ヒムヤー(Himyar)とは、1875年アメリカ合衆国生まれのサラブレッド。鹿毛の競走馬、種牡馬。
現在まで150年近くにわたって滅亡の危機にあり続けているアメリカの傍流血統・ヒムヤー系の父祖。
出自
父は9戦6勝のAlarmで、マイル以下なら打倒不能と言われたアメリカ初期の名スプリンター。ヒムヤーはその初年度産駒。父父はEclipse II[1]。タッチストーン系の種牡馬。
母父は北米リーディングに付くこと16回の大種牡馬Lexington。
母の名ヒラからの連想で古代アラビアのヒムヤル王国に因み命名された。[2]
競走馬時代
2歳になった1877年にデビュー。ケンタッキー州レキシントンを中心に活躍し、最優秀2歳牡馬に選出。
3歳にも3つのステークスを勝ち、ケンタッキーダービーもデイスターの2着に入っている。
その後、6歳まで走ったが、足を故障したことで引退。
種牡馬時代
故郷のディキシアナ牧場へ戻って種牡馬として活動した。彼自身の勝ち鞍は2マイルのものもあったが、父Alarmの影響もありスピードのある血統と見做されていたようである。結果的に産駒からは15頭のステークスウィナーが誕生。
特筆すべき産駒としては、マイル以下の短距離で無敵を誇り「黒い旋風」と呼ばれた1891年産のドミノ(Domino)と、ケンタッキーダービーを勝った1895年産のプローディト(Plaudit)がいる。特に、ドミノが2歳時に稼いだ17万ドル以上の賞金額によって、1893年北米リーディングサイアーについた。
オーナーの負債の為1897年に売却された。1905年12月30日死亡。墓には"From his ashes speed springs eternal."と刻まれた。
ヒムヤー系滅ぶ滅ぶ詐欺150年史
競走馬としても種牡馬としても優秀であったといえるヒムヤーだったが、その系統は100年以上の長きにわたり、途絶の危機と傍系からの復活の繰り返しであった。
ヒムヤー系最初の危機は最大の産駒ドミノが6歳、種牡馬入り2年目にして死亡したことであった。ドミノは同じ牧場内の牝馬にしか種付けしていなかったこともあって、産駒は僅か20頭しかいなかった。しかし、この20頭の中から、英国三冠馬ダイヤモンドジュビリーを撃破したディスガイズ(Disguise)、1901年ベルモントステークス勝馬コマンド(Commando)、北米産史上初の英オークス勝馬キャップアンドベルズ(Cap and Bells)など8頭のステークス勝馬が登場した。
ドミノ産駒は騸馬も多かったが、最大の産駒コマンドが種牡馬入りしてその血を繋いだ。ところが、そのコマンドも7歳にして死亡し、産駒も4世代27頭しかいなかった。しかしその内出走馬19頭、そのうち勝ち馬は16頭、ステークスウィナーは10頭。15戦不敗のコリン(Colin)、ベルモントステークス勝馬ピーターパン(Peter Pan I)、ケルト(Celt) などを輩出し、1907年の北米リーディングサイアーに輝く。
ピーターパンや未出走ながら種牡馬入りしたアルティマス (Ultimus)が活躍し、前者はピーターパン系と呼ばれるまでに父系を発展させ、後者も1928年北米リーディングサイアーのハイタイム(High time)を輩出し、ヒムヤー系も安定したかに思えた。しかし、1942年の北米リーディングに就いたエクイポイズ(Equipoise)の早世などもあって、20世紀後半に入る頃には再び衰退に入っていった。
ピーターパン系、ひいてはドミノ系が衰退する中、細々と繋がっていたもう片方のプローディトの系譜上にいた1951年サンタアニタダービー勝馬ラフンタンブル(Rough'n Tumble)の産駒から、「米国史上最強の短距離馬」と称されるドクターフェイガー(Dr. Fager)が登場。1966年から68年にかけて、重斤量下でレコードを連発しつつ米国年度表彰4部門を受賞して種牡馬入り。1976年の北米リーディングサイアーに輝くなどしたが、その前年に12歳で死亡してしまい、こちらも父系を発展させることはできなかった。
一方、ピーターパン系の衰退の傍らで、同じドミノ系のコリンの系譜は1942年のプリークネスステークス勝馬アルサブ(Alsab)が出たぐらいでごく細々と繋がっていたのだが、そこに突如として1971年のエクリプス賞初代年度代表馬アックアック(Ack Ack)が登場。その産駒ブロードブラッシュ (Broad Brush)がGIを4勝して種牡馬入りすると、80%以上の産駒勝ち上がり率を記録し、1994年北米リーディングサイアーに就くなどして、父系存続に貢献。日本にもノボトゥルー、ブロードアピールなどが輸入された。
しかしこれで一安心、とならないのが馬産であり、ブロードブラッシュの代表産駒コンサーン(Concern)が種牡馬として失敗したため、ドミノ系は再び衰退へ。辛うじて繋いでいたインクルード(Inculde)が2021年で種牡馬引退し、アメリカ国内でのドミノ系存続はほぼ絶望的な状況になっている。一応、アルゼンチンとかに産駒はいるらしいけど……。
