フォークランド紛争とは、1982年に起きたイギリスとアルゼンチン間の戦争である。
なお戦争ではなく紛争と称しているのは英語の「Falklands Conflict」を訳したため。
アルゼンチン側では「マルビナス戦争(Malvinas Islands War/Malvinas War/Guerra de las Malvinas)」と呼ばれている。
概要
詳しい事情や戦闘、戦線の推移などはWikipediaなどに譲るとして概略を述べる。
もともとフォークランド諸島はイギリス、フランスの間で領有を争っていてフランスがスペインに売却、さらにアルゼンチンがスペインから独立の際にスペインから継承したと称して領土争いがあったが1833年以降はイギリスの実効支配が続いていた。
そこに軍事クーデター後、経済難に陥り反政府運動が激化したアルゼンチンが国民の不満をそらすため領有権を持ちだしたのである。[1]
結果として、イギリスが勝利してフォークランド諸島を奪還し、敗戦により面目を失ったアルゼンチンの軍事政権は崩壊した。
戦争
アルゼンチンは、フォークランド諸島とは別に領土争いがあったサウスジョージア島を占領。続けてフォークランド諸島へ乗り込み、要である東フォークランド島の首都スタンレーを占領した。
しかし、イギリスを侮ったアルゼンチンはイギリスに猛反撃を受けることになる。
アルゼンチンは期待していたアメリカの支援も断られ、反共政権なのにソ連にすがりつこうとするも失敗。
イギリスは軽空母インヴィンシブルやV/STOL戦闘機ハリアー、原子力潜水艦コンカラー、特殊部隊SASなど陸海空軍を派遣。
多大な犠牲を払いながらもサウスジョージア島ともども再占領し、戦争は終結となった。
戦後・現在
アルゼンチンは軍事政権のトップだったレオポルド・ガルチェリが大統領を辞任。敗戦で反軍感情が高まったことで軍政から民政にあっさりと移管される。軍隊はその影響力を大幅に削がれ、80年代には15万人以上あった軍が20年の間に7万人に削られた(2007年には10万人以上に回復)。
戦勝国となったイギリスでは、不人気扱いだったマーガレット・サッチャー首相の支持率が急回復し、二等国民扱いだったフォークランド住民も本土からよりよい立場を与えられるようになった。加えて、領土防衛のためこれまでの防衛体制が刷新され、アメリカから買ったF-4戦闘機(ファントムII)を中心とした空軍が配備されるようになった。
ちなみにその後、両国は1990年に国交を回復させたものの、フォークランド諸島に関してはいまだに互いに自国領有の主張を続けており、完全に解決したわけではない。フォークランド紛争の後に軍政から民政に移行したアルゼンチンだが、イギリスに対する反感は消えておらず、現在でも自国に領有権があるとして主張を続けている。
のちにフォークランド諸島沖に海底油田の存在が確認されたが、2010年にイギリスが油田開発を始めたことで、アルゼンチン側が反発し両国関係は一気に冷え込んだ。また、2013年にはフォークランドでの住民投票が実施され、投票者の99.8%がイギリスにとどまることを望んだとする結果が出た。アルゼンチンは反発している。[2]
2013年に債務不履行(デフォルト)に陥ったアルゼンチンだが、近年は中国からの投資が増えている。また、中国側からアルゼンチンの主張を支持する事が伝えられ、アルゼンチンが感謝の意を伝えている。
ポイント
- ■西側同士による戦争
- 第二次大戦後、これまではロシアら東側諸国(共産圏)との戦いに比重を置いてきた西側諸国だったが、今回の戦争は史上初の西側陣営の国家同士、しかも現代水準の装備同士による戦いであった。これは政治的にも資料的にも重要である。
- アルゼンチン・イギリスともに経済関係があり、どちらもアメリカ、フランス、ベルギーなど西側陣営の兵器を購入していた。両軍の購入した装備・兵器は実戦経験がないものばかりだったが、今回の戦争においてそれらが実際に使われたことにより有効性と問題点が確認され、その後の軍事技術に影響を及ぼした。
- フランスでは、アルゼンチン軍が使用した艦上機(シュペルエタンダール)や対艦ミサイル(エグゾセ)のもたらした戦果は、そのままフランスの兵器産業の宣伝につながった。[3]
- ■大口径での狙撃
- アルゼンチン側の戦闘方法の一つに、ブローニングM2重機関銃にスコープを載せて遠距離から狙撃するというものがあった。12.7mmの大口径弾による長距離射撃は非常に効果が大きく、射程が足りない武器しか持っていなかったイギリス軍はこれに苦しめられ、ブローニングM2の設置場所を陥落させるのに、非常に高価な対戦車ミサイルを使わなければならなかった。
- この戦果を受けて、大口径弾による狙撃が見直されるようになり、「対戦車ライフル」のコンセプトは人や物を狙い撃つ「対物ライフル」へとシフトしていき、バレットM82をはじめとする携帯性の高い大口径ライフルが開発されることとなった。
- ■レーザー兵器
- この戦争ではレーザー兵器が使われたことでも有名である。イギリス側の艦船の一部に搭載されており、アルゼンチンの戦闘機に向けて照射することで、相手を失明させたり視覚障害を起こさせ狙いをつけにくくさせるという効果をもたらした。
- ……が、このレーザー兵器、相手を失明させる危険性の部分が「非人道的すぎる」ということで非人道的兵器として扱われ、『失明をもたらすレーザー兵器に関する議定書』(1995年)で禁止された。そのため、このフォークランド紛争がレーザー兵器の最初にして最後の活躍場所となった。
- ■潜水艦
