ビルマの戦い(太平洋戦争)単語

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ビルマの戦い(太平洋戦争)とは、太平洋戦争の一環として、ビルマにおいて1942-5年に日本イギリスとの間で行われた戦いである。

シュエダゴン・パゴダ

船団はラングーンをし大きなを上っていく。前方のの上に色にを発見した。「あれがパゴダだ」…船から見えた大きなパゴダは、シェダゴンパゴダといって、ビルマで一番立で有名なものである。このパゴダは近くに来て見上げると実に大きく素晴らしいものでを見った(ビルマ最前線より)
概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

概要

 ビルマは人口1700万(うちビルマ1000万)の農業だったが、鉱物は豊富で、イラワジ沿いにエナンジョン油田があり、世界生産の3分の1とされるカレン丘陵モチタングステン鉱山もあった。大河が南北に流れ、インドとはチン丘陵とチンドウィンを越えて細いがあるのみ、中国とは昆明からビルマ国までビルマ路でつながれていた。1200キロ、5日の行程である。
 四方を山に囲まれ、多くの丘陵は標高900m前後だが、チン丘陵は2400m、インドのナガ丘陵は3650mに達する。このインド中国タイ側の3方は高い山岳にのように囲まれている。小さな町と集落が多く、大都市といえるのはラングーンとマンダレー位のものである。
 イギリス1824年より、側より領土を広げ、1886年イギリスに併合された。自治政府1932年に初めてビルマに許された。1937年にインドからビルマは分離された。しかしビルマ国内の油田や資イギリスインド中国資本でビルマ人に経済の支配権はなく、ビルマ防衛軍もビルマのものではなかった。1939年ビルマ軍は、カレン族、チン族、カチン族などの高地民族3197名に対してビルマ人は472名であった。

  英国「いざというときビルマ人に向けなければならないはずの軍隊を、同じビルマ人で構成するのは不用心である」。

 当然ビルマ人はこれに満足することなく、特にラングーン大学学生WW1後に反抗的になり、1930年と38年に反英、反インドの暴動がおこった。皮にも、インドから分離後の最初の首相バー・モウはラングーン大学学生の要拒否するになった。しかし彼は内心穏やかでなく、ビルマ人の民族義を反英の武器に使えるとみて近づいてきた日本工作員に喜んで接触した。1940年8月バー・モウは治安罪で捕まり、タキン党の若い導者アウン・サンは日本の援助を受けるを固めた。409月ビルマを脱出し鈴木大佐により日本へ逃れ、日本軍の下で過酷な訓練を始めた。4111月3代首相ウ・ソーはロンドンにてチャーチルと会談を行ったが、漠然とした自由待遇のほかは何も得られず、対独戦に忙殺されている現在憲法問題に触れることも拒絶された。12月8日ハワイに来ていたウ・ソーは、アメリカ太平洋艦隊が日本に撃滅される様を撃した。ウ・ソーはポルトガルまで戻り、ついに日本領事に接触した、しかし英官により逮捕されてしまった。首相だけでなく、過激派の各学生も、日本人によって活発な訓練を受けていた。ビルマでは、イギリス軍が首都ラングーンからビルマインド地を構築していた。これは中国国民党への援ルートの一つであった。アウン・サンはバンコクビルマ独立義勇軍を創設しビルマ侵攻に日本軍と共同した。

英印軍について

イギリス軍におけるインド師団はおよそ3分の2のインド兵と3分の1の英国兵からなる。一歩兵師団は3個歩兵団、砲兵3~4個連隊を基幹とし、歩兵団は三個大隊からなる。例えばインド17師団第48団は、白人の第1ウェストヨークシャー連隊、インド人の4/1フロンティアフォース大隊(第1フロンティアフォース連隊第4大隊と呼称する)、およびグルカ兵の1/7グルカ大隊からなる。またウェストヨークシャーは名前は連隊であるが実質は大隊である。兵員は団で約2500~2700、大隊で700~800である。このほか、ビルマ戦に参加した師団として純英国人からなる英第2師団、東アフリカ兵を体とする東アフリカ師団などがある。英空軍航空群(Group)は数個の飛行大隊(Wing)からなり、飛行大隊は数個の中隊(Squadron)からなる。当時の英空軍では飛行中隊は戦闘機爆撃機を問わず12機だった。

日本軍のビルマ制圧

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

日本軍ビルマ侵攻開始

日本軍のビルマ制圧

ラングーン(現在のヤンゴン)

 ビルマの英空軍は、1941年4月221グループとして編成され、部をラングーンに構えていた。英防衛計画では、ビルマでは最低280機を必要とすると明記されていたにもかかわらず、同年末ビルマで使用できる第一線機は、バッファロー戦闘機16機と、同数の義勇軍のカースP40合わせて32(WOP(英ビルマ空軍戦史)の数字、RAF(英空軍戦史)では37機)に過ぎなかった。そのうえ、急遽建設した7つの飛行場があったが、新飛行場の防設備は貧弱で、高射砲はなく警組織は欠陥だらけだった。全ビルマレーダーは、ラングーンに1基あるだけだった。
 1941年12月23日日本航空部隊による初めてのラングーン爆が、戦闘機30機に護衛された80機の爆撃機により実施され、菅原第三飛行集団長は、第七飛行団と第十飛行団の97式軽爆27,97式重爆60,97戦闘機30偵察機5機)をもって、ラングーン地区の重要軍事標に対し爆撃を敢行した。次いで25日さらに大規模(軽爆27、重爆71戦闘機57の攻撃を実施した。そして物しげにこの襲を見ていた民衆に、多くの死傷者が出たといわれる。
 連合軍の地の反撃は熾で、2回に及ぶこの作戦で、日本軍機の損は、戦士書「ビルマ攻略作戦」によると、重爆10機、戦闘5機に上った。英空軍は「日本空軍航空撃滅戦を実施し、ビルマを支配しようとしていた」と述べている。そしてクリスマス前後の襲時には、英軍の反撃により日本空軍はWOP(英ビルマ空軍戦史30機以上RAF(英空軍戦史)は36機)を失ったと書いている。日英両軍の損表数字はこのように大きな懸隔がある。当たり前といえばそれまでであるが、それにしても日本軍の重爆10機の損は、シンガポール攻撃時にかなりの影を与えることになった。当時ビルマの英空軍には、まだハリケーンも配備されておらず、優秀なスピットファイアもされていなかった。ハリケーンが逐次配備されたのは、それから2,3週間たってからである。したがって戦士書「第三航空軍の作戦」及び「ビルマ攻略作戦」にある、41年末攻撃の際、中戦等における敵スピットファイアによる日本機の損は、バッファローカースP40によるものである。

大日本帝国陸軍地上軍のビルマ侵攻

 日本地上軍のビルマへの侵入は1942年1月20日に開始された。飯田祥二朗第15軍官は桜井省三を師団長とする第三十三師団・竹内寛を師団長とする五十五師団にを出した。日本軍五十五師団は42年1月タイを越え、標高1500mにもなる険しい山バンコクに残置し、補給のもほとんど失いながらも速にビルマに進撃した。

 英空軍には、同年1月初め、まずブレニム系爆撃機113中隊12機が、次いでハリケーン戦闘機3個中隊30数機が増強された。そこでスチーブンソンは、1月下旬日本の大基地となっているバンコクドムアン飛行場の急襲を決意した。爆撃はブレニム6機ずつで3回に及び、地上の日本50機以上を撃破したと報告している。だがその前後日本空軍は、6日間にわたり延べ218機を以て連合空軍を圧倒し、ラングーンの間の制権を獲得した。

 ビルマを防衛するのは、インド17師団のほかは、警察的なビルマ軍のみだった。1月22日日本軍ビルマ南東部の飛行場を占領し、ラングーン爆に戦闘機の護衛をつけれるようになった。英軍は日本軍速な進行に驚愕した。モールメインを守備していたのはインド17師団16歩兵団であった。日本軍モールメイン爆撃し、商店は炎に包まれた。日本地上軍によるモールメイン攻撃が始まり、ビルマ人に変装した日本軍の数隊が材木置き場から上陸し、撤退中のビルマ大隊に紛れ込んだ。彼らは町の北隅でボフォー砲兵隊を襲い、いきなり銃剣で刺し殺した。英軍の士気は低く撤退をはじめ、インド兵とビルマ兵はお互い反しあっていた。インド17団長ジョンジョージスミス准将ラングーンにシッタンまでの撤退の許可を乞うた。陰に紛れて17師団は撤退し、1月31日モールメインは陥落した。
 続いてシッタンにかかるシッタンに撤退したインド17師団であったが、日本軍の追撃はく、2月19日から23日にシッタンの戦いが勃発した。インド17師団はシッタンを渡って撤退する許可を得て、後退を続けた。日本軍十三師団の二十四連隊と二十五連隊は追撃し、ジャングルの接近戦を有利に戦い英印軍を駆逐した。が奪われそうになったので、2月22日スミスを爆破した。しかしこの時英印軍の半分はまだを渡っていなかった。日本軍インド17師団を掃討せず、ラングーンへの進撃を優先させたため、多くのインド17師団兵士水泳や即いかだで最終的にを渡ることができたが、小銃を始め装備物資は大半が放棄せざるを得なかった。そして逃げ遅れたおよそ200名のインド兵が日本軍の捕虜となった。シッタンの戦い後のインド17師団の歩兵人員は3484まで減少していた。時期は期であり、シッタン自体は障としては大したことなく(ただし期だった457月は全く様相は違っていた)日本軍の侵攻を止めることはできなかった。そのためこのの爆破は多くの人が疑問に感じ、のちに物議を醸しだした。

ラングーン陥落

日本軍のビルマ制圧

 ABDA豪州英国オランダアメリカ官のヴェイヴェル将軍必死に督戦したがむなしく、2月15日にはシンガポールが陥落し、2月22日にはABDAは解散してしまった。ヴェイヴェルインド軍最高官の地位に横滑りした。ロンメルに敗れ極東に飛ばされたヴェイヴェルはここでまたも敗北の憂きにあったのである。2月24日25日の両日、日本空軍は戦爆166機をもってラングーンに殺到、襲が始まるとラングーンはパニック状態となり、多くの難民ラングーンを離れた。今やラングーンは前の火となった。中東から待望の軍がくるまで持ちこたえられそうになく、また軍は自防衛のためビルマ防衛を拒否した。英軍は士気が低く次々退却、ヴェイヴェル将軍インド17団長スミスを更迭し”バンチ”コーワンに変えた。空軍くも2月下旬ラングーンを引き上げ、スチーブンソンは北方プローム街道130マイルのジゴン部を置いた。そのころラングーンに第7機甲師団の戦車150両が陸揚げされ、英軍の撤退を援護する事となった。3月初め日本軍はシッタン河を渡河した。
 敗北が続く英軍は、ハロルドアレクサンダー中将ビルマ派遣3月5日到着した。3月3日よりラングーン北東のペグーで日英両軍は突した。この時英軍が近づくと、日本軍速な侵攻により既にペグーは占領されていた。日本軍十三師団二十四連隊を揮する作間喬宜大佐は、ラングーンからペグーとは逆方向の北西プローム現在のピエ)までの道路の北を封鎖するよう命じられていた。日本軍はこのタウッキャンに障物を設置し、機関銃で防衛した。英軍はこの阻塞をどうしても突破できなかった。一方日本軍の本隊は西方からラングーンを攻撃するため、町を回していた。
 アレクサンダー将軍ラングーンの命運が尽きていることを痛感し、7日英軍は総撤退を開始した。この時撤退するインド17師団は日本軍十三師団の阻塞をどうしても突破できず包囲されてしまっていた。だが、日本軍は英軍がラングーンを撤退していることに気づかず、作間は命されたとおり、第三十三師団が回に成功すると、道路の封鎖を撤去した。3月8日なぜか阻塞が放棄されていることに気づいた英軍は、逃走に成功した。後部隊の最初の部隊は阻塞を確保された直後に障物を通過し、護送隊は正午頃まで続き、その時点で英軍の大部分が全に避難した。日本軍がその気であれば、包囲された英軍は全軍降伏の憂きにあい、アレキサンダーも捕虜となっていただろう。(この点に英軍は大いに疑問を感じ、何がそうさせたのかについて戦後東京に照会するほどであった。)
 
ラングーンは歩兵第二十五連隊の突進によって3月8日を占領された。わずか1か半の電光石火業であった。ラングーンの軍港を失った英軍は、補給も滞り、抵抗か撤退かで大いに紛糾することになった。

英軍の再編

日本軍のビルマ制圧

 一方、イランの油田地帯を抱え、極東よりかに優先度が高い中東アフリカ戦線では、英軍はイタリア軍を東アフリカで蹴散らし、北アフリカコンパス作戦の成功で枢軸軍を圧倒した。反英政権を立てたイラクは1かイギリス軍に制圧され、ヴィシーフランス治下のシリア416月に陥落、ドイツ軍事顧問を受け入れ英軍のソ連へのレンリース輸送通過を拒んだイランイギリス軍の前にわずか1週間で屈し、有利に戦っていた。
 だが412月エルヴィン・ロンメルが北アフリカに降り立った。ロンメルは進撃を開始、英軍を次々に撃破した。41年末より42年にかけてうち続く敗北に、チャーチル将軍たちを次々更迭した。コンパス作戦で見事イタリア軍を破ったヴェイヴェル将軍416月バトルアックス作戦ロンメルに惨敗し、更迭され極東官に飛ばされていた。

海軍大臣チャーチル お前クビ、そいつクビ、あいつクビ 将校が足りなくなっちゃうよ。

 ロンメルクリーン官で、圧勝の中でも後の敗北の中でも敵国捕虜は丁重に扱い、敵からも称賛されていた。ドイツアフリカ軍団の進撃を前に、英軍においても自軍の将軍たちのグダグダをさておいて、ロンメルの名将ぶりをたたえる始末だった。ロンメルが英軍を打ち負かした北アフリカ戦線は1941年末から42年にかけて連日英国の新聞で報道され、アメリカの新聞にもおおいに取り上げられ、まさに形であった。

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::::::::          | 砂漠ロンメルか…  │
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:::::   |フフフ…相手にとって不足はない …   │
┌────└────────v──┬───────┘
ロンメルを倒せば、       │
| が名も上がろうというものよ. │
└────v───────────┘
  |ミ,  /  `ヽ /!    ,.──、      
  |彡/二Oニニ|ノ    /三三三!,       |!
  `,' \、、_,|/-ャ    ト `=j r=レ     /ミ !彡        
T | / / ̄|/´__,ャ  |`三三‐/     |`=、|,='|    _(_
/人 ヽ ミ='/|`:::::::/イ__ ト`ー く__,-,  、 _!_ /   ( ゚ω゚ )
/  `ー─'" |_,.イ、 | |/、   Y  /| | | j / ミ`┴'彡\ '    ` 

モントゴメリー  オーキンレック  ヘンリーウィルソン スリム

英参謀本部 あーっと、最後の君 _(_
( ゚ω゚ )
ファっ?」 英参謀本部 ちょっとビルマに行ってくれ。

 同じく敗北が続いたビルマ英国民にとって忘れられた戦線だった。うち続く敗北を受け、1942年3月13日ビルマ軍団が設立され、軍団長にウィリアム・スリム中将が着任し、3月19日ラングーン北西のプロームの北、イラワジ沿いのエナンジョン油田にも近いマグウェに到着、アレクサンダー揮下に入った。ビルマ軍団インド17師団と、第1ビルマ師団、第7機甲師団から成り立っていた。ビルマ英国の装甲部隊が始めて到着したのは、1942年2月の末であり、第7機甲団であった。この団はアフリカの「砂漠」第7機甲師団から、当初マレー派遣される予定であったが、シンガポール陥落とビルマ情勢の悪化のため急遽ビルマに送られたものであった。第7フッサーズ連隊と第2英戦車連隊からなり、いずれもスチュアートM3軽戦車を装備していた。その後ラングーンを救援する望みを断たれ、以後2かにわたり英軍インドへの600マイル以上の撤退援護に任ずることになった。
 孫立人を官とする中国軍ビルマ派遣され、英軍を救援した。ビルマ軍団蒋介石の送ったビルマ派遣中国軍と協し、ビルマ中央部を保持しようとした。しかしラングーンの港を失った今、インドからの陸路の補給路はアラカン山脈に阻まれ存在しないに等しく、英ビルマ軍団の前途は多難であった。

日本軍の快進撃

日本軍のビルマ制圧

 日本軍も増強され、既存の五十五師団に加え、3月4月だけで三十三師団に二十三連隊が加わり、マレーでの積極的戦闘により自身も負傷したほどの猛将、牟田口廉也中将を師団長とする第十八師団がマレーから移管され、渡辺正夫中将を師団長とする五十六師団がラングーンに上陸し、北上を開始した。一方ラングーン失陥後、連合軍はインド17師団と第7機甲団を期間とする英軍をもって、イラワジ沿いのプロームにおいて、別に雲南より南下した中国軍をもってマンダレー街道トングーにおいて、それぞれ態勢を立て直し日本軍阻止しようとした。
 援ビルマルートの確保のため、中国遠征軍はビルマ北部で日本軍と交戦した。北部ビルマの大都市マンダレーに向かう街道は、さらに北部のラシオを経由し中国雲南省に通じる重要な道路だった。ここを守備した中国200師団は兵8500名であったがこの数字はまやかしで、労務者や輸送用苦も含まれていた。3月18日日本軍五十五師団の力部隊が北上し、小競り合いが始まった。3月24日日本軍十二連隊は中国軍地に正面攻撃を行い、第十三連隊は友好的なビルマ人の助けを借りてジャングル回し北の六キロトングー飛行場と鉄道を攻撃した。中国200師団は北部の補給戦を遮断され包囲された。25日本軍三方向からトングーの町に全面攻撃を仕掛けたが、中国軍地をよく守り攻撃を防いだ。28日に重連隊及び爆撃機からの支援ガス攻撃により中国軍に大きな打撃を与えた後日本軍は攻撃したが、さらに中国軍はよく耐えた。一方日本軍五十六師団の偵察隊はシッタンを胸までがつかる中ひそかに渡河し、東方からトングーに迫った。中国軍は四方を全に包囲され、29日の日本軍の総攻撃により、同日陰に紛れてついに北に撤退した。

シュエダンの戦い

 一方北西のプローム街道は英軍ビルマ軍団が守備していた。このルート上には重要なエナンジョン油田があった。日本軍十三師団はイラワジ沿いに敵インド17師団を補足撃滅すべく北進していた。プロームはイラワジ河畔の交通と商業の中心地、鉄道終点である。日本軍は英軍がほとんど傷の戦車部隊を持ち、これをメイクティラーナンジョン以北に逃した場合は、その地形が開闢で英軍に有利となるため、ペグー山系の隘路を活用してプローム近辺で英軍に打撃を与えようと考えたのである。プロームの南方16キロのイラワジ沿いのシュエダンが格好の適地となった。シュエダンはプローム街道沿い、東はジャングル丘陵地帯、西はイラワジで一種の隘路となっていた。日本軍は急進し3月29日シュエダンを占領した。シュエダンに日本軍が堅固な防塞を構築したとの情報が入った。これは大問題だった。パウンジとシュエダンの間に英軍第7機甲部、第7フッサーズ戦車連隊、歩兵及び砲兵しめて戦車30両、火20、その他車両200が日本軍にはまってしまったためだ。これより先28日シュエダンを経て日本軍攻撃のため南下した機甲団は歩兵大隊と合流して29日攻撃を開始することになった。
 3月29日プローム(現在はピエと呼ばれる)南方のシュエダンの戦いにて英ビルマ軍団日本軍十五連隊が突、日本軍の対戦車(山)は上の戦車を直撃、戦車二両を失った英軍は攻略が困難となった。英軍は後退したが日本軍は先回りし待ち伏せをしていた。シュエダン隘路を突破しようとした英軍のスチュアートM3戦車日本軍の待ち伏せ射撃、火炎瓶を浴び去られ頓挫した。30日に再度防塞を突破しようとした英軍は戦車や火トラックに交じって障物に突進、これに日本軍は素く対応し、戦車4両を撃破、多数のトラックを破壊し、その乗員を殺傷した。戦車連隊本部、機甲部、戦車大隊とごく少数のトラックが、ようやくを突破して北方プロームへ逃れ出ることができた。英軍は350人の死傷者を出し、10の戦車を破壊される惨敗だった。日本軍はここで捕獲した敵戦車により三十三師団の軽装甲車中隊が、数両のM3軽戦車中隊に変わりしその後の戦闘に役立つことになる。(この時アウン・サン率いるビルマ国民軍も日本軍とともに戦闘に参加したが犠牲は大きく、60人が死亡300人が負傷し、60人が捕虜となり、350人が行方不明となった。)

 敵将スリムはなかなかの勉強で、昭和17日本軍に敗退した時、メイミョウで中国将軍から次のような教えを受けた。「日本軍はその卓越した素質に自信を持ち、通常わずか9日間の補給品以下で攻撃するのが常だった。だからもし、官がその期間日本軍を支えることができたら、軍需品を日本軍に奪取されないようにしなさい。それから反撃すれば、きっと日本軍を撃破できます。」ということだった。彼の体験によれば彼は長沙で中国人として初めて日本軍を破ったという。この10日間のめどはチャーチルの「第二次世界大戦」にも、マウントバッテン報告書にも見える。

日本軍陸軍航空隊、英空軍を壊滅させる。

 このころ(数機のハリケーンを除いた)連合空軍の全が、イラワジ河畔のマグエを基地としていた。3月20日偵察機ラングーンのミンガラドン飛行場に日本空軍集中を発見した。戦爆合わせて400機が攻撃のため準備しているものと判断された。マグエの英空軍隊長は、ハリケーンに援護されたブレニムをもって、直ちにミンガラドン攻撃を実行することとした。18機の日本戦闘機が襲ってきたが損はなく、その間ハリケーンは飛行場を襲い、地上で16機、中で9機を撃破した。マグエでは、ラングーンから持ってきたビルマでただ一基のレーダーが、同近郊に設置され、として南東を警してきた。
 しかし3月21日日本陸軍航空隊は北東から英空軍機を追尾近接してきた。追尾攻撃及びそれに続く航空撃滅戦であった。そして日本軍はマグエ飛行場を急襲し、イギリス空軍及びアメリカ義勇飛行機を破壊した。攻撃は延べ230機、25時間に及んだ。襲が終わった時、WOPによれば、連合空軍戦闘飛行機はただ1機、事実上英空軍は壊滅したのである。パイロットたちは、アキャブに向かうため南部アラカンを歩いて越えなければならなかった。翌日アキャブにも日本空軍が来襲、英空軍は反撃もむなしく全滅した。3月21日以後にいるのはすべて日本機ばかりになった。大日本帝国陸軍航空隊はビルマの連合地域のほぼすべての要な都市、町を爆撃した。ビルマ国民軍の活躍もあり、英軍ビルマ軍団ビルマライフル兵は大多数が脱走し消滅した。日本軍4月29日にラシオを占領して中国軍の退路を遮断、5月1日マンダレーを占領した。

ヤナエンの戦い、エナンジョン油田占領

 期の炎下のビルマの確保に英軍は苦労した。4月10日には日本軍は油田地帯のヤナエンに迫り、英ビルマ軍団との戦闘になった。英軍は日本軍の攻撃を受けて後退し、日本軍により相互の連絡を絶たれた。4月15日リム中将はエナンジョン油田と製油所の破壊命を出し、解体は4月16日の午後までに了し、その後、貯蔵タンクが燃え始めた。アレクサンダー中将は、中国ビルマ軍のアメリカ官であり蒋介石の参謀長であるジョゼフ・スティルウェル中将にヤナエンに中国師団を応援するよう要請した。4月16日、英軍7000および捕虜500および民間人が、ヤナエンと油田において日本軍十三師団に包囲された。日本軍はスリムの2つの師団の間のマグウェ道路を遮断した。第一ビルマ師団は多数の負傷者を出し、不足だった。師団長ジェームスブルーススコット少将は、中国38師団を揮する孫立人に救援を要請した。孫将軍17日わずか800の戦闘員を率いて、また第7機甲師団と協日本軍を攻撃し、ビルマ軍団はようやく包囲を脱した。しかし側から先回りする日本軍に悩まされ、なすすべなく撤退が続いた。4月21日、ついにアレクサンダー中将ビルマからの全面撤退を決定した。スリム軍団はチンドウィンを渡り総退却に移った。それはインパールまで1000キロ以上にわたるのりだった。

英軍の撤退

日本軍のビルマ制圧

 すべての部隊のイラワジ横断は4月30日了した。アヴァ・ブリッジは破壊され、マンダレーは放棄された。包囲を脱したビルマ軍団ようやく撤退できたが、重機や武器をすべて失った。制権は日本軍にあり、輸は不可能で傷病兵も地上から撤退しなければならなかった。第7機甲師団は結局カレワ対でチンドウィン渡河の手段なく事実上壊滅した。しかしスリムが書いているように第7機甲団なくしては、スリム軍団ビルマを脱出できなかったことは疑いはない。5月から期に入り、日本軍は深追いしなかったため、追撃は緩んだ。しかし期の中インパールへの撤退は生易しいものではなかった。5月14日チンドウィン沿いのカレワ、シッタンの渡河点に到着、タムの部隊がインドをチンドウィンの線で守っていた。日本軍が渡河点に迫り、英軍の後衛はすべての戦車車両、貯蔵庫を破壊し、沿いのを逃走しなければならなかった。それは何とも情けないものだった。
 連合空軍な任務は、地上軍の退却支援となった。その為数機の古臭いライサンダーがこれに当たった。1942年初めにはダコタは2機しか使えなかった。3月にはダコタはようやく旧式8機となった。その空軍のダコタ(第二輸送隊16機がこれに加わり、5月6日まで支援活動を続けた。マグエの大災難の後、数機のハリケーン、ブレニムも復帰して任務に就いた。空軍B-17ラングーンのドックなどに対し戦略爆撃を開始した。

 日本軍は西はチンドウィンの線で、北はサルウィンの線で停止するように命じられた。モンスーンの季が始まり、賢明にも日本軍作戦を終了し、連合軍を深追いしなかった。

史上最大の退却

 撤退は恐ろしい状況で行われた。5月中旬より始まったモンスーンの中、多くの飢えた難民、落者、飢饉、捕虜を伴った。道路は劣悪で、撤退は進まなかった。インド17師団は5月17日カバ渓谷タムを通過したが、この日は大であった。5月20日英地上軍は、期盛時の前にかろうじてインパールに到着した。日本軍の先回りにスティルウェルは中国へ撤退できず、陸路インドし、5月13日チンドウィンを渡り、20日インパールにたどり着いた。

ティルウェル「々は敗北の憂きにあった!。この上ない屈辱をなめた。々はなぜこんな憂さにあったかを真剣に反省し、必ず反撃を期さなければならない!」

 中国第38師団はこの10日後に北方フーコ渓谷経由でインドについた。英軍ビルマ軍団は第一ビルマ師団が4月30日イラワジを渡り、5月インドに先行した戦意なき敗残兵たちが窃盗や強盗と化していた。もはや烏合の衆で、組織ある部隊ではなく、将校を見捨ててしまって、ギャングの集団となった。略奪、盗みはもとより、途中の集落の気の毒な民衆を殺することもまれではなかった。
 5月20日リムは自分の残存将兵を、第4軍団に引き継ぎ、ビルマ軍団は消滅した。インドにおいて敗残群を迎え入れた第4軍団アーウィン中将が、このような群衆の出現を、多少邪険に迎えたとしても不思議はない。英軍ビルマ守備小隊ビルマ人が逃走、次々蒸発してしまった。スリムの将兵はモンスーンで沼のようになっているインパールの野営地にようやくたどり着いた。マラリア痢が、濡れて疲れ果てた体をさいなんだ。10人に1人が病に倒れ、その多くは死亡した。とはいえ速な撤退判断により日本軍ビルマ侵攻からのアレクサンダービルマ方面軍の死者は合計で1400強にとどまってはいた。しかしビルマ人兵が逃走四散したことで行方不明者は13000以上にも及んだ。

 だが士気を保ってインドに帰還した部隊もあった。スリムは先行した連中と、軍規正しく帰還した兵士とを区別すべきだと思った。スリム極限状態にあって、彼らが単なる生き残り以上だったことを誇った。

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リム1400キロの撤収の最後の日、私は端の土手に立って、その後衛がインド領に入っていくのを見ていた。イギリス人、インド人、グルカ人、だれもがやせて案山子カカシ)のようなぼろを着ていた。彼らは生き延びた将校に付いて、トボトボと少人数で歩いていたが、各自武器を携え、秩序を保っていた。彼らがまだ戦闘集団たることが認められた。仮に案山子のようでも、彼らはやはり兵士だった。」

期のアラカン越えの悲惨さ

 ビルマ軍団が血路を北に切り開いていくにつれて、一般難民の大移動が始まった。イギリス人、ビルマ人もいたが、中心はインド人だった。インド人は退却する軍が通った道路、山をたどり、最初は自動車で、次は徒歩で、インドに向かって前進した。3月のうちに3万人の難民インパールにたどり着いた。後続のアレクサンダーの撤退部隊はその煉のようなを記している。の町タムにたどり着いた英人は、そこに生前の姿のまま座ったり、体を横にしたり、何かによりかかっていたりしている骸を見た。郵便局カウンター周りに20人の骸があり、一人は壊れた受話器に絡みついていた。疾病、栄養失調、疲労が生きる意志を失わせたが、20万人近い難民タムからパレル・インパールに山をえた。集団移動の軍人、民間人の90以上がマラリアにかかっていた。パレルやインパールへの道路へは腐乱死体が散らばっていた。ウッド少将タム~パレル間の86㎞の道路を作り上げ、難民トラック輸送した。しかし軍の移送が優先され、高級将校はプラザ・トロ侯爵の悪例にならい、先頭に立って退却する始末だった。が強くなるにつれて伝染病が広がり始めた。痢、天然痘、マラリア、そして6月中旬ごろからは恐るべきコレラである。インパールの組織は5月10日と16日の日本軍しい襲で崩壊し、ビルマ人従業員はラングーンやマンダレーの時と同じく逃亡した。イギリス空軍機が集落に配給品を投下してくれ、3日間飢えた何人ものインド人に配給品を渡したこともあったが、一般に英領インドの軍隊と市民当局は、軍隊と民間難民のニーズへの対応が非常に遅かった。それにつけても、期のこのアラカン山系をえる行進の悲惨さは、まさにぞっとするものだった。

  • 集落についてみると、臭気に襲われ、死体が一面に転がっていた。
  • ではなく何という死骸撃し、見てみると下層階級のインド人であった。
  • 死の一歩手前の、横になったり、足元で座っている人たちがいたが、行く人に視され続けていた。
  • 山また山の登りに上る。1800メートルの頂上にやっと着くと。またの届く限り山だった。
  • 泥土山は1メートルより広いことはまれで、だれもが一日に何回も転んで泥だらけになった。
  • の開拓地には、荒れ果てた小屋があちこちに散らばっていた。家族全員で泊まって、そのまま死んでいた。と子が抱き合っている死体を見た。別の小屋では母親赤ん坊を半分以上生みかけて死んでいた。この一つの開拓地だけで50人以上が死んでいた。
  • 何物も滅ぼさずにはやまぬ密林が、古い小屋から順にみ込んでいた。骸もこの密林に覆われ、すでに土に帰ってしまった。

 インド政府海外相の統計によれば、50万人以上がインドにたどり着いた。とはいえ戦前100万インド人がビルマにいたため、残った者もかなり多かった。一方、控えめに見積もっても10,000〜50,000人が途中で死亡した。日本軍インド人の捨てていった土地をビルマ人に渡すことを拒否した。バー・モウにビルマ独立で多くのものを得たと思わせる一方で、チャンドラ・ボースも手なずけなければならなかったのである。

 一方、その間、ビルマイギリス市民政府は、多くのイギリス人、インド民間人を伴って、ビルマ北部のミイトキーナに後退していた。孫立人の中国軍ミイトキーナに閉じ込められた。レジナルド・ドーマンスミス知事と最も影のある民間人がミイトキーナ飛行場から逃走したが、日本機に襲われ一部の病気と負傷者が出た。

ダコダで脱出できると思ったら、日本軍戦闘機に襲われ、婦人と少佐が血のの中で死亡していた。

 中国軍およびミイトキーナの難民の大部分は、病気の猖獗するフーコ渓谷と険しい森林に覆われたパトカイ山脈を経由して徒歩でインドに向かうことを余儀なくされた。これはのちにスティルウェルのレド航路が開かれたルートである。多くが途中で亡くなり、インドに到着したときに、市民当局が白人中国人に移動を優先しインド人の進行を妨げながら継続することを許可し、事実上多くの人を死刑に処した。また英軍はビルマ人をスパイ疑いにて多数処刑、キングスオウン・ヨークシャー軽歩兵連隊のもと少尉ジェラルド・フィッツパトリックは後に、彼と大隊将校たちは1942年の退却行の間、対日協の容疑で27人のビルマ民間人を即決処刑したと告白している。対照的に、アッサムティプランターズアソシエーションなどの多くの個人が支援提供するために最善を尽くした。

5週間も歩き続け、長靴に泥が入ってこすれて、足にまめができて、動けなくなった。足の痛に耐えて歩き、やっとのことでたどり着いたで作った仮宿舎をみつけ、中から陽気なイギリス人が紅茶を一杯くれた時、私には天国に見えた。

