ロシアの近代化を進め、大北方戦争を勝利に導いた巨人(身長2m以上。後述)。それまで西ヨーロッパからすれば小国にすぎなかったロシアを列強の一角に押し上げ、ロシア帝国を創始した業績からピョートル大帝と呼ばれる。
光
10歳と幼くして即位するも第二皇帝の地位に甘んじ、後には義理の姉のソフィアに実権を奪われた。親政が始まるとピョートルはロシアの近代化を企てる。彼は自ら西ヨーロッパに赴き、最新の技術や政治、文化をロシアに持ち帰った。代表例としては西暦の導入、モジャモジャの髭を剃ることの奨励、それまで部屋閉じ込められていた貴婦人を社交界に連れ出すなどなど。好奇心の強かった皇帝は身分を隠して欧州を周り(デカかったからすぐバレたが)、時には自分で船大工として働くことすらあった。
ピョートルは皇帝にも関わらず身分へのこだわりはなく誰とでも分け隔てなく会話し、皇后には元農奴の女性を取り立てている。大北方戦争ではバルトの大国スウェーデンのカール12世との長い戦いを制し、ロシアをヨーロッパの誰もが無視できない大国にまで引き上げた。このときピョートルは後世にナポレオンやヒトラーをも苦しめた、ロシアの十八番とも言える焦土作戦を行っている。またサンクトペテルブルク(ペトログラード)を建造したことでも有名。最期は溺れそうになっている味方を助けに冷たい水に入ったことで病を得て52歳の若さで亡くなる。先進的な思想を持ち、ロシアの近代化を促進した大帝の名にふさわしい偉人と言える。
闇
ピョートル大帝の好奇心と行動力の強さ、また分け隔てなさは、周りにいる人や国民にとって必ずしも歓迎するものではなかった。ピョートルの望み(それは多くの場合戦争であった)を叶えるために、ロシアの人々は文字通り死にまで振り回されることになる。ピョートルの行う戦争の費用を賄うべく国民には常軌を逸した大増税がかけられた。戦争開始直後は、なんと国家予算の9割が軍事費に当てられていたのである。日常のあらゆるものに税金がかけられ、人々は疲弊した。当然それに対する反乱が起きるが、ピョートルはそれを鎮圧し、首謀者を拷問にかけ車裂きや杭打ちなど惨たらしく殺した。彼の作った人頭税によって農奴の地位はさらに低下し、一部の貴族と大勢の農奴が暮らす近代ロシアの構造を作りあげた。
ピョートルは国の全てを自分の意思で動かすために、古き貴族を退け元老院を作り皇帝専制体制を作り上げた。敵対者へは一切の寛恕を持たず、自らの改革に反対するものは徹底的に弾圧した。その癇癪は家族にも向けられ、不仲の嫡男のアレクセイを捕らえたときは自ら鞭を打って拷問したという。その後アレクセイは死刑を言い渡された。それは雷帝と恐れられたイヴァン4世と同じ道を辿るものであった。また彼の身分を気にしない態度は平等主義の表れではなく、自分と自分に傅く者以外の身分差など彼には些細なことであったにすぎない。その分け隔てなさは社会の秩序を乱すこととなる。ピョートルの寵愛した農奴出身のエカチェリーナ1世は何と彼の死後にロシアの皇帝となる。この政治的混乱によってピョートルの行った近代化改革は後退してしまう。
以上のように、ピョートル大帝はどの側面から見るかで評価が分かれる人物であり、歴史上様々な毀誉褒貶にさらされてきた。
身長
身長2mを超える長身であったとされる。ただし具体的な数値については「202cm」と言及されたり「213cm」と言及されたりと10cm以上もばらつきがあるなど一定せず、「2m以上」とぼかされて言及されることも多い。
ロシア語版Wikipediaの「Пётр I」(ピョートル1世)の記事(2020年6月10日現在の版)によれば、「6 футов 8 дюймов」(6フィート8インチ)もしくは「6 футов 7 дюймов」(6フィート7インチ)であったとのこと。同記述に付された注釈によれば、メートル法での数値がばらついてしまうのは「フィート」をイギリス式・ロシア式・スウェーデン式のどれで換算するかによるものではないか、とも。
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