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フェートノーザン
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フェートノーザンとは、1983年生まれの日本競走馬である。青鹿毛

自身の活躍の場を中央競馬から笠松競馬に移籍するという異色の出自から、リーディンジョッキー安藤勝己と共に1980年代末期地方競馬に君臨した日本ダートの強

な勝ち
1987年:東海ゴールドカップ
1988年:新クラウン東海大賞典、スプリング争覇、オパール特別、東海菊花賞全日本サラブレッドカップ東海ゴールドカップ
1989年:名古屋大賞典帝王賞ローレル争覇、ブリーダーズゴールドカップ

※当記事では活躍した当時に合わせて旧齢表記(現在の表記+1歳)を使用しています。

概要

フェーメーカーアメリカノーザン、ドレスアップという血統。

フェーメーカーは当時としてはしく外国産馬として地方競馬大井で走った競走馬デビュー戦と2戦でそれぞれ2着に8身、15身を付け話題になったが、故障により重賞勝利などの大成は出来なかった。種牡馬としては他にカウンテスアツプリバーストキングを出している。

アメリカノーザンは当時存在した地方競馬新潟競馬で走り13戦12勝。81年には三条競馬場の若賞を制するなど優秀な成績を残し繁殖入りした。

ドレスアップは輸入種牡馬としては低調に終わったが、としてはフェーメーカーとの相性がよく、フェートノーザン、カウンテスアツプ、フエートキング、メーカーロツキーと多くの重賞勝ちを輩出した。

1983年4月23日、静内町の武田牧場で誕生。3歳になったフェートノーザンは東の吉田三郎厩舎に入厩した。

中央競馬時代

デビューはかなり遅めのクラシック開幕直前の1986年3月30日阪神ダート1700mの4歳未勝利戦デビューは遅れたが2着に7身差を付ける圧勝で幸先のいいデビューを飾る。しかし2戦の芝1600m戦では終始後方でいいところなく最下位で敗れてしまった。ならばとデビュー戦に近い条件の阪神ダート1800mの野賞に出走したところ前走は何だったのかという逃げ切り勝ち。「一応確かめておくか…。」となったのかはわからないが続けて2戦は芝のレースに出たものの2戦ともやはり後方に置かれたまま惨敗した。フェートノーザンは競馬素人すら容易に察せるほどの極端なダートだったのである。競馬とりあえずここまでとし、フェートノーザンは夏休みに入った。

からフェートノーザン営は得意のダートレース1本に絞り、条件戦を3戦2勝とした後この年の最終戦としてGIIIウインターステークス(現東海ステークス)に挑むことにした。ここまでの成績なら4歳といえども十分勝利が狙えると思われたが、ここまでダート戦は全戦敗、単勝1.5倍の圧倒的人気を誇る当年のJRA最優秀ダートホースライフタテヤマに2身半突き離され2着に敗れた。

5歳時は当時オープン特別の平安ステークスから始動。4番人気だったが中団から差し切り半身差で勝利、前走はフロックではなかったことを明した。しかし次走の仁ステークスフレグモーネにより出走取消、その2週間後には当時数少ない全交流競走の帝王賞に出走したが、体調は戻りきっておらず大井の古テツノカチドキの11着とダートでは初めての惨敗に終わった。更にその後元々の持病であった裂蹄が悪化。治療のために笠松競馬場の外厩で休養に入ることになった。

笠松競馬の関係者達は脚部不安を抱えているとはいえこれほどの素質縁が出来たことを生かすべく、フェートノーザンの営に笠松競馬への移籍を打診した。当時の中央競馬現在からは考えられないほどダートについての扱いが悪く、重賞も古になったサラブレッドが出走できるのはフェブラリーハンデキャップ札幌記念根岸ステークス、そして前年に出走したウインターステークスの僅か4つしかなく、しかも全てGIIIな上別定もしくはハンデキャップだった。フェートノーザンの営は芝のレースでは全く活躍が見込めない以上は中央よりずっとダート重賞が多い笠松競馬に移籍した方が間違いなく活躍のチャンスはあると考えこオファーを受け入れることに決め、フェートノーザンは1987年笠松競馬吉田好厩舎にへ移籍することになった。

