ヒノデマキバオーとは、「たいようのマキバオー」、および「たいようのマキバオーW」に登場する架空の競走馬であり、本作の主人公である。
高知競馬場・福留厩舎所属。白毛。牡馬。主戦騎手は福留隼人。調教師は福留政親。馬主は一条(下の名前は不明)。
主な勝ち鞍
2007年:高知優駿、ロータスクラウン賞、高知県知事賞
2008年:黒船賞(JpnⅢ)、帝王賞(JpnⅠ)
2009年:ゴドルフィンマイル(GⅡ)、帝王賞(JpnⅠ)、高知県知事賞
2010年:川崎記念(JpnⅠ)、フェブラリーステークス(GⅠ)
概要
父タマブクロス、母マキバコ、母父サンデーサイデンスという血統。
父に関して詳細は不明、名前からして恐らくタマモクロスがモデルかと思われる。母マキバコは、「みどりのマキバオー」で主人公を務めたミドリマキバオーの半妹、秋華賞(GⅠ)馬でミドリマキバオー以上の根性を持つと言われていたが、その気性の荒さゆえに勝てるレースを逃すこともあった。母父サンデーサイデンスは作中でも度々名前のあがる名種牡馬で、カスケードやフィールオーライなどの優秀な産駒を多く残している。こちらはサンデーサイレンスがモデルと思われる。
逃げの戦法を得意としており、特に並んだら抜かせない勝負根性は「周囲からエネルギーを吸っている」と形容されることもある。一方でミドリマキバオーに比べると末脚に劣り、逃げ一辺倒の戦法しか取れず一度抜かされたらそのまま終わってしまうことが弱みであったが、後に多様なトレーニングを経験し、ピッチ走法やミドリマキバオーの主戦騎手、山本菅助が得意としたきつつき戦法、アメリカ遠征をきっかけに編み出したロデオ走法など、様々な戦法を修得し、逃げ一辺倒以外の戦法も取れるようになった。
白い軌跡再び
生い立ちからデビューまで
2004年3月31日、ヒノデマキバオーはマキバコの第四仔として生を受ける。幼少期は周囲から「走るために生まれてきた」と言われるほど走ることが大好きであった。母マキバコは彼に対してネグレクトをしがちで、育児をほっぽりだしパチンコや麻雀に出かけることがしばしばあった。
セレクトセールでは、4000万円という価格で落札された。マキバコの初仔が1億5000万円で落札されたことに比べるとかなり安い金額となったが、これは兄たちが優秀な成績を残せなかったことが影響している。この時、後に無敗の三冠馬となり、ヒノデマキバオーの親友となるフィールオーライも競りに出されており、落札価格も誕生日もヒノデマキバオーと同じであった。
その後、美浦トレセンに入厩するも脚部不安により、中央でのデビューを断念、高知競馬に移籍することとなった。移籍直後は、小柄なヒノデマキバオーに乗れる騎手がおらずデビューも難しかったが、ここでヒノデマキバオーは相棒となる福留隼人と運命的な出会いをする。隼人は高知競馬所属の騎手の中で一番の長身で小柄なヒノデマキバオーに騎乗するのは困難かと思われた。しかし、隼人は並々ならぬ特訓により、ついにヒノデマキバオーへの騎乗し、ヒノデマキバオーは見事デビューを果たした。
太陽は昇る(2007年)
2007年にデビューしたヒノデマキバオーだったが、初戦は敗走、それから11戦まで勝利から見放されることとなった。福留厩舎の窮乏により休む間もなく出走するうえ脚部不安もあり、全力で走れないレースが続いた。一方その見た目からアイドル的な人気を集め、当時経営難に陥っていた高知競馬にとっては良い客寄せとなっていた。
実況「ふんばれるかマキバオー ゴールはそこだ ゴールはそこだ
マキバオーふんばった もう間違いない!!
