フォーミュラ・ニッポンとは、1996年から2012年まで日本で開催されていたモータースポーツのカテゴリーである。
日本最高峰のフォーミュラカーレースとして知られ、F1の直下に相当する位置付けであった。略称はFポン、FNなど。
概要
全日本F3000選手権の後継として1996年から開始される。当初はF3000時代の流れを汲んで海外から実力者が参戦し、F1へのステップアップカテゴリとして機能していた。
2000年代以降はワンメイク化や独自のレギュレーション導入などでF1を目指す者にとっての魅力は薄れ、エントラントや観客動員の減少が続く。
運営による打開策の一環として2013年から選手権名が「スーパーフォーミュラ」へと改称され、フォーミュラ・ニッポンの名は2012年限りで姿を消した。
歴史
発足~隆盛期
1996年、国際F3000は参戦コスト高騰の対策としてワンメイク化に舵を切る。一方で全日本F3000はマルチメイクの継続を求め、国際選手権と差別化する形で「フォーミュラ・ニッポン」と改称した。運営は新組織の「JRP(日本レースプロモーション、フジテレビのメンバーが主体)」が務める。
当初はシリーズランキング3位以内にF1のスーパーライセンス発給資格が与えられたため、ライセンスを求めた海外ドライバーの参戦が盛んであった。1997~99年の3年間でF1へデビューした者のうち7人がフォーミュラ・ニッポンの経験を持つなど、F1の登竜門としての地位を確立していた。
マルチメイクの終焉~低迷期へ
しかし1997年にコスト低減の目的でタイヤがワンメイク化される。加えて2000年前後にはシャシー・エンジン共にメーカー間で競争力の差が拡大し、事実上のワンメイクと化すなど当初のマルチメイク構想は短期間で頓挫した。
F1へのステップアップの観点からも、F3から直接F1デビューを果たす傾向が強まったうえ、運営が独自路線へ舵を切った影響で本カテゴリの意義が薄れていく。
2004年にはマレーシアのセパンでレースが行われ海外進出の一歩を踏み出したかに思えたが、様々なトラブルが重なり1戦限りに終わる。本レースは日本のトップフォーミュラ選手権50年の歴史で唯一の海外開催であった(2024年時点)。
テレビ放送/配信の面では、2005年限りでフジテレビが地上波の中継放送から撤退する。他番組中でのダイジェスト放送も2009年限りで終了したため、以降の視聴方法はJ SPORTSの有料放送に限られ、一般層への露出が減少する。
JRPは2007年半ばに「JRP中期計画」と銘打ち、活性化を目指した施策を打ち出すも折悪しく2008年にリーマン・ショックが、2011年に東日本大震災が発生し集客は伸び悩む。景気悪化は参戦チームにも影響し、2009年のエントリーは13台まで落ち込むなど苦境が続く。
2013年、将来的な海外進出を見据えて選手権名を「スーパーフォーミュラ」と改称し、再出発を図った。
マシン
シャシー
発足当初はローラ、レイナード、Gフォース(後のパノス)の3社が供給していた。
ローラ、Gフォースは戦闘力が劣ったため徐々にシェアを減らし、2002年はレイナードの事実上のワンメイクであった。しかしレイナードは同年初頭に倒産する。
翌2003年はローラがFN03(B351)を供給し、規定上もワンメイク制度が明記された。
2006年にローラ製のFN06(B06/51)に変更された。
2009年からはスウィフト社のFN09(017.n)を採用。2012年のシリーズ終了まで使われた。
エンジン
発足当初は無限、コスワース、ジャッドの3社が3.0LのV8エンジンを供給。
シャシー同様に1社(無限)の戦闘力が突出しており、1998年以降は無限エンジン「MF308」の事実上ワンメイク状態であった。 同エンジンは2005年まで使用される。
2006年から供給元がホンダおよびトヨタへスイッチされる。それぞれ当時のインディカー・シリーズに供給していたエンジンをベースに設計された。
2009年からは、SUPER GT(GT500クラス)と規格を統一するため、排気量が3.4Lへと拡大された。
選手権の変遷
年 | 選手権名 |
---|---|
1973~1977 | 全日本F2000選手権 |
1978~1986 | 全日本F2選手権 |
1987~1995 | 全日本F3000選手権 |
1996~2012 | フォーミュラ・ニッポン |
2013~ | スーパーフォーミュラ |
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関連項目
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