笠松競馬時代

移籍したはしたものの当時のフェートノーザンの脚部不安は深刻で、歩くことすら苦労する有様であった。当然レースに出ることなど考えられるはずもなく、しばらくは予定通り外厩で治療に当たることになった。笠松競馬関係者達の懸命の治療の甲斐もあり、何とか半年後の10月にはレースに出れるまでに快復し、10月28日東海クラウン笠松競馬デビュー。2番人気1着で見事勝利した。

その後フェートノーザンは名古屋競馬場に遠征しトパーズ特別を1番人気勝利した後、同じく名古屋で開催される名古屋大賞典にここから騎手となるのリーディンジョッキー安藤勝己コンビを組んで出走。ここにはフェートノーザンと同時期に中央から金沢を経てに転入して来ていたワカライデンも出走しており、後輩中央競馬からの転入として世代交代明するべく積極的に競り掛けていったが、ここでは先輩東海地区最強としての貫を見せ付けられ3着に敗れた。

地元に戻った後は年末の東海ゴールドカップに出走。再びワカライデン対決し、今度はリベンジに成功し1着となった。しかしワカライデンとの斤量差は7.5キロもあり、翌年はワカライデンとの対等の条件での全な勝利。そして当時3歳戦で暴れまわっていた「芦毛の怪物オグリキャップとの対戦に期待を持たせて移籍初年度を4戦3勝で終えることになった。

年が明けて6歳時は当時は今とべて実差は少なかったと言えどもともと中央競馬トップ層と戦ってきた実もあってまで3連勝と幸先のいいスタートを切った。しかしこの間にオグリキャップが直接対決の機会がないままで中央競馬に移籍してしまったため、一度も対戦することはなかった。しかしその後フェートノーザンは一度先頭に立つと内の方にモタれて行ってしまうという弱点がもとで2戦連続で2着に敗れ、更にの間にライバルワカライデンサマーカップ1着を引退種牡馬入りしてしまったため再戦の機会がなくなってしまった。

次戦となったオパール特別では内にモタれることへの対策として、上の安藤騎手がこれまでの先行策から抑えて中団から後方で待機する作戦を試すと、直線で鋭く追い込みモタれることもなく1着をとることが出来た。この結果を受け営はこれ以降のレースでは後方からの追い込み作戦を変更することになった。更にフェートノーザン自身も成長してレースを覚えてきた為に勝負所でのスパートが非常にうまくハマるようになっていった。

レースを覚えた素質と「カラスが鳴かない日はあっても、アンカツが勝たない日はない」とまで言われたリーディンジョッキー完璧な状態でレースに臨めるとあらば止められる者などあるもなく、これ以降フェートノーザンは無敵の連勝街道を進んでいく。次走東海菊花賞勝利して地元で全地方競馬を代表する名たちを招いて開催されることになった全日本サラブレッドカップでは、大井競馬から来ていた翌年中央競馬に移籍してGIを3勝し年度代表馬にもなるイナリワンを2着に破り、連覇を狙う年末の大一番東海ゴールドカップは前年から5キロも増えた斤量61キロ勝利、7歳になっても勢いは止まらず前年ワカライデンに敗れた名古屋大賞典勝利。名実ともに地方競馬最強の立場を得るべく、中央に所属していた2年前に見せ場なく敗れた帝王賞に今度は笠松競馬の代表として出走することになった。

当時大井競馬の上半期の総決算として開催されていた帝王賞は、前年で第1回が行われた全日本サラブレッドカップと同じく、地方競馬では数少ない中央や他地区の競走馬が出走できる競走であった。しかし当時80年代のの大井競馬は「黄金時代」とも言われるほどの強めき合い、中央にも挑戦するが多くいた時期であり、帝王賞も開放以来南関東4場以外の優勝は存在せず、他の地区はおろか中央の実さえも当時のフェートノーザン自身と同じく跳ね返されるレースであった。しかしここでもフェートノーザンの勢いは止まらず、南関東や中央の実達を押しのけて1番人気に推され、いつも通りの後方待機から最終直線で先頭集団にカメラが移った間に画面の中央をすさまじい末脚でぶち抜き、2身半の差を付けて優勝した。帝王賞笠松競馬所属優勝するのは前述のとおり史上初で、これでフェートノーザンはダート界の日本一へ立った。