中国軍23000は孫立人の揮のもと徒歩で傷でインドに撤退することに成功し、ビハール州のラムガールキャンプ集合し、ジョゼフ・スティルウェル将軍揮下に置かれることになった。残りの中国軍は遠く離れた山岳地帯を経由して雲南に帰ろうと試みたが多くは途中で亡くなった。

日本軍占領下のビルマの情勢

日本軍のビルマ制圧

 中には美人が多くスリム中国系、色が濃くそれなりの顔立ちのインド系もいるが、ビルマ人の大部分は、日本人と同じ黄色人種で、ほとんど変わらないような顔つきをしている。々が日焼けしているぐらいの色で、まず親近感を覚える。ビルマは長い間英国の支配下にあったが、それを駆逐した日本人は敬意をもって勝者として歓迎していた。日本軍ビルマ進駐当初より、軍規を守り決してビルマ人に対し悪い事はしないで、良好な親善と宣撫工作の結果、信頼されていた。
 一般的に貧しいが、仏教で皆心を持っていて素である。ビルマといえばパゴダで、ラングーンはじめどんな田舎の町や村に行っても大小さまざまな、色にくものから亜のもの、時に形のしいもの等がある。また像が各地にあり様々な形や姿勢をしている。それにポンジーと称する僧侶が多い。僧侶は地域の導者で知識人であり、子供を集めて寺子屋式教育をしている。僧侶はすぐそれとわかる黄色の法衣を着ているが、格別な地位と考えられ、法衣を女性には触れさせず、といえどその例外でもなかった。広い平野恵まれの大産地だが原始的農作業で、スイギュウによる農耕がである。収穫期を迎えた広い平原田んぼは一面に稲がたわわに実っていた。ビルマである。

 ビルマ民族流はビルマ人で、カレン族、シャン族、チン族など多くの部族からなっていた。カレン族はキリスト教徒も多く、イギリス軍の軍事訓練を受け、イギリス軍の敗北後も新英的であった。多数ビルマ人はこうしたカレン族を嫌っており、ビルマ独立義勇軍を揮する鈴木大佐は対立があった時は調停もなにもせずタキン党に味方した。つまりはビルマ人とカレン族間に争いが起これば、鈴木ビルマ人の味方をすることになる。そのもっとも言断な例は、イラワジ・デルタのミャウンミヤにおける事件だった。ここは東のシッタンタイ地区とともに、カレン族の居住地である。
 鈴木揮下のビルマ独立義勇軍は、デルタカレン族に火器の引き渡しを要するに至った。命に従った村もあり、武器の引き渡しで防備状態になったところを、独立義勇軍についてきたならず者の一隊に襲われた。独立義勇軍の将校はこれを傍観するだけでなく、進んで襲撃に加わった。タキン党はカレンからすべてを奪い、地域社会を根絶するつもりなのだとカレン族は訴えている。鈴木は大量虐殺に一役買っている。彼の部下の将校が、カレン族のビルマジン集落を攻撃した際に殺された。鈴木は、即座にカレン族の集落、カナゾゴンとタヤゴンを焼き払って住民を皆殺しにしろと命じた。西集落はのうちに包囲され、片方の端に火が放たれた。恐怖にかられた村人たちが、反対側に殺到したところを、独立義勇軍の”兵士”が待ち構えていて、片端からで切り倒した。傷ついたものたちは、炎の中で死ぬに任された。こうしたデルタの出来事は、日本軍が去った後も長くビルマ人とカレン族の関係を損ねたままとなった。
 もっぱら後方の安全を確保しようとするのなら、日本軍第十五軍は、ビルマ独立義勇軍の略奪行為をやめさせなければならない。ようやく日本軍が乗り出した。独立義勇軍は粛清され、アウン・サンの下にビルマ防衛軍として再編成された。鈴木はぶっきらぼうで圧倒的であり、すぐかっとなるし、とげとげしく粗暴である。バ・モーは、生まれたてのビルマ軍隊が鈴木個人にこんなに絶対的忠を誓っていたのでは、不可避な鈴木の失脚の際に困ると素く見抜いた。1942年6月鈴木はついに東京に召喚され、荷持をまとめて帰した。南方軍では、鈴木大佐のけんかの自的画策や、出来立てのビルマ独立義勇軍の法者じみた振る舞いのせいか、ビルマ独立論者も、とうとう事が性急すぎると思うようになってしまった。独立は1年延期された。

ビルマ中央政府

 日本軍に随行していたタキン党の青年たちが、1942年1月タボイでビルマ独立を宣言したのは、鈴木大佐の要請によるものだった。1942年3月23日タキン・トゥン・オクを首班に設立された政府は、バ・モーを席とするビルマ中央行政府に置き換えられた。バ・モーは初代軍官の飯田祥二朗中将と親しい中になった。飯田は、中国朝鮮からくる民族優越感の立つ軍人とは全く違った。
 飯田が一番心配したのは、東京から派遣されてくる連中が、朝鮮中国の、つまり敵地や植民地での経験を持ち込むことだった。日本ビルマの関係は、そうであってはならない。飯田は、軍の後からビルマに進出してきた日本商社利権やたちが、将来にわたり長く有利に経営していくために、経済ビルマ人に譲り渡すつもりがない点にも注している。

飯田祥二朗「こんな日本人がどんどん進出してきて、各方面で威り散らして働くのだから、これがビルマ人に何と映ったであろうか。日本ビルマから何も取る必要はいではないか。エナンジョンの石油、ボドウィンの鉱山、イラワジの航行権など、イギリスの持っていた事業をビルマ人にやることによって、ビルマ人に独立の感じを与えうるのではないか。これらの利権日本がとってしまったら、イギリスの代わりに日本が入って来たのであって、ビルマ植民地扱いにするのと同じだ。それどころか下、日本人は小さな事業にまで自分で経営し、イギリス人よりかえって悪いということになろう。」

 だが執政官や企業幹部は、続々やって来た。19436月を過ぎると、軍政幹部は総員900人前後、ビルマ行政府には、130人近い日本人が勤務していた。事業計画は目白押しだった。サルウィン側の急流は発電に使える。シャン州はビルマから分離して、永久日本の領土とする。ここに日本人を大量移住させ、日本との交通は北部フランスインドシナを通って、中国沿まで鉄道を敷く。バ・モーはシャン州のビルマからの分離は、ビルマ独立の承認と引き換えにのまなければならない、苦い現実だった。またケンタン、カドパン両州のタイへの割譲も承諾せざるを得なかった。それは端的に言えば、日本のためになるからである。タイは1941年敏速に日本の同盟となったおかげで、フランスカンボジアに併合した二つの地方と、イギリスマレー連邦州に編入したサルタン王の返還を勝ちえた。バ・モーは東條英機抗議したが、鼻であしらわれてしまった。

勝者日本ビルマ統治のなかで

英兵の中には、戦後名門ダラム大学教授となり、自身が戦った日英ビルマ戦の戦記を書く者もいた。彼は日本に8度も通い、数多くの日本文献を読破し、結論付けた。

元英兵「高見順の数少ないフィクションでは、一番参考になるのは『日本評論』19436月号に掲載された『ナウクハナ』という短編だと思う。」

物語り手は、ラングーン駐屯の一人の日本将校である。彼は宿舎の給食監督をしていて、コックとボーイを雇う。使用人たちは宿舎の裏の一に住んでおり。これは作者の反英プロパガンダのちょっとした材料になった。

 食堂の裏の召使部屋は、刑務所の独房みたいである。英国人はこんなやり方で官舎を立てるのだ。インド人の召使は、まるで人間扱いしないというように、いつでもを建てるときはこんなやり方をする。人間らしい気持ちのあるものなら、正視に耐えない。召使たちは、家族と一緒に住むのが普通だから、その不潔な暮らしぶりを見るのは、勢な邸宅に住む肌の人にとって、あまり気持ち良いものではないから、たいてい召使小屋との間に高い目隠し屏を立ててしまう。まるで刑務所の塀である。にあけすけで恥な、恐るべき住宅である。

 だが高見の意図は、反英宣伝にあるのではない。ストーリーは自分に帰る。「私」と同僚は、毎日カレーライスを食べさせられる。コックは、別の物を注文されても作れない。おまけに不潔な台所で、の群れを追い払おうともしないし、買い物にやればをちょろまかす。たまりかねてナウクハナというコックをボーイ長にして責任を持たせた。主人公仲間作家がいたが、ボーイを盗んで困ると小言を言うと、ナウクハナは、「それはインド人への侮辱です」と抗議する。

 私はすぐにに返った。二回のん中の部屋の”先生”は作家である。私はナウクハナの言い分を先生に伝えた。私はナウクハナを信じ、インド人を信ずる。少し奮しすぎて、いきなりボーイたちに疑いをかけすぎたようだ。
 だがそのあとナウクハナは、宿舎の倉庫から缶詰を盗み出す現場を押さえらえる。「私」は彼を探し出して、信頼を裏切ったと問い詰める。ナウクハナは、食堂の隅にしょんぼり立っていた。

「ナウクハナ!」

 私は「どうしてこんなことをした?、馬鹿野郎」というつもりだったのだが、彼を見ていると情けない気持ちの方が先立ってしまった。私はそばのテーブルから皿を一枚とると、いきなりナウクハナのわきの壁に投げつけた。彼に暴力ふるったのは初めてだが、彼に皿を投げつけたわけではない。ただ、何かを投げつけたかったのだ。ナウクハナは、をためてうなだれた。皿を投げられても、彼は避けようとしなかった。私がどんなに怒っていて、しかもその怒りが当然であるか、どんなに厳しくしかれれているのか、わかってるようだった。明らかに彼は、気持ちはどうであれ、私の信頼を裏切ったことで自責の念に駆られているようだった。少なくとも、私にはそう見えた。彼の表情は言いようのい悲しみに満たされていた。私もうなだれて、その場を去った。

「私」は二階に行って、ナウクハナを信用して倉庫のカギを預けた過失を、同僚の作家に詫びる。すると、隣の部屋から作家が出て来て言った。「君はナウクハナという野郎にすっかり騙されていたんじゃないか。全にたぶらかされていたんだよ。は初めから怪しいと思っていた。悪い野郎だよ。が分かったろう、の方が正しかったんだよ」私は頭がくらくらした。たとえ私をひどく失望させたにせよ、まだナウクハナを信じていた。まだ彼が好きだった。私は人間を信じたいのだ。

教授考察する。

元英兵「それは“大東亜共栄圏”で日本人白人の苦労をどうやって引き継ぐかの、すぐれた探なのだ。」

覇者も大変だ。

日英航空戦1942年雨期明けまで

日本軍のビルマ制圧

 加藤戦闘隊は、加藤建夫陸軍中佐率いる大日本帝国陸軍の飛行戦隊、飛行第64戦隊称である。1941年8月に配備が始まった帝国陸軍の誇る新鋭戦闘機である一式戦」を駆使した。第七飛行団に属する64戦隊は、マレー作戦で大活躍し、3月21日よりビルマ作戦にも転戦し勝利を重ねていた。
 1942年5月22日、第64戦隊の駐屯するアキャブ飛行場に英空軍ブリストル・ブレニム1機(第60飛行隊ハガード准尉機)が来襲し爆撃一式戦5機が迎撃に出撃するも、後上方(射手マクラキー軍曹の巧みな射撃により2機が被弾し途中帰還、さらに1機、戦隊加藤建夫中佐機が、最初の近接降下攻撃からの引起し時に、機体部に集中射を浴び発火、ベンガル湾の面に突入し、加藤死亡した。
 「の軍加藤建夫のヒロイズムはかなりの宣伝価値があり、日本政府は彼の人生物語を称賛する「加藤戦闘隊」(1944)というタイトル映画を作成、前の大ヒットとなった。

空軍の惨敗と戦略見直し

 1942年初めの数か、東部インド1860年以来の酷暑で、多くのインド人が死亡し、在印の英空軍の飛行死闘も暑気あたりで多くの病人と死者を出した。新たに北部インドに着任した英空軍の部隊では、体温が突然42度にも上がる患者の取り扱いを、まず学ばなければならなかった。また日陰でも53度になることがあり、さらに太陽熱により、突然中でブレニムの輪を収縮させ、乗員に危険をさらすことがあった。しもが降るのを祈らずにはいられなかった。期は6月より10月まで続く。湿気を帯び、悪疫が流行する。7月にはカルカッタに阻塞気球が上がり、またこのころインド防衛のために航空機336機が必要との計画が承認された。その一環として戦闘機爆撃機の中隊がベンガルに到着した。のため日本機の来襲はなかった。本から、あるいはまたドイツ空軍と戦ってから、新たにカルカッタに着任した飛行士たちは、日本飛行士の素質について、現地の古参者から話を聞いて、深い尊敬の念を持った。

 日本飛行機は、現在東南アジアで使われている英飛行機よりも、操縦性が良かった。また長距離戦闘機と効率の良い爆撃機を持ち、その上圧倒的な数の飛行機を持っていた。な欠点は被弾した時の油タンクに自動ふさぎ装置がないことと、乗員の防護装甲がない事であった。ドイツメッサーシュミットと戦ったパイロットたちは、日本海軍ゼロ戦との中戦のために、垂直上昇を訓練しなければならなかった。戦略カギとなる輸送機について、ウェーベルは1942年11月の時点で、より多くの輸送機を送るようインド総司令官アーウィン大将に要請していた。しかし、アーウィンは「そうしたいのは山々だが・・・本土ではもう製造していないようだ。々は輸送機全に米国依存しているが、米国も不足しているそうだ」と答えた。

日本側の観察評価

空軍の士気は旺盛であるが、訓練は精到でない。爆撃機ブレンハイム、ハドソン戦闘機バッファローハリケーンの中で、ハリケーン以外の性は劣る。

期の恐怖

 ビルマではヨーロッパ戦線と違って、対火に直面することが少なかったが、期の恐怖が判明してきた。中では大きな爆撃機を粉砕し戦闘機分解する褐色スコール、地上ではあらゆる悪疫と、人間の精を喪失させる倦怠による緩やかな死が待っている。の下にジャングルに何があるか、パイロットにわからない。

 インド人は、日本の軍隊を自を狙う脅威と解釈し、英軍に協した。英軍工兵部隊は、アッサム紅茶園から引き抜いた数千の労働者を用いて、マニプールの軍隊に補給するための道路を、ナガ峡谷に建設した。ディマプールインパールである。

 中国へのは、ビルマ路に変えて、他の方法を考えなければならなかった。空軍ウィリアムオール中佐が、インドと南支那を分かつ奇怪な尾根を始めて飛んだ。世界で最も困難な飛行ルートの一つであるハンプを形作る、パトカイ山系が高いだけでなく、それは焼け付く荒れ地と氷との峰の連続である。ハンプの上では、積がダコタの飛びうる高さ以上に及んでいる。ある種のは通り抜けられないし、このタイプは、いかなる飛行士の想像をも絶するものであった。ハンプをするには、これらの熱い褐色を避けるために、すぐれた技量が要される。42年のに、オール大佐の後継者たちは、インド支那間の往復飛行に成功し、往路は補給物資を、帰路はインド式訓練をするための支那兵を運んだ。このようにして13000の兵を、ヒマラヤをえてダコタが運び出した。戦闘機の護衛はなかった。8月からこの輸は米国の担当するところとなった。この成果が日本勝利算を限りなく減少させた。

東南アジア、南アジアの情勢

日本軍のビルマ制圧

日本軍は圧倒的優勢で、42年4月にはセイロン沖海戦で英軍艦を多数撃沈した。

ベンガル大飢饉

 ベンガルインドの3分の1を生産し、ベンガルの人口は1901年から1941年の間に4,210万人から6,030万人に43増加した同期インド全体人口は37増)。1920年頃以後は急速な人口増加に合わせることができず、食糧穀物の純輸出から純輸入に変わった。消費者債務、季節ローン危機ローンの蓄積により、渦巻く永続的な負債の循環が始まる。上層の「裕福な農民」が債務者に土地の全部または一部を低価格で売却するか、没収を強制することが頻発した。1943年のベンガル飢饉の際、あらゆる形態の貧困と死の中で最も多く苦しんだ社会集団は、土地のない農業労働者だった。

 日本軍ビルマ占領により、当時世界最大のコメ輸出であったビルマからのの輸入がとだえ、ベンガルコメ供給は15減少した。これをきっかけにベンガル飢饉が発生するのだが、20世紀最大の大飢饉にまで発展した要因として様々なものがあげられている。

 しかし上記要因含め、1943年の生産量は過去5年間の均よりも約5低いだけであったし、例えば41年のの生産量は43年より13も少なかったが、1941年には飢饉はなかった。
 自らベンガル飢饉を経験し、のちにノーベル経済学賞を受賞したアマルティア・セン1943年のベンガルの全体的な赤字は約3週間の供給であったと結論付けた。これはかなりの量の食糧救済を必要とする重大な不足であったが、本来は何万人も餓死するほどではなかった。そうさせてしまった最も大きな要因として、植民地官僚の無能策、本イギリス政府の恥ずべき関心があげられる。

コメ価格の上昇とベンガル飢饉

 人口増加で、価格は1939年8月から1941年9月にすでに69%高騰、さらに1942年春日本軍により穀倉地帯のビルマを失い、サイクロンの襲来、日本軍のカルカッタ爆撃などでコメ価格は上昇を始めた。飢饉は食糧不足のうわさ、食糧価格を押上げる投機的商人、および植民地官僚の対応の遅さと不足により起こされた予想外心理学であり、「戦争の進展により、待つことのできる売り手は売りたがらなかった」。
 戦時経済インフレにより、商品やサービスの全範囲にわたって価格が急速に上昇した。42年末までに、布地の価格は戦前レベルの3倍以上、1943年の初めに、食糧穀物のインフレ率は前例のない上昇傾向をたどり、43年半ばまでに4倍以上になった。
 1939年インド防法に基づいて1941年11月に州間の貿易を制限する権限が州政府に与えられた。多くのインド州と王は1942年半ばから州間の貿易障を課し、内のの貿易を妨げた。ビルマ崩壊を期に不安と高騰する価格が貿易障根本的な理由の1つだった。それぞれの地域政府は常軌を逸したエゴを爆発させた。1942年1月パンジャブ州は小麦の輸出を、3月中央州は州外への食料輸出を禁止した。翌には貿易港で余裕のあるマドラス州までの州外への輸出を禁止、その隣の州のビハール州とオリッサ州も7月追従した。
 ベンガル政府インド植民地政府の対応は遅かった。1942年12月から19433月間のを入手するために政府から仕入れ業者が派遣されたが、価格統制市場を売りたがる業者がなかった。闇市場で際限なくコメ相場が高騰し、さらなる上昇期待から貿易業者や商人がコメ買い占めに走り、インフレスパイラルに突入していった。19433月11日、州政府は価格統制を取り消したが、価格がさらに劇的上昇、19433月から5月までのインフレ期間は特にしく、貧農の多くはが買えなくなり本格的な飢餓が開始、5月ベンガルで飢餓による死が最初に報告され、増加はとどまるところを知らなかった。43年5月から10月死亡150万人にも及び、どが農村部の貧困層の飢餓による死亡だった。

 家族も崩壊し、放棄、児童売買、売、性的搾取の事件が発生した。物乞いをする小さな子供たちの列が都市の外に何マイルも伸びた。になると、子供たちは「ひどく泣き、ひどく咳をしている...モンスーンの降るの中で...全裸で、ホームレスで…彼らの一の所有物はの缶だった」。マヒサダルの学校先生は、「乞食下痢の分泌物から未消化の穀物を子供が拾い、食べる」のを撃した。夫は妻を捨て、妻は夫を捨てた。高齢者の扶養家族は村に取り残され、赤ちゃんや幼児は時々見捨てらた。彼らが食料をめて農村を去った後、生存の見通しは厳しかった、多くは端で亡くなった。1943年後半カルカッタの調によると、都市に到達した貧困層の約半分で家族の解散が起こった。そしてカルカッタで疫病が流行した。火葬場、埋葬地、死者を集めて処分する人々が圧倒し処分できず、死体はカルカッタの歩や通り全体に散らばっていた。19438月のわずか2日間で、少なくとも120共の道路から削除された。田舎では、遺体はしばしばで処分され、生存者は埋葬したり葬儀をするがなく、人々は首にロープを結び、遺体を溝に引きずり込んだ。死体はまた、ハゲタカに拾われ、ジャッカルに引きずられた。

イギリスの放置

 くも1942年12月以降、政府高官と軍の将校(ベンガル知事ジョンハーバート、リンゴウ総督、インド務長官レオアメリー、英軍最高クロードオーキンレック将軍東南アジア最高マウントバッテン提督など)は、英本インドへの食品輸入を要したが、チャーチル戦争内閣により、これらの要は拒否あるいは元の数分の1に減量された。

海軍大臣チャーチル 食料がそれほど不足しているなら、なぜガンジーは飢え死にしていないなのか?。それに私はベンガルよりもナチスに占領されたギリシアの人たちの直面している飢餓のほうが心配なのだ。

 確かにガンジー死亡していなかったし、ギリシア飢饉も凄惨で41万人が餓死したが、ベンガル飢饉を放置していい理由にはならない。チャーチル飢饉を収拾するどころか、その負担を増やしたのである。さすがのチャーチルも度重なるインドからの要重いを上げ、ルーズベルトへの手紙の中で米国の援助をめたが、米国の反応は否定的だった。これにはインド洋の航行の危険も挙げられる。日本軍航空隊の大活躍およびドイツUボートの猖獗により1942年1月から19435月までのインド洋だけで、87トン英国および連合の商船が撃沈されていた。他の戦線のために護衛を回せないインド洋での輸送は単に枢軸国の餌食になるだけに終わる可性をはらんでいたのである。

ベンガル飢饉の猖獗と収束

 飢餓による死は194311月にピークに達した。また栄養失調による体低下から誘発されるさまざまな病気による死は194310月頃に急な上昇を始め、12月には餓死を追い抜いた。その後も病気による死亡1944年中頃まで続いた。病気の中でマラリアが最大の死をもたらした。43年7月から1944年6月までのマラリア死亡者数は過去5年均の125え、43年12月には203に達した。他に痢やコレラ栄養失調に伴い蔓延し、天然痘も流行した。キニーネは闇市場にながれ、メパクリン等の新しい抗マラリアは軍に優先配布され、飢餓と疾病に苦しむ農村には回らなかった。この栄養不良による病死の死亡は餓死と同じ数、すなわち推定150万人にも及び、合計300万人がベンガル飢饉死亡したともいわれる。

 19435月に州間の貿易障が撤された後、穀物はカルカッタのバイヤーに流れ始めたが、7月洪水鉄道が不通となり物流は滞った。8月鉄道は再通し、9月にカルカッタにかなりの物資がもたらされたが、分配する設備と人員が不足し、カルカッタ植物園などの場所の屋外に非常に大きな山積みの穀物が残っていた。
 43年10月インド総督リンゴウ東南アジアの敗将アーチボルドウェイヴェルに替えられた。ヴェイヴェル新総督は軍を動員し、備蓄分の穀物を放出し、兵士を使って各地にいきわたらされ、また配給制の導入により闇市場を統制、重要物資の輸送と流通の支援を行った。15000の軍がトラック及び空軍を駆使し、大規模な配布が最も遠い農村地域でさえも始まった。穀物はパンジャブから輸入され、医療資も潤沢に利用可になった。コレラによる死者は194310月にピークに達したが、軍や医療従事者の制御下に翌年には劇的に収束した。さらに12月の収穫が始まり、の値段が下がり始めた。いくつかの村では収穫ができる生存者がいなかったがヴェイヴェルは他の省からその援助を約束した。彼の危機への決定的かつ効果的な対応は賞賛されている。飢饉はたちまち収束した。

 危険な上輸送も必要なく、たったこれだけのことで、ベンガルの栄養標はくも12月には正常に善していた。逆に言えば英国は1年間もこれだけのことさえせず放置し300万人もの人たちを死亡させたのである。この一連の経緯は大英帝国インド支配史の中でも、おそらくもっとも恥ずべきエピソードといえよう。

泰緬鉄道(タイ・ビルマ鉄道)

 「Death Railway」の異名や「戦場にかける」で知られる有名な泰緬鉄道は、1942年から1943年にかけて日本軍によって建設された。のスリーバコダパスえ、タイのクェー(クワイ)のを沿って走るビルマタイ間の鉄道ルートは、1885年にビルマ政府によって調されていたが、起伏の多いジャングルと多くのに隔たれ、建設実施は困難とされていた。この鉄道は維持も困難だった。戦後イギリス政府は泰緬鉄道を賠償として得たが、財政難のためすぐ売却しようとした、タイ区間はタイ5000万バーツ(200万ポンド)で売却できたが、ビルマ側は売れなかった。

 ビルマを制圧した日本軍は、輸送を上に依存しており、マレー半島およびマラッカ峡、アンマンを介してビルマに物資と軍を送っていた。しかし42年6月ミッドウェー海戦敗北、および連合軍の潜水艦空軍に対してこのルートは脆弱であった。そこでこの危険な上輸送の代替として42年6月バンコクからラングーンに至る鉄道を建設することを決定した。建設はタイビルマ既存鉄道から連携され、ビルマ側が約111タイ側が約304であった。42年9月15日に建設が始まった。完成予定は43年12月だった。鉄道の建設資材のほとんどはマレーマレー連邦鉄道印の鉄道網などの既存の鉄道を解体して調達された。大日本帝国陸軍は、イギリスが調しただけであまりの困難のため見放していたこの難工事をやり遂げ、何と鉄道は予定よりく43年10月17日完成した。皇軍の建設、技術世界に見せつけた、まさに偉業である。

 この建築を見たアメリカ技術者はその偉業に感した「これをエンジニアリングの偉業にしているのは、その全てであり、多くの要因の積み重ねです。総延長、の総数—それは6~8本の長大橋を含む600以上の—、関与した人の総数(45万人)、彼らがそれを達成することができた非常に短い時間、および彼らがそれを達成した極端な条件、などなど。労働者のやり取りのための交通手段はほとんどなく、もほとんどなく、材料はもちろん食料も手に入れることができず、スペードやハンマーなどの基本的なもの以外に作業する具がなく、非常に困難な状況でこの偉業が成し遂げられました。酷暑とと湿気に満ちたジャングル。すべてがこの鉄道を並外れた成果にしています。」

 大日本帝国陸軍は、どのようにしてこの偉業を成し遂げたのであろうか。建設に従事したのは監視の日本兵、連合軍捕虜、そしてアジアの「ロームシャ」である。

捕虜の使役

 鉄道は、ビルマタイ路線の両端、即ちビルマのタンビュザヤットとタイのバンポンから同時に建設工事が進められた。この鉄道を建設するために日本軍は、およそ61,000人の連合軍捕虜英国31,000人、オランダ人とオランダ領の欧亜混血人やインドネシア人18,000人、豪州人13,000人)、さらに25万人以上のアジア人労働者を使役した。
 日本帝国陸軍技術者鉄道建設の責任があり、工事はビルマ側で1942年9月に、タイ側で同年10月に始まった。日本人技術者と監視兵の労働条件は捕虜や労務者よりはるかに優れていたが、それでも英国さえ建設を断念した疾病の猖獗するジャングルでの建設作業中に約1,000人(8死亡するほどのものであった。だが捕虜の待遇は日本軍関係者よりはるかに過酷だった。多くの人々は、日本兵が残酷で連合の捕虜やアジアの武者の運命に関心であることを覚えている。鉄道労働者の多くは、冷酷なまたは思いやりのない警備員の矢面に立った。残虐行為は、極端な暴力拷問から、身体的な罰、屈辱、放置といった軽微な行為まで、さまざまな形をとった。
 ビルマタイ鉄道を建設するため英国人と豪州人捕虜作業班は、貨車シンガポールからタイに輸送した。貨車一両に30人から40人を詰め込み、幾千の男たちが北方に移送された。貨車の進行はたいへん遅く、均で4から5もかかる苦しいであった。
 日本技術者は約420キロの線路の土塁を築くために土砂400万立方メートル分の土木工事が必要であると見積もった。300万立方メートルの岩が運ばれ、総計14キロメートルにわたる架工事が行なわれた。捕虜はビルマタイ鉄道の盛り土を築く。連合軍の捕虜とアジアの労働者は原始的な機材と手持ちの具を使ってすべての作業をやってのけた。ビルマタイ鉄道沿いの捕虜収容所にある病院の切断手術用病室。病院といっても造りの小屋である。捕虜の手足の切断は、鉄道建設作業中に受けた外傷が化膿し、治療しようのない熱帯性潰瘍として広がっていった結果による。1942年から1943年のビルマタイ鉄道建設の間、捕虜監視兵を務めたオカダ伍長は「死の医者」として知られた。彼の虐待方法の一つは、病気と報告した捕虜を木刀で殴ることであった。終戦後、彼はその残虐行為により戦犯として裁判にかけられ、処刑された。14ヶ以上にわたる鉄道の建設工事で61,000人の捕虜の内およそ12,400人英国人6,318人、オランダ人2,490人、豪州人2,815人)が命を失った。彼らの大多数は栄養失調病気日本人朝鮮人監視人による虐待死亡した。タイヘルファイアでの切削工事の際には、68(推計)豪州人捕虜が殴り殺された。

労務者の使役

 しかしさらに過酷な状況に陥ったのがアジア人労務者である。ビルマタイ鉄道建設の際、およそ27万人のアジア人労働者が、日本軍によってビルマインドネシアマレーその他の地域からほぼ強制的に連れてこられた。彼らの収容所の環境は劣悪で日本軍から提供される医療品もいに等しかった。その結果、彼らの内72,000人が死亡したとされるが、死者はさらに多く92,000人に上るという別の調もある。1943年初頭、日本人シンガポールマラヤ、オランダ領東インドの労働者を宣伝、『良好な賃、短期契約家族の住居』を約束し募集した。しかし次第に過酷な労働の実態が知られ、宣伝が十分な労働者を引き付けることができなかったとき、日本軍は強制的な方法に頼り労働者を強制徴用した。鉄道に取り組んでいるロームシャのほとんどは、徴募ではなく、おそらく強制されていた。約90,000人のビルマ人と75,000人のマレーシア人が鉄道で働いた。

を下るクーリーキャンプの状況はひどいです」とバジルは言う。「彼らは日本イギリスキャンプから隔離され、トイレはなく、キンサイヨクでの特別英捕虜集合は1日に約20のクーリーを埋葬する。これらのクーリーは持ち込まれた。 「簡単な仕事、良い給料、良い!」妻や子供を連れてきた人もいたが、今では、この納屋に投げ込まれ、ジャップと韓国人の警備員によって使役され、残酷に殴打され、飢餓状態で、困惑し、病気で、怖がっている。病気の英人捕虜がを下って行き、砂糖を与えて、タルサオの鉄道トラックに入れるのを助けた。」

 1944年タイタマルカンにて、ビルマタイ鉄道建設の際に亡くなった人々を慰霊するために日本軍によって記念碑が建てられた。台座の四隅の大理石の石には英語オランダ語日本語、もう一つの不明言で碑文が刻まれている。記念碑は石でできており、ミモザ、バラチューリップの紋章、さらに米国徴する紋章が刻まれている。写真は、各の捕虜、日本兵、タイ市民が参加した記念碑の奉献式の際に撮られた。式辞を述べたのは、日本官(であるかは不明)と2軍第2/3歩兵大隊のG.E.ラムゼイ中佐であった。日本軍官は鉄道建設の仕事を称えると同時に厳しい労働によって多くの生命が失われたことを悲しんだと伝えられている。

 鉄道完成後、捕虜のほとんどは日本に運ばれた。鉄道維持要員として残された人々は、恐ろしい生活条件と連合軍の襲の増加に苦しんだ。

1944年9月12日捕虜をシンガポールから日本へ移送中の「楽洋丸」は、南シナ海南島潜水艦魚雷攻撃を受けた。1944年9月13日から17日にかけて、沈没した日本の輸送船「楽洋丸」から、米軍潜水艦上に救出されたオイルまみれの英国人と豪州人の捕虜たちは米軍潜水艦に救出された。米軍潜水艦は、80人の豪州人を含む141人の生存者を引き上げた。これらの豪州兵捕虜の大半が1942年から1943年のビルマタイ鉄道建設に従事していた。豪州に帰還した彼らは、泰緬鉄道建設における捕虜の悲惨な状況と高死亡率について最初に報せることになった。

ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

 ビルマ期はすさまじく、1942年5月から12月にかけて、モンスーンのにより印緬の森林・山岳地帯での戦術的な移動がほぼ不可能になり、戦闘は終了した。
 日本第十五軍の官である飯田正次郎中将は、期明けに攻撃を再開するかどうかについての意見を大本営からめられ、前線師団の指揮官に相談した。彼らは困難な地形、兵站の問題をできないと意見を述べた。とくに第十八師団を揮する牟田口廉也中将ははっきりと反対した。攻撃計画は中止された。

 「ドイツファースト」政策に従い、アジアにいる英軍にとって、要した増援部隊や航空支援は来ないし、各種物資の補給は減らされるわと、欧州戦線とは別の惑星の出来事のようだった。チャーチルビルマの戦いは対日戦における中心課題ではないと考えていた。あくまで来るべきビルマ作戦は、敗北の恥辱をそぎ、地に落ちた大英帝国の名を取り戻すことくらいが的で、それ以上でも以下でもなかった。極東戦線は、英国の参謀本部委員会によって最低の優先順位が与えらた。1942年12月まで、イギリスインド軍の新編成部隊はジャングル戦ではなく砂漠戦で訓練されていた。インド内も混乱していた。ベンガル飢饉に加え1942年初頭の連合軍の敗北の余波で、ベンガルとビハールしいクイットインディア運動があり、抗議を抑圧するために多くの英軍が必要であった。
 一方、日本ビルマでの地位を固めていた。ビルマ独立義勇軍を解散させ、ビルマ防衛軍に置き換え、日本軍将校によって訓練された。また日本のもと43年5月にバ・モーのビルマ政府が設立された。ただこの政府は実質的なをほとんど持たず、日本ビルマの政権のほとんどの面を支配し続けた。飯田中将ビルマの利益を促進する努をしたが、東京示で幾度も却下され、1943年に更迭された。

