ピーター・グラント(Peter Grant)とは英国出身の音楽マネージャー、プロデューサーとして知られた人物である。ロック創生期の重要な人物。
70年代の音楽業界で「G」と恐れられ、「ロックのゴッドファーザー」と称されていた。
その功績から「5人目のレッド・ツェッペリン」と呼ばれている。
概要
「私のバンドをコケにする奴がいたならば絶対に許さん!怖い者をやったりはしない。私がじきじきにやる…」ピーター・グラント
70年代の音楽業界はこのロックのゴッドファーザーの憤怒の炎を浴びるくらいなら、神の怒りをかった方がマシだと考えた者が多かった筈である。
グラントは従来の音楽業界でのコンサートの収益の大半がプロモーターに吸い上げられる慣習を破壊し、現在では一般的となった、アーティストの方に、より多くの利益がもたらされるよう逆転させる革新的マネージメントを行った半神話的人物であった。
グラントは観客はアーティストを観に来ているのであって、プロモーターは会場を貸しているに過ぎないと強固に主張した。
グラントの登場以前、コンサートの興行収益の比率はプロモーターが9割、アーティストが1割というのが通常であったが、グラントはこれを最高でアーティスト側9割、プロモーター側が1割というまでの驚異的な逆転をさせてみせた。
勿論これは数万人もの観客を必ず動員させることが出来るレッド・ツェッペリンのマネージメントを行っていたこそであったが。
当時のツェッペリンは特に大きな宣伝を行わなくても、数日前にFMラジオでライヴの開催を告知すれば、たちまちケットを求めるファンが集まり、ソールドアウトするのが通常であった。
この強引な手法により倒産したプロモーターもいたほどであったが、大手プロモーターたちはグラントの主張に折れるしかなかった。
なぜなら利益が0か1ならば、スタジアムを連日満杯にするほどの大金の1の方を取った方が利口であったからだ。やがて他のアーティストたちもグラントのこの手法に倣うようになった。つまりグラントは音楽業界のルールブックを書き換えたのである。
来歴・エピソード
ピーター・グラントは1935年4月5日、ロンドンの郊外、ならず者がたむろし貧困者が多く暮らすサウスノーウッドのノーシスト・アヴェニューで未婚の母親の私生児として産まれた。父親は不明であったが、グラントは父親はきっとユダヤ人なのだろうと思っていた。ノルマン・フランス系の姓で大きいことを意味する「Grant」姓は、小さな会社の事務で働いていた私設秘書の母親、ドロシー・ルイーズ・グラントのものである。グラントはこの母親を大事にしていた。保守的なその時代、戦前や戦後20年くらいは私生児といえば世間からは眉を顰めさせられる存在で、侮蔑と嘲笑、忌避の対象であった。
グラントの少年時代は貧困と時代(第二次世界大戦による疎開)に苦しめられ、また周囲の環境に馴染めず満足な教育は受けられなかった。担当教師は「この子はごくつぶしにしかならないだろう」というコメントを残している。グラントは13歳で働きに出て、板金工や大衆芸能を演る劇場の裏方などを経験。その後18歳になって徴兵され陸軍では伍長まで昇進したが軍には残らず退役した。
在軍中、エンターテイメント業界に心惹かれるものがあったグラントは俳優を志し、やがて映画「ナバロンの要塞」「クレオパトラ」などで端役を得るようになるが、その他にもその偉丈夫な体格を活かして、やがてスキッフルとロックンロールの発信地となる「2アイズ・コーヒー・バー」の用心棒や、プロレスラーなど、腕っぷしがものをいう夜の仕事をしていた。
当時プロレスはテレビ中継がはじまって大人気で、グラントは「ミラノのマッシモ伯爵」「マスクド・アマローダー(覆面の略奪者)」というリングネームで活躍していたが、後年音楽マネージャーとして成功したグラントは、この頃のことを忘れたがっていた。
マスコミはグラントの過去をほじくり出すと「巨人」「野獣」「悪魔」と新聞の記事の段落が変わる度に、わざわざ呼び名を変えるほどであったからである。
タブロイド紙は「トルコで用心棒をやっていた風貌」などとも書き殴っている。
グラントはエンターテイメント業界で生き残るために、暴力的でインチキの蔓延る、まだ洗練されているとはとてもいえないモンキー・ビジネスであった音楽興行に興味を持ち、英国で辣腕プロモーターとして知られていたドン・アーデンの元で、当時ロックンロールのブームに沸く英国へ米国から渡英するアーティストを世話する、ツアー・マネージャーとして経験を積んだ。