ではドクターフェイガーが早世してしまったプローディト系のラフンタンブルの方はというと、別の地味な産駒ミネソタマック(Minnesota Mac)の仔グレートアバヴ(Great Above)の産駒から、ネアルコフリー(!?)の1994年エクリプス賞年度代表馬ホーリーブル(Holy Bull)が登場。
その産駒マッチョウノ(Macho Uno)が2000年のBCジュヴェナイル勝利などで種牡馬入りし、2013年のBCクラシックを制したムーチョマッチョマン(Mucho Macho Man)などそれなりに活躍馬を輩出。やったぜ! だが、ムーチョマッチョマンから有力な後継種牡馬が出ずに再び衰退へ……。
…と思っていたら、日本へ輸出されたマッチョウノ産駒ダノンレジェンドが2023年から地方の短距離ダートで驚異的な勝ち上がり率と重賞勝ちを記録、2024年には249頭もの牝馬を集めた。現在世界で最も牝馬を集めている種牡馬は日本のダノンレジェンドとなっている、ヒムヤー系の明日ははたして。
とまあ、ヒムヤー自身の受胎率もアレだったそうで、それも含めて150年近く滅亡の危機にある傍流系譜がヒムヤー系である。ちなみに現代の主流である父系の祖ネアルコがイタリアの生まれであることもあり、現代に繋がる父系で一国内でつながっていたサラブレッドの父系としては最長級である。
現代のサラブレッドは非ネアルコ系のミスタープロスペクター系を含めてほとんどがネアルコの祖父ファラリスの直系子孫だが、ヒムヤー系はファラリスの4代父ベンドアどころかベンドアの4代父バードキャッチャーまで遡っても合流せず、ファラリスの10代父(ヒムヤーから見ると6代父)のホエールボーン(Whalebone)まで遡ってようやく現代の主流血統と合流する。なんとポテイトーズの孫まで遡らないといけない。21世紀まで残っているダーレーアラビアン系でこれ以上に遡らないといけないのは、それこそセントサイモンの直系ぐらい。150年という歴史の長さを感じさせる話である。
なお、ドミノ、コマンド、ドクターフェイガーのせいで短命の印象もあるヒムヤー系だが、前述の通りヒムヤー自身は30歳まで長生きしており、別に短命血統というわけではない。
血統表
関連リンク
- 5代血統表|血統情報|Himyar(USA)|JBISサーチ(JBIS-Search)
- Himyar | 競走馬データ - netkeiba
- 父系馬鹿:ヒムヤー系 - サイアーラインで辿る日本競馬2023 - livedoor Blog(ブログ)
- Himyar (horse) - American Classic Pedigrees
関連項目
Himyar 1875
|Domino 1891
||Commando 1898
|||Peter Pan 1904
||||Black Toney 1911
|||||Balladier 1932
||||||Spy Song 1943
|||||||Crimson Satan 1959
||||||||*スカーレットインク 1971
|||Colin 1905
||||Neddie 1926
|||||Good Goods 1931
||||||Alsab 1939
|||||||Armageddon 1949
||||||||Battle Joined 1959
|||||||||Ack Ack 1966
||||||||||Broad Brush 1983
|||||||||||*ブロードアピール 1994
|||||||||||*ノボトゥルー 1996
|Plaudit 1895
||King James 1905
|||Spur 1913
||||Sting 1921
|||||Questionnaire 1927
||||||Free for All 1942
|||||||Rough'n Tumble 1948
||||||||Dr. Fager 1964
||||||||Minnesota Mac 1964
|||||||||Great Above 1972
||||||||||Holy Bull 1991
|||||||||||Macho Uno 1998
||||||||||||Mucho Macho Man 2008
||||||||||||*ダノンレジェンド 2010
|||||||||||||ハッピーマン 2022
脚注
- *"Eclipse first, the rest nowhere."ではないほう。
- *別の説に、牧場主がスタッフに当歳の一番いい馬を聞いたとき、"Him, yar."(彼、です)と返したことが由来とする説がある。
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