ヒノデだヒノデだ もう夜は明けた!!明けましておめでとうございます」
そして、12戦目、客から隼人を馬鹿にされたヒノデマキバオーは彼らを見返すため、これまでセーブしてきた全力を解放、最終直線では脚部への負担を心配し静止する隼人の声も聞かず走り続け、ついに念願の初勝利を掴む。
が、その代償として屈腱炎を発症する。当初は休養に専念し高知優駿に出走させることが計画されていたが、高知競馬の経営を支えるため屈腱炎が治りきらないうちに再び連闘の日々に戻ってしまう。
全力で走りたくても走れない、そんな日々に涙を流すヒノデマキバオー。しかし、想いのうちを隼人に打ち明けたことで、全力で走るために赤字覚悟で本格的な休養に入る。そして休養後、ろくな調教もできなかったにもかかわらず高知優駿を勝利、ここからヒノデマキバオーは大きく成長していく。ちなみに、この高知優駿での勝利の後、とある理由により北海道を訪れたが、この時日本ダービー後休養に入っていたフィールオーライとの出会っている。
その後、数戦をはさみ、佐賀のロータスクラウン賞を勝利しダービーグランプリ(JpnⅠ)への出走権を獲得、ダービーグランプリでは、プレミアムタイムが勝利するもヒノデマキバオーは地方馬最先着、かつ、2着3着とは差のないの4着となる。レース後屈腱炎が再発、休養を挟んだ後、東京大賞典(JpnⅠ)に出走する。このレースには、後にヒノデマキバオー含め三強と呼ばれることになる、アマゾンスピリット、ブロックバスターが出走していた。レース中は得意の逃げを図るも、終始アマゾンスピリットにマークされ、最終直線ではまっすぐ走れない程ふらつく。それでも、持ち前の根性でゴール近くまで食らいつき、結果として8着に終わったが、終始レースを引っ張り続けたその走りに地元ファンは歓喜し、年末の高知県知事賞では多くのマスコミが取材のため高知競馬場を訪れ、観客席が埋まるほどの客入りがあった。レース本番では東京大賞典から休養も挟んでいない状況での出走にも拘らず勝利を果たす。
月じゃなくて、自ら輝く太陽へ(2008年)
新年を迎えたヒノデマキバオーだったが、フィールオーライの故障と引退を知り、単身北海道に向かい、フィールオーライの元を訪れ、「引退したくない、もっと走りたい」というフィールオーライの願いを聞き入れ彼の家出に協力、彼を連れ高知へと帰る。
高知で一戦走り勝利した後、佐賀記念(JpnⅢ)へ出走することとなる。当初は川崎記念(JpnⅠ)を目指していたが、まだ、GⅠ級クラスの競走馬と戦うレベルにないことを理由に佐賀記念へと向かうこととなった。このレースでは砂のカスケードと称されるトータルケイオス、ロータスクラウン賞で競い合ったフラットビッキーら佐賀所属馬と対決することとなった。フィールオーライのアドバイスによって修得した、直線ではストライド、コーナーではピッチの二つを使い分ける走法によりレースを有利に進めるが、追い込みに目覚めたトータルケイオスとフラットビッキーに差され3着に終わる。
次走の黒船賞(JpnⅢ)では、最後直線でグラインドハウス、キックザパストらに差されるも福留隼人が偶然にもきつつき戦法を繰り出したことで他馬を差し返し、地元高知で初のダートグレード競争を勝利した。
次走のかきつばた記念(JpnⅢ)では、出遅れによって不利な展開になるも、きつつき戦法によりキングアナコンダの2着に入る。その後、フィールオーライとの縁により、栗東トレセンでのトレーニングを受けることとなった。プール調教や坂路などによって脚部不安を気にすることなく調教をメキメキと成長を遂げたヒノデマキバオーは、帝王賞(JpnⅠ)に出走。同年のかしわ記念(JpnⅠ)を勝利したトータルケイオス、GⅠ級7勝をあげ同年のフェブラリーステークス(G1)を制したマウンテンロック、他にもプレミアムタイムやキングアナコンダなど並みいる強豪が出走するレースで、ヒノデマキバオーはピッチ走法に、きつつき戦法など、これまで積み重ねてきたすべてを出し切り、ついに念願のGⅠ級レースを制覇した。その後、ヒノデマキバオーは日本テレビ杯(JpnⅡ)を経て、マイルCS南部杯(JpnⅠ)、JBCクラシック(JpnⅠ)、ジャパンカップダート(GⅠ)、東京大賞典を制覇する計画が立てられていたが…。
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ここから先は、たいようのマキバオーの『重大な』ネタバレ成分を含んでいます。 たいようのマキバオーをこれから読む予定の方、今現在読み進めている方は読むことをおすすめしません。ネタバレ覚悟の方は詳細を表示をクリックしてください。 |