ツアー用のバスを購入するとグラントは熱心に働き、稼ぎを横領されることも当たり前という業界で、約束されたギャラを必ずアーティストに手渡し、アーティストの立場を守ることで信用を築いていった。
時には銃口に体を晒すこともあったが怯みはしなかった。この時代のアーティストにもくせ者が多く、極端な例だが、酷い酒飲みで喧嘩っ早く「ヘンリー」と名付けられた愛用のナイフを手に、前任のマネージャーの服をズタズタに切り裂いて走行中のバスから飛び降りさせたりと、手がつけられない奇行が激しかったジーン・ヴィンセントは、グラントを何度も自動車で轢き殺そうとしたほどであった。
グラントはこのヴィンセントを力ずくで押さえつけ、酒浸りな彼がコンサートを行えるように、開演の前にはヴィンセントを捕まえ、楽屋の椅子に後ろ手に縛り付けて放置しておいたが、その状態でも尚、ヴィンセントはローディーを買収して、ドアの鍵穴からストローをさしこみ、器用にアルコールを摂取しては正体無く楽屋で泥酔してみせグラントを不思議がらせたという。
ある晩、グラントが巡業先でプロモーターと打ち合わせをしていると、ヴィンセントと彼の妻はバスの中で激しい夫婦喧嘩をしていた。グラントが見に行くとヴィンセントは妻の髪の毛を掴んで窓に頭を激しく打ち付けている真っ最中であった。グラントは夫婦喧嘩を仲裁して彼らを落ち着かせると、プロモーターとの打ち合わせを再開したが、また暫くするとバスで騒ぎが起こっており、見に行くと今度は奥さんの方がヴィンセントの髪の毛を掴んで窓に頭を打ち付けている光景であった。
このことにショックを受けたヴィンセントは、コンサートの開幕前にグラントに内緒でウォッカの4分の3を飲み、へべれけになり、そして転んで鉄材に不自由でない方の足を挟めて歩けなくなった。グラントは仕方なく鉄材を曲げてヴィンセントを救い出し、もう駄目だ歌えないと泣き言をいうヴィンセントをマイクスタンドに括り付けステージへと運んだ。
当時のプロモーターとの契約では、ステージに1秒でも立って居ればギャラが入ってくる約束であったので、こうする他無かった。ヴィンセントは「ビーバップ…ちくしょう!」と歌うと顔面からステージに倒れたという。
後年グラントは、ヴィンセントと比べたらレッド・ツェッペリンなどモルモン教の少年合唱団くらい行儀の良いものだったと回顧している。ちなみにツェッペリンは宿泊するホテルを徹底的に破壊するモットーがあり、その乱行は凄まじくロックの伝説となっている。
やがてグラントは自分でマネージメントを行いたくなり独立して親友のミッキー・モストと共同経営で「RAKミュージック」という音楽マネージメントの会社を起こす。これがヤードバース、ジェフ・ベック・グループ、レッド・ツェッペリンとの関わりに繋がった。そこでグラントは、ジミー・ペイジと知り合い、その才能に惚れこみ、互いに敬意を抱き合う関係となった。
1967年、グラントはモストからヤードバーズのマネージメントを引き継いだ。ヤードバーズを脱退したジェフ・ベックにもツアー・マネージャーとして付き添い。ジェフをアメリカのロックシーンで売り込むことを画策する。ジェフ・ベック・グループはメンバー同士の仲違いから1968年に解散の危機をむかえるが、グラントはこれをなんとかなだめ、グループはアルバム『トゥルース』を収録した。
グラントはこのアルバムにプロデューサーとしてクレジットされている。その頃、ヤードバーズでも空中分解の危機が発生しており、ジミー・ペイジを除いた全てのメンバーが脱退する事態となっていた。
それでもペイジは腕利きのミュージシャンたちを急遽集めるとヤードバーズが契約していた北欧ツアーを無事に消化させ、このバンド「ニュー・ヤードバーズ」が、1970年代の音楽業界を制覇したレッド・ツェッペリンとなった。
レッド・ツェッペリンは北欧ツアーのあと自分たちでファーストアルバムのレコーディングを行うが、グラントはこのアルバムを従来ヤードバーズが所属していたコロンビアの一部門であるエピック・レコードではなく、米国のアトランティック・レコードに売り込んだ。白人用レーベルの「アトコ・レコード」ではなく、あくまでも黒人専用レーベルの「アトランティック」に拘った。
社長のアーメット・アーティガンは、グラントの顔とデモテープを見ると聴きもせず、「ジミー・ペイジなら間違いないだろう」と述べ、簡単な口約束だけで契約を結び、当時としては巨額の契約金を得ることに成功する。レッド・ツェッペリンが同社の「アトランティック・レーベル」では初の白人ロックアーティストとなった。
