フォークランド諸島とは、南アメリカ大陸の南端、アルゼンチン近くにある諸島の名前である。
アルゼンチン側では「マルビナス諸島」とも。
地理
ステータス | |
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人口 | 3140人(2013年) |
面積 | 12173平方km ※長野県と同等(13590平方km) |
公用語 | 英語 |
通貨 | フォークランド諸島ポンド (交換比率は英ポンドと同じ) |
本国 / 元首 | イギリス / エリザベス女王 |
統治者 | フォークランド総督 |
ドメイン | .fk |
大きい島2つとたくさんの小さい島で構成された地域。西フォークランド島と東フォークランド島に分かれており、その間を走る海はフォークランド海峡と呼ばれている。ちなみにフォークランドの名前は、1690年にフォークランド航海においてスポンサーになってくれたフォークランド子爵に感謝して船長がつけたらしい。
首都はスタンリー(Stanley)。人口は2000人ほどだが諸島総人口の60%以上を占めており、フォークランド諸島のなかでは一番大きい都市である。
政治体制はイギリス連邦の各国家と同じで、国家元首はイギリス女王だが総督による代行という形になっている。また、総督とは別に政治を行う行政長官が議会で選出されており、こちらが実際の政治を行う。
主産業は漁業(権利の販売)と羊産業。特に羊毛の輸出がさかん。2000年代後半からは油田の開発も行われており、石油産業も成長中である。
場所はアルゼンチンの方が近いがイギリス領土である。イギリス領になるまでに色々あった。
→ フォークランド紛争を参照。
歴史
1833年からイギリスによる実効支配がされているが、イギリスの公式発表では1592年に自国の探検家が上陸し記録したことが領有権の根拠とされている。
15世紀~17世紀はまさに"大航海時代"であったためイギリス・スペイン・フランスと複数の国がこの島に上陸して領有権の主張をしているという少々ややこしい事になっており、譲渡、撤退などいくつもの領有権が変遷したあと、1810年代にイギリスとアメリカが軍港として使うようになって、ほぼまとまった状態になってきた。
しかし1820年頃アルゼンチンが上陸。自国領有・主権を主張 [1] し、自国民に漁業権を与えたうえで、船籍を問わず課税し、従わない船舶を逮捕するようになった。これに対しイギリスは1833年に艦艇を派遣して再度占領し、これ以降イギリスによる実効支配が続いていくこととなる(アメリカも一時アルゼンチンに報復を行ったが深入りを避けるためそれ以上追求しなくなった)。
その後も何度か戦いはあったが、1851年にアルゼンチンのトップが失脚し、代わってその部下が開いた政権は自由主義と近代化政策であったため、イギリスと経済関係を結んだことで友好に変わり、領有権主張は行われなかった。
その後1930年代にアルゼンチンでナショナリズムが勃発し「諸島を奪還する」という思想が蔓延する。1981年に陸軍司令官のレオポルド・ガルチェリが大統領就任、過去の指導者が起こしてきた政策の失敗が積み重なっていたため、国民の不満をそらす形でフォークランド諸島を占領するという軍事行動に出た。イギリスもこれに対して軍隊を派遣して奪還に入り、「フォークランド紛争」が開始された。
結果、イギリスが勝利してフォークランド諸島を奪還した。アルゼンチンは敗北したものの領有主張は下げておらず、両国で国交回復しているものの問題は解決しておらず、現在に至る。
のちにフォークランド諸島沖に海底油田の存在が確認されたが、2010年にイギリスが油田開発を始めたことで、アルゼンチン側が反発し両国関係は一気に冷え込んだ。
2013年にはフォークランドでの住民投票が実施され、投票者の99.8%がイギリスにとどまることを望んだとする結果が出た。アルゼンチンは反発している(投票に参加したのは約1600人だが住民は3000人以上いる。今回のは投票者のうちの99%)。
関連動画
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関連項目
関連リンク
- フォークランド沖で英企業が油田採掘(日テレNews24・2010年)
- 99%が英帰属を支持 フォークランド諸島住民投票(CNN・2013年)
- 「フォークランド」に学ぶ中国… 尖閣略奪へアルゼンチンに急接近の“奇手”(産経新聞・MSN)
- フォークランド紛争から30年、海底油田めぐり再び揺れる諸島(AFP BB NEWS・2012年)
脚注
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