フランシスコ・ザビエル(1506 ~ 1552)とは、カトリックの宣教師である。
概要
日本に初めてキリスト教を伝えた人物として非常に有名であり、また本格的に名前の登場する初の西洋人。与えた影響は多岐に渡り、日本の歴史の上でも重要な人物といえるだろう。
と同時に特徴的すぎるあの髪型は全国の小中学生に多大なるインパクトを与え続けている。
生涯
スペイン生まれ、と説明されることが多いが正確にはナバラ王国(現在のスペイン・バスク地方)に生まれた。ザビエル城(ハビエル城)を有する貴族の生まれだったが、1515年に南ナバラはカスティーリャ王国(スペイン)に征服されてしまう。
その後パリ大学へと進み、そこで同じナバラ出身のイグナチオ・デ・ロヨラと出会った。彼の影響でザビエルも聖職者を志すようになる。やがてロヨラを中心とした7人のメンバー(もちろんザビエルも含まれる)が1534年に『イエズス会』を結成した。1537年、司祭に叙階される。
当時のヨーロッパは宗教改革の嵐が吹き荒れており、そんな中でイエズス会はカトリック教会を建て直し、プロテスタントに対抗していく役割が求められていた。彼らは高等教育の充実や、非キリスト教地域への布教などを行う事でそれを成そうとしていた。そうした世界戦略を担ったのがザビエルだった。
1541年にポルトガルを出発し、翌年にインドのゴア(当時はポルトガルの植民地)に到着した。その後はゴアを拠点としつつ、東のマラッカやモルッカ諸島にも渡って熱心に布教を行った。そんな中、1547年にマラッカで出会ったのが日本人ヤジローだった。
ヤジローは薩摩か大隅の人だったが、人を殺してしまい、たまたま来ていたポルトガル船に匿ってもらい逃げてきたという人物だった。その罪を悔い改めるためにザビエルが紹介され、ヤジローは日本人として(確認できている限りは)初のキリスト教徒になった。
ヤジローの話や人柄から日本に興味をもったザビエルは、1549年に来日した。初めは薩摩の坊津に上陸、その後島津貴久と面会し、薩摩での布教の許可を得る。1550年には平戸、続いて山口へと上陸。しかし山口ではガチホモ大内義隆の怒りを買ってしまった(キリスト教では男色は禁止)。
1551年、ついに京都へと到着したが、長き戦乱の世で疲弊しきっていた朝廷や幕府に未知の宗教を相手にする余裕はなかったようで、全く成果を上げられなかった。仕方なく山口へと戻り、再び大内義隆と面会する。この時は様々な珍しい献上品(特に眼鏡はこの時初めて日本に持ち込まれたといわれる)に義隆は大喜びし、布教を許可した。(なお大寧寺の変で義隆が死亡するのは約半年後の話)
山口での熱心な布教活動は成功し、ここで後のロレンソ了斎と出会っている。ロレンソは盲目で、琵琶法師として生計を立てていたが、キリスト教の教えに感化されて洗礼を受け、後に多くの宣教師や切支丹を助ける事になる。
続いて豊後に渡り、大友義鎮(宗麟)の下で布教を行った(が、これがきっかけで大友家中は揉める)。この後、いったん拠点であるゴアへと戻る事となり、その際に日本人留学生4人を同行させることにした。この中の一人・鹿児島のベルナルドは日本人として初めてヨーロッパへと渡り、教皇との謁見も果たした。
1552年、東洋文化圏への安定的な布教のためには中国(明)での布教が必要だと考えたザビエルは再び旅立った。だが明への入国はなかなか許されず、やがてザビエルは病に倒れ、中国布教の夢を叶えられないまま死去した。享年46。
なおザビエルと共に来日したコスメ・デ・トーレス神父は、ザビエルの離日後も日本に留まり、ロレンソ了斎らと共に布教活動を続け、1570年に天草で死去した。
人物
真面目で熱意にあふれ、かつ柔軟な思考力を持った人物といえる。日本の雰囲気は非常に気に入っており、著書の中で高く評価している。
ザビエルの布教姿勢は比較的穏健なもので、ルイス・フロイス、グネッキ・ソルディ・オルガンティノといった後の宣教師たちもそれに続いた。特にトーレス神父は「適応主義」を掲げて、ヨーロッパ流にとらわれず、自分たちが現地(日本)のやり方に合わせ、受け入れられることを目指した。
だが後にフランシスコ・カブラルが日本人を見下した行動をとったり、イエズス会以外の宣教師が目立ちすぎる活動や国益重視の行動を取るようになると、豊臣政権や江戸幕府からキリスト教は危険視され、弾圧が進むようになっていく。
ちなみにあの特徴的なヘアスタイルは「トンスラ」と呼ばれる。仏教の僧侶が出家の際に剃髪するのと同様、俗世との決別の意味を込めて頭頂部の髪を剃る風習であり、ハゲではない。……が、ザビエルの属するイエズス会ではトンスラを採用しておらず、後世の誤った知識で描かれたものであるという認識が一般的。
関連項目
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