この結果を知ったコロンビアは怒りを顕にするが、グラントはジミー・ペイジがエピックと契約した事実はなく、エピックとの契約はあくまでもヤードバーズとして行ったものであるとの主張を行い、コロンビアからのクレームをはね退けた。
レッド・ツェッペリンが活動を開始した頃、音楽メディアは必ずしも好意的ではなく、60年代にスタジオ・ミュージシャンとして数多くのヒット曲を量産したジミー・ペイジと巨額の契約金の報道を知り、どうせレコード会社がでっち上げたインチキグループなのだろうとの悪評が立ち、そのレビューは偏見を反映して殆どが低評価であった。
ペイジとグラントはこのローリング・ストーン誌が評した「インチキ(ハイプ)」という言葉を気に入り。グラントは自身の会社「超インチキ(スーパー・ハイプ)株式会社」を設立してマネージメントを行って、益々怒りを買うが、マスコミなど知ったことではなかった。
マスコミに対しては徹底的な秘密主義を取り、基本的に取材拒否の態度を貫いていた。バンドの初期盛んに攻撃を行っていたローリング・ストーン誌を嫌い、75年までコンサートにさえ出入りさえ許さなかった。またグラントはテレビ業界にも失望していたので、デビュー期の僅かな期間を除き出演を断る方針をとった。ツェッペリンのラウドでパワフルな音はテレビでは収録が難しかった。
ラジオに関しても従来のシングル・レコード中心に流すAMラジオ局ではなく、当時開局が盛んになってきてアルバムをじっくり紹介するFMレコード局を優遇した。
またバンドはグラントの思惑を超え、アンダーグラウンドで支持されるようになり、大西洋の洋上から発信される海賊放送局を運営するロックマニアたちがクールなものとして好んでとりあげることになった。これらの戦略がファンの渇望感を煽り、バンドの神秘性を高める一因となったのである。
1974年、5枚のアルバムを発表したことでアトランティックとの契約満了に当たって、レッド・ツェッペリンは契約を延長する代わりに、自らレーベルを設立することを望み「スワンソング・レコード」が設立された。ちなみに「スワンソング」とは白鳥が死の間際にあげる美しい鳴き声を意味する言葉である。日本での「辞世の句」にあたるような不吉な言葉でもある。
社長にはグラントがあたり経営の舵取りが任された。スワンソングはツェッペリン以外のアーティストもプロデュースを行う方針で、グラントの辣腕を頼って来た、バッド・カンパニー、プリティ・シングス、デイブ・エドモンズらの所属アーティストを抱え、クイーンもスワンソングへの移籍を願ったがグラントの手がまわらず残念ながら断ることになった。
しかし1980年9月にジョン・ボーナムが急死、同年レッド・ツェッペリンは解散。グラントにとっての暗黒時代の始まりである。息子のように思っていたボーナムの死、その数年前の妻との離婚でも気を病み、麻薬の過剰摂取で健康状態も悪化した。ロバート・プラントとも些細なことで心が離れ、プラントは独自レーベル「エス・パランザ・レコード 」を設立した。
1983年、スワンソングレコードは活動を停止しグラントも音楽業界の仕事から引退した。その後のグラントは麻薬の依存症と持病の糖尿病と戦いながらも、徐々に健康状態を回復させ、晩年は悠々自適な生活を送っていた。90年代にはグラントの業績は再評価され、彼を尊敬する大物プロデューサーや名の通ったマネージャーら業界人たちが、あなたのお蔭で私達があるとグラントを讃え、IMF(インターナショナル・マネージャーズ・フォーラム)は「英国音楽功労賞」をグラントに授与し、今後IMFは「ピーター・グラント賞」でマネージメントに優れた功績を残した者を表彰する方針も表明した。そのほかにもグラントは地元のテレビ番組にも出演をしたりして人生を楽しんでいたようだ。
だが、決して好々爺になりきったわけではなくレッド・ツェッペリンが選曲集「リマスターズ」を発売する際、アーメット・アーティガンはメンバーを言いくるめて、安い印税で契約を結ぼうとしたが、グラントがおかしいと注意すると、アーティガンは茶目っ気たっぷりに舌を出したそうだ。このようにバンドの解散後も守護神で居た。人を一瞬で恐怖に陥らせる凄みのようなオーラも晩年も消えなかった。
1995年11月21日、グラントは彼の愛する息子ウォーレン・グラントとの車での帰宅中、突然心臓発作に苦しみ、そのまま逝去した。60歳であった。