英軍の士気低下

英軍部では戦術レベルでいくつかの大問題を解決しない限り日本軍に立ち向かえないことが明らかとなった。
 第1にジャングルに生き、移動し、戦闘を行なうことができるよう戦術を習得しなければならなかった。将兵はもっと強かつ健康になる必要があった。潜伏、戦闘における火力と機動の統制、病気予防などはもっと厳しい鍛錬が必要であった。戦闘部門と管理部門の両部隊のもが、自衛のためだけでも効果的に戦えるようにしなければならなかった。
 第2に英軍は日本軍の浸透と側面包囲戦術への対抗策を策定する必要があった。 この種の戦術は戦争歴史新しいものではないはずだが、英軍の敗北ジャングルを嫌い、補給道路の遮断を恐れたことが大きくいた。包囲されることへの恐れをし英軍は道路依存することから離れねばならなかった。
 第3の決定的要因、それは士気であった。東南アジア環境は特に厳しく、燥した準砂漠から世界一量の多いジャングルで覆われた山系におよび、多くの危険な伝染病がこれに加わる。特にジャングルは多くの兵士にとって未知のものであり、脅威であった。連合軍は種々異なる文化と籍の兵士により構成されていた。連合軍にとってビルマは副次的な戦場であり、戦争の優先順位が低かった。1942年の屈辱的な敗北の後のビルマ戦線はマスコミの注を引かなかった。このため、インドビルマの将兵は視された戦場の「忘れられた軍隊」だと感じて憤慨した。さらにインド民族運動が何のために戦争しているのかとの疑問を生じさせる温床となった。その上、敵は情容赦のない無敵の存在との定評があった。

 ベンガルを拠点とし、アラカン戦線を担当していた第15軍団は移動し、「クイットインディア(インドを去れ)」運動の間に内の治安維持に当たった。インド兵の新規採用には政治的な懸念があり、日本マレーで捕虜にしたインド兵を使ってインド民軍を編成したことで事態が悪化した。インド民軍への参加者の多くは、英国人の指揮官に見下されたと印を受けたことが替えの理由となった。インド兵は大きな社会的、政治的圧を受けたが、インド軍自体は大部分が政治関係で英国揮に忠実だった。
 インパールの第4軍団の前線にはこれらの問題と取り組む勢的な揮活動がみられた。コーワン少将インド17師団に次の行動を即時準備させるため緊急措置をとった。彼は教訓に関する詳細な報告書キャメロン・レポート(作成者キャメロン准将の名に因む)で、ジャングル、戦術そして兵器の訓練や、若手将校および兵士を鍛える演習の必要性を示した。だが前途は多難だった。

43年の航空

 期が進むにつれて、英航空部隊はチッタゴン地域に進出したが、爆撃機ブレニムもハドソンも装備貧弱で、またウェリントンは熱帯戦闘ですぐ加熱しエンジントラブルを起こした。戦闘機ハリケーンとモフォークで、スピットファイアは配備されていなかった。日本機は42年12月20日と22日に明を利用して、さらに19431月15,19の両日、カルカッタを襲した。延べ23機に過ぎなかったが、カルカッタに大きな混乱をもたらした。そこで連合軍は43年3月中旬、双発戦闘機ボ―ファイターを配備した。これにより日本軍襲を防ぐことができた。
 この間英空軍は逐次増強され、一日に延べ150機も出撃して地上軍に協した。ハリケーン日本機を邀撃し、また間はブレニムを、間はウェリントンおよびこの正面初登場のB24をもって、日本軍の飛行場を攻撃した。その後英空軍の見立てでは、日本航空部隊はインド爆撃の際はビルマの前進飛行場に爆撃戦隊を推進し、攻撃を速やかに実施した後、シャムに帰還させる戦術に変更した。ビルマ航空隊の対応は適切といえよう。この方法は攻撃を受けやすいビルマの飛行場に、短時間駐機するだけだ。43年8月ニューギニアのウェワク襲のような大量地上撃破を防ぐことができるのだった。

第一次アキャブ作戦

ビルマの戦い(1942-43)

 英軍はインド東部で揮系統を再編成した。インド東部軍はインドの広い地域の安全を維持する幅広い責任を負っていた。インド東部部はビハールランチにおかれ、チャールズ・ブロード陸軍中将官となった。部のもとには、二つの軍団が配置された。一つはイラクからマニプールインパールに移送配備されノエルアーウィン中将揮の第4軍団、もう一つはカルカッタ近くのバラックポア新たに形成された第15軍団で、1942年6月9日からウィリアム・スリム中将揮した。第15軍団インド14師団にビルマ沿地域とアラカン方面を、インド26師団にガンジス河デルタ地域を防備させた。インド14師団はバルチスタンのクエッタで編成され、当初はイラクペルシャの連合軍に配備される予定だった。全装備編成の師団であったが、砂漠仕様ジャングル戦での訓練が不足していた。
 インド最高官のアーチボルド・ウェーベルは、連合軍がインドに撤退後もビルマへの攻勢計画を作っていた。戦線のほとんどの部分では、道路や他の補給線を善するか、攻撃を検討する前にゼロから構築する必要があり、少なくとも1年かかるが、ビルマ西武沿のアラカン戦線では、距離較的短く道路や補給戦はモンスーンが終了するまでに整備可だった。しかし実際はこの地域の貧弱な道路善するのに遅れ、進撃開始は1942年12月中旬となった。
 42年7月、ブロード将軍引退し、アーウィン中将インド東部官に任命された。彼はスリム中将と意見の相違があり、東部陸軍と第15軍団を攻撃場所を交換するように命じた。インド東部陸軍部はバラックプールに移動し、アーウィン官がアラカン攻勢の直接揮を執ることになり、第15軍団本部はビハールでの治安維持のためランチに移動し、スリム中将は後の戦闘のために新しい師団を編成し訓練をおこなうことになった。
 アーウィンは知的才は認められていたが、部下を信用せず揮権限を分散できなかった。また部隊長にがみがみ言い、細かいことに口をはさんだ。アーウィンは東部官に昇進すると、インド14師団の動きを統御する仕事にスリムを使わなかった。アーウィンはその後もスリム軍団長を中抜きにし、その頭越しに部隊を動かすなどの態度をとった。理由は全く私によるもので、1940年にスリムアーウィン友人スーダンで見殺しにしたことを、今だ根に持っていたのである。

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リム「私がこれから赴任する部の将校が、こんなに私に礼な人だとは思わなかった。」 アーウィン中将 「私が礼だなんてことはない。私が君の上官なんだぞ」

 1942年末から1943年前半のイギリスの限定的な攻撃の標となったのは、アラカンアキャブだった。アキャブは反攻に要する港湾と全飛行場を保持していた。アキャブからの戦闘機輸送機行動範囲の半径400 kmは中央ビルマのほとんどをカバーでき、中爆撃機ビルマ首都ラングーンまで530 kmまで往復できた。アキャブはマユ半島の先端にあった。600mになるマユ山脈は狭い平野とカラパンジンの肥沃な稲作に挟まれ険しくジャングルに覆われた丘陵だった。付近から半島に沿って、アキャブ等の対ファウル岬まで距離130キロほどと大したことはないが、アラカン入江小川の地で、運に頼る。交通路はあるが、本式な道路といえるのは一つしかなく、半島西海ブチドン(ブティダウン)とマウンドーの港を結んでいた。反攻の拠点となったのはに近い町チッタゴンであった
 当初1942年9月ヴェイヴェルの計画では、英軍第29(1942年11月までマダガスカルの戦いに従事していた)陸両用攻撃でアキャブに輸送する計画だったが、第29団と必要な艦船を準備できなかったため陸両用作戦は中止された。代わりにインド14師団がマユ半島の最南端のファウルポイントに到達しアキャブとの路を英第6団攻撃で横断する計画となった。アーウィンインド14師団を統率する仕事に、スリムを使わなかった。だがこのためインド14師団長ロイド少将は旗下に通常の師団の三倍にあたる9個団を持ち、アーウィン責任分野もカルカッタから北ビルマフォーヘルツまで広がり、作戦導に支障をきたすことになった。

作戦開始

 アラカン線を守備するのは日本軍十三師団の宮脇幸助大佐揮の第二十三連隊および支部隊3600人であった。中支およびビルマ戦線での経験豊富な宮脇は、英軍は中国軍より弱いと考えていた。隷下の砂子田大隊(二十三連隊第二大隊)は、本隊の北55マイルにてブチドンとマウンドー占領、その間は東西二つのトンネルを通って山系を横断する一本の良好な道路で結ばれていて、重な戦果だった。42年12月まで50日間かけてこの周辺に防御地を建設し、インドの偵察に従事した。
 ロイド少将12月2日ブチドン~マウンドー線の攻撃を決意したが、アーウィン兵站線が善されるまで延期せよと命じた。ところがそれは地形が厳しいアラカンにおいては気が遠くなるほど困難な仕事だった。ようやく1942年12月17日インドビルマ近くのコックスバザールからロイド少将の第14インド師団は南進を始めた。宮脇はこれを察知してブチドン―マウンドー戦から撤退させた。22日ロイド隊が到着すると、この前線はもぬけの殻だった。
 この時点で、宮脇は別の部隊の日本五十五師団(古閑健中将揮)が中央ビルマからアラカン派遣されるのを期して、ドンベイクとラテドンを占領せよと命じられた。12月28日宮脇連隊第二大隊がラテドンを占領し、第123インド歩兵団による町の占領の試みを未然に防ぎ、攻撃を次々に撃退した。
 残りの宮脇部隊はアキャブを占領したが、日本軍ドンベイクの北1.6 kmのとマユ山脈にはさまれた狭い地域を占領し、周到に偽装の施された地を作り上げた。19431月7日から9日にかけて、第47インド歩兵団がこの地域を攻撃したが撃退された。地は野戦をもろともせず、地に近づいた英印軍兵は防御側の弾と迫撃砲の猛攻撃にあった。この地点で50日間も英数個大隊による攻撃を撃退する。
 ヴェイヴェルアーウィン1月10日ロイドを訪れた。ロイドは、地に対処するために戦車を要した。アーウィンは次に、ランチにあるスリムの第15軍団旗下の第50インド戦車団に1個小隊戦車を要した。スリム指揮官ジョージトッド准将は、50輌以上の戦車を配備した全な連隊が必要だと抗議したが、アーウィンに却下された。2月1日55インド歩兵団はわずか8輌のバレンタイン戦車支援の下、ドンバイクを攻撃した。戦車のいくつか溝で立ち往生し、他の戦車日本撃で撃破された。その後の団の攻撃は失敗したインド123団によるラテドンへの攻撃も失敗し、団は撤退を余儀なくされた。英軍の揮は低下し、攻撃が撃退された後、英国人とインド人の部隊が戦闘継続を拒否したとの報告があった。

英国の最後の攻撃と日本軍の反撃

 ドンベイクでの敗北の後、インドの第47団と第55団はマユ山脈の東に移動した。3月第1週、日本第二十三連隊の第三大隊はマユを渡りインド55団を攻撃し撤退を余儀なくさせた。このためインドの第47団がラテドンの北に孤立した。インド14師団の左翼への増大する脅威にもかかわらず、アーウィン将軍は、強で訓練されたイギリスの第6団を使用してドンべイクに別の攻撃を行うことを要した。ドンベイク攻撃が始まったが、日本軍五十五師団が到着しておりドンベイクは強固な要塞と化していた。英軍第6団はこれに立ち向かってむなしく消耗し、300人の死傷者を出した。

 3月10日、スリム中将はアラカンの状況を報告するよう命じられたが第15軍団が前線を担当することはまだ意図されていなかった。スリムアーウィンに、師団部が作戦中の9団とうまく連絡できていないことに気づき、揮する団が非常に多いためインド14師団は前線を制御できなかったと報告した。また英軍の士気低下はを覆うべきものがあった。3月20日ヴェイヴェルアーウィンロイドの3人がインド14師団部で打ち合わせをした。この不幸会議の結論は、敗北を認めるということだった。
 次のドンバイクの攻撃を承認しつつ、ヴェイヴェルロイドを信用していないと述べた。のために、ロイドはマユ山脈の脊椎に沿った側面移動で第71インド団を使用することを計画したが、アーウィンロイドを信頼せず、攻撃計画を自分で決定した。彼は第71団をマユ渓谷回させ、英第6団に狭い前線への攻撃を命じた。団は3月18日に攻撃したが、日本五十五師団の守るドンベイクはびくともしなかった。
 3月25日に、ロイドは孤立した第47インド団に、アーウィンに逆らい、マユ山脈を横断するよう命じた。アーウィンロイドの命を取り消し、3月29日ロイドを解任し自ら揮を執った。その後4月3日リル・ロマックス少将を後任に据えた。4月3日日本軍五十五師団はマユ山脈を横断し、ドンベイク攻撃に失敗して撤退中の英第6団にインデンで遭遇した。攻撃側は棚橋大佐揮の歩兵十二連隊であった。日本軍により英第6部が襲撃されロナルド・キャンベンディッシュ准将が捕虜になった。この後英軍の反撃により日本軍も安くない犠牲を払ったが、第6団は惨敗し撤退した。孤立した英47団は士気が低く、小グループに分かれ、日本軍の包囲をかいくぐって撤退した。この敗残部隊は装備を失いバラバラで戦にならなくなってしまった。47団は戦として消滅し、生き残りはインドに送り返された。

 キャンベンディッシュ准将は直後に英軍の撃により死亡したと棚橋大佐が報告した。それから不快なうわさが広がり始めた。英公式戦史には「日本軍報道によると、直後イギリス軍の撃で殺された」と書いてあるだけである。この件に関与した棚橋大佐が、1946年戦後東京の連合軍総部に別件米軍ビルマ戦史を書くのに知識が欲しかっただけであった)にて召喚後、なぜか自決したため、のちに物議を醸しだした。 

 4月20日古関師団長はプチドンとマウンドーを占領するように命じた。4月24日攻撃が開始されたがマユ山系の地形に補給が苦しめられ、しい山岳戦が続き、ロマックスはスリム及びアーウィン揮のもとマウンドーを死守していた。しかし英軍の防衛は失敗し日本軍道路を遮断した。アーウィンはマウンドーを死守するよう命じていたが、スリムとロマックスは補給の断たれたマウンドーを放棄、5月14日日本軍はマウンドーを占領した。英軍は撤退し数かにわたるしい失意の戦闘の後、42年10月作戦開始位置に戻った。日本軍も戦死611、負傷1165と参加部隊の30の死傷者を出すなど簡単ではなかったが、英軍は死者916名、負傷者等4141名を出した。
 英軍は自分たちより小さい部隊に惨敗し、ジャングル日本軍50%も価値もなかった。インド兵は日本兵を明らかに恐れ、この作戦を取り巻く自然環境、深いジャングル日本軍の残虐さ、高熱の病、積み重なる挫折に士気喪失していた。英兵もジャングルを恐れ、この土地を嫌い、戦う的が分からず、さらにお偉方はも本当は関心がない忘れられた作戦に参加しているとの強い思いがあり、士気の低下は甚だしかった。アラカンの大敗後、英国人、インド人の士気と、英国の対日戦争に対する同盟の信頼感は前の低準に陥り、兵士指揮官の間に不信が広がった。幸い、作戦の規模が小さく、別な事柄に注意がひかれたため、この嘆かわしい戦場は世論の批判を免れた。

英軍惨敗の余波

 アーウィン中将は、スリムを第15軍団揮から解任しようとしたが、逆に彼自身がインド東部官から解任され英国に帰した。後任はジョージ・ギファード将軍であり、アーウィンとは非常に異なるキャラで、ギファードは陸軍の士気を回復し、その健康と訓練の状態を善することに集中した。
 ヴェイヴェルは軍官を解かれインド総督となり、トブルク陥落でロンメル敗北したクロード・オーキンレック将軍形のアフリカ戦線を解任され日陰インド軍最高官に転任になった。ここで失敗したバレンタイン戦車はのちに特殊戦車として架用にビルマ戦線で使われつづけた。

第一次チンデット(ロングクロス作戦)

ビルマの戦い(1942-43)

 オード・ウィンゲートの人物及び2度のビルマ後方への長侵入に関する資料は膨大なものに上っている。他の作戦全部より人々の関心を引き、他部隊の戦略たちと成果を不当な過少評価へといざなう。反面、ウィンゲートは同僚指揮官や冷淡な参謀たちの憎しみを買ったから、彼を貶め仕事インパクトを減らそうという断固たる努がはらわれているのだ。彼は戦前パレスチナに勤務中、ユダヤ人入植者に警団を組織させ、1936年のアラブ人の暴動に対し覚ましい戦果を挙げた。しかし彼の然たる親シオニズムは政治的には困るので転勤させられた。ロレンスによるアラブ熱が生まれ、英軍上層部で反ユダヤ義が流行っていた。1948年イスラエルのために英軍とたたかったイスラエル軍ハガナーのルーツはこの警団なのである。彼はエチオピアでのゲリラ戦で多大な戦功を立てた。しかし英政府ゲリラの成果に冷淡でそれが彼の強迫観念となり、失意の彼は417月カイロで愚かにも自分の喉を掻き切った。しかし倒れる音を聞いた隣室の将校のおかげで、彼は自分の愚かさから救われた。そして突然の軍歴の停止はヴェイヴェルの同情的な計らいで免れた。

 兵の士気が最低であった時、本々としていたウィンゲートは、ヴェイヴェルに呼び出され、ビルマ派遣された。対する日本軍歩兵ジャングルスーパーマンだった。日本兵は体的な耐久、極秘裏の敏速な行動ジャングル戦法の新機構の活用という点で最高だと信じられていた。これに然と異を唱えたウィンゲートは、カルヴァートとファーガソンを部下にチンデットを設立、ウィンゲートヴェイヴェルに1団を与えられ、この30代のキングズ・リヴァプール連隊13隊は底的に鍛えられ、脱落者が続出した。しかし残余のものは体が日焼けして強固になり、胸は厚くなった。日課6時に始まって半時間は銃剣術と素手での格闘、朝食に続いてジャングルの暮らし方講習、磁石の使い方、地図読み方、最も気温の高い間は休み、3時から5時までは雑役共同便所掘りと騾を作るためのジャングルの閥であった。

信者カルヴァート「大概の欧州人は、自分の体が何に耐えられるかを知らない。精と意志が往々にしてまず崩れる。現にやったのだからやれるのだと、たいていの兵隊にはみ込めない。格別にしい訓練の一つの効は、自分に何ができるのか、何に耐えられるかを身をもって本人が実することである。一日に50キロ行軍すれば、一息に40キロ歩けるのだ」。

 ウィンゲート空軍を重視した。英軍は道路にとらわれ、マレーでもビルマでも、日本軍の典的な戦法で兵站戦が切られると、攻め返すことができなかった。中戦の時代、トラックで運べるものはたいてい航空機でも運べるのである。航空機が着陸できなければ、落下で落とせばいい。ロングクロス作戦が発動され、ウィンゲート19432月13日ビルマ領に潜入した。率いる特殊部隊チンデットは中補給を受けながら北部ビルマで長期にわたって行動し、破壊活動を行った。英ダコタはウィンゲート挺進団に補給物資を供給する素晴らしい働きをした。期の間だけでダコタは延べ1100機も出動し、パラシュートが不足したため、インド麻(ジュート)で作った「パラジュート」さえ使用した。期でも野戦郵便業務は続けられ、チン・ヒルなどの地にも、ハリケーンに護衛されたダコタによって配達された。
 日本軍牟田口廉也中将率いる十八師団が守備をしていた。負傷者は置き去りにし、多くが殺されたり日本軍の捕虜になった。チンデットは多大な損を受けたが、日本軍ウィンゲートを補足できず、5月インパールに帰還した。2月チンドウィンを渡河した3000人中6月までにインドに帰還したのはたった2182人、未帰還兵のうち450人が戦闘死亡し残り430人が捕虜となった。この厳しい努で達成したのは、マンダレー・ミートキーナ間の鉄道を4週間不通にして、日本軍バーモ経由の長い兵站戦を使わせたこと、非常に重な地形上の情報を得たこと、部隊を投下補給だけで維持できると明して見せたこと(これは実は重要だったが)くらいだった。しかしウィンゲートの活動は英軍に士気の高揚をもたらした。適切な訓練と導の下に、補給を全面的に空軍に頼りながら、日本軍の戦線の後方を1600キロにわたりを開きながら行進した。英軍にとってこの遠征は、多くの面で道路のないジャングルの中の戦闘の経験となった。それは時には立たないが、戦時に頭を現す冒険心に富んだ一匹的な導者によるところが大きい。ウインゲートを野蛮な行動で優秀な兵士を死なした厄介者とみなす向きもある。しかし、敗北して弱体化した軍を戦場勝利するよう大きく変身させる先駆的な戦術と士気は、このような導者によってもたらされることが多い。彼はチンデットの指揮官として天才であった 。陰になっていた新聞はウィンゲートを大体的に取り上げた。

ウィンゲートリバプールマンチスター普通の既婚男子が、敵の後方で専門的なジャングル戦に訓練できるのであれば、英軍のどんな兵士にも同じ訓練ができるわけだ。々は第一級の戦士だと世界に示すことになる、私は確信している!」。

これはイギリスの大衆が待ち望んでいた言葉だった。宣伝の価値を知るチャーチルウィンゲート賞した。だが……

ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

 43年5月より期に入ったビルマでは、両軍の活動は再び停滞することとなった。しかしチンデットはこの時期の活動に大きな影を与えることになった。

牟田口廉也中将の野望

ビルマの戦い(1943雨期)

 ウィンゲート遠征にチャーチル以上に感銘?を受けたのが43年3月18日に第15軍の官に昇進した牟田口廉也中将だったのである。第十八師団長として挺身団に対応した牟田口中将の旗下、日本側も英軍相手に大隊長の戦死を含む多数の犠牲者を出しており、その英軍は日本側が不可能と断定していた経路を通ってきたのだ。

 英軍ができるなら、シンガポールビルマで英軍を難なく打倒したにだって必ずできるはずだ。野望はそれだけではなかった。大英帝国からインドをもぎ取るのだ。その当然の帰結として、イギリス戦争継続に影する。弱体化したイギリス戦争から脱落するか、行き詰まりを認めるしかないだろう。アメリカは孤立し、講和に駆り立てられるだろう。ドイツ日本が、ペルシャで手をつなぐことになるかもしれない。自分は、これらすべてを達成するカギを握っているのだ。

余は一発支那事変を起こし、大勝利を獲得した。さらに兵を印、マレー半島へ進め、南下してシンガポールを占領、南方大陸いたるところにて大勝利をおさめ大東亜戦争にまで発展させた。今度はインドに兵を進め、大東亜戦争大勝利のうちに集結させる。これは余の務めである。余以外にこれを実行できるものはいない。

インド侵攻への

 連合軍の反攻に備え、ビルマ方面軍が編成された。官には河辺正三中将が任命された。隷下には第十五軍、第二十八軍、第三十三軍が配置された。この機に第十五軍の飯田官は転出、後任の軍官に親補されたのがマレーで自身が創を受けながらも英印軍を撃退した猛将、牟田口廉也中将である。

「いまや全般の戦局は行き詰っている。この戦局を打開できるのは、ビルマ方面だけである。ビルマで戦局打開の端緒を開かねばならぬ。そのためにはただ防勢に立つだけではいけない。この際、攻勢に出て、インパール付近を攻略するはもちろん、進んでアッサム州まで進攻するつもりで作戦導したい」

 この青天の霹靂のような申し渡しに、小畑軍参謀長は困惑した。小畑軍参謀長は長く陸軍大学校の兵站教官をやり、陸大に小畑兵站ありといわれたほどの兵站の権威者の一人であった。小畑軍参謀長は、アッサム進攻は兵站の見識から補給が続かず危険であると、反対の苦言を呈した。だが、牟田口官の意思は動かなかった。小畑軍参謀長は「事はあまりにも重大だ。軍官の標はアッサム州にある。これは危険だ、なんとしてでも思いとどまらせなければならぬ。これは外によって阻止するほかはない」と考えた。思い余った小畑軍参謀長は第十八師団長田中新一中将を訪ね、同中将から意見具申をしてもらいたいと依頼した。だが、田中新一は陸軍参謀本部作戦部長として開戦強硬として太平洋戦争を始めた本人ともいえるいわくつきの人物である。田中団長は、4月20日に開かれた兵団長会同で、小畑軍参謀長から依頼された内容を伝えるとともに、いやしくも軍参謀長が直接、軍官に進言せず、部下の師団長をかいして意見を具申しようとしたのは統率上憂慮すべき問題だと付言した。このことが牟田口官の逆鱗に触れ、小畑軍参謀長は就任後わずか一ヶで解任、5月3日ハルピンの特務機関長に転出させられた。小畑軍参謀長の解任を見て、軍官の意に反して苦言を呈することは、首が飛ぶことだと知って、幕僚たちは、それから一人として諌言を呈する者はいなくなった。
 次は配下の師団長である。昭和18年4月20日牟田口官はメイミョウの軍部で隷下兵団長会同を行った。この会同で、牟田口官はインド進攻作戦を披露した。軍官はかつて第十八師団長としてマレー作戦に従った時の経験に基づいて英軍の弱点を熟知していた。

「敵は弱い、特に側背の脅威に対し極めて敏感で、包囲すればち潰走する。敵と衝突したら直ちに敵の側背に兵を部署せよ。不意、敏速、果敢に行動して速やかに敵に対し包囲の輪を作れ、あとは一挙にこの輪を縮めるだけだ。戦勝は疑いない。敵が潰走する際遺棄する兵器弾薬、糧秣は膨大なのを常とする。したがって補給においては憂うるに足らない。敵の装備、携行品、貯蔵物悉くこれわが補給線だ。軍はこれを十二分に胸算しこの度の作戦を敢行する。」

 列席した各師団長は、いずれも然として驚いた。会同終了後、師団長相互の雑談で、第三十一師団長佐藤幸徳中将は「あんな構想でアッサム州までいけるとは笑止の沙汰」ともらした。さらに、第三十三団長柳田元三中将も「まったく可性の作戦だ。軍官の意図には不同意だ」と反対した。しかし牟田口中将はひるまなかった。
 昭和18年5月、新任の南方軍総参謀副長・稲田正純少将(陸士29・陸大37恩賜)が戦線視察のためビルマに来て、ビルマ方面軍官・河辺中将と会談、さらに稲田副長はメイミョウの第十五軍部を訪ねて、牟田口中将に面会した。牟田口中将は待ち受けたように、インド進攻計画を訴えた。しかも季明けの9月に実施するというものだった。稲田副長は「次の機会までによく研究して欲しい」と再考をめた。 すると牟田口官は、満州にいた当時の話を持ち出した。

で第一発を撃った時の連隊長として責任を感じている。どうしてもか殺さねばならない作戦があれば、を使ってくれ。の気持ちはあの時と同じだ。ベンガル州にやって死なせてくれんか。私もし自分の努インドに侵攻し、大東亜戦争に決定的影を与えることができれば、で今次大戦勃発の遠因を作った私としては、国家に対して申し訳が立つ!」

 8期も後輩稲田副長にこれほど頼むとは、本心に違いないと思われた。だが稲田副長は「インドに行って死ね牟田口閣下はお気がすむかも知れませんが、日本がひっくりかえってはなんにもなりませんよ」と遠慮のない答えをした。それでも牟田口中将は、決意を変えようとはしなかった。ついに東條首相に直接手紙を送って、計画の承認をめた。
 小畑軍参謀長の後任の軍参謀長には久野少将が補任された。久野少将は上官に苦言をあえて言う人ではなかった。昭和18年6月24日ラングーンのビルマ方面軍部で兵棋演習が行われた。南方軍がビルマ防衛線の推進に関心を持ち、研究を要望したためだった。これを視察するため、大本営から第二課(作戦)の竹田宮恒徳王少佐南方軍からは稲田総参謀副長以下、各主任参謀、シンガポールの第三航空軍からは高級参謀・佐藤大佐が出席した。牟田口官は、この兵棋演習を絶好の機会ととらえた。ついに第十五軍のインド進攻、インパール占領作戦の兵棋演習が行われた。6月26日牟田口官は竹田宮に拝謁して、インパール作戦の必要性を説明して、大本営の認可を願った。その態度、調には強な信念があふれていた。竹田宮は、はっきりと、「現在の十五軍の案ではインパール作戦不可能だ」と答えた。「不全な後方補給では大規模な進攻は困難である」と。牟田口官はそれでも、しつこく認可を願ってやまなかった。演習終了後、ビルマ方面軍参謀長・中永太郎中将南方軍・稲田副長も反対した。ビルマ方面軍では高級参謀・片倉大佐牟田口計画にっ向から反対していた。だがビルマ方面軍河辺正三中将牟田口に味方した。

大本営でのインパール作戦の浮上

 河辺事件以来、牟田口とはよく知った仲だった。1937年7月8日午後、河辺団長北京に戻ってみると、牟田口はおお得意自信満々であった。河辺牟田口に同調し、たぶん彼は牟田口が自分より上の連中の手先なのだということを、薄々感じていたが、知って一番抵抗の少ないを選んだのだ。牟田口河辺の関係は、友好的で生なものでさえあった。そしてある時牟田口は感慨深げに「閣下北京でもここと同じく私の上長でした。支那ぶっぱじめたことをこのビルマで終わらせましょう」といった。しかし牟田口河辺から警の眼を放さなかった。前段の引用は、いわゆる支那事変の口火となったの攻撃命牟田口隊長が専決し、河辺団長が追認した事情を示している。その時の関東軍参謀長が東條英機であった。この関係はインパール作戦の時も同様で、牟田口中将は「時の参謀総長東條大将には毎日のように私信を書き送った」と記述されている。しかもこの手紙の相手は東條だけではない。インパール作戦間、牟田口官は頻々として中央に手紙を出した。あて先は東條首相であり、富永安治陸軍次官であり、あるいはまた陸軍省のやりてといわれている将校たちである。東條に直接訴えるのは、佐官時代の二葉会と一夕会以来牟田口の常とう手段であったようだ。
 昭和十八年十月一日、インパール作戦に反対し続けていた稲田副長は第十九軍部付に転出した。この人事は富永陸軍次官が東條に働きかけて行われたのである。牟田口中将毎日のように東條陸相や人事を握る富永恭次陸軍次官に私信を書いていたことと関係ではなかった。稲田副長が転出すると、南方総軍にはインパール作戦を抑制する者がいなくなった。稲田の後任はインパール作戦推進少将であった。大本営から南方軍への圧について、上法快男編「元帥寺内寿一」にインパール作戦に関する記録がある。部副長は「私が南方軍参謀副長として赴任する際、杉山参謀総長は私に対し次のような希望を述べられた『戦局各方面ともに行き詰まりの折柄、いずれかの方面において成果を上げ得べき作戦を実行した。その意味で南方軍においてインパール作戦の可性を検討されたい』と」と弁明している。部副長は南方軍にてインパール作戦の決行を進め、南方官寺内元帥に委細報告の上「作戦決行」の決裁を受けた。その中で「ビルマ方面視察に対する報告は、兵団の作戦計画、研究演習の経過及び状況、方面軍の意向、視察所見討詳細にわたるものであったが、元帥は終始一言も発せらるることなく黙々として聴取せられ、終わりに『大本営の認可をとるように』と発言せられたのみであった。」とある。のちに大本営にてウ号作戦認可の時、杉山参謀総長は「寺内たっての希望であり、希望通りやらせたらよいではないか」と人情論で押し通した。璧なマッチポンプである。

 東條首相は、全般的な敗勢の中、牟田口官のするインパール作戦に望みを託すようになっていた。東條英機首相は、自由インド仮政府チャンドラ・ボース首班から「インドにわれわれの拠点をつくってほしい」と要請されていたのだ。1943日本はいまだ解放者で、ビルマ人がイギリスの復帰を望んでいると考えることはできなかった。しかし…

