フォース・インディアとは、2008年より2018年までF1に参戦していたコンストラクターである。
概要
元々はエディー・ジョーダンが設立したジョーダン・グランプリがチームの祖先、
その後ミッドランド(MF1)そしてスパイカーF1と経て、
インドの実業家であるビジェイ・マルヤが2007年のシーズン中にスパイカーF1を買収し立ち上げた。
2008年
参戦にあたり、スパイカー時代からの契約でエイドリアン・スーティルの残留は決まっていたが、
もう一枠をめぐって有名ドライバーがシーズンオフのテストに多数参加し争っていた。
結局ジャンカルロ・フィジケラがシートを得る事になる、なおサードドライバーはビタントニオ・リウッツィに決定。
マシンはスパイカーのシーズン後期に使用したマシンを改良したVJM01で参戦、これは大元がジョーダンの2004年マシン、EJ14であり、モノコックにおいては5シーズンにわたって「古いF1マシンを大切に末永く使いましょう計画」が実行され、レギュレーションに応じて魔改造改良されていた。そしてそのシーズン中にも大幅な魔改造アップデートを行った。
雨のモナコGPでスーティルの頑張りが光ったが、結局は両ドライバーともノーポイントでシーズンを終わる。
2009年
2009年については現行のフェラーリエンジン使用契約を破棄し、マクラーレン・メルセデスとの提携を発表した、
内容はメルセデス製エンジン、マクラーレン製ギヤボックスおよびハイドロリック系、KERSの供給である。
前後してチーム代表のコリン・コレスと最高技術責任者マイク・ガスコインの離脱、マーク・スミスのチーフデザイナー就任が発表された。
マシンはEJ14以来、チームとしては初のオリジナルマシン、VJM02を開発した。
VJM02は見事な直線番長っぷりを見せつけ、2009年のベルギーGPにおいてフィジケラがチーム創設初PPを獲得、レースにおいても激闘の末2位入賞。
また、次戦のイタリアGPよりフェラーリへ電撃移籍したフィジケラに代わりリウッツィがレースドライバーに昇格、レースもトップ集団に入る快走を見せつけた。
2010年
2010年も体制が同じだがサードドライバーにポール・ディ・レスタが加入。マシンは前年の改良型であるVJM03。
開幕から両ドライバーがコンスタントに成績を上げ、4強に次ぐ中堅チームの一角を成している。
しかし、テクニカルディレクターのジェームズ・キーがザウバーに移籍したことや、相次ぐ訴訟合戦に敗北し続け
ていることから成績が下降線をたどっており、ウィリアムズに迫られている。
2011年
2011年はポール・ディ・レスタがセカンドドライバーに昇格、スーティルは残留する。一方でテストドライバーに元ウィリアムズのニコ・ヒュルケンベルグを起用した。マシンは前年の改良型であるVJM04。
序盤戦こそなかなかポイントを挙げることができなかったものの、フロント周りを中心とした改良が後半になって奏功し、コンスタントにトップ10の予選順位、6位以上の入賞を繰り返し、最終的に昨年を上回る69ポイントを獲得、上位にいたロータス・ルノーGPにあと4ポイントにまで迫る、ランキング6位となった。
同年10月に、チーム株の4割ほどをサハラ・インディア社に売却、2012年からは「サハラ・フォース・インディアF1チーム」としてエントリーすることが決まった。
2012年
2012年はスーティルに代わってニコ・ヒュルケンベルグがレギュラーに昇格。マシンはVJM05となり、サイドポンツーンに「SAHARA」の文字が目立つようになった。
着実にポイント圏内を走るレースが目立ち、ヒュルケンベルグ、ディ・レスタ共に1度づつの4位入賞を記録した。最終戦ブラジルGPではヒュルケンベルグが一時マクラーレンを相手にトップ争いを見せるなど、マシンは競争力があった。ポイントは109を稼いだが、ランキングとしてはザウバーに惜しくも抜かれて7位にとどまった。
2013年
ヒュルケンベルグは一度チームを離れ、ディ・レスタが残留。もう一人はスーティルが復帰した。マシンはVJM06。
開幕戦でいきなりスーティルがトップランをしてみせるなど、前半は活躍したが、後半にピレリがタイヤ特性を変更すると失速。ポイントは77に減ってしまったが、ランキングでは今度はザウバーを上回る6位となった。
2014年
エンジンがパワーユニットと呼ばれるものに変更された年だが、以前よりメルセデスエンジンを使っていたフォース・インディアは引き続きメルセデスからパワーユニットの供給を受けることができた。当然マシンは一新され、VJM07となった。