グラントの葬儀で教会から棺が墓地へと運び出される時、生前本人が予め希望してかけられた曲は、レッド・ツェッペリンの曲や彼がマネージメントした多くのアーティストたちの曲でもなく、ヴェラ・リンが歌う「また会いましょう」という第二次世界大戦中、つまり彼が少年時代のレコードというセンチメンタルなものだった。
その伝説
グラントはその風貌に反して優しく繊細で礼儀正しくチャーミングな人物であったが、一旦面倒事が起こると豹変し、眼を向けるだけで、相手を恐怖のどん底に落とし入れることが出来た。また争いになってもグラントが「言葉の暴力」と称した凄まじい罵り言葉の連発で、多くは戦う前から争いに勝利していた。
映画「永遠の詩(とわのうた)レッド・ツェッペリン 狂熱のライヴ」においてライヴ会場の警備責任者にファッキン、プッシー、カントなどの放送禁止用語を連発して怒りを顕にしたが、米国の映画協会では検閲に引っかかり、ピー音が被せられる処置がされたが、実際に劇場公開された版は検閲がされていないもので、以降もグラントの呪詛にも似た猛烈な言葉の暴力が行使される光景を観ることが出来る。
ヤードバーズ時代、ジェフ・ベックとジミー・ペイジにヤジを飛ばして絡んで来た水兵二人を退治した。「さて話を聞こうかポパイさんよ」と強そうな方の水兵の1人を締め上げると、もう1人は逃げて行った。
同じくヤードバーズの時代、コンサート会場に1時間遅れで到着してしまい、プロモーターたちがバスに乗り込むなりピストルの銃口を突きつけ、皆殺しにしてやるぞと叫んだ。グラントは腹でプロモーターたちをバスの外に押しやって怒鳴り返した。「今なんか言ったか?てめえら!」この一言で事態は無事に収まった。
プロモーターが自分の取り分を多くしようと交渉を試みると、グラントは立ち上がってズボンを下ろし、テーブルの上に置かれた紅茶の入ったティーカップにイチモツを突っ込むと傲然とプロモーターを見下ろした。その目にはお前の言うことになど、絶対に従わないという強い意志を感じさせ、プロモーターはたまらず、わかった俺の負けだと、グラントの主張を受け入れた。
レッド・ツェッペリンはメンフィスで名誉市民の称号を得たが、その夜のコンサートでは1万人の若者が熱狂し、プロモーターは恐れをなしてコンサートの中止を主張した。グラントが断ると、プロモーターは銃口を向けコンサートを止めさせろと脅したが、グラントは「お前に俺は撃てないよ。俺たちはメンフィスで名誉市民になったばかりさ」と答えた。
グラントはコンサートを不法に録音する海賊盤業者を唾棄したが、ある日コンサート会場に録音機材を持ち込んでいる男を見つけた。グラントは録音機材を取り上げると斧を振り下ろし粉々に破壊してしまった。実は男は政府の職員で機材で騒音を測っていたのだった。
ジミー・ペイジに酔った男が悪態をついて絡み、ジミーが立ち上がって向かおうとするとグラントが席を立ちその男をボコボコと殴り始めた。その時、別の男が現れ「ピーター・グラントさんですね。サインをください」と呼ばれると制裁を中断して平然とファンにサインを行った。
1970年6月バス・フェスティバルの開催中、会場はあいにくの土砂降りであったが、やがて雨雲は去り空が澄みわたって美しい夕暮れ時となりそうであった。この時レッド・ツェッペリンのショーが始まれば、映えるに違いないと考えたグラントは、それまでステージで演っていたフロッグというバンドの機材の電源を抜いてまわった。フロッグ側は当然抗議したのだが、グラントは彼らをボコボコに殴り蹴り出してしまった。こうしてオープニングの凄まじい一曲『移民の歌』の始まる前のロバート・プラントのMCは「アメリカは暴力が横行して残念だったよ。このトラブルの無いフェスティバルに参加できて嬉しいよ」であったという。
1971年9月、レッド・ツェッペリンは初来日公演を行う。広島でのチャリティーコンサートに際し、日本側から広島は気が荒い人が多いので用心してくれと伝えると、楽器ケースから機関銃を取り出して組み立て、我々にはこれがあるから大丈夫だと述べた。
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関連リンク
- IMDb ピーター・グラント
- OBITUARY:Peter Grant | The Independent (音楽ジャーナリスト「クリス・ウェルチ」による追悼記事。死去から3日後の1995年11月24日付)
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