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ビートたけし(北野武)とは、日本を代表するお笑いタレント・映画監督である。
概要
1980年代以降のお笑い界を代表する人物の一人。
また、映画監督としても世界的に高い評価を獲得した数少ない日本人監督の一人であり、その知名度は非常に高い。
1986年にフライデー襲撃事件を起こして逮捕、1994年にバイク事故を起こして重症を負うなどのトラブルや事故を起こしたもののそれを乗り越えてきた不屈の人物でもある。
経歴
1947年、東京都足立区梅島に生まれる。父はペンキ屋を営む「菊次郎」、母は教育熱心だが人情に厚い「さき」、兄に後に大学教授となる「大」(まさる。一時期、TBS系列「クイズダービー」や日本テレビ系列「マジカル頭脳パワー!!」にレギュラー出演していた)がいる。
明治大学工学部に入学するが中退。その後様々な仕事を渡り歩いたりアングラ演劇の裏方などを経験した後、1972年に浅草のストリップ劇場「フランス座」(現・浅草フランス座演芸場東洋館)に飛び込みお笑い芸人になる。浅草の大師匠・深見千三郎の最後の弟子となり、ストリップの合間のコントを演じていた。芸能界デビューが25歳と遅かったため「ひょうきん族」でコンビを組む明石家さんまとは8つ歳が離れているものの芸歴では2年しか差がない。なお同期に当たる芸人に志村けん(付き人時代をカウントしない場合)、笑福亭鶴瓶が居る。
その後、ビートきよしに誘われて漫才コンビ「ツービート」を結成。当初は正統派漫才だったが、長い下積みを経て次第に猛烈に毒舌を捲くし立てるたけしにきよしが「よしなさい」と突っ込みを入れる、漫談に近いスタイルの『毒舌漫才』を確立する。
1980年代頭の漫才ブームで頭角を現す。しかし、「赤信号みんなで渡れば怖くない」に代表される過激なネタは熱狂的なファンを生み出した一方良識派に嫌われ、はっきり好き嫌いが分かれるコンビだった。
1981年にラジオ番組「ビートたけしのオールナイトニッポン」(ニッポン放送)を始めたのをきっかけにピンで活動するよう事が増えていく。この番組の出待ちで弟子志願をする者が増え、次第に弟子集団である「たけし軍団」が発生する。
同年に「オレたちひょうきん族」(フジテレビ)が放送開始。それまで圧倒的な強さを誇っていた裏番組「8時だョ!全員集合」(TBSテレビ)の人気に風穴を開けたコントコーナー「タケちゃんマン」で子供たちの人気を獲得し、「全員集合」を終了に追い込むまでの名番組にまで成長させた。この頃からお笑いBIG3の1人として数えられるようになる。
この時代から主体的に番組の企画構成に関わるようになる。「痛快なりゆき番組 風雲!たけし城」(TBSテレビ)、「ビートたけしのスポーツ大将」(テレビ朝日)、「平成教育委員会」(フジテレビ)などはたけし自身が番組立ち上げから参画し世に出した番組である。
1986年に所謂フライデー襲撃事件を起こして逮捕、さらに1994年にはバイク事故を起こし、顔面が麻痺する重い後遺症を負って(後にリハビリによって顔面麻痺はほとんど治癒するも、少しだけ口が歪む後遺症は残ってしまった)一期人気が低迷した(フライデー襲撃事件が発生した1986年から1989年の3年間の間に、海外でも人気を獲得する「風雲!たけし城」が放映されていたが、謹慎時にはラッシャー板前扮する「ビートたけしくん人形」が身代わりとして出ている)。
現在は殆どコント・漫談を披露することは無く、後述の映画監督としての成功もあって、文化人としてのポジションが濃くなっている。かつては毒舌や過激な笑いを売りにしていたが、バイク事故復帰以降は「面白いおじさん」のポジションで居ればいいと語っている。
が、かねてから危惧していた森繁病(年を食ったコメディアンが俳優や知識人になりたがろうとする現象を、森繁久彌を例に挙げて揶揄した言葉)にかからないようにしているのか、今も積極的に着ぐるみを着て笑いをとったり(「世界まる見え!テレビ特捜部」(日本テレビ)でその雄姿?が見られる)、「27時間テレビ」(フジテレビ)の中継コーナーで花火の打ち上げをいつも失敗する花火師「火薬田ドン」など奇妙でコミカルなキャラクターに扮して体を張ったギャグを見せたりしている。