43年期の航空

 ビルマ空軍の努は劇的でもやかでもなかった。もともと宣伝には熱心ではなく、世界ビルマの英空軍のことはほとんど何も知らなかった。「加藤航空隊」で勇名をとどろかせた日本軍ビルマ航空隊とは対照的だった。43年3月アース空軍中将インド空軍官に就任し、その揮下に第221-227グループが編成強化され、6月には53中隊(うち第1線機は戦闘17爆撃7、偵察9ほか、計38個中隊)に達した。ピアース4月に反撃する予定であったが、日本航空隊は5月期入りにはシャムに撤退していた。そこでピアースは後方連絡線の破壊を重視し、鉄道網、兵站道路及びラングーン港などに攻撃標を変更した。双発のブリストル・ボーファイター単発急降下爆撃機ヴェンジャンスが配備され、ボーファイターは20門四門、機関銃5丁を装備し、低標に静かに近づき攻撃するという特技があった。ボーファイターはミートキーナの日本軍天長節の行進を急襲成功した。43年期前に連合空軍は3日間に延べ547機(うち4分の1が米軍が出撃した。またしばしば列車ホームに追い詰めて破壊、路の攻撃も実施し182隻の動船と2000の船を沈めた。
 期間に日本軍の攻勢準備状況の偵察は困難かつ技術を強いる物で、英空軍はこのため27機と42名を失った。日本軍航空隊は季の活動はどしなかったので、の影はあっても、作戦準備にはよい時期だった。42年3月に南東アジア空軍部が使用しう近代的な作戦用全飛行場は4か所であったが、43年期明けには285となり、そのうち45空軍の使用に供せられた。すべての機種を合わせると43年の初めの1443機から期明けに3699機に増え、戦闘第一線機は519機まで増加、モホーク戦闘機は逐次置換され、ボーファイターは倍増、ハリケーンは増備された。ヴェンジャン572、B24 69、ダコタは29から100機となった。また線による監視所は南部アラカン山系とチン・ヒルに20マイル毎に設置された。ティディムから90マイルのところにも設置されていた。
 アキャブへの絶えざる中からの攻撃は、日本軍の補給はもはや路を使用できず、シャムから遠い前線まで陸路によらざるを得ないことを意味する。しかも3000の船、180自動車及び640の鉄道車両を破壊または損を与えた。またラングーンへの英空軍による攻撃により、この港湾を使用するのにも困難が伴った。

 連戦連勝にわいた開戦からほぼ一年、マラッカ峡の制権は当然、日本が押さえていると信じていた。…経済が逼迫して極端な物資の窮乏に陥っているビルマに赴任するのに、上には、英軍の戦闘爆撃機が三機旋回していた。輸送船の撃沈を合図のように、こんどは面に浮いている一群に口をむけて機掃射をはじめた。低で射撃しているうちに、オランダ軍捕虜をみつけて、味方の捕虜輸送船と知らずに爆撃した「誤爆」に気づいたらしい。自分たちの誤算に怒り狂ったように、日本人の輪だけに口を向け集中してしい撃を繰り返しだした。…英軍機は燃料切れと、自分たちの誤爆に気づいたのか、一時間そこそでインド洋の彼方に引き返していった。ビルマインドとのに近いアキャブには、当時、勇名をはせた加藤戦闘機隊の基地があり、当然、インド洋の制権は日本軍が握っていると、だれしも信じていた。輸送船にたいする航空機の護衛もなく、まったく虚をつかれた形になったが、いま考えると、この頃から敗戦の前兆がはじまっていた。

前線で敵空軍の攻撃にさらされ、疫病も猖獗するビルマの地は、日本兵の間でははいつしか地獄ビルマと呼ばれるようになっていた。

 昭南シンガポールを出港してまもなく船中で発病した私は、ラングーンに上陸した時は立つことも困難な病人であった。輸送官は内地から引率してきた私たち軍属225名をビルマ部に引き渡した。重患の私を時間以上も放置し、ようやく診療が受けられたのは5日後であった。
 「こりゃ大したもんじゃない、デング熱だ。もう直りよる、2,3日にな」
 「どこでもよろしいですが、入室を、さしてくだ」
 「こら!、なんだ貴様!ここをどこと思っているか、おい!、ここは軍隊だぞ!、ビルマだぞ!、内地のとは違うぞ。ビルマが分かるかビルマが!。大げさに弱った格好をして見せて、何のざまだ!、兵隊なら、こんなぐらいじゃ寝かさんぞ。軍属だと思って優しくすりゃあ付け上がって、こら!、軍隊が分かるか、起きろ!、起きれる!」
 と私を見据えて怒鳴りつけた。「くそ」突き上げてくる怒りに体が震える。話に聞いたこともない、この軍隊の「暴」。これが攻勢で強いという日本軍隊の姿であろうか…。随添人四名中、同僚の森山、常山、引率者の近藤軍曹の三名は、いずれも大学卒の世事にたけた中年者。地方でなら、相手の非を問うこともできようが、ここでは軍医の襟にみる二枚の章(中尉)に押されて者さながらに竦んでいる。社会的身分がどうであろうとも、いま、下級者である…。数時間後、便所の前に倒れている私の前に…「こんなことをやられたら、兵隊はなんぼあっても死んでしまう。別の軍医の手で、よいか!」こうして別軍医の手で再診断が行われ、私はその日のうちに第兵站病院に移された。

ジャワの極楽ビルマ地獄、生きて帰れぬニューギニア

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   !´ヽ、   ヽ ( _ U   !、 ヽ。ヽ/,レ,。7´/-┬―┬―┬./    ん  れ
  _|_/;:;:;7ヽ-ヽ、 '')  ""'''`` ‐'"='-'" /    !   !   /   だ.  と  か
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   |  |;:;:;:;i\    iヽ、   i {++-`7, /|  i   !   !  <_      の  が
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ビルマ独立と占領政策の綻び

ビルマの戦い(1943雨期)

ビルマ経済の変化

 インドイギリスからの解放が優先標になると、ビルマが先例にならなければならない。ボースに、インド解放の決意は名誉にかけて達成するという動機がなければ、ビルマ独立が短期間に実現したかどうか疑わしい。理解と思いやりのある飯田は、狭量で固定観念の強い河辺正三に代わっていた。彼はバ・モーを信用せず、ビルマ人を度し難い植民地人として扱う傾向があった。だがバ・モーは、こう書いている

バ・モー「歴史に敵見れば、白人支配からアジア解放するために、これほど尽くしたはない。さりとて開放してやり、多くの模範を示してやりながら、その党の民からこれほど誤解されているもない……日本軍国主義者と人種幻想に裏切られたのだ。」

 ビルマに関してのこのテーマは、戦後日本歴史書で繰り返されている。太田恒蔵は日本ビルマ占領の良かった点を論じた100ページほどの本を書いている。これは公式刊行物ではないがF・S・V・ドニスンの著書「極東におけるイギリス軍政」及びビュー・ティンカーユニオンオブビルマ」に日本側の見方として意義がある。太田日本によるビルマ経済物理的荒は認めるが、精的な影はそれを上回る効果があったとした。なるほどイラワジ運会社の船舶や機関車車両はほとんど失われ、農地は荒れたり放棄されたりした。彼は機関車85を喪失したといい、ティンカー鉄道資産の喪失は48としている。経済の悪化はやむを得なかった。なぜなら上交通は切断され、ビルマ事実上、陸の孤島化していたからである。産業施設は襲で破壊された。しかし約20万の日本軍を養うだけのの生産は維持され、民衆が飢えたりはしなかった。そればかりか、人々は自信を持つようになり、導者の威信は強まった。ビルマ独立義勇軍の中核分子は一万武装軍隊に発展し、これがイギリス軍復帰後の独立交渉のの背後のとなったと、太田は断言する。バ・モーは、経済問題について日本軍を評価して書いている

衣類輸送機関と燃料、医薬品……交換、修理部品を含む一切の機械類、技師などきりがないほど不足していた。こうした物や人は、ほとんどアメリカ日本輸送機を締め付けている中を、路運んでこなければならなかった。そしてそれは実行された」

 …実際は、実行されなかった。バ・モー政権の元新聞広報局長官ウ・フラ・ペの摘によれば、日本の貿易商社ビルマ経済を支配し、日本ビルマで何も生産せず、一切輸入しなかったに等しいと言う。配給された消費物資は、1942年にイギリス企業が置いていった物で、補充なしで減る一方だった。「武器弾薬慰安婦しか運んでこなかった」この食い違いについて、スミートン准将の生々しい評価がある

 戦前ビルマ水田と純のパゴダの、豊かに開発されただった。天然に富み、整然と植えられたゴムは、の数日で爆発的に葉を茂らせる。大森チーク材、大地は石油をを下ってへ積み出される。食べ物は常に満ち溢れ、だれもあくせく働かなくてもよいだった……今は戦争で荒れ果ててしまった。戦争は、三年間中を繰り返しし、油田もも村も、とりわけあらゆる鉄道道路を破壊し去った。放置が荒をもたらした。農場は手入れされず、水田は耕されない。畜は飼いの手を離れて畜殺され、は死ぬか、ジャングルで野ばなしになった。業は中断し、医薬品は底をついた。人心も荒した。教育は行われず、行政は崩壊した。

 だが注すべき副産物を生んだ二つの要素がある。第一に南部ビルマ戦前インド貸が農地の半分を所有し、ビルマ人の小作人に貸しつけていた。英軍が撤退すると、彼らはインド逃げ出した。バ・モーはこの機会をとらえて、放棄された土地をビルマの小作人に引き渡した。市場といえば日本軍軍票で気前よく支払ってくれた。農家負債は解消した。

 英軍が放置して逃げ去ったな建物は、日本軍に接収されて、そのまま高級将校の宿舎にあてがわれた。独立して日本軍の先導役として戦ってきたビルマ導者には、これらの建物や財産は一切与えらなかった。これをみた導者の間には不満のもでて、植民地時代の主人公英国から日本に入れ替わっただけという受け止め方もあり、日本軍部とビルマ導者の間に溝をつくるキッカケともなった 
 …ラングーンを離れ、地方を歩いてみて意外な発見をした。「長年にわたって苦しめられた英国を、日本と一緒になって追い出した」という意識から、ビルマの人たちは日本人を「同志」てみていた。純な農村ほど、この傾向が強く、彼らの一番の仲良しは村に駐屯する日本兵たちで、それも階級の低い兵士と親しくしていた。

 第二に強制労働の問題である。泰緬鉄道に雇われた多くのビルマ人労働者には、筆舌に尽くしがたい苦難と疫病と死が待っていた。だがバ・モーはこの人命と苦難の代償さえもをを容認し、泰緬鉄道について日本軍のために弁じているのである。

浅井徳一によるバ・モー暗殺未遂事件

 このようにバ・モーは日本軍のために熱心に弁護し、1945年にはイギリス軍に降伏するより日本亡命のを選んだほどなのに、多くの日本人から信用されず、憎まれてさえいたというのは、あの戦争の数あるパラドックスの一つだったといえる。日本軍敗北に際して旗下のビルマ国軍を反逆させ、イギリスの側に立った若き学生革命アウン・サンが、多くの日本人人気なのもパラドックスの一つである。

 浅井徳一教授は、バ・モー暗殺を試み、自分では日本陸軍への義務だと信じた行為のために投されるに至る。地政学の専門として東南アジアに招かれた浅井は、ビルマに行って二人のタキン党員に紹介された。夕食を共にして彼らは、バ・モーがイギリススパイだとった。浅井は彼らの言葉を一たりとも疑おうとしない。義憤に燃えた浅井は、バ・モーを殺さなければならないと決心した。2月16日決行日とした。襲撃は失敗し、浅井憲兵逮捕された。1944年4月24日ビルマ方面軍は裁判を行った。それは正式な軍法会議ではなく、軍会議だった。襲撃事件の起こった時、法的にビルマ独立して、すでに7か近かった。事件は独立首相に対しておかされた。裁判はビルマ法律に基づきべきだとされてもよい。事実タキン・ヌー外相は、河辺官に対し、浅井の引き渡しを要したのだが、拒否されている。事件は南方軍から東京陸軍省に報告され、天皇にも入った。天皇遺憾の意を表明した丁重な親電がバ・モーあてに打たれ、東條英機浅井を厳しく処分するよう寺内にめた。しかし浅井は寺内の同期であり、数学の試験の時一夜漬けで教えてもらった恩を忘れてはいなかった。彼は操られて犯罪に巻き込まれたように仕組まれて救出された。浅井は15年の有期刑を言い渡された。三人が刑務所に戻ると、刑期の三分の一も務めれば、仮出できるだろうとった。翌年ラングーン陥落に際して、受刑者たちは安全なモールメンに移送された。
 降伏後、浅井は英軍に知られ収容所に入れられるとまずいことになる。釈放され数バーツのをもらい、泰緬鉄道を経て、バンコクトロカデロ・ホテルにしばらく滞在したのち、日本人民間人の収容所に入った。昭和通商の社員だと称して、英軍の監視および捜索の眼を逃れ、1946年した。英軍は収容所を出る一人一人を調べていたが、そのころ辻政信大佐の捜索にかかりきりで小物は逃がしてしまったのだろうと彼は思っている。事実その通りだった。
 この暗殺未遂は実に奇妙なエピソードであり、日本人ビルマ人のお互い憎半ばする気持ちを遺憾なく物語っている。バ・モーもウ・ヌーもこの事件について簡単に触れているが、日本戦史は奇怪な沈黙を守っている。ビルマの陸戦を扱った四冊のうち二冊は、ビルマ独立の経緯に多くのスペースを割いているのに、全四冊を通じて首相の暗殺を謀った浅井教授についての記述がないのだ。さらに日本軍ビルマ占領について詳細に述べた太田常蔵の著書にも、それについての言及はない。それでも浅井の企図は、ラングーンの軍・民間人には知られていたし、ビルマの支配階級も明らかに知っていた。

 これは残念なことだ。たとえ日本東南アジア政府、個人が当惑するような暴露がなされようとまだまだ多くがられなければならない。日本ビルマの双方から表明された連帯感も、それが表明された日付によって、疑ってかからなければならない。バ・モーの戦時中の演説は、日本との協に寄せるしい民族義的熱狂に満ちているが、戦後に自伝では偏狭な日本軍人に惜しみない嘲笑を浴びせている。ウ・ヌーも同じである。

 ビルマでは極めて重視される宗教の分野では、占領第一年に、日本人は同じ仏教徒だと強調した。しかし日本寺院は、もっと自由で気楽であり、僧侶は妻帯しているのだから、ビルマ教団が歓迎するはずはなく、日本人を罰当たりスレスレだとみていた。多くのビルマ僧侶は、日本軍寺院を兵営にし、の収集とか死体の取り片付けといった不浄な仕事を言いつけるのを嫌がった。日本天皇崇拝は純仏教の教えからすれば冒涜だし、戦死者の慰霊祭を邪教視していた。

連合軍のビルマをめぐる情勢

ビルマの戦い(1943雨期)

 蒋介石の参謀長であるスティルウェルは、ビルマ北部を奪回して、中国の補給問題を解決することを決意した。ワシントン米軍導者たちも、同様な理由と、中国日本と和するのを抑止する手段として、1943年のあるいはビルマに大規模な攻撃を仕掛けることを支持した。蒋介石はスティルウェルの計画に同意したが、その計画を必ず成功させるために、英国が上陸作戦を実施するという条件を付けた。
 ビルマを奪還しようとなると、ベンガル湾から陸両用作戦でイラワジデルタを包囲するのが最善の方法だ。 もしビルマ北部から日本軍を掃討し、中国に続くを建設できたとしても、ビルマ中央部に残っている日本軍から道路を防衛するのは大変な任務であった。(蒋介石が固執している)ラングーンへの上陸作戦を実施することだけが、ビルマから日本軍を一掃する現実的な方法であった。これが理となると、あのアラカン山系をえて陸路の反攻というぞっとするような展望あるのみだ。

 19431月カサブランカ会談でマーシャルキングは翌年にはビルマを奪回するよう英国に即した。「アナキム」という暗号名で呼ばれたこのビルマ作戦こそ、中国の戦いを続けさせ、また太平洋米軍の圧を軽減するため絶対必要なものだと説いた。英国は「アナキム」作戦は 1944 年の末でなくては実施できないと1944年まで何もできないという言い分にキングは「途方もない」と決めつけ、一方マーシャルはもしアナキムが遅れたら「太平洋で起こる事態によっては……残念ながらヨーロッパから米軍が撤退せざるを得なくなることも起こりうる」と警告した。英国はそれでもまだ懐疑的で、1943年中には上陸用舟艇の数がそろわないだろうといい、キングアメリカでは船舶を増産中だから十分間に合う、と保した。そのための船員は?、英海軍は人員不足でとても割くことはできない。上陸用舟艇は南西太平洋から乗員付きで回航できるし、もし必要なら米海軍の護衛をつける、とキングは答えた。だが結局は英国の言い分のほうが正しかった。上陸用舟艇は43年中はひどい不足状態だった。しかし英国キングにそこまでいわれては同意するほかなかった。43年にアナキムは開始されることになり、その最終決定は同年合同参謀本部で決定されることになった。

 ただし米軍内でもビルマ侵攻に対して温度差があった。スティルウェルの狙いは、戦闘準備ができた中国30個師団の陸軍部隊を設立してビルマ道路を再開することだったが、蒋介石は自分の軍隊が米国によって再訓練されるのを快く思わなかった。中国国民党陸軍は、蒋介石の命下に、スティルウェルの命には従おうとしなかった。中国語が流暢なスティルウェルは、中国人に親の情を抱いていたが、蒋介石をまったく尊敬しておらず、米国宛の暗号電報のなかで蒋介石を「ピーナッツ」と呼んでいた。蒋介石とスティルウェルの関係は、次第に険悪になっていった。もう一方のファクターは、中国本土から航空を使用して日本爆撃するクレア・シェンノート准将の提唱の戦法であった。太平洋戦争が勃発したとき、シェンノートの一団は、スティルウェルによって正規の陸軍航空部隊に組み込まれた。シェンノートは、彼自身の航空だけで日本勝利することができるとし、スティウエルと関係はぎくしゃくし始めた。説得があって切れのよいシェンノートはスティルウェルとは対照的で、蒋介石はシェンノート計画に魅を感じていた。この対立もあって米軍内で「アナキム」に対する関心は薄れ、19435月チャーチルルーズベルトワシントンで会ったときは、「アナキム」作戦要な関心事ではなかった。中国に対する輸の増強に優先権が与えられたのである。

東南アジア部への再編

 19438月に連合軍は東南アジア部(SEAC)に再編され、チャーチル陸両用作戦に最適の最高官として、ルイ・マウントバッテン卿を任命した。マウントバッテンの任務は、ビルママレー、および東南アジアのその他地域から日本軍を一掃し、ビルマ北部を通って中国に至るルートを再開させることであった。キングジョージ世の従兄弟であり、英海軍最年少の中将であったマウントバッテンは、東南アジア連合軍の総司令官の任に就いたときは42歳であった。マウントバッテンは日本の参謀総長が日記でこき下した通り、駆逐艦以上の揮は全く経験がなかったが、ヴィクトリア女王の孫という権威があり、かなりの品格を備えていた。ブルックマウントバッテンの限の精と推進を認めながらも、着実な影を発揮できる参謀長として、サー・ヘンリー・パウナル中将を据えた。失態が続いたノエルアーウィン中将は更迭され、12月ウィリアム・スリム中将イギリスインドの混成軍であるイギリス第14軍のとなった。陸軍ジョセフ・スティルウェルもマウントバッテンの副官となり、インドから中国へのレド路の構築をした。
 東南アジアに展開していた米軍の将校や兵士たちは、先ず開戦当初の日本軍による攻撃に直面して露呈された英軍の敗北義に驚かされ、さらにビルマおよびインドにおける反帝国運動の高まりは、英帝国に対する米国の疑惑を強めることになった。SEACに派遣された米軍将校の多くは、居心地の悪さを感じた。アジア人からは、東南アジア大英帝国を取り戻す活動にアメリカ人が手を貸していると見られる可性があったからである。米軍将校たちは、SEACを「Save England's Asiatic Colonies―イギリスアジア植民地を救え」と呼んだ。SEACは、連合軍の優先順位リスト較的下位に位置していた。マウントバッテンは、その軍事的の達成に必要な資兵士を何度も奪われた。恐らく、東南アジア戦域は、英が共同で戦った戦域のなかで、最も失敗が多く、政治的に分断されていた戦域であった。
 1943英国軍、植民地軍、およびインド軍に採用される士官と兵の質に重要な問題が生じた。適切な兵士不足の深刻化は全戦場いた。例えば、インド軍は開戦当初の約19万人から43年中頃に約200万人に増大した。インド軍はその頃までに通常の地域と階級から採用できる人員をすべて動員しており、軍事経験に乏しい地域に徴兵対を拡大しつつあった。徴兵の拡大に伴なって基準が一般に低下し、新しい階級が含まれるため訓練期間の延長が必要なことは明であった。

空軍の統合と航空の拡充

 マウントバッテンらは英軍の航空の拡充を進め、43年11月16日アース東南アジア空軍総司令官についた。12月にはRAF第三戦術空軍が設立され、英空軍221グループ222グループ224グループなどが揮下になった。194311月になるとインド北東部に275本の滑走路が建設され、保守整備施設の大幅拡により航空機の可働率は40から 80に向上し、通信施設、偵察、防善された。ハリケーンは依然として要な防であったが、194310月になると高性スピットファイアマークⅤcが配備され、防の向上に大きく寄与した。しかし重要なダコタ輸送機は、機数が限られ、その供給を米国依存していた。さらに悪いことに、ビルマにある輸送機の大半を保有していた第10陸軍航空隊は、マウントバッテンの揮下にはなく、スティルウェルの部下の陸軍航空ストラトメーヤが揮していた。第10航空飛行隊の輸送機の大半は、インドから「ヒマラヤ山脈」を越えて重慶に補給品を輸するために使われていた。スティルウェルはマウントバッテンの副官に任命されていたが、蒋介石の参謀長(部は重慶)でもあった。マウントバッテンは、この輸送機インド重慶間の輸以外に使いたい場合には、非協的で短気で英国人嫌いのスティルウェルを通して統合参謀本部に依頼しなければならなかった。マウントバッテンが今後のビルマ作戦に使用できるのは、陸軍航空隊の W・F・オール大将の6個輸送飛行隊のみだった。

第14軍の設立と増強

 マウントバッテンは東南アジア連合軍(SEAC)部に到着後間もなく、ウィリアム・スリムを新設の第14軍、通称「Forgotten Army」の官に任命した。麗で大衆受けするマウントバッテン提督はこのような認識を変えようとしたが、民の間で有名になったのは同提督の名と 1944年飛行機事故死亡したチンデット部隊の変わりな導者、オード・ウインゲートくらいのものだった。敵国日本においてスリムと第14軍は、まったく名の存在だったし、いまでもそうである。
 英軍の士気は、ウィンゲートの鼓舞があったとはいえ、まだまだ問題が多かった。これほど厳しい戦場は他に類をみなかった。数マイルにわたり事実上、がなく、ジャングルで覆われた山系、半年続く期の泥沼。軍の任務が不確定であったため、補給と人員配置の優先順位は低かった。一番の問題点はスリムの戦人種の寄せ集めで、動機付けに欠けていたことである。英本土人インド人、グルカ族、東アフリカ人、西アフリカ人のなかで英国ビルマ支配回復に献身する者は少なかった。そしてうち続く敗北の経験を経て、スリムの混成部隊は無敵と思われた日本軍を畏敬していた。
 スリムが士気高揚のため取った最初の措置は日本人人ではないことを軍に確信させることであった。彼もインドに実戦的で厳しい訓練学校を設立し、訓練部隊を数週間ジャングルの中に送り込んだ。次に補足的な措置として、長時間を費やして部下のところに赴き、もが分かる易な言葉で彼の的と理念を説明した。これは2度の大戦を通じて英国将軍としては稀なことであり、スリム較的質素な生い立ち、高等教育の欠如、若い頃のバーミンガム金属工場での経験によるものと思われる。彼はこのような実際的革、訓練の善、規、そして個人的意思疎通の才覚の組み合わせによって第14軍を再生し、誇り高い自覚を与えた。「アンクル・サム」という彼のあだ名はその偉業がにじみ出ている。
 彼は食事の多様化、医療施設の善、ジャングルでの病気(特にマラリア)の治療法の充実、重傷者の航空機による送還など兵士健康善のための措置を詳細に記述している。彼は士気の複雑な要因を精的、知的、物的の3要素に分けて分析した。正義が連合軍にあることを疑わず、将校だけでなく、一般の兵士リーダーシップと最終的勝利に関する合理的アピールに応じると固く信じた。そして兵士が何よりもまず生活条件、設備および兵器ができる限り良好であることを望んでいる点を理解した。
 個々の兵士ジャングルでの移動の仕方、戦い方を学ばなければならない。敵が後方に浸入した時パニックに陥らず、包囲されているのは日本軍だと信じることだ。正面攻撃は稀であり、狭い前線では正面攻撃は行われない。最も重要なのは、「ジャングルではもが戦闘員である」こと。看護兵でも自分を守らなければならないのである。
 戦車は沼地以外のどこでも使用できる。日本軍古典的な側面包囲により遮断された時、空軍の補給を受けながらどのように耐え、戦い、戦車隊により包囲網を攻撃して反撃する方法を学んだ。1944年までにニューギニアでの豪州の経験に照らし、スリム戦車の適切な使用を決意し、諸兵種連合戦術の訓練を行なった。

ビルマ諜報戦

ビルマの戦い(1943雨期)

 1942年ビルマを退去するにあたってイギリス軍は当然、日本軍とそれに協するビルマ人に関する情報を収集するため、諜者や諜者グループを残していった。136部隊とは、コリンマッケンジーを長とする東南アジア地域の特務機関略称SOE)の通称で、活動範囲はマレータイ印に及んでいた。マレーへの潜入はとして合の潜水艦から行われた。フレディ・スペンサー・チャプマンは単独で長い間、中部および北部マレー山中ジャングルで敵情の監視に任じていたが、1943年にマレーの元警察官たちと出会ったために、その活動は終わりを告げた。タイでは連合シンパとして知られるプリディ・パノムヨン摂政と接触した。1943年から終戦まで、136部隊(ビルマ班)を揮したのは、戦前ビルマでの経験がきわめて豊富なジョン・リッチーガーディナーだった。彼は以前マクレガー会社という業会社を経営し、ラングーン参事会のヨーロッパメンバー二人のうち一人だった。バ・モーやウ・ソーも個人的に知っていた。

 ビルマ136部隊は二つの部門があった。ビルマ人班がシッタン川西で反ファシスト組織のゲリラと連携し、もう一つの班がシッタンカレン族とかかわりを持っていた。カレン族はビルマ人に不信感を持ち日本軍を憎んでいた。このため日本軍ビルマ人補助軍がシッタン北上した際に迫を受け、1943年に日本軍がヒュー・シーグリム逮捕のために討伐を敢行した際にも再び迫を受けた。

シーグリム事件

 スティーブンソンは1941年12月ビルマ山岳種族を徴募して、ゲリラに仕上げる任務をゆだねられていた。ヒュー・シーグリムは、イングランドノーフォーク州出身、多破り、陸上競技選手で地探検であった。ヒュー・シーグリムノエルスティーブンソンが名したのは、自然な成り行きだった。シーグリムサルウィン地区の軍事警察55人を基礎に、パフンでカレン族部隊を編成することになった。彼は日本軍は下剤をかけたような勢いでビルマを席巻するだろうと漏らしている。彼は日本で短期間の休暇を過ごしたことがあり、日本人が好きだし、高く評価もしていたのだ。
 シーグリムビルマ防衛軍が退却してもカレン山中にとどまり、日本軍へのレジスタンスを組織すると決心した。通信手段が、最大の問題となった。19432月18日パ・ジャウ少尉というカレン族の将校が三人のカレン兵を連れ、シーグリムと接触せよとの命で、カレン族居住地に落下降下した。日本軍の注意をそらすためトングーの襲が行われた。しかし線機投下が試みられたが、いずれも失敗した10月12日戦前ビルマガーディナーの業会社の社員だったジェイムズ・ニンモ少佐という136部隊の若い将校が線機をもって降下すると志願し決行した。ニンモは幸運だった。2日間でパ・ジャウとシーグリムを見つけ、10月15日インドとの線交信ができるようになった。シーグリムカレン族将校のソー・ポ・ラをラングーンへやり情報収集をさせた。アウン・サンのビルマ国防軍のカレン族将校たちとも話をしたが、その中にはイギリスサンドハースト軍士官学校で訓練を受けたカレン大隊のハンソン・チャ・ドエもいて、防軍のビルマ人の間に強い反日感情があると話してくれた。シーグリムは、カレン人たちと個人的友情を結び、カレン族の装をして暮らしながら、人のを借りずに彼らの間に日本軍への抵抗の炎を燃やし、イギリス軍が戻ってくると確信させた。
 ビルマのほぼ全域を征した日本軍が、一イギリス将校が背後で自治地区を維持するのを、おめおめ許すはずがない。ましてマンダレーへの街道鉄道は、カレン族の居住山地のすぐ西側を走っているのだからなおさらである。そこで彼らは、討伐隊を送り込んで来た。討伐隊は井上憲兵大尉憲兵中尉の率いる歩兵部隊で、カレン族居住地域に侵入すると、憲兵の常套手段の暴力カレン人の心に恐怖の種をまいた。シーグリム道徳的決断に迫られていると思った。彼のもとに送られてきた二人の将校、ニンモとマクンドルは戦死した。するカレン族の人々は、彼をかくまっているために、見せしめの暴力を加えられるようになっている。彼はさっさと決断した。カレン族を拷問から救うため自首したのである。彼を捕え裁いたもの、役務所で診察した軍医たちは、みなその勇気に心を打たれた。しかしもちろん、判決はわかっていた。シーグリムは英軍の制服ではなく、カレン衣装で捕まったのである。スパイとして殺されるのは逃れられなかった。シーグリムははっきりといった「私はだいぶ前から、死ぬ覚悟はできていた。ただ私と一緒にとらえられたカレン人たちは、助けてやってほしい。彼等には何の罪もない。」イギリス日本の長い戦争を憎むが、それもすぐ終わるだろうと彼はった。カレン人の赦免という願いは駄だった。二十人のカレン人と一緒に、彼はラングーン北部インセイン刑務所で軍法会議にかけられた。彼は、法廷で陳述した。

「私はイギリス軍人として国家の命に従う。私はただ任務を遂行したに過ぎない。たとえ死刑の判決を受けても、異議はありません。しかし私とともにいる人々は、私の命に従っただけです。法廷が、彼らに無罪を宣告するようにお願いいたします。」尾進「魔のシッタン河」)。

 1944年9月シーグリムカレン族の7人は死刑判決を受け、処刑場のケメンダイ墓地に連れられて目隠しの上殺された。彼のカレン族を抵抗に立ち上がらせる努は、失敗だったように見える。しかし彼は、若いタキン党員たちの民族義的動向の重要性について、注意を喚起する役割を果たした。彼らは日本軍および傀儡バ・モーに次第に反抗的になりつつあったのである。シーグリムが組織したカレン人たちは、彼の生前から英軍と接触を始め、日本軍支配に怒りを強めるビルマ政府ビルマ国軍の一部と136部隊の連絡チャンネルが開かれた。

ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

 対英戦において東條英機はどのような戦争導を行ったのか。まず日本戦争計画において、イギリスを屈させることが戦争終結の鍵とされていた。日本はまず東アジアと南西太平洋の敵の根拠地を覆滅して戦略的優位の態勢を確立し、重要資地域と要交通線を確保して長期自給自足を構築するとされていた。「永田山」思想の資自給自足国家総動員体制による「長期不敗態勢」である。ただし、これだけで戦争終結に持ち込めるわけでないため、戦争計画では中国重慶政権)を屈させ、独と提携してイギリスを屈させることによってアメリカに継戦意志を失わせる、という戦争終結のシナリオが描かれていた。だが1942年11月エルアラメインの戦いの英軍の勝利によって、英国策は不可能と判明した。東條英機戦争計画はもとの長期不敗態勢の構築にて負けないことを追求するものに戻った。19439月下旬に千島列島小笠原諸島-内南洋-西部ニューギニア-スンダ列ビルマを連ねた線で囲まれた地域を「絶対国防圏」とした。勝つことではなく、負けないことがいよいよ強調されたのである。
 ここに、ドイツに亡命していたチャンドラ・ボースは、英領インド自由独立を与えるインド軍を創設しようと渡航を計画、19434月27日マダガスカルで日独潜水艦は会合に成功しボースは29に移乗、5月16日東京に到着した。6月ボースはシンガポールに入り、インド民軍最高指揮官となった。
 1942年4月インド戦争めたクリップスとガンジーとの会談が不調に終わった頃、東條帝国議会で、「ビルマ人のビルマ」に次いで「印度人の印度」が実現さるべきことを呼びかけた。東條チャンドラ・ボースを積極的に支持し、10月日本チャンドラ・ボース自由インド仮政府を承認した。東條英機のよく知る「不屈の猛将」牟田口廉也中将の唱えるインパール作戦によって、英国による現状打破が再浮上してくる。

チャンドラ・ボースと大東亜会議

 大東亜会議は、1943年(昭和18年)11月5日 - 11月6日東京で開催されたアジア地域の首会議である。会議東条英機らを中心とした日本軍部の意向に沿って、西側植民地義からのアジアの「解放者」としての日本の役割を強調し、大東亜共栄圏の綱領ともいうべき大東亜共同宣言が採択された。

 日露戦争以来、インドなどの「白人植民地」や中国のような「不等条約」を批判したナショナリストたちは、日本近代化し、欧州の大ロシアを打ち負かしたアジアの模範のと常に喧伝していた。1920-30年代日本の新聞はしばしば「白豪主義」や米国議会による反アジア移民法等のアジア排除を的とした人種差別法を、欧州人支配下の偏見にいかに苦しめられたかの報告として取り上げてきた。当時多くの日本人は、日本現人神である天皇によって統治された独特の高潔なであり、アジア白人覇権を終わらせ、「白人の支配下」で苦しんでいる他のアジア人を解放することが日本の「使命」であると信じていた。大東亜共栄圏のため人種的に優れた「大和民族」が盟となり、他の人種的に劣るアジア人を導していかなければならない。軍部の宣伝は白人によってアジア人が虐待されていると強調した。太平洋戦争が始まった時、軍部は日本アジアのすべての人々解放するための解放戦争だと宣伝した。この宣伝は効果を発揮し、欧州植民地において一部の人々は日本軍解放者として歓迎していた。
 大東亜会議に先立って、日本は戦況が不利になる中、外務官僚と政府は、アジアの地域に急速な「独立」を与える政策を推進した。東條英機を始め日本軍部は、その宣伝価値を理解し基本的に合意したが、軍部が支配下のアジアに対して許容した「独立」のレベルは、満州国が享受したそれよりさらに低かった。 日本によるビルマ独立承認(8月1日)、フィリピン独立承認(10月14日)、大東亜省の設置(11月1日)が行われたが、韓国台湾はいかなる形の政治的自治も名上の独立さえも計画されなかった。ベトナムカンボジア日本がまだ正式に同盟していたヴィシーフランス政権との関係悪化を恐れて招待されず、英領マラヤと印は重要資地帯で大半が軍部支配下にあり、19435月31日大日本帝国に併合され独立検討の対ですらなかった。 結局日本含め7カが参加した。