ドライバーはヒュルケンベルグが出戻り、マクラーレンから移籍してきたセルジオ・ペレスとのコンビとなった。ペレスは第3戦バーレーンGPでチームにとって5年ぶりとなる3位表彰台を獲得。ヒュルケンベルグもポイントを重ねた。パワーユニットへの大変革の中で、チームはメルセデスのユニットが「当たり」だったこともあって活躍。後半はやや勢いが落ちたものの、155ポイントと昨年に倍する得点を上げた。だが、ランキングは変わらず6位だった。
2015年
2015年は体制は大きく変わらず、ヒュルケンベルグとペレスのコンビが続投となった。マシンはVJM08となったが、シーズン開始当初は資金不足から開発が進まず苦戦を強いられる。しかし、Bスペックの投入によって状況が変わり、ペレスが昨年に続いて表彰台を獲得するなどして二人のドライバーは活躍を見せた。ポイントは136ポイントと前年からやや下げたもののマクラーレン・ホンダが絶不調で彼らを抜いた結果、ランキングは5位となり、チームとしては過去最高のものとなった。
2016年
昨年に続いて体制は維持され、慢性的な資金不足には悩まされながらもVJM09は高いポテンシャルを発揮し続けた。ペレスは2度に渡って表彰台に上がり、ヒュルケンベルグも大半のレースで入賞するなどした。結果ポイントは173に達し、ランキングでメルセデス・レッドブル・フェラーリに続くトップ4についに食い込むことに成功した。
2017年
スポンサーがオーストリアの飲料会社BWT(ベスト・ウォーター・テクノロジー)となり、マシンVJM10は強烈なピンク色に変わることになった。
ドライバーは、昨年の活躍で両ドライバーに他チームから好条件で移籍の話が持ち上がったが、ペレスは残留を選択。ヒュルケンベルグがルノーへ移籍した。代わりにメルセデスの育成ドライバーであるスペイン系フランス人のエステバン・オコンがチームに入ることになった。
表彰台こそなかったものの、トップ3チームの6台に次ぐ位置を常に走っている感じで入賞を重ねることになる。新加入のオコンもペレスに負けないパフォーマンスを見せることになるが、シーズン途中でペレスとオコンが同士討ちでマシンにダメージを負ってしまうトラブルも散見された。特にペレスは1昨年から37レースに渡って完走していたが、その接触トラブルのためにリタイアして記録が途切れることにもなってしまった。ついにチームオーダーでコントロールすることになり、一応はこの事態は収束した。
なんとノーポイントレースはモナコGPの1回のみ。全20戦中16戦でダブル入賞を達成するなど、ここ数年でも一番の安定性を誇ったチームは、185ポイントでランキング4位を保持し、しかも5位のウィリアムズにダブルスコアの大差をつけるという最高のシーズンとなった。
しかし、同年4月にチームオーナーのビジェイ・マルヤが詐欺罪で逮捕されるに及び、チーム運営の将来に暗い影を落とすことになった。
2018年
ドライバーの体制は昨年通り。しかし、昨年のオーナー逮捕に端を発するチーム運営のゴタゴタで資金集めが思うに任せず、財政状態は目に見えて悪化した。加えてマシンVJM11も問題を抱え、これまでのような安定した成績は望めなくなった。しかし、アゼルバイジャンGPでペレスが2年ぶりに表彰台に上がり、オコンも入賞を重ね奮闘した。
ところが、ついにチームは破産に追い込まれ、チーム自体の消滅を防ぐために身売りをせざるを得なくなった。カナダの資産家ローレンス・ストロールらの率いる事業体に売却が決まり、チーム名も「レーシング・ポイント」と改められることになった。そして、彼の息子であり現ウィリアムズのドライバーであるランス・ストロールがオコンの代わりにシートを得るとの噂が流れた。しかし、チーム名を変えると新規参戦扱いとしてそれまでのシーズンのコンストラクターズポイントが剥奪されてしまうため、「レーシング・ポイント・フォース・インディア」と旧来の名前を残すことになる。オコンもドライバーとしての実績に何の落ち度もないことから追い出される形になる彼に同情が集まることになり、ストロールのシーズン中の移籍は見送られた。
結局、コンストラクターズポイントの引き継ぎは認められず、その後得た52ポイントによってランキング7位となった。剥奪された分も計算に入れるとランキング5位相当の成績を上げていたことになる。
翌年の2019年には改めて「レーシング・ポイント・F1チーム」としてエントリーすることになり、マシン名もRP19とされることになった。11シーズンに渡って続いたインド系F1チームとしての歴史はこうして閉じることになった。
関連動画
関連コミュニティ
関連項目
- F1
- フィジケラ
- フィジケラは残念なことに
- エイドリアン・スーティル
- 羽下晃夫 - 2008年、2010年マシンの開発担当
- 吉永雄一 - ギアボックス開発担当
- 松崎淳 - タイヤエンジニア。元ブリヂストン社員。
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