モードも、Wボソンの場合と同じく、ヒッグス粒子の質量を直接は求められない。
先に、ボトムクォークへの崩壊は「使えない」モードだと述べたが、3番の生成過程でできたヒッグス粒子であれば観測できる可能性がある。この生成過程では、ヒッグス粒子と共にZボソン(またはWボソン)ができるので、これが荷電レプトンに崩壊すれば、ジェットばっかりの事象ではなくなる。つまりバックグラウンドがある程度減るのでシグナルが見えてくる可能性がある。
実際にアトラスとCMSはこれらの事象を解析して、126GeVにヒッグス粒子らしき新粒子を発見した。特に光子2つとZボソン2つのモードが新粒子の発見に貢献した。
ヒッグス機構の提唱者
「ヒッグス粒子」は物理学者ピーター・ヒッグス(Peter Higgs)にちなんでそう呼ばれているのだが、ヒッグス機構を提唱したのはヒッグスだけではない。ヒッグスより少し先にロバート・ブラウト(Robert Brout)とフランソワ・アングレール(François Englert)によって提唱されていた。
ヒッグスは彼らの論文を知らずに研究を進め論文を投稿したが、査読者の一人に既に似たような研究があることを知らされて、彼らの論文をリファレンスに加えた。この査読者は南部陽一郎だったことが後に明かされた。ヒッグス機構は南部の「対称性の自発的破れ」の理論に関わりが深い。南部の理論によれば対称性の自発的な破れが起こると、質量ゼロの粒子が存在する。これはジェフリー・ゴールドストーン(Jeffrey Goldstone)によって証明されたのだが、抜け穴があって、質量ゼロの粒子が存在しないような場合もあることを示したのが、ブラウトとアングレールおよびヒッグスの仕事である。
また少し遅れてジェラルド・グラルニック(Gerald Guralnik)、カール・ハーゲン(Carl Hagen)、 トム・キッブル(Tom Kibble)の三人も同じテーマの論文を書いている。ブラウトとアングレール、ヒッグス、グラルニックとハーゲンとキッブルの3論文はいずれも1964年に出版されている。この6人はヒッグス機構の発見者として2010年にJ・J・サクライ賞を受賞した。
2013年、ヒッグス粒子発見によりヒッグス機構が実際に起こっていることが確かめられたとして、アングレールとヒッグスがノーベル物理学賞を受賞した。アングレールの共著者ブラウトは2011年に亡くなっている。
ヒッグス機構を使って電磁力と弱い力が統一できること、言い換えれば現実の世界でヒッグス機構が起こっている可能性があることは、1967年にスティーヴン・ワインバーグ(Steven Weinberg)が、1968年にアブドゥス・サラム(Abdus Salam)が独立に提唱した。
ブラウトとアングレールが最初であるにも関わらずヒッグス機構、ヒッグス粒子と呼ばれるのはワインバーグに原因があるようだ。1967年の論文でワインバーグは、ヒッグスが一番早いと勘違いして、ヒッグス、ブラウトとアングレール、グラルニックとハーゲンとキッブルの順に論文を並べた。以降ワインバーグの論文を読んだ人たちがこの順を踏襲したためヒッグスの名が冠されるようになったのではないかと推測される。
ちなみにヒッグス機構の主眼はWボソンやZボソン(一般的にいえばゲージボソン)が質量を得ることで、我々がヒッグス粒子と呼んでいる質量を持ったスカラー粒子の存在は言わばおまけである。このスカラー粒子の存在に注意を向けているのは、3論文の中ではヒッグスのものだけである。
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新聞報道などで見る「神の粒子」の名はレオン・レーダーマン(実験物理学者。ミューニュートリノ、ボトムクォークの発見で知られる)の本の題に由来する。ガッデム(goddamn)粒子と呼ぼうとしたが編集者に却下された、というのはレーダーマンのジョークなので真に受けてはいけない。
関連項目
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