日本東條英機内閣総理大臣
中華民国(南政府:汪兆銘行政院長
満州国総理大臣
フィリピン共和国ホセ・ラウレル大統領
ビルマ国バー・モウ内閣総理大臣
タイ王国ワンワイタヤーコーン親王(首相代理)
インド自由インド仮政府首班のチャンドラ・ボースが「オブザーバー」として参加した。

東亜における共存共栄の秩序は、大東亜固有の義的精に基づくべきものであります。大東亜の精文化は最も崇高、玄なるものであります、今後々これを長養醇化して広く世界に及ぼすことは、物質文明の行き詰まりを打開し、人類全般の福に寄与することからざるものありと信ずるのであります。大東亜々が不可分な関係の結びつきによってあらゆる点で縛られていることは議論の余地のない事実であります

 ビルマのバ・モーは絶賛した「私は亜細亜のを見続けて参りました。私の亜細亜人としての血は、常に他の亜細亜人に呼び掛けてきたのでありますとなくとなく、私は自分のの中で、亜細亜が其の子供に呼び掛けるを聞くのを常としましたが、今日の席にて私は、初めてに非ざる亜細亜の呼現実に聞いた次第であります々亜細亜人は、の呼々のに応えて茲に相集うて来たのであります。私のアジアの血は常に他のアジア人に呼びかけられた...今は他の心で考えるべき時ではない、々の血で考えるべき時だ、ビルマから日本へ」

 チャンドラ・ボースは高らかにった「大東亜共栄圏の建設は『全アジア民族、全人類の重大関心事』で『強奪者の連盟に非ずして国家共同体へのを拓くもの』であり、出席者各位は、新日本、新アジアの建設者としてのみでなく、新世界の建設者として永く其の名を歴史に止められるであろうことを、私は確信するものであります」と。
 この会議東条は「日本が占領している、アンマンインド洋上にあるインド領の々)の自由インド仮政府への譲渡」を発表した。

軍において占領しているインドでありますアンマンニコバルを、近く自由インド政府に帰属させる用意がある旨を、今席上において帝国はこれを宣明いたします。

 だがボースはあくまでインド本土のイギリス支配からの解放と、その為の日本支援を要した。これが、翌年日本陸軍による、インパール作戦インド侵攻作戦)実施の理由の一つとなった。

会議は連帯と日本への賞賛、西洋の植民地義の非難によって特徴づけられる。経済開発等の実用的な計画はなかったが、英とそのシンパ「アングロクソン」勢を物質文明におぼれアジア文明の最も致命的な敵だと強く非難し、日本軍を「アングロクソン」からのアジアの擁護者として賞賛した。

11月6日大東亜共同宣言全会一致で採択された。

イギリスの反攻断念

 194311月下旬、英導者たちは蒋介石カイロに招き、アジア戦略について協議した。マウントバッテンも招待された。蒋介石には再度ビルマルートを再開するという確約が連合軍によってなされ 、マウントバッテンがルート再開作戦の一環としてベンガル湾への上陸作戦(「バッキャナー」作戦)を行うことを申し出た(これにはチャーチルが驚いた)ルーズベルトは、東南アジアで上陸作戦を実施するよう英国に圧をかけ、またチャーチルが検討していた地中海でのさらなる連合軍の作戦にも同意するつもりはなく、連合軍が「オーバーロード作戦に集中することを希望した。英導者たちは、12月テヘランへ移動し、「オーバーロード」のさらなる延期に断固反対を見せていたスターリンと会合を持った。スターリンドイツ敗北後に日本宣戦布告することを約束した。ルーズベルト中国軍事的に対日戦に大して役に立たないことを認識し始めていたので、その確約に歓喜した。だが、ルーズベルトは依然として、中国の参戦を維持することに熱心であった。
 問題は、再びどのようにして十分な上陸用舟艇を確保するかであった。英とも、「オーバーロード作戦と「アンヴィル作戦フランス南部への上陸作戦)を 1944 年中頃に実施したいと考えていた。一方、チャーチルは、むしろ引き続きバルカン地中海東部におけるドイツ弱体化を狙っており、連合側について参戦するようトルコを説得した。それらのすべての作戦には上陸用舟艇が必要であった。ルーズベルトは、チャーチルが提案した地中海東部での作戦ではなく、「バッキャナー」作戦に上陸用舟艇を使用することを希望した。しかし、チャーチルは、「アンヴィル作戦にも上陸用舟艇が必要なことを念押しした。ここでもまた、欧州最優先の戦略によって、対日戦のための資が他に回されたのである。194312月カイロにおいて開かれた英会談において、チャーチルルーズベルトを説得して「 バッキャナー」作戦を中止させた。

 フランクリン・ルーズベルトウィンストン・チャーチル蒋介石は、カイロで日本に対する戦略会議を行い、カイロ宣言を締結した。マウントバッテンはカイロ会談を受けて、チャーチルよりビルマ戦略を受け取った。すなわち①日本軍と接触して抗戦し、その戦特に空軍を消耗させ、太平洋方面の兵ビルマに引き抜かせること、②輸および北部ビルマの地上道路の設置により中国に戦線を維持させること。の2つであり、地上では限定的な作戦しか行えないことになり、攻勢は不可能となった。

「ウ号」作戦の出現

 しかし「アナキム」及び「バッキャナー」は日本軍内で生きていた。連合軍は前年よりさかんにビルマへの反攻作戦ラジオなどを通じて宣伝していた。日本軍ビルマへの兵転用は、たとえ一部であっても太平洋方面の足を引っることになるからである。日本軍の内部では、44年に連合軍の大攻勢が始まるとの見方が大勢となっていた。

 大東亜共同宣言に示されている戦争理念に、東條が共感を寄せていたことは認めるべきだろう。だが、東南アジア諸地域の導者との関係に言及するとき、東條がしばしば彼らを「抱き込む」という表現を用いていたことに示されているように、彼の念頭にあったのが「理念」そのものではなく、戦争遂行のために彼らの協を取り付けるという「政謀略」だったことは疑いない。これに加えて彼は、ビルマが連合軍の反攻のターゲットになるのではないか、とも予想していた。19435月、チュニスが陥落し北アフリカでの独軍の戦闘事実上終了すると、連合軍はそこのインド洋方面に振り向ける余を持つことになり、ビルマ南部アンマンニコバルへの敵軍進出が懸念されるようになった。ビルマは「絶対国防圏」の南西要域であり、敵の反攻があり得るとすれば、その防衛を真剣に考えなければならなかった。ここに、インパール作戦の出発点がある。

 そこで浮上してきたのが、連合軍の反撃拠点とみられていたインド東部の要衝「インパール」を機先を制して占領する「ウ号」作戦である。東條英機は、事件当時の関東軍参謀長であり、事件を共に引っった牟田口廉也を個人的によく知っており、この猛将牟田口官に悪化する戦局の逆転に一縷の望みをかけた。

公式戦史によれば、日本軍はこの作戦ではかなり正確に英軍の情報をつかんでいたと記述しているが、 結局1944年1月7日東南アジア戦域軍部において決定された作戦は次の通りだった。
 1.支連合軍によるレドからの作戦
 2.ウィンゲート兵団による前項支援のための長距離逓信作戦
 3.チンドウィン頭保を確立して前二項作戦を容易にするための英第四軍団の牽制作
 4.アラカンにおける上陸作戦を併用しない陸上からだけのアキャブ攻略作戦
 この作戦計画ではっきりわかるように、とてもビルマに対する総反攻と呼べるほどの作戦ではない。実質的にはレドからの作戦とこれを支援するウィンゲート挺団の作戦に過ぎない。日本軍は敵情判断の誤りから、英印軍が中央正面からビルマ奪回作戦を仕掛けてくると疑いもなく信じ込み、北方の第十八師団を持久させ、牽制作戦を行っている英第4軍団に対し、ビルマ防衛の基本任務を持つわが第十五軍が、制権もなく補給の見通しも立たぬまま、敵の機先を制するためと称して、あえてより遠いところに奇襲をかけたのである。これは敵の牽制作戦のに陥ったのである。作戦的は本来、ビルマ防衛のための、敵の反攻の機先を制する攻勢防御であったはずなのに、それが一貫しなかった。作戦を担当する第十五軍牟田口廉也中将が、ビルマ防衛をえてインド進攻という途方もない的を追求したからである。

インパール作戦認可

 正式認可の手続きのため、総長示案が参謀本部から陸軍省に回されたのは1944年1月7日夕刻であった。折柄入浴中であった東條陸相は、説明する軍事課長西浦大佐に浴室から矢継ぎに次の五項を質問した。
インパール作戦実施中、ベンガル湾のビルマ南部イギリス軍が上陸した場合、その対応措置が執れるか。②インパール攻略によって、さらに兵の増加を必要とする結果にはならないか。ま た防衛上不利をきたさないか。 ③劣勢な航空で、地上作戦に支障はないか。 ④補給は作戦に追いつけるか。 ⑤第一五軍の作戦構想は堅実か。
 例によって、いずれももっともな、的を射た質問ばかりであった。東條あらためて統帥部に念を押すよう部下に示し、その確答を得た上で作戦認可に同意したという。陸相がメモもなく、この作戦の問題点を残らず質問したことは、驚嘆に値する。「カミソ東條」の異名もかくやと思わせる有能エピソードである。(だが後日重大事項を風呂場の立ち話で決定したと批判されてしまう)

アッサムの前哨戦
ビルマの戦い(1943-44)

 インパール戦線の第4軍団では、兵の練度と自信を善するため現地ジャングル訓練と、第17、20および23インド師団による大隊レベルまで日本軍との接触が継続された。インパールの南、ティディム街道ではコーワン少将率いるインド17師団と柳田中将率いる日本軍十三師団が対峙しており、パレルータ街道ではインド20師団と日本軍十五師団が対峙し、小競り合いが行われていた。
 43年10月日本軍十三師団柳田団長が、シャン高原カローを出発し、イエウ‐カレワ上(カレワはチンドウィンの渡河点に当たる)、テケジン部を進出し、チンドウィン川西地区に兵を集結させた。笹原隊長率いる歩兵第二十五連隊インパール作戦準備に関する命に基づき、インパール南部ティディム街道南部フォーホワイトなどチン高原上の敵地を急襲占領するよう内示された。10月10日第一大隊入江中佐は英軍前地を占領、敵をケネディ・ピーク方面に敗走せしめた。さらに11月14日死傷者を出しつつも標高2364mのフォーホワイト地を占領、周囲の地も占領しチン高原攻略作戦は終了した。「ブラックキャットインド17師団の部隊は 194312月反撃、12月14日は火二十数問、約二千発の撃の後、1000の兵で日本軍に攻撃してきたが、日本軍地前にてなんなく撃破された。このフォーホワイトの攻撃で英軍は山岳地形で機動の余地が制約されていたにもかかわらず、想像に乏しい正面攻撃を行なったと米軍オブザーバーから手厳しく批判された。だが第二大隊方面では441月17日より猛爆撃が始まり19日ついに地を奪取、また地形に有利な他の方面1944年2月のカボウ地のキャウクチャウで行なわれた小規模の戦闘では、正面攻撃を避け、浸透戦術を用いて成果をあげ、日本軍を遮断して退却させた。しかし2月25日フォーホワイトへの英軍2000の部隊のしい攻撃も、日本軍により再び撃退された。一個中隊で火20問以上を要する一個団の攻撃を4かにわたり防御したわけで、このような山岳地形は日本軍に有利であり、柳田団長の戦術がさえわたった。この小競り合いによる死傷者は双方数名にとどまった。

航空情勢の変化

ビルマの戦い(1943-44)

 総司令官としてのマウントバッテンの第一の業績は、194312月カイロで開かれた6者会議において、2つの空軍をピアース揮下に統合し、ストラトメーヤを副指揮官にすることについて陸軍参謀総長のジョージマーシャル大将陸軍航空長官のヘンリー・アーノルド大将に納得させたことである。スティルウェルとストラトメーヤの強い反対があったが、空軍の統合は12月12日に行われた。統一された空軍は、735 機の戦闘機英国464、米国271)、爆撃機偵察機を有する日本軍の約3倍の保有機数の東部空軍となり、ストラトメーヤが揮を執ることになった。

 あの々たる英空軍の暗い退却の時から2回期が明けた。ハリケーンはもはや日本の新機には太刀打ちできない。日本ダイナ偵察機百式司偵)は、損を受けることなく写真偵察を行っていた。何機かのハリケーンが、その武装のほとんどを外し上りえる最高度で、油断していたダイナを撃墜したことがあるが、これは極めてまれな例である。この話は勇敢な物語ではあるが、効率が良くないことをだれもが知っていた。そのたびにスピットファイアの配備が話題になり、やがて噂だけで消え落胆の種となっていた。突然43年末事態が好転し始め、新たな活気がり始めた。ひとつはついにスピットファイアの配備が決定したこと、および首相から「ビルマ線の新最高部が組織され、マウントバッテン卿が官に任命される」とメッセージが、伝えられたことによるものであった。

スピットファイアmkⅤCの配備

 194311月、待望のスピットファイア3個中隊が、チッタゴンに配備された。配備された中隊は、そうでない中隊から羨望の眼差しで見られた。快速日本ダイナは、ハリケーンの飛行場の上を、その欲するままに飛んでいた。しかしスピットファイア三個中隊が、港湾の防護のためチッタゴンに配備された時、ダイナを次々と3機撃墜し、英軍部はその威に感動した。だがそう簡単に形勢が逆転したわけではなかった。12月5日日本軍は戦爆連合の90機をもってカルカッタ爆撃に来襲、チッタゴンスピットファイアは地上のレーダーの画面の映像により誘導されたが、日本機は妨を避けるため遠くを回り、そこはスピットファイアの飛行距離外を飛んでいた。難なくカルカッタに到着した日本軍機は、かなりの爆弾を投下した。船舶やドックの損は大したことはなかった。日本軍はこの成功で自信を強めたとみられる。この後43年12月末と441月に日英戦闘機部隊の決戦があった。

 12月26日スピットファイアの中隊は、日本機を阻止するために緊急発進した。今度も日本機は飛行限界ぎりぎりのを飛んでいた。ジョンルーリング航空軍曹は、彼のスピットはるか遠くに日本爆撃機を発見、そのとき燃料は10ガロンしか残っていなかった「私は間的に日本機に衝突しようと考えた時、敵の爆撃機の方向にぶつかった。自分の機は事だった。そしてさらに敵のリーダー機に射撃を浴びせた」彼は衝突した爆撃機墜落したのを見た。彼の機は、近くの着陸場に不時着陸したが、フラップはなかった。油がなかったので機は炎上しなかったという。ルーリング軍曹は、三回の体当たりで戦死するまで、弾薬がなくなるとこの戦法を用いた。

 43年12月31日日本軍南部アラカン英海軍に対し、戦爆連合の決定的攻撃を仕掛けた。WOPによれば、「12機のスピットファイア日本戦闘機隊を突破して、逆V字で飛び続ける日本爆撃機に迫った。日本爆撃機はその隊形を崩さなかった。スピットファイアは、その辺の飛行機から逐次撃墜していった。逆V時はだんだん小さくなり、ついになくなってしまった。結局12機のスピットにより、例外なく撃墜したか、破壊または炎上した。これは南東アジア空軍部の最初のかしい成功であり、スピットファイア中隊の功績は世界の注を集めた」と記述している。(「書三航軍」によれば、12月31日日本機は重爆12機、戦闘機14機が出撃し、スピットファイア30機に攻撃され、重爆3自爆、同2不時着、戦闘機1不時着、重爆1破損の損を出し、敵機2撃墜と書かれている。)
 
441月中旬、英偵察機日本軍爆撃機の動きがあると報告した。1月15日朝霧晴れるや否やレーダー日本機が映った。日本戦闘機は態勢不利にもかかわらず、中戦を挑んできた。この間日本爆撃機チッタゴン爆撃した。スピットファイアは敵の送り込んだ単発戦闘機の全部(撃墜16、大破5、損を与えた物19機)を撃破したと報告した。書三航軍」によれば、1月15日出撃した第64戦隊戦闘機延べ24機が、スピットファイア20-25機と交戦、5機未帰還、敵機撃墜8機とある。)

 英空軍は、制権はスピットファイアによって獲得されたとしている。英空軍の損の八倍の損を敵日本空軍に与えて、素晴らしい成功が得られたという。英陸軍でもスピットファイアを著しく高く評価した。

 スピットファイアによる英空軍の処理、その結果として制権が獲得された。今制権なくしては、非武装輸送機による第二次アキャブ、ウィンゲート作戦の補給も、輸に依存する第14軍の前進もあり得なかった。

 なお参考までに「書三航軍」によれば、「ビルマにおける制権の推移は、1943年末まで日本軍が保持していた。連合軍が日本軍の制権に対し、最後の挑戦ができる体制になったのは、194312月航空部隊が統合し、かつ44々長距離戦闘機P38、P51を装備するに至ってからである」としている。これは実情に合っているかどうか、大日本帝国陸軍航空隊お得意の「員数戦記」でないかとの疑念がぬぐえない。日本陸軍地上軍の兵士の手記は手厳しい。

 中央戦線の第一線の兵士にとっては、43年期明けが、制権転移の時期の一巻である。敵機ばかりで日本機を全然見なくなったからである。

 実際にスピットファイアの投入によって地上部隊のに見えて制権の変遷が見られたことは疑いない。だがビルマ航空隊もこのままではいなかった。日本軍は二式単戦鐘(トージョウ)を投入し、その戦術も善した。立って機体がるようにした面仕上げの、またはにした囮機を、迷彩した戦闘機適当な下方を飛行させた。その企図はピカピる囮機が英スピットファイアをおびき寄せ、これに隠れたトージョウが、襲い掛かろうとするものである。囮機はスピットを発見するや否や、そのリーダー機を射撃し、それからこれ見よがしに回転退避する。この戦法をとるトージョウに初めて対戦したのは、ビルマ戦闘機隊の「エース」、コンスタンチン空軍中佐であった。コンスタンチンは441月21日飛行隊を率いて飛行中前方に日本機を発見した。しかしフロントガラスの細かいチリが、太陽線によりってよく見えなかった。敵機を見た時、スピットファイアに似ていなくもないと思えた。彼はいう。

「八回の攻撃の際、二機でカップルとなって攻撃した時、私は知らなかったが囮機の上にいた。宙返りをしたがその時一時的に気を失った。気が付いたときは病院だった。そして墜落するとき、スピットを正しい姿勢に戻し、再び気を失ったということが分かった。二度に姿勢を直した時はジャングルの眼にあり、すぐ上の二機の日本機によって射撃されていた。私の機はそのまま小峡谷に突っ込んでしまった。15分間の戦闘だった。」

 その日、日本軍は12機を失ったが、英空軍も損が多かった。この時、英空軍は一時優勢を保持できなくなっていた。日本航空部隊は、短いけれども一時的局地的制権を握ったのだ。

スピットファイアmk の配備

 制権のしい争奪においては、優秀機を即座に配備しなければ後れを取ることになる。Mk Vのインドでの戦闘歴は短い。194311月に3中隊がビルマの前線に移動したが、1944年2月にMk VIIIに置き換えられた。スピットファイアVIIIは新マーリン60系エンジンを搭載し、それに対応して強化された機体を持っていた。マーリン61エンジンは2段スーパーチャージャーがあり、高での性が約50%向上した。各には14ガロンの自己密閉燃料タンクが搭載され、機体の燃料タンクのサイズ96ガロンに拡大、Mk. VIIIの航続距離は、クリーン状態で1060㎞と、スピットファイア戦闘機で最も長い。さらに2つのタンクに27ガロン搭載され、合計で123ガロンとなり、さらに増槽タンクをつければ航続距離最大2500㎞までのびた。Mk VIIIは本では使用されず、地中海および極東の戦線でのみ使用されたが生産は3番に多く合計で1658機が生産された。1767136155273607、および615飛行中隊。これらの戦隊インパールの包囲を破るのに重要な役割を果たした。Mk Vはビルマで最高の日本軍戦闘機、Ki 44“ Tojo”と同等だったが、Mk VIIIはるかに高速で上昇速度も速く、日本陸軍空軍の「」対して大成功を収めた。
 スピットファイアMk VIII二個中隊は、第二次南部アラカン作戦に備えて、44年初めに配備された。これはちょうど1944年2月の第二次アキャブ作戦に間に合った。ビルマ航空隊はたちまちアラカンから駆逐され、連合軍は包囲された部隊を堂々中補給し維持することができた。

 194311月完成した泰緬鉄道戦略空軍の恰好な標となった。バンコク鉄道場もB-17の攻撃対であった。上交通に対しては機施設が実行された。日本海軍掃海艇の不足が、上交通の混乱に輪をかけた。鉄道橋梁攻撃はしきりに行われたが、日本軍修理にかけては達人であり、その橋梁技術は賞賛すべきものであった。

第二次アキャブ作戦

ビルマの戦い(1943-44)

 英軍はチッタゴンを発し、194312月を越え、アラカン沿いを前年度と同じように再度ゆっくり南下を始めた。スリムの後任として英第15軍団官に就任していたフィリップクリスティンソン中将1893年11月17日-1993年12月21日100歳!)は、第15軍団下の第7インド師団、第5インド師団等を率いていた。これらは北アフリカロンメルを打ち破った歴戦の精鋭で、前年のインド14師団とは全く別物だった。42年11月エル・アラメインの戦いはまさにWW2の転換点であり、遠く極東戦線まで大きな影を及ぼしていたのである。クリスティンソンの標は、アキャブ飛行場の占領だった。ここが取れれば、ビルマの大部分が制下におけるのだ。英軍は陸両用作戦を検討したが、上陸用舟艇が足りなくて陸路のみとなっていた。441月9日、英軍は陸路再びマウンドーを占領した。英軍は1月末にこの地域の大部分を占領していた。クリスティンソンは、シンゼイワ集落の付近の開拓地に1㎞四方の巨大な補給地帯と管理地域を設定し、ここに次期攻撃を支えるための大な集積を行った。ここに日本軍がぶつかってきた。

 日本軍は前年度と同じように迎撃を考え、第二十八軍桜井省三中将は、下の新師団長中将率いる第五十五師団による英軍撃滅を計画した。正は幼年学校出の陸大エリートの権化のような人物で、ちょっとでも気に障るとかなりな高官に対しても兵の前で顔を手打ちするので有名だった。ことあるごとに副官に「自害せよ」といい、ためらっていると自分の軍を出して「これを使え」と言ったりした。

 1944年2月4日トングー・バザーのの中から、突然日本兵の小部隊が現れ部落を占領した。この年の日本軍の大攻勢が始まったのであり、英偵察機は低を飛行してこの地域を偵察したけれども、ジャングル日本兵の行動を秘匿していた。2月6日インド第7師団フランク・メサヴィ中将部は日本軍され、デカ頭のメサヴィの自慢の帽子日本兵に奪われた。7日日本軍病院を占領し、患者と軍医を捕虜とし、次々銃剣で刺殺したり、自動火器で虐殺した。2月9日英軍が病院を奪還した時、患者34人と軍医4人の死体を見つけた。日本軍は7日分の食糧しか持っていないと英軍は推定していた。日本兵は偽装とジャングルによる秘匿に長じていたほか、掩蓋の構築にも優れていた。その為、英軍の偵察員によっても発見できず、また戦略空軍に戦術空軍を加えて攻撃しても、その掩蓋を破壊することはできなかった。ジャングル内では、戦車砲兵も通常使えないので、結局歩兵による勝利しかない。日本軍は、今まで潜入浸透作戦失敗したことがなかったので、指揮官はその成功を疑いもしなかった。

アラカンの立体戦

 第224グループの隷下のハリケーンとヴェンジャンスは、日本兵の掩蓋に対し、はたまた集結と補給線に対し、延べ1400機も出撃し攻撃した。マウントバッテン最高官は、緊急防護のためハンプ輸送から、25機のC46コマンドを借りて輸送にあたらせた。第3戦術航空軍は、護衛のためスピットファイアをパトロールさせた。日本空軍はダコタやコマンド輸送機を撃墜しようとした。
 初日に日本軍陸軍航空隊は34機の戦闘機と10機の爆撃機をもって戦場への航空攻撃を行ってきたが、最初のスピットファイアによる迎撃はあまり成果を上げなかった。日本軍は最初の2-3日間は連日100単位の驚くべき数の戦闘機を繰り出して防御膜を作っていた。しかも、包囲されたインド第7師団に対する英空軍31飛行隊による物資輸の試みは、16機の輸送機のうちの7機が敵機あるいは対に撃墜され、物資投下のための200フィートの低ゾーンが、日本地上軍の対火器や小火器の標的となった。そのため間の補給投下は2月10日に断念され、当面、間投下に切換えざるを得なかった。しかし本格的に防に出たスピットファイア3個中隊はすさまじく・鐘は圧倒されてしまい、英空軍は最初の13日間で4機の犠牲で64機の敵機を撃墜したと発表した。日本航空部隊による妨行動2月14日以降低下し、間投下が再開された。
 輸によって包囲された守備隊は持ちこたえ、英軍は次々と日本軍を撃破し、メサヴィの帽子奇跡的に正当な持ちに帰ってきた。苦戦した日本軍はこれを円筒作戦と名付けた。日本軍はいったんこうと決めたら変更できないらしく、円筒の入り口で理な突撃を繰り返し、不要の死傷者を出した。円筒地内の大な火と戦車は決定的な役割を果たした。2月14日と16日棚橋大佐夜襲を行ったが英軍に跳ね返された。英軍も傷であったわけではないが、日本軍夜襲2190人の兵400人に減っており、団長による攻撃命が出されても棚橋はこれ以上の攻撃をできなかった。戦闘17日続き、ついに日本軍は10日分も食糧が不足した。日本軍は飢え、2月24日ついに撤退を始めた。そして、3月初旬、クリスティソンはアキャブをす攻勢を開始することが可となった。
 この円筒地の戦いは日英戦の転換点となった。輸により英軍は多的な防衛が可となり、日本軍は当初の自在な攻撃が硬直化した。これに対抗するには、より優勢な火力を持つことであった。英軍の立体地に対して、強戦闘機軍や撃ちまくる対火があったら反撃できた。また日本軍戦闘機を常時飛ばしていたら、英軍の立体戦法は機しなかった。円筒地にある燃料、弾薬集積地に向けて強な火を打ち込んでいたら、混乱と破壊を引き起こした。しかし日本軍にはいずれもなく、今まで失敗したことのない伝統的な速攻と包囲戦法に頼ることになったのである。そして敵の倍の戦死3106と戦傷2229の損を出し、英軍に対して初めて決定的敗北を喫したのである。

レド公路の戦いと第二次チンデット(ウィンゲートとスティルウェル)

ビルマの戦い(1943-44)

 194310月から米軍のスティルウェルは米国武器で訓練した中国軍とともにアッサム州のレドから北部ビルマに進撃し、あとから技術者レド路を伸ばしていく。カルカッタからアッサム経由で中国に物資を送ることが可となり、日本軍と戦う中国軍を援助でき、さらに道路沿いに施設したパイラインによってB29爆撃機への給油が可となれば、日本本土爆撃にて直接貢献できる。対する日本軍田中新一率いる一八師団で、フーコ地で中国軍を攻撃したが、円筒地で中補給を受けた中国軍はびくともせず日本軍は撤退した。12月中国軍日本軍を渡河点とジャングル地から駆逐した。しかし蒋介石ビルマで自分の軍を消耗するのを許すつもりはなく、441月29日進撃は停止してしまった。スティルウェルは米軍部隊をウィンゲートからもぎ取り、ガラハッドという奇抜な暗号名をつけて、ミイトキーナ攻略に用いた。2月19日ガラハッドを揮するフランク・メリル准将が到着した。3月5日十八師団はマンカインを撤収、ガラハッドはマンカインからワラズップに達し、フーコ地全域がスティルウェルの手に入った。スティルウェルの進撃は順調で、3月19日フーコ地とモガウン地の分ジャンブブムを手に入れた。

ガラハッドは中国軍支援を受けて、進軍と持久戦に奇跡を成し遂げていた。カマインではジャングル60して、ワローブムの道路田中第十八師団を妨した。その時の日本軍遺棄死体1500に上った。さらにガラハッドはカマインの北30キロインカンガトーンで包囲戦法を再現した。二個大隊が山を抜けて3月23日道路に出た。日本軍はこれを山に押し戻し、ヌプン・ガに拠って戦った。ここは山塊の端、タナイの険阻な山稜で、は一ヶ所しかない。日本軍丸山房安大佐の下にガラハッドを追撃し、四方から襲うとともに3月30日米軍からを奪った。この重要な時に、フランク・メリル准将心臓病のため3月31日任務を離れた。だが幸い有能フランクハンター大佐が引き継いだ。彼はヌプン・ガで包囲された兵たちを、その北五キロジャングル内の開闢地に放出しようとはかった。その時日本兵がふいと姿を消してしまった。田中新一中将ミイトキーナの確保に頭を痛め、カマインより先の山中を分散したくなかった。ガラハッドの損は戦死59人でさらに379人が傷病にて戦列を離れていた。田中は直線距離50ばかりのカマイン~モガウン地区をできるだけ長く保持する的を持っていた。モンスーンたけなわの6月中旬までカマインを保持すれば、戦車は動けなくなるとわかっていたのだ。

二次チンデット

 このスティルウェルの進撃を南方から支援する的で開始されたのが第二次チンデットであった。少将に昇進したウィンゲートには論と遺恨の後(オーキンレックはトブルク戦にも参加した熟練の英70師団を、兵分散してゲリラ活動に投入することを批判した)中東向けに訓練されていた第70イギリス師団が与えられた。カルヴァート率いる第77団、ファーガソンが前年率いた第14団を含め、総勢9000の部隊となったウィンゲート部隊により3月5日暗号名「サーズデイ(木曜日)」作戦が開始された。陸路による一個(ファーガソン)を除き、部隊はグライダー的地に到着し、日本軍の背後深くに拠点を築き、路補給を受けていた。直ちに堅固な地を作り、飛行場を設置し、基地を築き上げ、迎撃にきた日本軍を蹴散らした。

 サウススタフォードの若い士官ケアンズ中尉は、日本将校に片腕を切り落とされた。彼はその将校を撃ち、残った腕でを拾って相手をめった切りにしてから倒れた。カルヴァートが横に膝まづいた。「勝ちましたか?、うまくいきましたか?、みんな片付きましたか?、私にかまわないでください」。そして死んだ。日本兵はパコダから撃退された。ケアンズはヴィクトリア十字章を授けられた。

 日本軍から150マイル後方にある基地「ブロードウェイ」に、日本軍3月13日まで気が付かなかった。ファーガソン団は、インドウの北にある「アバディン」という別の基地を設立し、そこに第14団が飛行した。カルヴァートの団は、マウルにある「ホワイトティ」と呼ばれる別の基地を設立し、要な鉄道日本の北部前線に続く道路にまたがっていた。111団はインドウの南に待ち伏せと道路封鎖を設置した。
 「ブロードウェイ」と「ホワイトティ」周辺で猛ジャングルの戦いが起こった。3月27日に始まった日本軍の「ホワイトティ」への攻撃は、28未明までには殲滅され、3月27日航空機攻撃の数日後、日本軍は「ブロードウェイ」を数攻撃、だがその後の日本軍地上軍の攻撃は、英軍の強地と大砲と地元採用のカチン義勇兵隊の支援で撃退された。4月1日日本軍は「ブロードウェイ」攻撃にも失敗し敗北を認め、以後英軍の撤退する5月13日まで穏が保たれていた。4月6日ホワイトティ」の鉄道阻塞は日本軍義秀少将率いる独立混成第二十四団の攻撃を受けたが、ランカシャー・フューリアグルカ隊と第6ナイジェリア大隊の守る堅固な地は日本軍を撃退した。P-51明け後に飛来して、日本軍を機掃射した。日本空軍も中爆24機で守備隊を爆撃し、条網を数か所で破壊した。ナイジェリア兵は撃の合間に次々と飛行機で到着し、ヴィッカー機関銃弾薬だけで7万発が「ホワイトティ」に投下された。部隊の攻撃は4月11日まで続いたが結局阻止された。戦となったが日本軍被害は大きく、阻塞地はもう二度と攻撃されなかった。
 輸送が間に行われる場合には、スピットファイアが護衛した。連合空軍戦闘機の優勢が、日本軍65機の飛行機を破壊した。時に日本軍に襲われることがあったが、概してダコタに対する妨視してよかった。導権を獲得できたのは、絶対的制権確保の結果であった。軽飛行機とダコタにより、期の始まる前に多くの傷病者を後送できた。だが空軍の負担も大きかった。