その後レースを終えてへ戻ったフェートノーザンは9月北海道に設立される予定の優駿スタリオンステーションでの種牡馬入りのがかかり、札幌で第一回が予定されていたブリーダーズゴールドカップ、地元全日本サラブレッドカップ、そして南関東川崎のの川崎記念という当時の数少ない全交流重賞を制覇して引退することが決まった。

こうして引退までの残り少ない競走生活を有終の美で飾るべく、次走は全日本サラブレッドカップの優先出走権がかかるローレル争覇に出走。前年はまだ脚質も定まっていないころで取りこぼしてしまったレースだが今年は今まで背負った中では1番となる斤量68kgを背負って勝利。しかしさすがにこの酷量ではいつも通りとはいかなかったのか、その後負けにかかって調子を崩してしまった。

えて9月になってもフェートノーザンの調子は上がらず、大事をとって初戦となる第1回ブリーダーズゴールドカップに出走する1か前に札幌競馬場に入厩して調整することになった。戦の安藤騎手も付き添って調整が進められたがレース当日になってもフェートノーザンの調子は悪いままで、安藤騎手は負けを覚悟していたという。しかし直線で地元北海道代表のホロウルフを何とかクビ差捉えて勝利ブリーダーズゴールドカップ初代優勝となった。

そして1か後フェートノーザンはでの最後のレースとなる全日本サラブレッドカップに連覇をして出走する。地元から日本ダート最強となったフェートノーザンの単勝支持率は驚異の9割越えで、もがフェートノーザンの勝利を疑ってはいなかった。しかしレース本番でいつも通り後方につけていたフェートノーザンは1週の3コーナー左前脚を骨折してしまい、地元の最終戦は競走中止という結果になってしまった。

その後フェートノーザンは急いで医の診断を受けたが、当初の診断では命に別状はないというものだった。営はとりあえず胸をなでおろし、年明けの川崎記念は間に合わないかもしれないが、もう種牡馬入りは決まっているしこのまま引退した方がいいか相談するべきか考えていた。しかしフェートノーザンは骨折の他に感染症を併発してしまい、高熱を出して一転危険な状態となってしまった。笠松競馬を始めとする関係者による治療が続けられていたが500キロえる体が3分の2ほどになるまで衰弱してしまい、競走中止から1月もたたない12月12日安楽死となった。7歳

現在のフェートノーザンの知名度は、ほとんど同時にから中央に移籍して活躍していたオグリキャップもあってかと言えばオグリキャップが1番にられるようになってしまい、当時残した競走成績の割には広くられることは少ない。しかし88年から89年にかけての活躍は間違いなく日本最強と呼べるものであった。全盛期の走りは後方から一気の末脚で先頭に躍り出る手なもので、当時の人気は単勝支持率9割をえるなど絶大なものだった。種牡馬になることもなく悲しい最期になってしまったため今の競馬ファンの口に上ることは少ないかもしれないが、フェートノーザンの記憶は当時全での活躍を追いかけたファンたち、そしてその背に乗って手綱を取った名手の中に、あの鮮な末脚と共に今も深く刻み込まれている。

エピソード

血統表

*フェーメーカー
Fate Maker
1972 栗毛
Swaps
1952 栗毛
Khaled Hyperion
Eclair
Iron Reward Beau Pere
Iron Maiden
A-Bee Ba-Bee
1964 栗毛
*ナディア Nasrullah
Gallita
Stay Smoochie Alquest
Paigle
アメリカノーザン
1977 青鹿毛
FNo.14-c
*ドレスアップ
1957 鹿毛
Khaled Hyperion
Eclair
Blue Cloth Blue Larkspur
War Cloth
*ネイティヴデイーラ
1971 青毛
Fiftieth State Polynesian
Providence
Gaming Act Supreme Court
Game of Chance
競走馬の4代血統表

クロスKhaled 3×3(25.00)

関連動画

関連コミュニティ

関連項目

脚注

  1. *実際イナリワンは中央移籍後天皇賞(春)宝塚記念GI競走を連勝するが、役のオグリキャップが休養中であったこともありレース内容の詳細な描写はなくダイジェストになっている

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1 ななしのよっしん
2023/04/27(木) 23:41:24 ID: sbFfLLPrpP
シンデレラグレイフェイスノーモアイナリワンを振り返ったのは、第1回日本サラブレッドカップで、フェートノーザン騎乗の安藤勝己が残り300mくらいでイナリワンを抜いたとき、何度か後ろを振り返ったことのオマージュかな
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