多芸であり、特に「芸人たるもの、芸が出来なきゃ話にならない。漫才以外に舞台で見せられるものを持て」という師匠(深見千三郎)の教えを守って練習したタップダンスとピアノは、非常に高い水準に達している他、日本舞踊も嗜んでいる。
この教えを自身の弟子にも実践させており、たけし軍団はタップ・楽器・ジャグリング・全裸芸が必修科目となっている。
本人は「漫才ブームが過ぎたこの時代では、タップとピアノぐらい出来なきゃみっともない」と語っている。
また、横山やすし・西川きよしの二人の漫才の実力を「自分達(の実力)よりもはるか雲の上にいる人達」と時おり話題に出た際に例える事がある。特に横山やすしに対する評価にそれがあるらしい。
現在でも健在にもかかわらず、自身の子供時代を描いた「たけしくん、ハイ!」や両親をテーマとした「菊次郎とさき」など、その半生が本人未出演で何回もドラマ化される、現在では数少ないお笑い芸人の一人。
映画監督として
現在では、国外で最も評価されている日本人映画監督としても有名である。
1989年、深作欣二の代役として、「その男、凶暴につき」で映画監督としてもデビュー。
国内では酷評された時代も長かったが、3作目の「あの夏、いちばん静かな海」では、淀川長治や蓮實重彦などの著名な評論家、さらには黒澤明から賞賛を浴びるなど、既に業界では高い評価を得ていた。
1993年、「ソナチネ」がヨーロッパを中心に高い人気を得る。現在でも非常に高い評価を得ており、前期北野映画の最高傑作と言われるが、これも当時は国内での人気は奮わなかった。
俗に「キタニスト」と呼ばれる北野映画のファンは、この頃に生まれ始めている。
1994年、バイク事故でその活動を休止。
復帰作となる「キッズ・リターン」では、死よりも生に焦点をあて、それまでの北野映画と比べて大きく違う作風を見せた。
これ以降の作品を後期作品群に分けることがあり、バイク事故による北野自身の死生観の変化が強く投影された作品として解釈されることが多くなる。
1998年、「HANA-BI」がベネチア国際映画祭金獅子賞を受賞して「世界のキタノ」になった途端に、国内でも手のひら返しで絶賛されるようになる。
翌1999年には、「菊次郎の夏」がカンヌ国際映画祭で大絶賛を受けるも無冠に終わる。
2000年代後半に入ると迷走が色濃くなり、「座頭市」でカンヌ国際映画祭監督賞を受賞するものの、その後の3作品「TAKESHIS'」~「アキレスと亀」については、「何を撮ればいいのかわからない状態が続いた」と自ら語っており、実際にこのうち前2作は内容がシュールかつ難解で評価も低い。
2010年代に突入して製作した「アウトレイジ」では、久々に乾いた暴力描写とアナーキズムのみに終始し、大半の評論家(特に欧州)の間ではマンネリとして酷評されたものの、評論家筋に振り回される迷いを断ち切ったという評価もされている。
この作風が気に入ったのか、自身初の続編「アウトレイジ ビヨンド」を製作し、2012年9月18日にはニコニコ生放送で同作の公開記念生放送に出演した。
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関連項目
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- コマネチ
- 火薬田ドン(財産トラれもん・ジャニー喜多ノ川)
- オールナイトニッポン
- オレたちひょうきん族
- スーパージョッキー
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- 風雲!たけし城
- ビートたけしのお笑いウルトラクイズ
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- 戦場のメリークリスマス
- その男、凶暴につき
- ソナチネ
- キッズ・リターン
- HANA-BI
- 菊次郎の夏
- アウトレイジ
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