- この紛争では、潜水艦の重要性も再確認された。
- イギリス海軍の原子力潜水艦「コンカラー」は5月2日、アルゼンチン海軍の巡洋艦「ヘネラル・ベルグラーノ」を撃沈し、原子力潜水艦初の(表向きの)実戦における戦果を挙げた。この戦果は現在までに原子力潜水艦が実戦で戦闘艦を撃沈した唯一の事例となっている。
また、アルゼンチン海軍も2隻の西ドイツ製潜水艦を保有していた。このため、フォークランド諸島の奪回に向かった英海軍機動部隊は潜水艦の襲撃を警戒し、実に全作戦行動の3分の1を対潜警戒に費やすことになった(実際この2隻は機動部隊の攻撃に向かっている)。もしこの2隻が存在しなければ、フォークランド諸島の奪回はもっと速く完了していただろう。[4] - ■ブラック・バック作戦
- フォークランド諸島爆撃の為に実行された、英国面満載の作戦。自重しろ、イギリス
- フォークランド諸島周辺の制空権を確保出来なかったイギリス軍は、大型爆撃機でポート・スタンリー空港への爆撃を行う事になったが、当時、唯一保有していた大型爆撃機アブロ・ヴァルカンを運用できる空港は、フォークランド諸島から6000km余りも離れていたアセンション島しかなく、ヴァルカンの航続距離(約4500km)では到達すら出来なかった。
- そこでヴィクター空中給油機で支援を行う事になったが、ヴィクターの航続距離はヴァルカンより更に短い為に、空中給油機で空中給油機に給油しながら支援させるという訳の解らない作戦となった。B-52なら、給油無しで往復してもお釣りがくるんだがなぁ・・・
- 作戦は合計7回実行され、ヴァルカン2機の支援にヴィクターは11機も投入された。
空母の在り方への影響
この紛争においてインヴィンシブル級空母1番艦インヴィンシブルが投入されたが、これが後の空母業界に大きな影響を与えている。
- ■V/STOL艦載機の有用性を証明
- インヴィンシブルの艦載機として投入されたのがハリアーである。その絶対数は少なく、万全な活躍をしたとは言い難いものの、艦隊防空などに大きな役割を果たした。これにより、小型な船体でも運用できるV/STOL機の運用に道が開けたといえる。
- ■スキージャンプの有効性を証明
- インヴィンシブルの艦首に備えられたスキージャンプは平坦な甲板と比して積載量にして20~30%もの増加が見込め、さらに発艦作業が風や波に影響されづらくなるという利点を示して見せた。これによりカタパルトが技術的、あるいはコスト的に導入できない国でもより効果的に艦載機を運用できるようになった。
- ■小型艦(軽空母)での艦載機運用の有用性
- これは上記2つの利点によるものとなる。それまではジェット戦闘機を艦載運用するとなると、巨大で技術もコストも必要な正規空母を運用するか、積載量の大幅減少に目をつぶりV/STOL機の垂直離着陸に頼るかしかなかった。しかし、軽空母の利点が明らかになったことにより、正規空母よりも小型な船体でありながら、ある程度の積載量を確保しつつ航空機が運用できるようになった。
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連リンク
- フォークランド沖で英企業が油田採掘(日テレNews24・2010年)
- 99%が英帰属を支持 フォークランド諸島住民投票(CNN・2013年)
- フォークランド紛争から30年、海底油田めぐり再び揺れる諸島(AFP BB NEWS・2012年)
- 「フォークランド」に学ぶ中国… 尖閣略奪へアルゼンチンに急接近の“奇手”(産経新聞・MSN)
- 危機アルゼンチンに「恩」売る中国のしたたか支援外交の“本音”は…米国-中南米間にくさび、存在感増大へ蠢く(産経新聞・MSN)
関連項目
- 軍事
- 軍事関連項目一覧
- 戦争
- フォークランド諸島
- イギリス / グレートブリテン及び北アイルランド連合王国
- アルゼンチン
- インヴィンシブル級空母
- ハリアー
- Special Air Service (SAS)
- マーガレット・サッチャー
脚注
- *いちおう、戦争に至ってしまう前にはイギリス側からも条件付きの主権委譲案は出されていた。しかし条件が「統治イギリス・主権アルゼンチン」というあまり変わらない内容でイギリス入植民からも反対され、首相のマーガレット・サッチャーは島民による選択を絶対条件にしたため委譲案はポシャる。加えてアルゼンチンが無条件の主権委譲を主張していたため平行線にしかならなかった。
- *今回の投票に参加したのは住民3000人のうち約1600人で『投票者のうちの99%』である(そもそも、イギリス民ばかりが入植していてアルゼンチン側の人間はいないのだから、イギリス寄りの結果しか出てこないのは当たり前なのだが)
- *ただし、アルゼンチン軍のエグゾセはイギリス軍をことごとく苦しめる戦果をあげていたため、ブチ切れたサッチャーイギリス側がエグゾセを売った元凶のフランスに対して断交もちらつかせていたことが、後に公開された当時の外交公電で明らかになった。 → 「英仏、断交寸前だった…フォークランド紛争時」(Yahoo!ニュース @ Wayback Machine)
- *「兵器と戦略」 江畑謙介 朝日新聞社 1994 p.19
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- 0pt
- ページ番号: 5286281
- リビジョン番号: 3132961
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