 パイロット将校は、通訳の度重なる尋問を頑強に拒んだ。彼らもまた、この戦争に最後の勝利を信じてかたくなに口をつぐんで屈しなかった。さらにを和らげ、穏便に話しかけたが、不敵な面構えでを貸さなかった。内心焦りを感じた通訳は、敵味方注視の中でとっさに顔色を失し、握りしめたこん棒で立て続けに怒りの制裁を加えた。輪を作った兵たちは「やれ、もっと強くぶて」と加勢すれば、パイロット将校の体は棍棒を食って前のめりに三歩揺れ動いた。その刹那顔面の皮膚はぱっくりとザクロのようにぶち割れた。首筋の動脈血管が破裂、ピューっと血が噴き出した。銀髪を振り乱し将校は悲痛に唇をゆがめて、呼吸をにらみ据えた。気が狂った通訳はひるむことなく、血の滴る棍棒を将校の額からのあたりへ「エイッ」と気合一戦してを打ち砕いた。私はこの非虐待行為を撃してをつぶった。

 日本軍は相手が末端の守備隊ではとても手に負えない大軍だとようやく知ると、兵を増強し始めた。独立混成二十四団、十五師団、五十六師団、第二師団から連隊・大隊がそれぞれ補強された。
 ファーガソン団は当初は3月15日インドウの町とその飛行場を占領する計画であったが、パトカイ山脈から「アバディン」に向かうひどい行軍で、5日遅れてしまった。ウィンゲート団の任務を変更する準備ができているように見えたが、3月20日、彼はインドウを標的として復帰させた。団はその長い行軍から既に疲れ果てており、的を適切に再確認する時間はなかった。部隊は日本人一のを管理していることを知ってがっかりした。ファーガソンは第14団が攻撃に協することを期待したが、分散したチンデット部隊は通信状態が悪く彼とウィンゲートが同意した構想は、部隊部に届いていなかったため、第14団は西に移動していた。ファーガソンインドウに日本軍が前線師団に補給するため設置した巨大な物資集積場を見つけた。それをケイヴ副官に伝え、ケイヴ爆を要請した。空軍はそれを実行したが、「に見える効果なし」だった。(その攻撃が実は効果的だったのは戦後日本軍への尋問で判明する)
 ファーガソンにとってつらいのは、インドウが彼がついたころには日本軍が強化されていたことである。日本の援軍も要な道路鉄道の中心地であるインドウに移動し、別々に攻撃したファーガソンの大隊は、それぞれ撃退されてしまった。

チンデットはインパール作戦の補給基地だったインドウを攻撃したが成功しなかった。しかしこの脅威はインパール作戦の補給に影を与えた。

バーナード・ファーガソンは第二作「の荒野」で、一章を丸々「敵としての日本軍」に充てている。彼も、一人で孤立した日本兵の勇敢さについてスリムと同意見だが、歩兵隊長のもっと直接の大権を付け加えている。日本兵は敏捷で偽装に優れ、在るかしかの工具で巧みに工事をやり遂げる。地形もよく見る。反面彼らとて、都会育ちのイギリス兵以上に、生来のジャングル戦史であるわけではない。習慣の奴隷で、待ち伏せによく引っかかった。よく大を出す。「大には沈黙で答えよ」というのは、ウィンゲート経典の一つだったのだが。「射撃はからきしだめだが、擲弾筒の捜はうまい。任務への献身、生命の危険を全く試みないなど、イギリス兵が学ぶべき点は多いが、結局、彼らは野蛮人だということは忘れてはならない」ファーガソンは結論する。ラングーンへ連れていかれたファーガソン隊の80人のうち52人が死んだ。別に日本軍の手に落ちた60人は、刑務所にさえつかなかった。生存28人は、その他の者の残な最期についてっている。

ウィンゲートの死

 ウィンゲート1944年3月24日空軍指揮官と協議するためにインパールに飛んだ。その帰路において、インパールの全飛行場はだった。英空軍間の悪を理由に、インパールからウィンゲートを送るのを断ったので、彼はどんなでも連れていく陸軍航空隊に頼んだのだ。だが彼をのせ飛行していたUSAAF B-25爆撃機間飛行中、局所的なに突入し、ジャングルに覆われた山々墜落したと考えられている。1947年墜落現場が発見され、乗員10名(うち兵7名)全員死亡が確認された。遺体は認識できないほど焦げ、歯科記録からの身元確認が不可能であったため、個人を識別することができなかった。彼らの遺体インドのコヒマに埋葬され、さらに1950年に再発掘され、米国バージニア州のアーリントン国立墓地に再葬された。スリムは後に次のように書き残している。

_(_
( ゚ω゚ )
        
「私は、ウインゲートの部隊の貢献度がつぎ込んだ資材にして、その成果が釣り合っていたとは思えない。だが、ウインゲート兵士たちを勇気付ける導者であったことは間違いない。 彼の部下たちの大半が自分の運命を彼に預けていた」

 ウィンゲート挺団の日本軍へ及ぼした影について、以外に大規模な挺兵団と判断できず、兵の逐次投入に陥り、損耗を重ね、歩兵11個大隊すなわち約1個師団分が吸引されたうえ弱体化し、後の作戦に使用できなかった。さらに十五軍の後方補給が擾乱された。特になけなしの兵站自動車中隊のが使えず補給に一大支障をきたした。補給担当の薄井少佐ビルマ方面軍後方主任参謀後少佐は、チンデットが日本軍の補給に与えた影について戦後尋問され「第二野戦輸送部の計画は、チンデットにより全に挫折した。その結果第十五、第三十一師団は二十五日分の割り当てを消費したのち、緊急輸送を受領できなかった」と答えている。

チンデット揮系統の

 ウィンゲートの死後、特殊部隊作戦統制をするイギリス第14軍の指揮官リムは、ウィンゲートの参謀本部長であるデレク・タロック准将と協議した後、レンティ准将ウィンゲートの交代補として選択した。彼はりりしいグルカ部隊の指揮官で、42年の敗戦をビルマ中で戦い抜いた、勇敢で才ある軍人であり、43年に自分の第111団をチンデット方式に育て上げた。だが彼はウィンゲート(スリムに対しても)成り上がり物とみなし、その理論は不健全で明もされていないとしていた。彼の統率下に、壮大な構想はくすんでしまう。またウィンゲートは、政治的つながりを通じて、通常の軍部の外で彼のを維持していたが、レンティンは上級部からの干渉から部隊を守るのには不足であった。
 スリムはタロックと協議し、チンデットに対し拠点を放棄しインパールへの支援するよう望んだが、カルヴァートもファーガソンも抗戦中で敵から離脱できないとして難色を示した。この時はそれでよかった「ホワイトティ」を放棄すれば、北部ビルマへの日本軍兵站の邪魔はなくなり、スティルウェル正面の第十八師団を増援できるようになるからである。(だがタロックがここでスリムの案に賛同していれば、のちに特別部隊がスティルウェルに引き渡されずに済んだという事実もある。その死傷者の90はスティルウェル揮下に引き起こされることになるのだ。)

 4月3日マウントバッテン、スリム、スティルウェル、ボウトナー、ストップフォードが集まったジョラハットでの会議に、レンティンも同席していた。第4軍団戦線の状況は暗く、スティルウェルは、コヒマから日本軍が進撃して、レド鉄道起点を抑えるのではないかと気が気ではない。彼はスリム中国軍一個師団をインパール戦線に提供しようと申し出たが、これは丁重に断られた。航空支援の多くは、インパールとコヒマの重要な戦いに転用され、チンデットのまだ発進していない第23団もストップフォードに協させるよう措置した。転用された第23団は、コヒマでの日本軍の背後にある長距離侵入部隊として行動することになる。1944年4月-6月、彼らはナガの丘の地に浸透、コヒマでの日本軍の飢餓に貢献したが158人の戦闘死傷者が出た。またチンデットの第14、第111両団は、チンドウィンに向けて行動し、第4軍団の圧を和らげることになった。レンティンは「アバディン」に飛んで団長たちにあった。カルヴァートとファーガソンは二人とも反対した。ファーガソンはもう一度インドウをたたこうと望み、カルヴァートは「ホワイトティ」と「ブロードウェイ」が役を続けるべきと考えた。レンティン自身の団さえ不満だった「助けてほしい者の言いなりになり、自身の戦略プランはご破算だ」。6日後、スリムの二個団へのレンティンへの命は取り消された。23団を除いて、チンデットはスティルウェルを助けるという本来の任務を続行、さらにスティルウェルの直接揮下に置かれることになった。

日本軍十三軍の設立、チンデット北東へ移動

 4月9日日本軍は三十三軍を設けた。メイミョーに部を置き、軍官は本田政機中将である。ウィンゲート及びスティウエルの戦いを三十三軍に専念させて、十五軍をインパールに専念させた。

 レンティンは「ブロードウェイ」と「ホワイトティ」はもう守り切れないと考え、「ホワイトティ」と「ブロードウェイ」を放棄し、北東に向かい、モガウン50キロ南、ホービン付近に「ブラックプール」という新しい拠点を建設する命を下した。インドウ周辺での分散した作戦を放棄し、北東のスティルウェルの戦闘地域付近に移動するわけである。しかし英地に対する日本軍の攻撃が次々と失敗に終わる中、せっかく防御した堅固な地を捨てるこの方針は賢明ではなかった。
 しかしレンティンはモンスーンによる障を警した。中補給が危なくなるし、土の滑走路では全飛行場にならない。カルヴァートのレンティン宛の通信は不従の態度が見え始めた。さらに特別部隊の有効な活動期間は最大90日だとウィンゲートは言っていた。モガウン中国軍が着いたら、特別部隊の北部ビルマ作戦は終わることになっていたが、これは期間を大幅にえてしまう。すでにファーガソンの疲弊した第16団のほとんどが輸され帰投していた。しかしスティルウェルがミイトキーナに南下してくる間に鉄道回廊を確保しておかなければならない。
 スティルウェルの言い分によれば、それは彼の希望ではなかった。ウィンゲート隊はいらない、自分の命を聞くかどうかわからない。また「ホワイトティ」を手放してほしくもなかった。彼らが北へ向けば、日本軍が迫ってくるだろうと恐れたのだ。今でも田中新一中将の第十八師団だけで手いっぱいだ。中国軍部隊はほんろうされ、進行は遅い。蒋介石雲南から中国軍派遣してこない。スティルウェルが頼れたのは、インドから進出した装備の中国軍米軍ガラハッドだけである。

ティルウェル、ミイトキーナ空港占領

 スティルウェル自身の前進は順調だった。中国軍第66連隊は3月19日フーコ地とモガウン地の分ジャンブブムを手に入れた。日本軍の足背をつくガラハッドの山中回は、ほぼ成功しかけていた。4月中旬までには、何とか中国5個師団を北部ビルマに配置した。スティルウェルのタイムテーブルは遅れており、彼は戦局の打開をガラハッドに託した。当初2997人の兵は今は1400人、メリル准将が再び揮を執り、大隊長たちにミイトキーナ占領がの終わりであり、その後は帰れると知らせた。
 ガラハッド隊員はもう800行軍してきた。作戦は西のモガウンからミイトキーナに接近するのではなく、カチン族の兵隊の協を得ながら、クモン山系をえ北からミイトキーナを突こうというのだった。このルートは彼らの煉だった。途中で隊長のキニソン大佐を発チフスで失った。行軍中にダニに刺された149人の被害(そのほとんどは死んだ)の一人だった。5月17日ハンター大佐ミイトキーナ西方のイラワジ渡河地点に向かい、別に中国軍150連隊を飛行場に派遣した。これは全な奇襲になり、ミイトキーナ飛行場は制圧された。

5月18日ティルウェルはモンスーンは2週後に迫っていると日記に書きいれた。これを聞いたらライミーブリカスはカッカするだろうと書き足した。まこと勝利の快い間だった。彼の部隊は800キロも踏破して日本軍最強シンガポールの勝者第十八師団を破ったのである。ミイトキーナ飛行場は、ハンプのルートとして重で、占領後4410月までに14000回の輸が中継地として行われ、4万トンの物資が送り込まれた。それはいいが、残念ながら丸山大佐はまだミイトキーナの町に頑っていた。

インパール作戦

詳細→『インパール作戦

戦況の変化

ビルマの戦い(1943-44)

 イギリス公式戦史は、4月19日インパール戦の転換点としている。日本軍の攻勢は停止し、コヒマ守備隊は救出され、17師団は事にインパール平野に撤退し終わった。英印軍の補給量は、日本軍から見れば贅沢極まるものに思えたが、彼らにとっては不足がちであり、節約を強いられていた。英印軍はほとんどで現地調達しなかったが、師団一日の補給量は500600トンに及んだと推察される。この量で所要量の約75だったという

 歴史上、戦争の展開が開戦前の予想通りであったことはほとんどない。戦場想定外のことが起きるのは日常時である。しかしウィリアム・スリム官は素い的確な対応により、危機を脱し将たる器を示した。さて今度は牟田口廉也官の番である。
 メイミョーの町には第十五軍専属の明荘、青葉荘と呼ばれた二軒の料亭があった。そこは、数寄屋造りで、敷きの質にふすま、格子戸などをしつらえた勢な建物である。連日第十五軍が催する宴席を開催した。毎食卓にはマグロカツオ刺身清酒などが出て食をにぎわした。その座敷へ、牟田口官と久野村参謀長、木下高級参謀、副官、他幕僚たちの抱え女、つまり芸者が厚化粧をして、あでやかな衣装を着こなし「さあ―おひとつ」と嬌を振りまいて将官にむ。幕僚たちは酔うほどに下手なお自慢の歌が飛び出し、藤原岩市参謀などは十八番の上野駅からと、「九段の」の歌を歌って日色にふけり、にぎやかにさわぎ立てたりしていた。重大な時期に、十五軍の乱脈ぶりを効かされて前線の勇士たちは憤慨した。久野村参謀長と下級将校等が、芸者を取り合いし、けんかしたとかいう噂をしばしばにして憤りを感じた。

日本軍の対応

 4月インパール作戦の戦局の進展が容易ならざる兆を示した時、方面軍の第十五軍への戦増強は逐次転用であった。
 ①4月30日、第28軍から歩兵1個大隊ほか
 ②55日第三十三軍配属を解いた1個大隊
 ③514日第三十三軍より1個連隊
 ④アキャブ方面で作戦中の1個大隊復帰
 ⑤スマトラから1個連隊

 ビルマ方面軍参謀、後勝少佐4月19日前線で何が起こっているか見に行くべきと決心し、を西に取った。敵航空機の活動が盛んになっていた。鷲が獲物を襲うように道路に食い下がり機関銃火でなぎ倒すのだった。に戻って走らせ続け、半にカレーワの東のチンドウィン渡河点にたどり着いた。幅は540m、松明の下で、小舟が軍需品を運んでいた。を渡り、インダンギーの所に近づくにつれ、道路は悪くなっていった。第一線かららしい負傷者の列が果てしなく続く。インダンギーの第十五軍戦闘所では、久野村参謀長からはっきり状況を把握できた。英軍はアラカンから兵輸して戦を強化し、3個師団相当と多数の戦車を持っていると考えらえる。80-100飛行機を使って、日に少なくとも100トンの補給を受けているはずと考えられる。これに対し第十五軍へは、日に10-15トンの補給という情けなさである。インパールへ突進するチャンスがあるのは第三十三師団しかないようなので、後参謀はそこを尋ねてみることとした。後少佐は書類を調べ、第十五軍と三つの師団との間の電文をすべて読んだ。それにつれ、ビルマ方面軍の知らない三個師団の苦が全部わかってきた。4月28日ラングーンから電信が来た「羽田参謀次長がビルマ方面軍の状況視察のため4月30日来着の予定」。後は第三十三師団を見ることはあきらめ、ラングーンに戻ることとした。だが5月2日に後少佐ラングーンに到着した時、参謀次長は出発したところだった。後少佐は方面軍参謀に前線の苦を述べ、遅くとも5月までに完結する必要があることを述べた。後少佐の報告を聞いたビルマ方面軍参謀は東京の大本営に電信を送った。
 参謀次長は参謀の一人、杉田大佐を残して後少佐の報告を聞くよう手はずを整えてシンガポールに去った。インパールの成功は疑わしいとの確信を抱いて杉田シンガポールに戻り、とともに5月11日東京に帰任した。参謀次長は5月12日参謀本部にて東條英機に、同行した部下から「作戦は不成功と断じて間違いない」と報告してほしいと要請があったにもかかわらず、インパール作戦が不成功に終わると断言は致しませんが、前途はきわめて困難であります」とかなり婉曲な言葉で東條に報告した。これに対して東條英機参謀総長は

「戦は最後までやってみなければわからぬ。そんな弱気でどうするか。君は未熟、未経験の一参謀の報告に基づいて、そんな結論を出したのだろう。」

との強気の態度を示した。憲兵を握る東條は、情報杉田を通した後少佐とかいう臆病な若造ものだと明らかに知っていた。

 現地の苦を知った後でも、東條作戦中止を命じなかった。中止の決定が遅れれば、 それだけ犠牲が増え続け、しかもビルマ防衛自体も危機的状況にすることになった。それを陸軍参謀総長の東條は放置してしまった。参謀総長となり、戦略策定に導的役割を果たし得る立場になっても、東條は弱気をめる「精論」をるのみであった。
 この翌日、東條大将天皇への上奏で現実を覆い隠した。

「現況においては辛うじて常続補給をなし得る情況。剛毅不屈万策を尽くして既定方針の貫に努するを必要と存じます」(上奏文)

 インパール作戦の初期の成功は日本国内でも々しく伝えられていた。ほかの戦場では、どんどん戦況が悪化していた。東條は、戦争導の継続と政権維持を、インパール作戦の成功にかけつつあったのである。 東京放送は「インパールの包囲は璧である。弾薬の欠乏により敵英軍の法制は弱まっている。最後の射撃によりインパールはおのずから陥落するものと思われる。第4軍団の命運は、補給と空軍の減少により決定されるであろう。」と伝えていた。

 後参謀はそのあとでさえしばしば作戦中止を提言したが、だれもを傾けなかった。第十五軍「インパール作戦が失敗するなどと報告しそうな参謀は第十五軍によこさないでほしい」。

ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

英軍の戦略

日本兵たちの英軍の評価として

敵のわが地に対する攻撃要領は、まず地偵察、歩兵の展開と砲兵射撃の援護の下で近接、特に迫撃砲をもって集中射を浴びせ、その射撃のさい集団に付設して突入して来る。敵はわが将兵がわずかでも地にいれば、それ以上突進せず、突入を断念し、元の位置に戻る。攻撃準備は慎重で、地破壊のための撃も弾薬も惜しまず丹念にやる。極めて慎重であり、理をしない。

 マウントバッテンは、就任直後「作戦地域におこることは何でも十分に自分に知らせてほしいとした。彼は自ら戦線を訪問し、その新鮮な見解を示すことにより士気を鼓舞した。……そして彼は極東において前例がないほど軍の協同に成功した。彼はまた与えられた権限を最大限使って、戦場にある指揮官たちが勝利を得るために必要な兵器、資材、特に輸送機を与えられるよう努した」(英戦史。その為マウントバッテンは必要があれば、第一線はもとより重慶へもカイロにも飛んだ。特に輸がこの作戦の成否の分かれと考えて、の確保に当たっては、その権限を越えてまで努した。それは1944年日本軍インパール侵攻開始後の英師団の輸の時のことであった。チャーチル首相は彼を支持し、次のようにマウントバッテンに打電した第二次大戦回顧録

海軍大臣チャーチル 勝利のために官が必要とする物を一切戦闘から手放してはいけません。私は之について如何なる方面から、反対が起ろうとも受付けませんし、参謀本部と私とは官を全面的に支持します。」

このようにチャーチルは、戦闘以外に重大な問題はないとし、強な支持をしたのだった。東南アジア戦域軍内の協同関係も、制度上の問題と本人の性格もあって、米国ティルウェル将軍との関係を除けば良好であった。

日本軍の評価

 英戦史には、興味深い記述がある。

五月半ばまでに、もともと不適当だった補給がうまくゆかず、期が到来し、しかも連合軍が全戦線で攻勢移転が強化される状況では、敗北は免れず、戦線を維持することも不可能であることが、はっきりしてきたである。増援兵の来着も、戦線の維持もできるはなかった。それでもこの遅ればせの時においても、日本軍が近距離を退却して兵を集結すれば、惨事を逃れることができただった。」

 5月中旬をめどとし、行動を開始すれば惨事は逃れえたであろうとしている。この時が最後のチャンスであった。6月に入ってはもう手遅れである。惨事に陥ることは決定的であり、人間耐久えて部隊を駆り立てることしかなかったのである。
 ガダルカナル撤退の際の山本五十六大将のような指揮官はいなかった。山本大将は、今村大将の「奪還の大命を拝した身として撤退は議論の限りに非ず」としたのに対し、「一人が悪者になってしてやろう」と決意して、率直に意見を大本営に具申したと伝えられている。

 軍上層部の現状認識の甘さは、対英軍インド兵感も如実に示されていた。彼らはわが軍に対し、一応、抵抗の姿勢はとるが、マハトマ・ガンジー以来の宿願でもある祖国独立を願わぬインド兵は一人もいないはずで、必ず機を見てわが軍門に振るであろう。そしてチャンドラ・ボース旗下の即独立義勇軍に編入され、勇躍、第一線でその筒先を英手に向けるであろう、と。ところが、彼らは英軍将校の督戦下、日本軍歓迎どころか、火の玉になって抵抗してきた。最後の土壇場に来て初めて手を上げ、中にはひきつった笑いを浮かべて握手をめるものもいたが、いきり立った戦闘員がその手を払いのけたのは、この際仕方ないことで得あろう。上を飛び回るのはスピットファイアダグラスのみで、二かえるこの戦闘期間中、日の丸を仰ぎ見たのは、ただ一度だけだったのだ。兵の損耗をできるだけ少なくして、敵がわの損をできるだけ大にする…まさに英軍はこの常識に沿って、あらゆる兵器をあらゆる局面に惜しみなく投入し、兵一人の発見にも、スコールのような弾の集中を見舞った。直木賞作家藤井重夫は「悲ビルマ戦線」で書く

「軍官は、戦略戦術を職業とする上級軍人として、成功しないことがわかりきっていたはずのインパール作戦に、強引に数万の兵を駆り立て、屍山血河を気づいた責任者として、日本軍三個兵団にとってこの作戦における第一の「敵」だった。第二の敵はと泥で退路を阻む瘴癘の密林だった。第三の敵が所謂敵英印軍だったのである」

日英航空戦
ビルマの戦い(1944雨期)

 軍首が予想できず作戦失敗の最大原因の一つになった「中補給により包囲された大兵団が戦を保持しうる」という戦略判断、日露戦争以来日本軍が得意とした包囲攻撃も、中補給による立体戦法に対しては何らの価値もない。
 ビルマにおける制権は、1943年末のスピットファイア3個中隊の到着により獲得され、その後、近接戦闘地域ではスピットファイアにより、遠距離の敵基地に対してはP51のような長距離戦闘機によって、戦争終結時まで保持された。英地上軍は空軍を高く評価した。

たとえ毎週1日でも日本空軍と立場を変えたなら、日本機は連合空軍を減衰させ、中補給を制約し、英陸上軍は補給のため必要な道路の啓開を要し、また密接支援がないため、ジャングル内の前進に伴う兵員の減耗に、耐えきれなかったであろう。

傷ついた日本空軍でも自軍の士気のために、インパールで地上軍を密接支援することと、その上を飛び日の丸を見せることは、必要なことであった。日本軍は、包囲者であるが「日本空軍はどこにいるのか?」追いうパンレットを降らされた。連隊旗手として活躍した磯部夫氏が英戦闘機が乱舞する戦場で考えたことは、週1日でなく、たとえ毎日1時間であっても日本空軍に制権があれば、前期と同様の結果をしたであろうということであった。

期の航空作戦の困難

 1944年の初めから454月末までに、連合空軍が撃破した日本機の数は、500機に上ったと連合軍は発表している。連合空軍の犠牲は、時期によっては日本軍との戦闘よりも、冷酷な地形、気条件によるものが大きかった。ビルマ期が起す障は数限りなくあった。熱はタンク内の温度を高め、エンジンの出を落とすし、ガラスをゆがめ、弾薬自然発火爆発させた。またタイヤ空気圧を変化浅瀬、ガソリンを危険な状態にし、膨のため鋲次を緩めた。湿度と金属を遠慮なく腐食させた。旋は時に飛行機仰向けにさえした。アリモスキートのような木製飛行機を、空中分解させたことがあるといわれる。さらに昆虫類、ネズミなどは、エンジンカバー内に巣をつくり、その性を悪くした。
 パイロットにとって最もぞっとする危険は、標を厚く覆う何層ものであり、これを通過するかどうかは、リーダー責任であった。森林におおわれた山系では、少し航法を誤っても往々にして死につながる。地図は信頼できず、時には峰の高さが間違っている。その大部分は未測量だからである。そこでパイロットは自分の知識経験と山の形で飛ぶ。しかし期になると、が山の形を変えるので、を突き抜けて飛ぼうとして山に突するか、または荒れ狂うにより空中分解することがある。期が始まった直後、五機のハリケーン中戦を終わって帰還する途中、チン・ヒルで三万フィートにも上昇する積乱雲に遭遇したが、燃料不足で回することはできなかった。うち2機はひどい状態になって通過して帰還したが、他の3機は跡すら発見できなかった。またその少し後で、16機のスピットファイアが同様なに遭遇して、うち8機が生還したに過ぎなかった。

偵察機の活躍

 正確な戦略情報は二つの情報から得られた。すなわち敵の占領地内部で活動する秘密部隊と、敵地の上で活動する写真偵察部隊である。爆撃機部隊の成功は、写真資料に基づくものが多い。その重要さのゆえに、スピットファイア偵察機が43年11月優先的に配備された。東部空軍写真偵察隊はワイ空軍大佐揮し、スピットファイアのほか、モスキートライトニングP38も含まれていた。英空軍はウェリントンから、より高速のB24を使用するに伴い、より正確な爆撃に移行した。新式の英ゾーン爆弾は、投下後落下の方向を線操縦でき、鉄道線路の破壊に効果があった。しかしこの交通網の破壊状態の維持は、コストが高くついた。ボーファイター中隊は18か75人のパイロットを死なせたか行方不明にした。その内最後に日本軍から帰ってきた3人を除く犠牲者は、中隊戦の二倍に達した。

輸送機の防衛

 地上軍が日本軍の包囲の打開に努している間に、期は最盛期が近づき、飛行機相は必然的に変化して言った。戦闘機は乱気流によりがねじれたりしたが、他方日本戦闘機のダコタ狩りを避けることができた。期の最盛期でもインパール全般、北部ビルマ及び南部アラカンには輸を続けなければならなかった。インパール飛行場を基地とする戦闘機戦闘爆撃機中隊は、活発に輸送機の護衛に当たるとともに、補給の関係から薄暮には西方インドの基地に帰投し、翌日の日の出とともにインパールに戻った。これはインパールの弾薬、燃料及び食料の節約のための処置である。
 日本軍の襲撃の標は、輸送機か第4軍団に対する攻撃であるが、英空軍の警組織を破壊するのは較的容易であった。チン・ヒルレーダーは、日本軍によって次々と踏みにじられた。インパールの戦闘機に対する防護は、最も重要な防線の弧を敵機が飛んでから、正味8分を要する。敵の編隊がを低くあるいは分散して侵入すると、その航跡をたどることが難しい。レーダーは英軍支配地区の周辺にあって敵に対して危険であり、しばしば弾の下になることもあった。間は日本軍の斥にばれないように、ディーゼルエンジンを止めなければならない。だがこの事前情報により、しく20機のオスカーを迎え撃ち、13機を撃墜したことがあるという。

 日本軍の小さな戦闘機隊でも、兵員輸送輸団のみが実施しうる、巨大な第4軍団向け軍需品輸の微妙バランスを崩し、失敗させることができる。日本軍ビルマ航空隊には、一日に300機に上る速度の遅い非武装の輸送機は絶好の好餌である。ダコタC47やコマンドC46の飛行経路は、スピットファイアハリケーンによって、パトロールされた狭い回廊に限られていた。だがインパールに基地を持つ、連合軍の戦闘機の優勢が災難を防止していた。制権はスピットファイアの活躍で確立されており、その後の連合空軍の攻撃的用法により、日本空軍は逐次減衰し、ついに最高官の心配の中で最小のものとなった。日本空軍は最も重要な時でも、較的安全な600マイル離れた基地から、散発的な貧弱な支援しか与えることができなかった。包囲間における日本機の活動は、連合軍のそれのわずか3に過ぎなかった。そしてその期間に少なくとも150機の日本機が、英戦闘機または対火によって損を受けたはずと英側は述べている。

日本軍への爆撃

 日本軍爆撃は、インパールを基地とする、第221グループハリケーンの担当であった。から晩まで道路状の自動車を捜索し、路の小舟、、駄、さらに砲兵兵器を運ぶなど攻撃することは、空軍にとって愉快な仕事ではなかった。また間の自動貨車も狙ったので、日本軍間の路上でのライトの使用を禁止した。ある時ナガ族の村長が、ウクルルの西のジャングルの中に、日本軍将軍1000人の兵士と200の騾とともにいると、その正確な位置をインパールの部に報告に来た。彼の示にしたがって、ハリケーンは6個の爆弾を落とし、かつ撃した。敵の兆は見当たらなかったが、その後そこで日本兵の多くの遺体が確認されたという。
 一方、英空軍はあまり評価をしていないが、日本地上軍が最も恐れたのが、攻撃機として活躍したスピットファイアである。スピットファイアの”街道荒らし”は日本軍の補給戦をズタズタにし、多くの兵士だけでなく、大隊長をはじめ多数の将校を殺傷した。

レド公路の戦いと第二次チンデット(ウィンゲートとスティルウェル)、雨期

ビルマの戦い(1944雨期)

日本軍ブラックプール地奪取

 チンデットはインドウ周辺から撤退し北東のモガウンミイトキーナ方向に行軍していた。ホワイトティを放棄することで、日本の第53師団はインドウから北に移動することができた。
 チンデットの111団は、5月8日ブラックプール地建設を開始した。日本軍の攻撃が間入れず仕掛けられ、「ブラックプール」の維持は次第に不可能となってきた。攻める日本軍武田中将麾下の第五十三師団である。最近召集された、京都出身の老兵たちである。しかし武田師団は果断に戦い、チンデットを圧迫した。これまで長距離挺身隊が受けた訓練とは、別種の戦争だった。5月24日五十三師団は大規模な攻撃を敢行した。カルヴァート隊は111団を救援に行けなかった。氾濫しており、周囲の水田にまであふれ、また日本軍は用心深くこの地域の船をすべて撤去していた。25朝日本軍が阻塞地の周辺を浸透し、機関銃を浴びせてきた。英軍は大きな損を受け、17日間の連続した戦闘の後に疲れ果てていた彼らは逃走、「ブラックプール」は放棄された。

ミイトキーナの戦い

 空港は占領したものの、残念ながら丸山大佐はまだミイトキーナの町に頑っている。まず中国軍が掃討しようと試みたが、彼らはい、同士討ちをはじめ、さんさんたる結果に終わった。これを聞いてメリル心臓発作を起こした。ミイトキーナを取るには、ガラハッドを使わなければ理だとハンター大佐は考えた。しかしガラハッドは疲れ果てていた。
 英軍第36師団が到着していたから、明らかにつかれたハンター隊と交代させて良かったが、スティルウェルは反対した。ライミーをカッカさせ、1ダースの従軍記者が全世界米軍の偉大な勝利報道した後で、英軍に危険から救ってもらうなどできない。レド行路の自分の工兵隊を呼んだ方がマシだ。「戦闘米軍色を保つため、私はたぶん一部工兵隊を使わなければならないでしょう」とマーシャル参謀総長に打電している。スティルウェルの幕僚が、中国軍を大事にしてガラハッドを酷使していると率直に報告した。ミイトキーナ攻防戦は2か半も続くのだが、適切な計画と正確な情報があれば、2日ほどで攻略できたはずである。5月27日日本軍の逆襲の際、マギー大佐のM部隊の兵たちは戦闘中にも執拗な睡魔に襲われ、部隊の休養を申し出たが駄だった。スティルウェルにはたとえどんな状況だろうと米軍の存在が必要だったのである。

 日本軍の増強は俊敏で、1週間で兵3000になり、間もなく4500となった。日本軍は新設の第三十三軍の参謀長に片倉大佐が着任、その下に日事変以来の大日本帝国陸軍伝説的人物、辻政信が着任したのである。はあらゆる作戦に首を突っ込んできた。ノモンハンシンガポールガダルカナルニューギニア、そして今度はビルマ。彼のマレー作戦についての手前みその記述によれば、その成功はすべて彼の先見性とエネルギーのおかげで、皇族にも顔が利くというみたいだった。暴でもあった。信じえる話だが、米軍操縦士の肝臓を食って、ぞっとしている同僚たちにも回したといううわさがある藤原岩市中佐の直話)ミイトキーナの内側は攻撃側が想像したほど一枚岩ではなかった。第五十六師団の水上少将が守備隊長として着任した。水上少将1500の兵を連れてきた。水上丸山の二人の上級将校に、基本的な食い違いがあった。

