ビスマルク(戦艦)とは、第二次世界大戦中のドイツの戦艦である。
概要
第二次世界大戦中のドイツ最大の戦艦。艦名はドイツの鉄血宰相オットー・フォン・ビスマルクにちなんだもの。
就役は1940年8月、イギリス海軍との戦闘により沈没したのが1941年5月。
本艦がビスマルク級戦艦のネームシップであり、二番艦はティルピッツ。
設計
ビスマルクの設計は第一次大戦時のドイツの戦艦バイエルン級のものが流用された。
もちろん排水量の増加などの再設計は施されているものの、改良が施されていない部分も存在していた。特に、遠距離砲撃戦における防御力の上昇が徹底されていなかった点がよく取り上げられる(当時は戦艦の巨大化、艦載砲の巨大化により遠距離砲撃戦が起こりやすかった)。
これはドイツが第一次世界大戦の敗戦国として持たなくてはいけなかったハンディや、急ぎ海軍力を復活させなければならない事情、そもそもが陸軍国だったということなどが原因である。
ライン演習作戦~沈没
1941年5月にライン演習作戦に参加。この作戦の目的はイギリスの補給を断つこと。つまり、輸送船団の撃破、通商破壊である。参加した艦はビスマルクと重巡洋艦プリンツ・オイゲンの2隻。戦艦のシャルンホルストとグナイゼナウも参加する予定だったが、それぞれ機関の故障と空爆による損傷によって動けなかった。艦長はエルンスト・リンデマン大佐。艦隊司令はリュッチェンス提督だった。2隻の任務は、三ヶ月の予定で、英国の海上交通(シーレーン)を一掃すること。主に北部及び中部大西洋のイギリスの補給線を攻撃する。もしも敵艦隊に発見されたら、これを突破しスピードで振り切って逃げるというものであった。
だが、行動開始後の5月23日に早くもこの動きはイギリス側に察知され、デンマーク海峡海戦が起こることになる。この海戦において、相手がプリンツ・オイゲンと自分を誤認するという幸運にも恵まれたビスマルクはイギリスの巡洋戦艦フッドを撃沈、同じくイギリスの戦艦プリンス・オブ・ウェールズを艦橋への直撃をさせるなどして中破させた。しかし、このことによってイギリスの怒りを買ってしまい、イギリス海軍は投入できるほとんどの艦船を投入して、ビスマルクの追撃に当たった。
あるいはこの時点でプリンス・オブ・ウェールズに止めを刺して近くのフランスの基地へと引き上げていれば、ビスマルクは命を永らえたかもしれないが、これは結果論に過ぎない。現にビスマルクは、プリンス・オブ・ウェールズをキングジョージ5世だと思いこんでいたため、背後にイギリス艦隊の主力が控えていることを恐れて追撃を止めたという説もある。また、プリンス・オブ・ウェールズを仕留めることで良しとした艦長のリンデマン大佐に対して、艦隊司令であるリュッチェンス提督はあくまでも戦略目標である通商破壊の成功にこだわったとも言われる。結局、ビスマルクはフランスのサン・ナゼール港を目指した。
デンマーク海峡海戦の時点からビスマルクを追跡していた重巡洋艦ノーフォークは体制を立て直したプリンス・オブ・ウェールズと共に追跡を続けた。しかし、ウェールズはまもなく燃料切れもあって離脱。そして、戦艦キングジョージ5世、ロドニーら主力艦隊も追跡を開始した。今度は空母ヴィクトリアスから雷撃機が発進、プリンツ・オイゲンと別れて今度はブレスト港を目指し単独行動に移っていたビスマルクを捕捉したが、有効打は与えられず、一旦イギリス側はビスマルクを見失う。イギリス側はビスマルクの発信する電波から位置を割り出そうとしたが、これは明後日の方向を指示することになり、ロドニーらは北へと迷走してしまう。これでビスマルクに運が向いてきたかに思われたが…。
今度は沿岸警備隊のカタリナ飛行艇がビスマルクを発見。南側から追跡してきた巡洋戦艦レナウン、空母アーク・ロイヤルの部隊が雷撃機による攻撃をかけた。途中で友軍の軽巡洋艦シェフィールドを誤って攻撃してしまうというトラブルもあったが、このときは磁気魚雷が早発して事なきを得る。しかも、これで雷撃機の魚雷を有効なものに取り替えることが出来たというケガの功名もあった。再び攻撃が加えられ、わずか2本だが命中が得られた。このうち一本がビスマルクの舵を破壊。戦いの運命を決することになる。
