フランク王国(仏:Royaumes francs、独:Fränkisches Reich、481年 - 987年)とは、ゲルマン系部族のサリー・フランク族によって建てられた国である。建国当初は、現在のオランダやベルギー、そしてドイツ北西部に跨る領域を形成した。首都はパリまたはアーヘン(ドイツ西端の都市)。
フランク族はライン川下流の一部を支配していたゲルマン部族であった。5世紀頃までに、その領域をライン川下流の全域にまで広げる。
メロヴィング朝のキルデリク1世の子クローヴィス1世によって481年にフランク族が統一され、名実ともに王国が成立した。彼は東ローマ帝国より「ローマ帝国名誉執政官」の位を賜っており、それ故フランク王国は形式的にはローマの一員となっていた。クローヴィスは西ゴート王国と戦い、現在のフランスに当たる地域のほぼ全域を獲得するなどして、最終的には現在のドイツ西部からフランス西部にまたがる領域を支配した。彼の没後、王国はゲルマン民族の伝統によって4人の子に分割相続された。その後、分国では宮宰(王に代わって政務を仕切る者)が力を持つようになる。
732年、イベリア半島よりヨーロッパを北上するイスラーム勢力(ウマイヤ朝)に対し、トゥール・ポワティエ間の戦いで大勝してこれをピレネー山脈の向こうへと追い返すと、宮宰カール・マルテルの権威は絶大となった。そして、彼の子である小ピピンが全分国の宮宰となることで、カロリング家が王国の事実上の支配者となった。
ピピンは未だ保たれていたメロヴィング朝の血統の権威を廃するため、東ローマ帝国に代わってローマ教皇を保護し、土地を与えて恩を売る形で利用し、フランク王国の王位に就いてこれを正当化する。そして、その子カールは教皇を庇護する見返りに(西)ローマ皇帝として戴冠され、ついに王国はキリスト教世界の守護者として君臨する。
当時、ヨーロッパのキリスト教世界では、東ローマ帝国が唯一の「ローマ帝国」であり、フランク王国を含む諸国は形式上その傘下にあった。だが、フランク王国が「(西)ローマ皇帝」を称する君主を戴くようになったことで、ついに王国と西欧は東ローマ帝国の枠組みから独立し、フランク王国もまたヨーロッパ最高位の存在となったのである。
王国は更に、ザクセン族(ドイツ東部)やアヴァール人(中欧以東)を討伐し、現在のドイツ、フランス、イタリア、低地地方やクロアチア、ハンガリー、スペインの一部も含む領域を支配・保護し、西ローマ帝国滅亡以来の安定を生み出した。
しかし、その後、やはりゲルマン部族の伝統に従ってフランク王国は三分割され、幾度かの統一と分割を経て、カロリング朝は各王国で断絶。最終的に西フランク王国はフランス王国に、中フランク王国はイタリア王国やブルグント(ブルゴーニュ)王国に、そして東フランク王国は神聖ローマ帝国に再編され中世ヨーロッパの原型を築いた。
王朝
領域
- ドイツ
- フランス
- イタリア
- オランダ
- ベルギー
- ルクセンブルク
- バチカン市国
- サンマリノ
- モナコ
- スペイン
- アンドラ
- オーストリア
- スイス
- リヒテンシュタイン
- チェコ
- スロヴァキア
- ハンガリー
- クロアチア
- スロベニア
周辺勢力
- ゲルマン人
- スラブ人
- アヴァール人
- ブルトン人(ブルターニュ王国/ブルターニュ公国)
- 教皇領
- ヴェネチア共和国
- ヴァイキング/ノルマン人
- デーン人/デンマーク王国
- 東ローマ帝国
- ウマイヤ朝アラブ帝国
- アッバース朝イスラーム帝国
関連項目
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