チンデットに対するスティルウェルの怒り

 「ブラックプール」から逃走した第111団は3日かかってモソカサンに到着した。彼らの疲労と消耗はしく、作戦継続することは不可能であった。そこへ命が下された。ここを移動し、第77団の東からの攻撃に呼応して、西からモガウンを攻撃せよというのである。辛辣なスティルウェルは怒っていた。第111団はスティルウェルのミートキーナ攻略戦に効果的な寄与をしていないという。第111団は承認を得ずに「ブラックプール地を放棄し、このためスティルウェルはモガウンに前進できた2-3000の日本兵の脅威にさらされたともいう。111団のモリス部隊は今や1300、スティルウェルの中国軍ガラハッド5500人でもまだミイトキーナを獲れないのだから、この批判は厳しすぎる。部隊は5月25日ミイトキーナ対ワインモウ集落の日本軍を掃討せよといわれた。一帯の洪水モリス部隊はワインモウを占拠できなかった。

 スティルウェルとレンティンの関係がひどく悪くなったので、6月初めマウントバッテンはスリムをスティルウェルの部に派遣した。スティルウェルは5月17日に特別部隊の責任者となったが、もう投げ出したくなっていた。特別部隊が前進を続けよという命を聞かないと文句を言っていると。スリムは双方の言い分を聞いたうえで結論を出した。

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リム「スティルウェルの命は見たところ妥当であり、チンデットがそのすべてを遂行しなかったのは明らかである。同時に多数の死傷者を出した後の疲弊した現状では…物理的に実行不可能であることも明である」

 スティルウェルはガラハッドの実績を引き合いに出した。スリムガラハッドは戦闘による被害はチンデットより大きいと反論した。スティルウェルがモリス部隊はミイトキーナ陥落に貢献していないと苦情を言うと、スリムは言い返した「なぜ兵の部隊を責めるのですか。(中国軍ガラハッドの)3万でも、出来なかったじゃないですか」。

 スリムはスティルウェルを説得し、レンティンに部隊の休養を許し、ミイトキーナ陥落まで統率下に置くようにした。しかしスティルウェルのミイトキーナ攻囲が長引くほどに、気が短くなっていった。特別部隊の欠点についての憤りは募る。
 6月30日ついにマウントバッテンが自分でシャドゥズップにやってきた。作戦面ではスティルウェルはスリムの第14軍の下で行動することになっていた。一方でスティルウェルは東南アジア最高部の副官として、理論的にはスリムの上官になる。このややこしい状態を解決するのに難渋し、このため仮の手段として、マウントバッテンはスティルウェル兵団を、自分の直接統制下に置くことに同意した。マウントバッテンはチンデットに健康診断を受けさせ、傷病兵を帰還させること、またガラハッドの撤退も進めたが、彼の助言は受け入れられなかった。チンデットもガラハッドもウィンゲートが決めた期限をはるかえて戦い、耐久限界はるかに越していた。7月8日に出された診断報告では、すべての兵は体的、精的に消耗しきっており、均して19㎏以上体重が減っていた。多くが3度以上マラリアを経験しており、塹壕足炎、細菌性膿瘍、等にかかり、マラリア、チフスによる死者が増加していた。にもかかわらず、スティルウェルは第111団の撤収は協定違反だとマウントバッテンに強調したのである。

 モリス部隊は毎日病気で消耗している。7月14日までにモリス部隊は3個小隊だけになってしまった。スティルウェルは拒絶した。1週後将兵25人だけになったモリス部隊は撤退要を繰り返した。マウントバッテンはついに譲らず、スティルウェルはついに折れた。

ティルウェルのガラハッド酷使

 スティルウェルはガラハッドを撤退させたくなかった。中国軍はチンデットよりガラハッドより長く戦場におり、今も彼らが戦っているのだ。中国軍の前身はエネルギッシュではないし、蒋介石の秘密の出し惜しみをしている。彼はモリスを引き合いに出した。疲れてへとへとになっているチンデットを戦わせておいて、ガラハッドが撤退できるものか、と同時に言いったのである。このころにはコクラン航空隊の操縦を含め、兵の精鋭も疲れていた。輸送機や軽飛行機の乗員は情熱を失って病気になりかけている。撤退の仕事が一番つらい。地上のアメリカ兵はもっとひどかった。後方の病院を探し回って補充要員を見つけて送り出したが、200人に10人はその場で病院に逆戻りした。工兵隊も足しにならなかった。その多くは基礎訓練以来、小銃を使ったことがなかった。
 そのころ2600人の志願兵がアメリカを出港し、5月25日ボンベイについた。1週間でラムガールに急送され、ニューガラハッドの二個大隊に編成された。ミイトキーナの将校が受領に行ったが、訓練不足で使い物にならないとわかって、これを新旧混ぜた三個大隊に編成しなおした。この新兵たちはミイトキーナに輸され、モンスーンのの中をぬかるみに踏み出した。ミイトキーナの古参兵は彼らと入れ替わりに飛び去った。兵が病気で引き上げるためには、3日続けて102度(摂氏39度)の熱がなければ資格はない。50人が精神病認定され、合衆部隊は混乱恐怖に陥った。

「多くの場合、彼らはただジャップを怖がっているだけなのです」。

ティルウェルは実際に自分で兵たちを見に行かざるを得なくなったのだが、帰ってくることができたのは幸運だった。というのも彼自身の兵たちの憎しみがそれほどまでに高まっていたからである。

人間性のかけらもない冷血はあいつに小銃の照準を合わせた。一発くらわすこともできたし、あの野郎をやったのがジャップじゃないとは、も気づかなかったはずだ」

と書き、彼の兵の一人がもう少しで彼を打つところであったのだが、残念ながら実行に至らなかったと記録している。その辛辣な反英的冗談に追従笑いするゴマすり幕僚と、それにマーシャル将軍のような遠隔地の賛美者たちを別にして、スティルウェルに対する一般の評価は決して良くはなかった。中国人は彼を憎んだし、英軍はスリムくらいが例外で、あとは彼を毛嫌いした。

 孫立人は5月19日南下を再開できると考え、カマインを取ると話した。中国軍112連隊は、町周辺のジャングルを苦労して進み、田中の背後の補給中心基地を占領した。八棟の倉庫に、食料と弾薬がぎっしり詰まっていた。田中新一中将麾下の相田俊二少将はカマイン東11キロラヴォン集落を放棄し、田中の側を大きく開けてしまった。もし孫立人の第112連隊が、南方ガウンに通じるこの道路を抑え続ければ、田中師団全部が網にかかるところだった。中国軍第22,38師団は、モンスーンのと大洪水をついて、田中西方から迫りつつあった。
 田中は直線距離50ばかりのカマイン~モガウン地区をできるだけ長く保持する的を持っていた。モンスーンたけなわの6月中旬までカマインを保持すれば、戦車は動けなくなるのだ。6月16日中国軍はカマインの南と西の山中に進出、中国軍はモガウン北のグルカ隊と連結した。ここでチンデット部隊の残りは、スティルウェル軍と陸路連絡が取れ、そこからインドに戻っていった。田中はモガウンでなお戦闘を続けようとし、本田第三十三官に第五十三師団の来援を要請した。本多は同意し、3日間にわたり十八師団と五十三師団が中国軍を退けようとしたがうまくいかなかった。中国軍第22師団は6月16日にカマインを占領した。マラリアに倒れ、飢えに苦しむ日本軍は戦を半減させていた。

ガウン

 チンデット特別部隊は、最後の戦いで大成功を収めた。兵2000に減ったカルヴァー准将の第77団はモガウンを抑え、ミイトキーナ鉄道を最終的に遮断したのである。

 米軍中国軍の包囲にもかかわらず、ミイトキーナへの出入りは可だった。モガウン経由の鉄道が通じていた。本多十三官はモガウン経由で第五十三師団をミイトキーナに向かわせた。だがゴールキロまで来たところで、命は変更された。彼は武田兵団をカマインに振り向けた。モガウンへのチンデット侵入を食い止めるよう示した。モガウンへの開けた田園には、日本軍遮蔽壕からの十字火網が縦横にり巡らされ、いたるところに狙撃兵が配置されていた。英軍の死傷者は増加した。モガウン五十三師団は4個大隊まで増強された。攻撃に加わるはずの中国軍は進軍しなかった。
 6月13日、カルヴァートの各大隊長は、いずれも中隊規模に兵が減っているし、長とぬかるみをついての攻撃で、疲労が蓄積していると告げた。からモガウン側の端まで、日本軍は堅固に塹壕り巡らせていた。6月18日ナウンチャイトー集落をP-51襲後明けに英軍は攻撃した。日本軍はしばらく持ちこたえたが、やがて地を捨て、西の停場へ向かった。広場を横切る40人が英軍の機関銃に捕捉された。この日ナウンチャイトーでは日本兵100人が殺された。
 同日チンデットが用意した巡視艇で中国軍がモガウンを渡り到着し始めた。中国軍は大歓迎されたが、彼らが正面攻撃に一向に熱心でないのを知ってイライラする。中国軍は何年も戦っているのだから、「一週間やそこらはあまり意味がない」という言葉にあっけにとられた。中国軍間に日本軍地に近づき、長居なく引き上げたのだが、がれきの陰に二人の観測員を残した。彼らは日本兵が闇に紛れて急速に出てきたとき、遮蔽壕の位置を突き止めた。中国軍は81㎜迫撃砲を持ち出し、距離180mで敵地をノックアウトして、最小限の損でそれを占領してしまったのである。彭少佐は長い戦争で、部下の生命の消耗に慎重でつましくなっていた。
 6月24日の最後の攻撃で、ミチェル・アーマン大尉は中隊の先頭に立って、手前の日本軍機関銃地を沈黙させるべく突撃した。御多分に漏れず、アーマンドも塹壕足炎で走るのはつらかったが、泥んこの中を進んで手榴弾を投げ込み、とうとう機関銃を沈黙させた。この沈黙の代償は、彼の命だった。死後にヴィクトリア十字勲章を贈られた。敵、味方とも損は甚大だった。カルヴァートは将校47人、兵は729人の死傷者を出した。正午までにカルヴァートの団は標をすべて制圧し、極度に疲弊して、へとへとであったが、どうにか勝つことができたのである。連合軍は26日と7日十分な注意を払いながら、町の残りの地域に進軍、モガウン全に占領した。
 BBCニュースが、スティルウェル部の発表として、中国軍がモガウン攻略したと放送した。カルヴァートや将校たちが激怒したのは当然である。モガウン攻略後、カルヴァートは命従を拒んでいた。スティルウェルは日本軍残存兵を掃討し、カルヴァートは残った兵員を一部隊に編成して、ミイトキーナへ来るように命された。彼の答えは線連絡の閉鎖だった。逆方向のカマインへ部隊を行軍させ、そこからインドに撤収するつもりだったのだ。カルヴァートはミイトキーナ攻囲戦に参加を要されることを恐れていたのだ。(だが間違いだった。ミイトキーナ空港から撤収するほうが楽だった)

 カルヴァートはその後、自ら部に出頭してレンティンに会った。彼は軍法会議にかけられる恐れもあった。翌日スティルウェル部に向かった。スティルウェルはカルヴァートと握手した。

「カルヴァート、君と会いたいと思っていたんだ」
「私もお会いしたいと思っていました」
「君はたいへん強い調子の通信を送ってきたじゃないか」
「私の副官が握りつぶしたのをお見せしたかったですよ」

あけすけな話し方だ。スティルウェルは噴き出した。

「私もワシントンに電文を書くと、参謀はまったくおなじようなトラブルおこすんだよ」

 氷はとけた。後はモガウンでの苦戦についてカルヴァートの独演会になった。スティルウェルが「なぜ私のに入らなかったのだろう」と再三繰り返したので、彼のごますり幕僚が英軍の役割を貶め、戦いの相が彼に知らされなかったのだとわかった。第77団が4か前に輸されてきた部隊と同じだということさえ、彼は知らなかった。カルヴァートは部隊にもどり、インドへ撤退を始めた。もう十分に働いたのである。

ミイトキーナ陥落

ガウンが制圧され、補給ラインが切断されたため、町の防衛に関する彼らの命をめぐって、日本軍の間で内紛が起こった。7月の終わりにかけて守備隊の崩壊が前に迫るや、丸山水上全滅を急ぐより撤退して抗戦すべきだとった。水上の沈黙は反対ではないと受け取った丸山は残存者に8月1-3日のイラワジを渡河するよう命じた。しかし水上揮権があるのに、丸山揮するのはおかしいという。水上は2かミイトキーナを死守すると本田官に打電している。7月1日水上少将」はミイトキーナを死守すべしと伝した。辻政信の発案であった。8月1日ミイトキーナの丸山大佐は撤退を命じられた。8月3日ミイトキーナは陥落した。ミイトキーナに突入したスティルウェル部隊は、189人の瀕死の捕虜を発見し、守備隊長水上少将自決したことを知った。

丸山大佐生存700名の脱出させた。水上の遺品をもってバーモの部にたどり着いた堀井中尉辻政信

海軍大臣チャーチル 「最後の一兵まで戦えといわれていたはずだ。こんなところで何をしているのか。おめおめと生きて恥ずかしくないのか」

 田中新一中将は本来規に厳しいのだが、を制した「もういい。、君ももう少し思いやりというものを持った方がいいぞ

二次チンデットの結果

 111団は、休憩後、ポイント2171として知られる丘を占領するように命じられた。それはそうしたが、全に疲れ果てていた。兵のほとんどはマラリア痢、栄養失調に苦しんでいた。7月8日、ルイマウントバッテン最高官の要により、医師たちは団を調した。2,200人の男性のうち、119人だけが適格と宣言された。団は健兵1中隊を残し撤退したが、部は残兵は8月1日まで野放しにしていた。イラワジの東側にある111団の一部は、その指揮官である大佐ジャンボモリスにちなんで、モリス軍として知られていた。7月14日に、モリス隊は3小隊まで減り、 1週間後25人まで減った。モリス部隊は第77団とほぼ同じ時間に避難した。第14団と第3西アフリカ団は活動を続け、新しく到着したイギリスの第36歩兵師団がモガウンの南のインドウ方面に「鉄道」を下っていき制圧したため、8月17日から、彼らは安心して撤退した。最後のチンデットは1944年8月27日ビルマを去った。

チンデットは大きな死傷者を出し、1,396人が死亡、2,434人が負傷した。作戦末期、スティルウェルはガラハッドやチンデット縦隊を酷使したため、その尽きることのい憎悪を受けることとなる。

インパール作戦、雨期

詳細→インパール作戦

インパール作戦の結果

ビルマの戦い(1944雨期)

 英印軍の194311月1944年7月の損(死傷者)はコヒマ・インパールより前の戦闘インド17師団インド20師団他920人、コヒマで4064人、インパール12603人、計17587人。うち戦死者、病死者合わせて5000人前後と考えられる。一方日本軍インパール作戦第十五軍三個師団、軍直轄、配属所部隊を含む。参加人員約86538人、これは5月の数字で、この後逐次部隊が増強されたため、参加者は9万人をえるのは確実で、10万人前後ともいわれている。そしてこの作戦による損は戦死20502名、戦傷病死者41978名、計72480名と死者は英印軍の10倍以上にもなるのである。日本軍インパールで、明治大日本帝国陸軍始まって以来、その歴史上最悪の敗北を喫したのである。(半年後にはレイという更なる敗北が迫っていたが)

インパール作戦では、参加した日本全軍が多数の行方不明者を出しており、そのほとんどは死亡したと認定されたが、敵の捕虜になった者もあった。英軍の記録にも、次のように記述されている。

過去二年間の東南アジア戦闘で、ほとんど一人の捕虜も出さなかった精強な日本軍が、わが軍の追撃におり、一週間名の捕虜を出したこともあるほど、日本軍の士気の低下が察せられた」

 しかし、敵の捕虜とならず、最後まで敵にはかない抵抗をして殺された、あるいは日本軍自決を強要されたり「処置」され死亡した落者のほうが、はるかに多かったことも推察される。

 「インパール作戦―その体験と研究」の筆者の磯部夫氏日本軍高級官の統帥は、世界に冠たるものだと思っていた。しかし磯部氏の従軍したビルマでは、必ずしもそうとは言えない場合が多かった。英戦史「対日戦」のこれに関する記述を見てみよう。

戦場の常として、彼両軍の指揮官が予想しない事態に遭遇する。こんな場合には統帥の妙を発揮しなければならない。決断と頑固さを区別し、また融通性と優柔不断を区別できる官こそ勝利を得ることができる。3月初めに第4軍団の前進を放棄して、インパール平野に後退させた素い決断は、融通性を発揮したよい例であった。これに反して、日本軍は例によって最終の希望する結末まで細かく計画し、ほとんど融通性は示さなかった。各級指揮官文字通りその計画を実行しようとし、予想外の状況に対応できず、好機を活用することもしなかった。」

 磯部氏の調した時代は、敵将が牟田口中将をどう見ていたかについての記録はあまり見つからなかったようである。ただ当面の敵第十四軍官のスリム日本軍第十五軍は格が違うとしてか、牟田口中将以下については、「河辺将軍とその部下」として一括して取り扱っていることによる。さてそのスリムは「日本陸軍の強みは上層部にはなく、その個々の兵士にある」とし、「最初の計画にこだわり、応用の才がなく、過失を率直に認める精勇気が欠如」していると批判し、また「河辺将軍とその部下とは、大胆さと不屈さと同時に補給を軽視」したとし、たいして評価していない。さらにスリムは「“The Japanese higher command had played into our hand日本軍の高級部は々をわざと勝たせた」と皮っているほどである。また「ウィンゲート挺団」の著者で、その参謀長であったデリクタラ少将はその著書の中で「牟田口中将作戦導については、イギリス側から全く評価されていない。」と記している。ただし「デリーへの進軍」の著者、英第四軍団参謀A・バーカー中佐は、牟田口中将を「偉大な陸軍中将」として高く評価している。
 これにはお互いの内部の実情があまりよくわかっていないことも関係している。ビルマ戦に参加したルイ・アレン戦後に名門ダーラム大学フランス文学教授となり、ビルマ戦について日本に8回も訪れた。ルイ・アレン教授日本語の文献、高木俊郎の「インパール」シリーズ全巻は当然、日本軍戦史や多数の兵士の手記に至るまでを底的に調べ、日英双方の資料をふんだんに用いたビルマ戦の決定版ともいえる「Burma: The Longest War 1941-1945」を1984年に発売した。これはたちまちベストセラーとなり、英国においてビルマ戦の認識を軍の正史に至るまで書き換えるほどだった。この本の発売以後、英国河辺将軍敵とする見方はなくなり、また牟田口将軍を評価するは消え失せ、インペリアルウォーミュージアムインパール戦の項でも「牟田口将軍の野望を見事打ち砕いた英軍」と「正しく」書き換えられてしまったのである。

ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

連合軍の方針

マウントバッテンの東南アジア部は3通りの可性を検討した。

  1. 第十四軍は敵側に限定的な攻勢をかけ、北部戦区部は英印師団を吸収し、北部ビルマを確保する。いいかえれば、中国への陸上路確保以外はすべて忘れる。
  2. 北部戦区官と雲南中国軍は、南に侵攻して英14軍はマンダレーを落とす
  3. 合同作戦によりラングーンを奪取する

 スリムは②を支持した。彼の第14軍に最高の栄誉を与えるからである。③は評価が低かった。陸両用のラングーン攻撃の装備が整えられるはずがないからである。結局マウントバッテンは2と3の折衷案を選択した。キャプタル暗号名をつけられた攻撃は、第14軍が中部ビルマを抑え、マンダレーを落とすことを想定していた。そしてアラカンにおける攻勢により、ラングーンへの攻撃に使用できる飛行場を手に入れるのである。そして最後に〈ドラキュラ作戦で、1945年3月までにラングーンを陸からの攻撃で制圧しようとする構想であった。スリム東南アジア部がマンダレー及びラングーン攻撃に必要な人員及び装備を確保しているのか、疑問に追っていた。だが彼のマンダレー~パコックの線までの中部ビルマの確保も、兵員の減少で苦戦が予想された。英軍大隊が休暇の消化と本帰還兵で細っていくのを止められなかった。人員の不足は、もはや必要のない高射砲要員を歩兵部隊に編成することで、ある程度うめあわされた。(大日本帝国ビルマ航空隊もめられたものである)。第4軍団のメサヴィは、北アフリカの経験を持つT・W”ピートリース少将率いる、これまで未使用であったインド19師団を手にすることになった。第7インド師団、第225戦車団も同様である。

 日本も見通しを変更していた。太平洋の戦況が悪化していたのである。たとえ仮借ないアメリカ潜水艦戦で日本列島から切り離されても、シンガポール及び南シナへの連合軍の進出を自給自足軍事圏で阻止する。中国への増援阻止の努継続である。”切り”とか”赤ん坊の手をねじる”と過称して時々輸送機を撃墜していたが、ミイトキーナ飛行場の失陥で、それも容易な仕事ではなくなってしまった。木村は自らの部の「自活自戦」の計画を練らなければならなかった。この言葉は海外日本軍でよく用いられたものであった。独で生活し、独で戦えというのである。本からの援助を期待してはならず、軍はその土地で生活していくことを考えねばならない。ビルマ方面軍は第十五、二十八、三十三三軍を有し、第二、十五、十八、三十一、三十三、四十九、五十三、五十四、五十五、五十六の10師団を抱えている。加えてボースのインド民軍、そして今は少将となった若き反英革命アウン・サンの下にビルマ国軍七個大隊も存在する。
 しかし4411月フィリピン戦局が窮迫し、印が緊し始めたので、寺内元帥ビルマに送った部隊の一部を引き上げることにした。19年12月サイゴン南方部で作戦会議が行われ、ビルマ方面軍高級参謀青木大佐は次のように説明した。…ビルマ方面軍は食糧、燃料を持久するほか、独を持ってビルマ空軍を編成し、ビルマ艦隊を作り、総を結集して敵に当たる。勝利にあり、ご安心を乞う…。このため第二師団をビルマから引き揚げても大丈夫と判断され、寺内元帥の推奨により転用されることになった。1月中旬、トングーにあった第二師団がメイクティラに向かって行動を起こそうとしたとき、「明号処理」(フランス軍の反日行動事前に武鎮圧すること)のため南方軍から第二師団のサイゴン転用の命が届いた。第二師団をイラワジ会戦のもっとも重要な機動攻撃部隊と考えていたビルマ方面軍は猛反対し折衝を行い、青葉部隊を残し、残りを転進させることで了解が付いた。

 1944年の後半と、1945年の初期、連合軍の東南アジア方面軍は、ビルマのほとんどを回復するため、5月モンスーンの始まる前に首都ラングーンを取るべく攻勢を開始した。

航空戦の状況

 日本軍期の間は、飛行機をあまり飛ばさなかった。戦闘飛行機の温存は日本軍にとって重要だった。447月に入ると日本航空部隊の活動は停止した。インパール作戦の終了の際でも、東部空軍爆撃に対し、最も重要な標に、時々戦闘機を防護のため派遣するに過ぎなかった。決戦敗北し、南方軍の作成導方針も戦略持久防衛に転換した。その航空防衛はとして第三航空群の任務であり、ビルマ方面はその一部に過ぎなかった。日本爆撃機は、ビルマ外の後方基地に位置し、時折攻撃のため前進飛行場に推進し、急襲後さっと退避する、ヒットアンドラン方式の戦闘行動をとっていた。その戦インパール作戦開始からその年末の間、ビルマ戦線用の戦闘機70機をえず、爆撃機は約30機と英空軍は推定していた。この苦にもかかわらず日本航空部隊はしぶとくゲリラ的活動を続けていた。11月カバ地では、日本戦闘機が連合軍の輸送機5機を撃墜したことがあった。書三航軍によれば、昭和19年11月8日64戦隊はカレミョウ北方で、DC4機撃墜と報告している。これは英軍の発表が日本軍の発表を上回るしい例である)。

 インパール作戦の迎撃に航空機を回されたため、ビルマ北部でのアラカン作戦は停止していたが、中軍は北部ビルマで前進をつづけた。1944年半ばには、中国遠征軍は雲南省より北部ビルマに侵攻し、スティルウェルはミイトキーナの戦いで勝利空港を確保し、路補給体制を強化した。

暗号名を噴火作戦と称した453月中旬のラングーン鉄道基地攻撃は、第20爆撃軍団の協を得て2日にわたり実施された。B29 49機、B24 29機のほか妨排除のため多数の飛行機が用いられた。書三航軍では来襲したB29、B24ともにやや過大な機数が報告されている)

英軍捕虜収容所での戦い

 西部インド、ピカネールの砂漠地帯、ニューデリーから汽車一週間くらいかかるアフガニスタンとのに、ビルマインド攻略作戦に参加した、陸海軍の捕虜が全部で4000名収容されていた。T兵長が収容所に護送されたのは昭和19年11月の中旬であった。彼は、現役兵で祖国のために何者にも負けない気概は全身にみなぎっていた。食料がなく餓死寸前、不幸にして抵抗になったり敵弾に当たり即死できなかった兵士たちは、やむをえずPOWになった。しかし体が少し自由になった時、どこに死に場所をむべきかを、だれもが考えていた。故に生きて帰ることなどだれも考えていなかった。外ではPOWを一番英雄視した。日本の軍法は惜しいかな最も過酷な死刑が待っていた。
 英軍は戦勝として、T兵長らにいろいろと執拗に要してきた。英国の言動は悪いことではなかった。その要は、敵に対して敬礼することと使役に出ることだった。当然のことだが日本兵として、英印軍のこの要には死を賭しても屈しなかった。19年11月から始まった要はいろいろと内容を変えてT兵長らに迫ってきた。その条件として要を受け入れた時は食糧を増すこと(一日のの量は1.8合だった)、娯楽品等も施設もよくするとのことであったが、これらの甘言は全く受け付けず、々自適する態度であった。かたくなな日本人の様子に対し、英軍側は、食料の配給をストップするの手を使ってきた。毎日ばかり飲んでいたが、中には慢しきれず敵歩に食物を少しもらった兵がいた。これが発覚してその兵を皆で懲罰にした。その兵はPOWの戦友の中で汚名を着た。彼は死を持って皆にわびねばという気持ちになって、も更け、隠し持っていた短ドラム缶片で作った物)で柱めがけて突進、心臓を突き刺し、血潮は門柱に飛び散り、凄惨な場面を展開した。翌、捕虜収容所長は驚き落胆した。捕虜を死なすことは官の責任問題になる。捕虜収容所官は

「もはや敬礼も使役も要しない。今まで通り日本兵は威って何をしていてもよろしい」

 と全POWに宣言し、死を恐れない日本兵の魂に舌を巻いた。

日本軍ビルマ統治の弛緩と引き締め

当初は日本軍を歓迎していたビルマ人たちも支配が長引き物資不足に陥ると日本軍に協しなくなった。日本軍に対する物資補給は停滞していたから日本軍将兵は住民から物資を徴発するしかなかった。反抗する住民には威嚇虐殺するしかなかった。戦局悪化の状況で日本人ビルマ人との友好関係は崩れていった。

 マンダレー埠頭には500人くらいのビルマ人苦から荷揚げに大わらわであった。見ればこの苦たちは日本兵の揮者もなく勝手に、あちらこちらに荷揚げしているっ最中であった。ひどいのになると、十五センチ榴弾の大きな弾を、防壕の上やらその周辺に造作に荷揚げしている。
「おいビルマ人!、そんな所に置いてはだめだ、飛行機が来たら防壕が危ないから、そこはだめだ!」
 …このように、あまりにもビルマ人たちが仕事の邪魔をするので、とうとう中島上等兵が怒って、ビルマ人苦を怒鳴り上げた。「ヘイ、バルマ!、トワメ・トワメ!」(こら、ビルマ野郎!、あっちへ行きやがれ!)。これには、ビルマの苦も、負けてはいなかった。舌足らず日本語で、「ヘイ・マスター・兵隊・3つ・モンクナイビルマ・チジ・サカンタイグウ・オマエヨリ・トテモ・トテモ・エライ」…そのクーリー監督は盛んに挑発してきた。…私は気持ちを抑えて、ビルマ語と手ぶりで、そして笑顔まで添え頼んだが…「ドコヲトオロウト・オレタチノカッテダ、モンクナイナグルナナグッテミロ・オマエ・グンポーカイギダ! オレサカンエライ」…とうとう私の堪袋の緒が切れた。大日本帝国軍人が、ビルマ人如きになめられてたまるか! 次の間、私の鉄拳が思いきり横っ面にガーン!と爆発した。…苦監督は死に物狂いで逃げながら、何か叫ぶように怒鳴ると、500人の全苦が走り出し、あっという間に一人もいなくなってしまった。…
見れば前方から、5,6人の将校が走ってくる。
「おーい、こら!、貴様らァ、なんちゅうことするんじゃ。ビルマ人を殴りやがって! 埠頭駐屯軍部まで、こいッ、軍法会議もんだぞ!、貴様らァ、どこの部隊か?、責任者は誰だ!」
責任者は私です。…どういうわけでこうなったかもわからずに、あんたたちは文句を言う資格はない。…ここにいる連中は、ガダルカナルインパールの生き残りで、気がすさんでるから…。どうせ軍法会議なら、帝国軍人を侮辱した今のビルマ人苦監督の首をたたききってやる!」
 「まあ、待て! いくら前線帰りでも、ビルマ人の首をたたききられちゃたまらん。かつては一万人からの使役現地人を集めたのが、負け戦で使役を集めるのに苦労しているのだ。君らも協してれにゃ困るじゃないか。とにかく後のことは二十四連隊本部とやるから、君らはこのまま帰ってくれ」

 私たちの梱包残留隊の本拠は、マンダレー南部にあるきれいな寺院内にあった。この寺院の二十四、五歳くらいの坊主が、だれに倣ったのか、毎日おかしな日本語を勉強していた。「キシャガテクテクト、レールノウエヲ、アルイテユキマス。キシャガ…エートケムリヲタレアルイテユキマス腐って朗読しているのには、思わず吹き出すほどだった。だが、正月も過ぎるころから、このクソ坊主高々と、奇妙な朗読をやり始めた。「グレートブリテン…ツヨイ。…ニッポンマケル!」ことさらに語尾をあ上げて言う小面にくさに、私は慢できず、「こりゃッ、クソ坊主ッ、ニッポンセンソウマケルを、もう一度言ってみろ、ただでは済まさんぞ!」私は、脅し半分に持っていた竹刀を、大上段に振りかぶった。「ヘイー、マスター、ワタクシ、クソボーズナイ。ワタクシ、ビルマノオボーサンデスウソイワナイ。ニッポンセンソウマケル。ビルマジンミンナイッテイル」「何をッ! この野郎ッ! 日本戦争に勝つ! 絶対負けない。負けるというと、これでお前の頭をぶん殴る! いいか?」私は今にも振り下ろさんばかりに竹刀を大上段に構えたが、脅しも通じないのか、なおも「ブリテンツヨイ。ダイエイテイコクツヨイ!」クソ坊主の変な日本語が終わった途端―私の大! 振り上げた大上段の竹刀は打ち下ろされた。クソ坊主は口から泡を吹き、をむいて「ううう…」と、唸ったかと思うと、後ろにのけぞって倒れ、しばらくはひくひくと手足をけいれんさせるのみ。-私は心の中で、またえらいことをやってしまったと後悔したが、できたことは仕方ないと、クソ坊主はそのままにして、宿舎に帰ってしまった。…当時は、私も若くて血の気が多かったのであろうが、終戦後は、現地でこの種の問題が多く露見し戦犯となって、運悪く死刑になった人もいるのに、私は全く運がよかった。

日本軍は機密の洩れるのを防ぐという名で、各戦線で数々の残虐行為を行ったが、輜重兵第三中隊で起こった事件は、憲兵隊の命によるものが多かった。

のちに、断作戦に参加してシボウに駐留した時のことだった。中隊で消費する野菜を一手に納入していた若い中国系の商人がいた。ビルマ野菜が少ないだから大いに助かり、また明るい実な人柄は皆に好かれて、自宅を訪問して妻と三人の子供を含めた家族ぐるみの交際をしている兵士も多くいた。だが、シボウを撤退する日、憲兵隊からこの商人の射殺命が来た。理由はただ一つ、日本語がわかるから、生かしておくと入手した情報を敵に漏らすというわけである。同じシボウで、中隊の近くにビルマ人の兵補がいた、日本の兵隊と同じ軍服をいて、第三中隊の下級兵士とは戦友のように仲良くしていたが、撤退の前憲兵隊の命で、二十一人が中隊の露営地に連行されてきた。兵補は崖の上に座らせれ、一人一人、崖の端に連れていって、下士官が交代で軍の試し切りにして、首をはねて殺した。首をはねると、体は前に倒れて崖の下に転落するから、死体を片付ける手間が省けるという残さであった。この虐殺も、兵補が逃亡したら、日本軍の機密を漏らすという理由であった。

イギリス諜報の進展

 インドイギリス軍は、もちろんシーグリムだけが情報だったわけではない。136部隊ではタキン・ティン・シュウエは1943年後半にビルマに送り込まれ、ラングーンでタキン・タン・トゥンと連絡を取った。バ・モーを打倒してタキン党政権を作る望みで、タキン党は日本軍と協しているという。一般ビルマ人にも、日本軍が物資不足で苦しんでいる事情は分かっていた。だが一方では、日本軍のつましさ、勢、過酷な仕事に耐えるにしていたし、独立ビルマ人に代えがたい要素であった。ティン・シュウエはこうも付け加えている