もはや数ノットしか出せず、真っ直ぐ進むことすらままならなくなったビスマルク。もはやこれまでと覚悟したリュッチェンス提督は海軍本部に辞世のメッセージを打電した。その夜は駆逐艦コサックらとの戦闘をどうにかくぐり抜けたが、夜が明け、ついに、キングジョージ5世、ロドニーら主力艦隊はいよいよフッドのかたきを討つべく殺到することになった。
この追撃戦の結果、ビスマルクは戦闘能力を喪失、自沈することになる(重巡洋艦ドーセットシャーの雷撃が止めになったとの見方もある)のだが、その際は数百発に及ぶ砲弾の直撃と数本の魚雷を身に受けてなお沈まないという状況だった。これは、イギリス側が最終的に3000メートルという異様な近距離まで接近した結果、俯角の付いた砲弾の多くが命中する前に海面を叩いたことや、その時までに左舷に傾斜していたビスマルクの側面が当たりにくくなり、浮力が失われなかったことが原因と考えられている。
5月27日午前11時、ついにビスマルクは左に傾き、軍艦旗をひるがえしたまま海中へ没した。艦長のリンデマン大佐は従容と最期を受け入れ、艦首の軍艦旗ポストにつかまったまま艦と運命を共にした。2,000人あまりの乗組員のうち、救助されたのはわずか110名だったという。
ビスマルクとドイツ海軍
そもそも陸軍国であるドイツは海軍に関してはどうしてもイギリスに一歩劣った。また、第一次世界大戦の敗戦国であるために様々な制約が科され、軍艦の建造競争にも参加することができなかった。海軍増強計画は存在していたものの世界大戦の勃発に伴いそれも停止され、大規模艦隊をもつことさえできなかった。ビスマルクと、その二番艦となったティルピッツは計画停止ギリギリで完成した艦であり、ドイツ海軍が持つことができた数少ない大型の戦艦だった。
そのような状況で優勢な海軍戦力を持つイギリス海軍と正面切って海戦を行うのはドイツとしても避けたいところであった。したがって、第一次世界大戦と同じくドイツは潜水艦を利用した通商破壊を海軍の軸とするしかなかった。
この影響は水上艦船にも及び、ビスマルクが最大の戦果を上げ、沈没したライン演習作戦も通商破壊の一環として行なわれたものである。イギリス海軍との三昼夜にわたる追いかけっこは結果的にそうなっただけで、ドイツ海軍の本来の目的とは異なったものということになる。
まとめていうならば、ドイツ海軍は準備不足過ぎた。その中でビスマルクはいくらかの運と乗員の踏ん張りによって多大な戦果を上げることができたまれな戦艦といえる。
イギリス艦隊の指揮を執った本国艦隊司令長官のトーベイ提督は「ビスマルクは、かつてのドイツ帝国海軍を彷彿とさせる戦い振りを見せた。絶対的不利な状況の中で、終始敢然と戦い、ドイツ軍艦の誇りである軍艦旗と共に沈んでいった」と賛辞を送ったという。
海底のビスマルク
沈没したビスマルクは1989年に発見された。のちにタイタニックで有名な映画監督ジェームズ・キャメロンはこの海底の戦艦の映像を使って番組を作製した。
余談:U-556とビスマルク
実は、ビスマルクを追跡中の巡洋戦艦レナウンと空母アーク・ロイヤルはドイツ軍のUボート、U-556に捕捉されていた。歴史にタラレバを語るのは不毛かも知れないが、U-556が魚雷を撃とうと思えばできる位置取りの状態であり、もし撃てればビスマルクの運命を大きく変えていたかも知れなかった。しかし、U-556はすでに通商破壊戦で魚雷を撃ち尽くしており、友軍に位置を知らせることが関の山だった。
U-556艦長のヴォールファールト少佐は1940年に同艦を受領。その際に就役のセレモニーを行おうとしたが、ファンファーレを演奏する楽団を呼ぶ金がなかった。当時のドイツ海軍では既に戦争状態なので、予算が逼迫し、いち小艦艇に過ぎないUボートでは艦長が自腹でセレモニーを行うしかなかったのである。
その時、隣のドックにいたビスマルクの艦長、リンデマン大佐の好意で、同艦の軍楽隊を貸し出してもらえた。もちろん謝礼の持ち合わせなどなかった少佐は、U-556が敵を撃退して自らビスマルクを曳航しているというイラストを描いた養子縁組届けをリンデマン大佐に送り、U-556がビスマルクの親代わりとなり、必ず守ることを誓うと約束したのである。その約束は果たされることはなかったのだ…。
なお、後にU-556も敵に撃沈されることになるが、ヴォールファールト艦長は捕虜となって生き残り、戦後も長く健在だったという。
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