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フィールオーライはフォア賞(GⅡ)で故障、そのまま予後不良となる。元々引退する身だった彼を復帰させたヒノデマキバオーは一部のマスコミやファンからのバッシングにあい、自身も責任を感じ走ることへの気力を失ってしまう。日テレ杯への出走は取り消され、南部杯では9着と惨敗する。その後、本田リッチトレーニングセンターに入り、元ミドリマキバオーの調教師でセンター長の飯富昌虎のしごきによって再び走る気力を取り戻す。その後、ジャパンカップダートではブロックバスターの4着、東京大賞典ではアマゾンスピリットとブロックバスターとの壮絶な叩き合いの末、ブロックバスターの2着に終わった。
その後、高知県知事賞に出走するも、船橋から移籍してきたグランドコブラの2着に敗れた。
日本から世界へ(2009年)
2009年の初レースはフェブラリーステークス。昨年の東京大賞典で先着したアマゾンスピリット、牝馬にして日本ダービー、ジャパンカップ、有馬記念を制したファムファタールが出走したこのレースで、ヒノデマキバオーはファムファタールとの先行争いを繰り広げる。ファムファタールにハナを奪われたうえ、最終直線ではドバイからの刺客アテチトカックに出し抜かれ、さらにアマゾンスピリットの鬼脚にも差された。それでも必死に猛追するもアマゾンスピリットの2着に敗れる。
次走は黒船賞への出走を予定していたが滑り込む形でドバイワールドカップデーのレースの一つ、ゴドルフィンマイル(GⅡ)への招待を受ける。しかし、福留隼人が諸事情によりドバイ入りが遅れることになったうえ、ドバイ入り後、不調続きのため山本菅助に乗り替わることとなった。隼人らからヒノデマキバオーには負傷による乗り替わりと誤魔化されるが、出走直前に真実を知り、菅助が鞍上でレースを好走したら隼人が主戦騎手から降ろされるのでは、という不安に苛まれレースでは腑抜けた走りをしてしまう。しかし、山本菅助の叱咤により、ここで手を抜くことは隼人や政親を裏切ることだと理解したヒノデマキバオーは最終直線で根性任せのものすごい上がりを見せ、見事初の海外重賞を制覇した。
帰国後は帝王賞連覇へと向けて調教を受ける。ドバイの後、隼人がモンゴルで修行を行っており、山本菅助も他馬にかかりきりのため乗り役がいなかったが、外人騎手ハグワール・フェルナンデスが来日し、帝王賞は彼に騎乗してもらうこととなった。しかし、この乗り替わりはハグワールが中央の短期免許を取得するまでの間のことだったため、帝王賞に彼を乗せるプランは破綻、隼人が修行から帰ってきたことで何とか出走することができた。帝王賞では、前走の東海ステークス(GⅡ)でブロックバスターに勝利したハグワール鞍上のプレミアムタイムとの一騎打ちとなり、隼人の巧みな騎乗もあって帝王賞連覇を果たした。
その後、BCクラシック(GⅠ)への出走を決める。レース前にロデオ大会に飛び入り参加し、その疲労により調整をあまり受けられなかったというトラブルはあったが、レースまでになんとか疲労を抜くことはできた。凱旋門賞(GⅠ)3着で怪物と呼ばれるムスターヴェルクや三歳馬にして1200ポンドもあるジャガーノートなどの強者が出走するこのレースでは、ムスターヴェルク、ジャガーノートとの熾烈な先行争いを繰り広げ、最終直線では持ち前の勝負根性をすかされたこともあり途中で失速、それでも5着に入った。
その後、ジャパンカップダート、東京大賞典へは出走せず、年末の高知県知事賞を2年ぶりに制覇し2009年を終えた。
2009年のヒノデマキバオーは、ドバイやアメリカに遠征し、フェブラリーステークスから帝王賞まで連対を続け、まさに飛躍の年といえたが、一方で、これまで何十戦と走ってきたことにより、かつてのような気力はそがれ、彼の中に昇っていた陽は沈みつつあった。
最後の挑戦、そして日の入へ(2010年)
2010年初戦の川崎記念(JpnⅠ)はトータルケイオスやラピッドライダーらの強豪が出走していたが、もはやこのクラスの競走馬ではヒノデマキバオーの相手にならず、ヒノデマキバオーは川崎記念を制覇する。しかし、ゴール直前にバランスを崩してしまいゴール直後に隼人が落馬、不安の残るレースとなった。
その後、この悪癖を治すため本田リッチトレーニングセンターに入る。カスケードからのコーチを受け、バランスを崩した原因が、アメリカ遠征後から行ってきたロデオ風の調教だと判明、前著句を出すとバランスを崩してしまうようになっていたが、力そのものは高まっていたため、むしろこのロデオのような走り、ロデオ走法を乗りこなすための特訓が行われた。この特訓の間、ヒノデマキバオーは凱旋門賞への出走を決め、失っていた闘志を再び取り戻した。