「この感情は、たいてい日本軍が駐屯していない場所に限られている。日本軍が駐屯しているところでは、彼らは100パーセント不人気である」

136部隊は身内の敵意や理解にも悩まされた。第14軍は「殺人を含む犯罪容疑者さえいる、以前の対日協者ばかり使っている」と苦情を述べ、スリム136部隊に非常に不満で、ビルマ国内での作戦を純諜報活動に限定しようと望んでいたといわれる。敵前線の背後の活動は、アメリカOSSにゆだねるというのだ。当面スリム136部隊について十分知っていたわけではない。136隊長のコリンマッケンジーの提案はいつも民生部長ピアス少将に「疑義、不信感または全くの不同意」をもって扱われた。ピアスのこの態度は、タキン党員が責任で不実で人民代表でもないという確信から来ていた。戦争終結後に不当な政治を彼らに与え、穏健で責任ある分子をビルマ政界から遠ざける結果になろうというのである。

ビルマ自体は2度にわたってされた。日英双方とも、ビルマ民衆の運命をごくわずかしか考慮に入れない的のために戦い、この断に戦場に使ったことに対して正当な代償をビルマ人たちに払っていない。

日本軍の再建

ビルマの戦い(1944-45年)

 インパール作戦末期447月2日ビルマ方面軍の任務更南方軍命が下された。インパール作戦は中止。インドから中国への補給連絡の遮断は続けなければならないが、これまでのように地連絡の遮断はできないため、雲南地区で地上連絡企図を封殺すること。チンドウィン河畔で持久をとりあえずすることであった。このころから南方軍ではニューギニア方面の状況急を告げており、ビルマどころではなくなっていく。
 日本軍でもインパール作戦終了後、異動が行われたのは当然である。方面軍および軍の部の首は、根こそぎ更迭された。8月3日河辺中将の後任に兵器行政本部長木村太郎中将が、牟田口中将の後任には第五十四師団長の片村四八中将が、ビルマ方面軍中参謀長の後任には第十八師団長田中新一中将が発された。木村中将は技術に詳しい事務官僚といえる人である。田中新一中将はかつて大本営陸軍参謀本部作戦部長を務め、太平洋戦争開戦強硬として大きな発言ふるった人物である。しかし42年12月ガダルカナルでの船舶増徴案について徴用を強硬にし、政府と意見の一致を見ず、東條総理兼陸相と対立、佐藤軍務局長を殴打し、ビルマの師団長に転出となっていた。木村官は、田中団長ビルマでの経験を買って参謀長に任命したと考えられる。
 フィリピンにおける連合軍の侵攻を要撃しようとする大本営の命により、ビルマ方面軍の役割も変わった。ビルマにおいてインド中国連絡遮断と南部ビルマ防衛とは両立しないので、後者を重点にするとともに、第十五軍の各師団及び第十八、第五十五の両師団の再建のため、人員兵器を補充して年末までに、それぞれ二分の一師団程度の実に充実する必要があると結論し、示を出した。

補充兵

インパール作戦で第十五軍の戦は、各師団とも壊滅的打撃を受け、各師団の現有兵威3000~6000名に過ぎない。機関銃以上の重火器もほとんどなく、2000両以上の車両を喪失した。戦はすでに通常の一割以下になってしまった。続いて起こるであろう中部ビルマでの決戦をどう戦ったらよいのであろうか。
 期明け作戦の構想にてマンダレー~エナンジョンの線を確保することが絶対必要であると強調、補充人員六万人、4.5万トンの軍需資材、自動車500両、2000頭の補給を受けることが決定した。しかし、シンガポールにあるそれらの軍需品のビルマへの輸送は大問題だった。泰緬鉄道季と敵機の妨で一か1~1.5万トンの輸送に過ぎず、上輸送は敵機と潜水艦の攻撃により心細いものであった。445月に第15、第31及び第33師団にそれぞれ2000名以上の補充があったことになっているが、実際各師団が握した人数はこの半数にも達しなかった。さらに中央より毎10,000名のビルマ向け補充を計画し、うち約30,000名がビルマに到達したとされる。しかしあまり戦にはなりえなかった。例えばチンドウィン河畔に配置した第60連隊第2大隊についてみれば、補充された初年兵約100名のうち、悪性マラリア40が病死、病後後送が50%、残存者はわずか10数名だったという。かくして田中新一方面軍参謀長の期待した「師団10,000人」構想の事績はまさに半分にも達しなかったのである。

 歩兵二十四連隊の連隊駐屯地であるシュエボの集落に中隊が到着したのは、昭和19年12月初旬の事であった。その頃部隊には、補充要因として予備役と、現役初年兵が多数加えられた。その初年兵たちは、徴兵年齢の繰り上げもあって、皆昭和生まれだったので、「昭和まれの兵隊が来た。みんなかわいいガキばかりだぞ」と、連隊内ではなかなか人気がよかった。そして彼らの中の昭和まれの初年兵たちは、その後のイラワジ会戦が終わった時、一人も生きていなかった。

 工兵三十一連隊第一中隊に補充要因として藤原少尉以下二十名が到着をした。藤原少尉は名を秀麿といい、ロートルで40歳をとうに過ぎていると思われた。”一年志願”出身といわれるこの老少尉は、富田隊長に部隊到着の申告をしたが、しどろもどろで、はたで見ていた私は気の毒に思った。

 「来る十二月八日は、日本軍々連合軍に対して宣戦布告をした悪の記念日である。この日を期して、英は全空軍を動員してビルマ日本軍に対し、壊滅的な打撃を与えるべく大爆撃を敢行する…」

 という趣旨の伝単が何度となくばらまかれた。こと戦況に関する限り、敵の伝単は信用できる。十二月八日の当日、大爆撃を避けるため、設営地を出発した。藤原少尉は着任々に痢に侵され、間もなくマラリアを併発した。3,4日前から病状は悪化し、今ではもう危篤状態に陥っていたのだ。思えばこの老少尉が着隊してから、まだ二かとはなるまい。少尉には気の毒だが、招集をされ、まるでビルマに病死をするために来たようなものである。少尉の戦時名簿には、東京都出身で留守担当者が長男光太郎とあり、妻の名を見出せないのは世したものと思われた。内地では化学研究所に勤務していたという少尉が、招集されずに故日本にいたとしたら、元気で有意な研究に専念をし、戦士としてのそれよりももっと効果を発揮したことであろう。だが、このロートル少尉を招集しなければならない日本の窮状は、一軍曹の身にも痛く感じられらた。
 …英軍の伝単に書かれていた「大爆撃」はいつであろうか、この横にいる限り、書類も体もまずは安全である。だが、気になるのは藤原少尉の容態だ。やがて、長かった今日一日が終わろうとしてる。日が西に傾きかけたが、敵機の爆音は依然聞こえてこない。陽が沈もうとしている。
 「班長殿藤原少尉殿の様子が変です!」
少尉の口元から大半のれ落ちた。もう吸う息も、吐く息も、再び感ずることはできなかった。
 「少尉殿…」
あついものがやたらとこみあげて、ポトポトリと、座った半の上にれ落ちた。合唱した両の手がかすかに震えた

連合軍の再編

ビルマの戦い(1944-45年)

 連合軍も脱皮し始めた。蒋介石サイドの圧で、ルーズベルトはスティルウェルの移動に同意した。蒋介石はもうずっとスティルウェルに慢でききなかったし、それはお互い様であった。スリムはこう書いている

_(_
( ゚ω゚ )  
リム「私は彼が気に入っていた。わが軍とともに進撃すべき中国軍揮を任せられるようなものは一人もいない。スティルウェルならできた。々は彼が去るのが残念だった……

 これは個人的見解だ。スリムは”戦士”としてのスティルウェルをしているのだと断っているが、残念がる”々”はごく少数でしかない。ロンドンの英参謀総長アランブルック中将は、「軍事知識に乏しく戦略的才何もない…彼は大変なをなした」と片付けている。スティルウェルの資質や欠点はともかく、彼がいなくなったバカげた揮構造は解体された。蒋介石軍事顧問は野心でうぬぼれ屋のアルバート・ウデマイヤー中将に代わった。「何たることだ、ウデマイヤーの利益のために追っ払われる、これは恥辱だ」とスティルウェルはすでに6月に予測していた。
 ダニエルサルタン中将が北部地域官に、そしてマウントバッテン部総務部長レイモンド・ホイーラ中将が、東南アジア部の副官になった。陸上部隊の揮系統も合理化された。スティルウェルはカマイン占領後はマウントバッテン以外のは聞かなかったから、後者は不得手な連合軍地上部隊の官も実質上兼任していた。結局、第八軍官のサー・オリヴァーリース中将が、北部戦区部、第十五軍団兵站部隊、第十四軍の揮を担当することになった。4411月12日に、リースは第八軍参謀を引き連れて到着した。「靴に砂漠の砂を詰め、まるで第八軍を々に飲み込ませるかのようだった」とスリムは記している。第十一方面軍は消滅し、サー・ション・ギファード中将は帰した。リースの着任と新しい揮系統によって、第十四軍のスリムは、サー・フィリップクリスティンソンの十五軍団のアラカン作戦への責任がなくなり、中部ビルマ侵攻計画に専念できるようになった。
 揮系統の最終的変更は、スリムの意図による。二人の軍団官のうち、第4軍団のジョフレ・スクーンズ中将は、第33軍団のサー・モンタギュー・ストップフォード中将より長く緊に耐えている。スリムが言うように、インパール戦での彼は堅実で見通しがよく、あまり的を外さなかった。だがスリムの新しい構想では、第4軍団長はとりわけ果敢で気迫を必要とする。幸い十二月に、スクーンズはインド中央部参謀長の職を与えられたので、後任に第7インド団長フランク・メサヴィ少将を持ってくることができた。彼こそ”勝算を度外視して日本軍を分断するための機動突進できる男なのだ”(Slim)。最後にヴェイヴェル12月インパールにやってきて、クリスティンソン、スクーンズ、ストップフォードにナイトの称号を与えた。

 インド17師団はインパールに戻り、機甲兵団への変を行っていた。1944年9月、スリムはこの団を視察しにインパールに行った。第14軍が中部ビルマの開けた土地に出れば、機甲部隊がフルに活躍する機会があろう。団を案内されて回りながら、団副官アラスデア・タックに、機甲部隊の使い方で一番大事なのは何かと尋ねた。タックは変わり映えしない訓練教本のように答えた。

タック   「機動打撃歩兵の保護と・・」 _(_
( ゚ω゚ )    
「そんなことは、わかっている。だが一番大事なのは信頼性だよ。このシャーマン戦車は、どれくらい信頼が置けるかね?」
タック  「非常に信頼できます。十分な燃料と重要部品のスペアと、それに時々間のメンテナンスの時間があれば」 _(_
(*`ω´*)  
「正しく答えなくちゃだめだ」(*`ω´*)

機械が故障すれば、かえってお荷物になる。スリムはタックにガミガミ言い、ジープにどしんどしんと歩いて行った。

アラカンの戦い

ビルマの戦い(1944-45年)

 日本陸軍は、ラムリーラムレーを第二十八軍の第五十四師団の守備地区に含めていた。ラムリー日本軍拠点アキャブ(現シットウェー)への上補給線の要所であり、飛行場の整備も可であった。そこで、第二十八軍も当初はラムリーを極確保する方針で、19439月末の時点ではラムリーと南隣りのチェドバに第五十四師団隷下の歩兵二十一連隊の2個歩兵大隊や2個砲兵中隊などを配置していた。
 第二十八軍は445月、第二師団をビルマ方面軍に抽出された。アラカンを守備していた第五十五師団(一連の戦闘で師団はアラカン3000人の死者を出していた)がイラワジ・デルタを埋め、その移動は447月から9月にかけての、マユおよびカラダンでの部隊(桜井太郎少将)の活動により保護された。兵団は12月末、プローム地域で師団に合流したが、同じ第七十二独立混成団(貫兵団)がエナンジョンで、山本少将の下に編成された。第二十八軍櫻井翔中将は、ビルマ方面軍のためにイラワジ地区での活動を活発化させ、ポパ山周辺に防御地を作り始めていた。ポパ山は1050m、周囲何キロにもわたって地を見下ろせる。桜井は、歩兵十二連隊長古谷太郎大佐をポパ山防衛の千兵団の揮にあたらせた。長沢寛一少将の下に振武兵団を構成し、第五十五師団の歩兵三個大隊に砲兵工兵などを配属してイラワジ・デルタ南西地区の武衛に任じた。
 一方、その北に隣接して、皇軍の名将宮崎繁三郎を新たに師団長に迎えた第五十四師団が、イラワジとアラカンの間の固守に当たった。第二十八軍はベンガル湾からアラカン山系を経てイラワジを越え、ラングーン街道に至る防衛線を構築しようとした。部はラングーン北方、イラワジ東方タイキに置いた。クリスティンソン中将の第15軍が、アラカンでの進軍を再開しようとした時、桜井はアラカンの部隊を空っぽにしつつあったのだ。

英軍アキャブ占領

 1944年後半、ビルマ戦線での本格反攻に移ったイギリス軍は、マンダレーやメイクテーラなど中部ビルマ方面への航空支援用拠点を確保するため、アキャブおよびラムリーを占領することを決めた。アキャブは非常に長い間戦略標であり、そのため英軍42年以来絶望的な戦いを繰り返していた。同時に両への日本側の陸上交通を遮断するため、ベンガルのミエボンへも上陸することにした。
 クリスティンソン揮のイギリス第15軍はアラカン州南西部にそって進軍し、第81,82西アフリカ師団がと並行して進撃、そして過去2年間占領に失敗していたアキャブを狙うのは第25インド師団、戦車一個大隊、法連隊、巡洋艦三隻の艦砲射撃部隊、空軍224飛行連隊である。この重厚な部隊は、アキャブ攻略のために準備されていた。しかし砲兵観測士官が上を飛んでも、何の活動の兆も見えない。着陸して住民に確かめたところ、日本軍は行ってしまったと聞かされた。クリスティンソンは224飛行連隊長バンド少将と視察、日本軍は野営地をたたみ、決定的に重要な飛行場を放棄していたことを確認した。それはどんなに長い間、戦略標であったことか。クリスティンソンは爆撃を中止したが、上陸作戦は実施した。きっと演習のつもりだったのだろう、451月3日アキャブは英軍に占領された。

ラムリーの戦い

 当初は1月の小規模攻撃と3月の本格攻撃の2回に分けて行うつもりであったが、アラカン山脈での地上進撃が予期したよりも順調であったため、1月の全面侵攻へと予定が繰り上げられた。マタドール作戦 (Operation Matador) は、イギリス軍が1945年1月に実行した、ビルマラムリー北部への上陸作戦である。ラングーンへ向かう第14軍への補給用の港湾および飛行場の確保が的であった。上陸したのはインド第26師団であった。艦艇は戦艦クイーンエリザベス、護衛空母アミール、軽巡洋艦フィービなどが参加した。上陸中LCA2086とML891が触して沈没した。そして1945年1月21日ラムリーにおいてイギリス軍は日本軍の背後より上陸し、日本軍は多数の死傷者を出して撤退、上陸は成功し、続くラムリーの戦いで日本軍を撃破して全を占領した。
 2月9日日本軍五十四師団長宮崎繁三郎中将は、長沢隊長ラムリーからの全軍撤退を命した。輸送用に小発動艇4隻と徴発した小舟約100隻が送られた。だがラムリー守備隊は逃げ遅れたため、小舟で本土に脱出しようとするところを英軍にさんざんにたたかれてしまう。11日夕刻に徴用小舟数隻が着いたほかは撃沈されるか四散、現地の猪股少佐内での遊撃戦に移ると具申した。それでも長沢大佐は撤退をあきらめず、泳いででも脱出するよう示。撤退の援護のため2月11日には飛行第64戦隊一式戦闘機12機が爆装して出撃し、駆逐艦1隻撃沈・1隻大破、巡洋艦1隻損傷の戦果を報じたイギリス側記録によると、P級駆逐艦パスファインダー大破)
 2月13日地を出た日本軍守備隊は、2月18日半島と本土間の峡を泳いで渡河を開始したが、艇に発見され、サーチライトによる照射射撃を浴びてしまった。混乱のうちに大部分の将兵は引き返そうとしたが、猪股隊長などは戦死し、一部は英軍の艦艇に捕虜として収容された。約50人だけはそのまま対に渡り切った。2月22日イギリス軍の公式記録ではラムリーでの戦闘が終わったとされている。辺に戻った日本兵は、陸から集中火を受けて多数が死傷し、ばらばらになって山中に落ちのびた民の食糧や船などの援助のおかげで、3月中旬までに、守備隊1000人の半数にあたる約500人の日本兵は、本土のタンガップへと集結することができた。なお、日本軍の撤退時に渡河中の多数の日本兵が野生のイリエワニに襲われ、命を落としたとする説があるが日本側の戦史書には記述はく、この事件を追ったドキュメンタリー番組でも、渡河中に射撃され命を落とした日本兵の死に、翌日あまりにも多くのイリエワニが群がっただけと推測されている。

 1月26日にはチェトバにもイギリス軍が上陸し、両中部ビルマ奪還への攻勢を支援するための航空基地として確立された。連合軍はラムリー航空基地として整備し、以後の作戦拠点のひとつとした。ラングーン(現ヤンゴン)への進撃の際には、ラムリーおよびアキャブの飛行場から、第224航空群の航空機が地上支援を行った。

ガンゴウの戦い
ビルマの戦い(1944-45年)

 ガンゴウはチンドウィンの支流ミッタが長大なを作ったその地の南限にあり、イラワジ沿いのパコックより北西標141マイル、カレワからインパールへ西行するティディム街道とモーレ・タムから南下するカバの合流点カレミョウ、から南下すること87マイルの地点にある、ミッタの交通の要衝である。ここはマンダレーへのからは外れていたが、英軍の一部の進出が予想されるカレミョウ~パコックの防衛点であった。日本軍第三十三師団歩兵十五連隊第三大隊がここを防御した。4412月8日、英軍のルシャイ偵察隊(300人)がガンゴウ日本軍地に対して攻撃を開始した。またジャット大隊はガンゴウやや北のミコヤンの日本軍地を攻撃した。日本軍は合計130人ほどの小部隊だったが、その地は堅固で、英軍は増援の到着を待った。12月24日空軍砲兵の援護のもとビハール大隊が地を攻撃したが日本軍の反撃により失敗。だが451月10日ハリケーン戦闘爆撃機3中隊とサンダーボルト戦闘機1中隊合わせて96機による精密爆撃地震爆撃ともいわれる大爆撃)がミコヤンの一部を地とする守備兵十数名の地に繰り返し攻撃。その結果チン・ヒル大隊は二人の負傷兵を出しただけでミコヤンを占領した。ここに師団よりイラワジ河畔に集結を命じられ、1月12日ガンゴウ地区から日本軍全に撤退した。
 ここはマンダレー街道から遠く離れた小部隊の小競り合いのはずであったが、そのために空軍の大部隊まで動員して理やり制圧した英軍の的とは・・・?。

英軍チンドウィン川渡河
ビルマの戦い(1944-45年)

 4412月3日、カレワの北48キロ、モーレイク付近のチンドウィンで、英印軍が渡河を開始した。またシッタンではインド19師団が渡河を行った。チンドウィン渡河において日本軍の抵抗はほとんど見られなかった。チンドウィンで展開するにつれ、兵兵站線の面でバランスがやや不利になっていると各部隊は気づき始めた。日本軍は、半端な団や管理部門の雑多な隊を除いても、五個師団以上をその前面に配置できる。連合軍は今や細々とした補給戦の末端にあり、直面する敵はアロンとミンギャンの補給端末を持っているのだ。英軍はジャングルから出たところだった。11月期の陽は厚くっぽい、シュエボ地は戦車戦にはもってこいの土地である。しかし日本軍の部隊はそこにいなかった。
 師団の要部隊がイラワジを越えて後退できるようにするために、日本人はシュエボ平野のいくつかの町に後衛を残した。日本軍三十一師団はシュエボ平原北方で守備をしていた。シュエボ北方110キロカンバルには歩兵五十八連隊を、シュエボには歩兵二十四連隊を、サゲイン付近には歩兵三十八連隊を配備した。4412月26日ごろよりカンバル付近の日本軍が英軍インド19師団の本格的攻撃を受け始め、1月1日大なる決戦を避けシュエボに後退した。
 カレワ―イエウを前進した英第2師団は、1月2日イエウを占領した。次いで1月7日よりシュエボ地の中心地シュエボの攻防が始まった。英軍はインド19師団が北から、英第2師団が北西から攻撃した。日本軍はシュエボで最後の一兵まで戦うつもりはなく9日未明撤退、シュエボは英軍に占領された。
 インド20師団はカレワ東方ジャングル地帯を経て、カレワ―イエウの南をチンドウィンに沿ってモニワ(モンユワ)に向かって前進していた。451月5日ブダリン日本軍地を攻撃、1月9日日本軍はモニワに撤退した。1月12日インド20師団のモニワの日本軍十三師団地に対する攻撃が開始された。英軍は航空機による集中攻撃を交えた猛攻撃を行い、20日日本軍はモニワを撤退した。撤退した日本軍はイラワジ河畔で大隊に合流した。

シュエボ平原での決戦回避

 英印軍はこのシュエボ地で日本軍に決定的な敗北を合わせられるだろうとスリムは考えていた。連合軍も日本軍と同様、道路と補給が悩みの種だった。だが木村官はシュエボ地での大規模な対決は考えていなかったのである。日本軍明らか決戦を避け後退し、12月中旬に至り、日本軍がシュエボ地での決戦の意図なく、一挙にイラワジに後退していることを英軍は知った。英軍は今後の作戦で補給戦が伸び、不利な戦いを強いられることになった。スリムは当てが外れてしまったがすぐに自分の誤りに気付くと速に調整しなおした。
 一方大日本帝国陸軍のシュエボ戦闘における戦果の報告については問題がある。第三十一師団において「敵戦車約八十両を撃破しその攻撃を頓挫せしめたり。師団等においてはこれを戦機とし、攻勢に転ずべしとなす意見も生じたるが、官はイラワジ決戦の方針を堅持し、師団はサゲイン及び同地以南に後退せり」(英印軍の資料にこれに相当する記録は見当たらない)明らかに誇大報告といえるであろう。第三十一師団の参謀長は、前第十八師団第五十六隊長の長久大佐である。彼は方面軍田中新一参謀長の信頼厚い人であった。軍経由のこの報告を田中参謀長がうのみにしてしまっても不思議でない。

イラワジ会戦

概要
日本軍のビルマ制圧
ビルマの戦い(1942年の雨期明け~1943年雨期入りまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期入り~1943年雨期明けまで)
ビルマの戦い(1943年の雨期明け~1944年雨期入りまで)
 インパール作戦
ビルマの戦い(1944年の雨期入り~1944年雨期明けまで)
 インパール作戦(雨期)
ビルマの戦い(1944年の雨期明け~1945年雨期入りまで)
 イラワジ会戦
ビルマの戦い(1945年雨期)
ビルマの戦い、その後

 この正面の連合軍の兵は、英軍戦車装甲車400両を含む地上26万、直接協する航空機空軍を合わせて500機、その後方にはさらに1700機があった。これに対するこの正面の日本軍は、ビルマ方面軍18万の兵のうち、戦車20両を有する10万の地上兵航空機32機であった。実質的に方面軍の作戦計画を立て、作戦導したのは元大本営作戦部長だった田中新一中将である。

田中新一参謀長はビルマの古都であり第二の大都会でもある政治的な徴、マンダレーを重視した。一方インパール守備を成功しつつも牟田口廉也というスーパースターの存在で相変わらず影の薄いリム中将は違う考えを持っていた。

田中新一参謀長 マンダレーを制する者は、ビルマを制す。最重要なのはビルマ歴史首都マンダレーだ。 _(_
( ゚ω゚ )  
リム「最重要なのは後方補給基地メイクティラだ」

日本軍の強統帥

田中新一参謀長は木村官に「強統帥」について意見具申を行っている。

インパール作戦では、方面軍の隷下軍に対する統帥が、いささか放漫に流れたきらいがあるので、軟弱統帥を排して軍紀を厳正にし、軍、特に第十五軍、および師団に対し協統帥を行う必要がある。敗退後の方面軍といえども、いたずらに消極防守に沈滞することなく積極攻撃し、戦略精の任務を戦術的構成によって解決すべき努が必要だ。」

この所見に対して、木村官は積極的賛同を示したわけではなかったが「ごもっともである。よろしく頼む」との返事であった。ビルマにおける長期戦闘態勢を築くこと、自給自戦において一致した。田中新一参謀長はマンダレー、エナンジョンを含む中部ビルマの要域を確保するため、方面軍は戦略的に持久するが、戦術的には積極的な反撃を反復し、その成果によって的を達成しようとした。これは決戦となり、作戦導が万が一失敗に終われば、最悪の場合全軍覆滅の悲運に際会する可性があり、「どんな場合にも方面軍は決戦を避けねばならぬ」と考えていた木村官はしたが、田中参謀長はこの案以外に方法はないと強く承認を要請し、強引に押し切った。

第十五軍はイラワジ河畔のシング―パガンの400、第二十八軍はパガン―ラングーン900の正面を担当した。田中新一参謀長はイラワジ河畔に河直接配置をし、イラワジの天然の障において英軍の進撃を防衛し、さらに前攻勢を行い積極的に攻撃も行う方針とした。兵站関係では特にマンダレー~キャウセを補給点として、第十五、第三十三軍の戦回復と再建に努めた。食料4か分、弾薬は1.5会戦分を集積することにし、集積は第一線の近くに行われた。だがこれは縦深にかけるきらいがあった。

 第十五軍の基本的な計画は、そのをイラワジに直接配備し、来航する敵をその出方に応じて撃滅しようとするものであった。しかし第十五軍は前年の戦役で戦が大きく衰えており、敵を撃滅できる自信を持てず、前攻勢はさらに自信がなかった。しかし、方面軍参謀長田中新一中将の強導により前攻勢に計画を変更したのである。第十五軍の酒井作戦主任参謀は、本心はともかく、方面軍の方針に沿って、これなら必ず勝てると自信満々な態度をもって、前攻勢の計画を説明した。それより先、酒井参謀は前攻勢などとてもできないと、吉田参謀長に申し出たが、参謀長から「前攻勢は方面軍の強い要望だから、なんとしても前攻勢で説明せよ。前攻勢に疑念を持つような言動は一切するな」と申し渡されたのであった。

英軍の情報戦略

 スリムは「ウルトラ情報は計り知れぬ価値があったとった。特にインパール戦では、決定的だった。第一に、日本軍の補給状態が絶望的であり、日本航空弱体化して使い物にならなくなっていることから、インパールへの中補給と第五師団の輸が、実なく行えたというのである。しかし日本軍の補給や航空師団の戦闘は、押収文書やスパイ活動でわかっていた。実はスリムは、利用できる情報にあまり満足していなかった。なるほど、彼の著書が出版されたのは1956年で、そのころはまだウルトラに言及できなかった。しかし「わが軍の秘密情報が、他の戦場ほど全でも正確でもない・・・」。はっきりと名前を上げてはいないが、「ウルトラ」をさしているのは明らかである。それよりも捕獲文書のほうが正確で詳しいというわけだ。
 ビルマ日本兵捕虜の数は、少なくとも1945年のモンスーンで士気が崩壊し始めるまでは、非常に少なかった。そして大尉以上の階級のものが捕虜になったことはなく、持っている知識はあまり役に立たなかった。文書に関しては話が別である。

元英兵「アラカンでは捕獲した作戦地図情報の中心であった。のちにもメイクテーラやペグー山系からの大脱出戦で、日本軍の兵と企図は、捕獲文書で全に見通せたのだ。だが日本語のわかる御仁は極めてまれだ(つまり私のような…)。」

こうした情報を直接かつ広範に利用すればよかったのだが、必要なだけの日本語通は全くいなかった。全戦局で最も決定的だったといえる機甲攻撃で、コーワン17団長メイクテーラに進撃した時、11000の部下のうち敵国を話し読めるのは、たった二人しかいなかった。大量の文書はインド輸しなければならず、そこでは長いで見た構図が書かれる。ところが前線で必要としているのは現場での即座の解読であり、師団当たり一人ずつの通訳と諮問官では、少なすぎるなんていうものではなかった。

英軍の欺瞞作戦

イラワジ会戦

 日本軍は、中北部ビルマ、特にマンダレーの奪回を企図しているとし、マンダレーにこだわっている。スリムは、強な部隊を最も予想していない背後に送り、兵站組織を機不全に追い込む計画を考え出した。そこはメイクテーラ、第十五軍と第三十三軍に補給する物資集積場があり、飛行場と病院があり、ラングーンと鉄道道路でつながっている。もし日本軍に、第14軍がマンダレーを狙っていると自然に納得させ、スリムメイクテーラに振り向ければ、日本軍マンダレーから下がらざるを得なくなる。
 メイクテーラに行くには、イラワジを渡らなければならない、そのためには地図で見るとパコックが最適の場所だ。しかしどうやってパコックに行くか、長く困難で、あまり立たないルート、ミッタを下りチン高地~ガンゴウティリンバウーを過ぎ、パコックの西方50キロに出る経路である。第四軍団を使って、日本軍に疑われないように、ミッタをひそかに南下させ、パコックをえて機甲部隊でメイクテーラを奪う。先頭となるのはインドでの休養から戻ったコーワンの第17インド師団で、二個団を自動車化し残り一個団は輸できるように変中であった。なんとしてでも、装甲部隊をミッタを下らせなければならない。スリム兵団の工兵は、これまでも奇跡を成し遂げてきた。世界最長のベイリーブリッジが、カレワでチンドウィンにかかった。小舟と筏の船団が、ヒトとモノを乗せてチンドウィンを下る。ミンギャン付近でイラワジと合流すると、今度はビルマ伝来の優れた河川船運がある。このルートを使えば、455月1日まで、一日800トンの輸送ができる計画だった。また第14軍の工兵隊長”ビル”ヘイステッド少将は別にミッタを南下する道路40日で施設できると考えた。ビテスを使うのがそのやり方である。ビテスは滑走路づくりに使われる、幅1m、長さ45mの巻いた麻布でで処理してあるので、長いオイルクロスカーペットみたいだ。らにならして固め、外側にまず二枚式、それから縁から中心へと敷き上げて作る。これは高くついた。道路1ヤードごとに、ガソリンリットルディーゼル燃料1ガロンかかった。しかしこれは役に立った。マイルのビテス道路は、一日千台のを走らせたのである。12月までに自動車の通れる道路四本がチンドウィンに通じていた。
 陽動作戦は続けられた。第4軍団はなお、マンダレーをしていると日本軍情報機関に思わせるために、第33軍団の下に入ったインド第19師団あてに、タムの偽軍団部にしきりに電報を打ったのである。第4軍団の方は、インド第7師団を先頭にして、ミンム付近のインド第20師団とほぼタイミングを合わせて、日本軍導部を混乱させ悩ませるようにした。場所は、イラワジのもっと下流、エヴァンスインド7師団長旗下の各団が上陸する前に、念入りな欺瞞行動が行われた。欺瞞策は作戦名「クローク」。第4軍団の編成を秘匿し、ガンゴウからミッタ河を下る軍団があるとわからせず、渡河地点はパコックと他の数か所で、最終的には渡河した軍団メイクテーラでなく、エナンジョンの油田を狙っているのだと、思い込ませるというものだった。上陸はインド第7師団が敢行し、頭保を作り上げる。インド17師団と第255戦車団は対に展開するまで線封止を維持、その頭保から炎熱不毛の砂漠地帯をメイクテーラへ突進する。第28アフリカ団が、攻点の南のセイクピューで陽動上陸戦を行い、日本側に標はチャウだと思わせる。

英第4軍団の秘匿進撃

 進撃は2月9日に開始された。ガンゴウを下る細い沿いに、第28アフリカ団が力部隊の先頭を切って進み、その後にインド第7師団がコヒマまで連なる400キロ以上の長い隊列で続いていた。田中信男の第三十三師団はこのを封鎖しようとし、五キロにわたって何本もの木を倒しておいた。これは手ごわい障物であったが、砲兵隊の車両と十頭のがこれを取り除き、師団の進軍の遅れはたった一日で済んだ。2月10日師団はイラワジに達した。対する日本軍はチャウとニャンウの間の河50マイルに、第72独立混成団の四個大隊と、兵5000とも1万ともはっきりしないインド民軍第二師団をばらまいている。西ではパコック付近に第二十四連隊が頑っている。第七十二独立混成団は、櫻井省三中将の第二十八軍の揮下にある。アラカンだったのがイラワジ下流まで持たされることになり、第十五軍との界はニャンウ集落付近となった。ニャンウはこの付近でイラワジが最も狭くなるところである。2.5キロ下流にビルマの古都パガンがある。
 メイクテーラへの最短ルートパコックであるが、これはあまりに見え透いている。パコックは陽動作戦により占領されるにとどまった。実際に渡河地点として選ばれたのは最短ルートではなニャンウ~パガンであった。さらにエナンジョン油田を標としてセイクピューを渡河点と見せかけるため、2月13日アフリカ28団を同地に出没させる。
 日本軍も、1月末にしくガンゴウ航空偵察を行い、ティリン~パウ間に長い列がある報告されたが、1回のみの偵察でありビルマ方面軍はあまり重視しなかった。

イラワジ川をめぐる戦い

イラワジ会戦

 マンダレーを攻めるのは英33軍である。「よき猟師は猟より前には出ないものだ」とたしなめられるほどの勇敢なリース少将を師団長とするインド19師団が、くも1月マンダレーの北側でイラワジ渡河を開始する。

マンダレー北方での英軍イラワジ渡河

 カベットはタベイキンチョウミョウのほぼ中間に位置し、イラワジはカベット付近で西に大きく屈曲し、幅約500m弱、流速3-4m、河近くは