次走のフェブラリーステークスは打倒アマゾンスピリット、ブロックバスターを目指し、引退をかける覚悟で臨んだ。多くのGⅠ級制覇経験のある競走馬が出走する非常にレベルの高いレースとなった。序盤はジオ―ハチマンが出遅れ、ハナはキングアナコンダに譲り番手での競馬となる。3コーナー付近でブロックバスターが迫り、最終直線直前できつつき戦法に移るも、ブロックバスターの底力を前に差し返され、予定より早くロデオ走法を繰り出し先頭に躍り出る。しかし、アマゾンスピリットの鬼脚がさく裂しブロックバスター共々差される事態に、ここで隼人からの叱咤を受けヒノデマキバオーは全力のロデオ走法を発揮、アマゾンスピリットを差し返し、途中、隼人が落馬しかけるも何とかゴールに滑り込み、見事初中央GⅠ制覇を果たした。
次走はドバイワールドカップ(GⅠ)、凱旋門賞を目指すためにドバイシーマクラシック(GⅠ)への出走も考えられたが、昨年の凱旋門賞馬ベンダパール、BCクラシック馬ムスターヴェルクが出走するドバイワールドカップに出走することとなった。特にムスターヴェルクには、ハグワールが鞍上となり、ムスターヴェルクが発揮しきれたなかったその実力を発揮することが予想されていた。レース本番で逃げに出たヒノデマキバオーは、アテチトカックやプロイアリオンにせられるが、ここで大逃げを図り、一気に後続から大きな差を作った。そして、迎えた最終直線ではアテチトカック、プロイアリオンとの叩き合いの後、ベンダパール、ムスターヴェルクに差されるも、ロデオ走法に移りベンダパールを差し返す。そして、ムスターヴェルクをも一時的に差し返すが、全力には届かず、途中で力尽きゴール目前で隼人が落馬、競争中止となった。
凱旋門賞に向け、初の芝レースである宝塚記念(GⅠ)へ出走することとなった。宝塚記念に向けた調教で皐月、ダービーを制した二冠馬で、同じく凱旋門賞を目指すダイナスティとも知り合う。レース本番では3コーナー手前でロングスパートを図り、最終直線に移るも、得意のきつつき戦法をゴールギリギリまで出さず3着に、もっと早くきつつき戦法を出していれば勝てたといわれ、ファンからも隼人の騎乗ミスと非難されるも、これは元々脚部不安のあったヒノデマキバオーの負担を少しでも軽くするため、あえてきつつき戦法を使わないという隼人の考え合ってのことだった(それでも、ヒノデマキバオーが行きたがったため最後で使ってしまった)。きつつきを出さず3着に入ったその実力に今後を期待されるも、レース直後に屈腱炎を発症、およそ1か月の休養に入る。
夏の間は高知で休養することとなったが、休養を兼ねてダイナスティも高知で過ごした。休養後、本田リッチトレーニングセンターへと入るが、軽く調教を行っただけで、炎症の兆候が出るほど脚部不安が悪化していた。そのため、凱旋門賞に出走する前に引退することも考えられたが、隼人の懇願によって予定通り凱旋門賞に出走することとなり、細心の注意を払い調教が行われた。
そして迎えた凱旋門賞。最終直線でダイナスティ、ムスターヴェルク、ベンダパールとの壮絶な叩き合いの中、故障をも省みない全力の走りによって抜き出し、負けじとダイナスティも抜き出すが、ここでヒノデマキバオーは力尽き、ダイナスティへとバトンを渡す形で失速し、最後は4着でレースを終える。勝利することは叶わなかったものの、競走馬人生のすべてを出し切ったヒノデマキバオーのその表情は非常に満ち足りていた。
福留政親「…ようやった…
まっことようやったな…おつかれさん…ゆっくり休め…
おつかれさん」
実績
作中で判明しているだけで戦績は、49戦19勝、うち中央4戦1勝、海外4戦1勝、GⅠ級は計4勝。地方馬、特に高知所属馬がこれほどまでの戦績を残したことはまさに奇跡としか言いようがない(ただし、高知ではなく栗東トレセンや本田リッチトレーニングセンターで調教を受けたこともあるため、一部の者からは「マキバオーは中央の馬になった」「名義上は高知所属馬だが中央馬」と言われることもあった)。
関連動画
ヒノデマキバオーに関するニコニコ動画の動画を紹介してください。
関連静画
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関連項目
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