フランス王の一覧単語

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フランス王の一覧とは、いわゆるフランス王国時代を統治してきた王のうちカペー朝」「ヴァロワ朝」「ブルボン朝の歴代王の一覧である。また便宜的に、「王」ではなく皇帝ではあるが「ボナパルトの君も掲載する。

なお、フランス王国は『サリカ法典』を採用しているため女王が存在しない。

カペー朝(des Capétiens)

※「~世」の数は「フランク王国」時代および「西フランク王国」時代からの累計

王 (通称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Hugues Capet 987年 ~ 996年 西フランク王ロベール1世の孫
ユー大公ザクセンのヘートヴィヒ(東フランクハインリヒの、同オットー1世の)との長男
西フランクカロリンの断絶により「西フランク王」に選出
ユーグ・カペー (938年? ~ 996年)
Robert II le Pieux 996年 ~ 1031年 ユーグ・カペーとアデライード・ダキテーヌ(アキテーヌギヨーム3世の)の長男
ベール2世(敬虔王) (972年 ~ 1031年)
Hugues de France 1017年 - 1025年 ベール2世と3番王妃コンスタンス・ダルル長男
共同統治王 ユーグ・ド・フランス (1007年 - 1025年9月17日)
Henri Ier  1031年 ~ 1060年 ベール2世(敬虔王)と3番王妃コンスタンス・ダルルの間の次男
アンリ1世 1008年 ~ 1060年)
Philippe Ier 1060年 ~ 1108年 アンリ1世とアンヌ・ド・キエフキエフ大公ロスラフ1世の)の長男
フィリップ1世 1052年 ~ 1108年)
Louis VI le Gros, le Batailleur 1108年 ~ 1137年 フィリップ1世と最初の王妃ベルト・ド・オランドの子
ルイ6世肥満王、戦争王) 1081年 ~ 1137年)
Philippe de France 11168月29日 -
1131年10月13日
フランス王ルイ6世王妃アデル・ド・サヴォワの長男
共同統治王 フィリップ・ド・フランス (11294月14日
1131年10月13日)
Louis VII le Jeune 1137年 ~ 1180 ルイ6世と2番王妃アデル・ド・サヴォワの次男
アリノール・ダキテーヌの最初の夫
ルイ7世(若年王) 1120年 ~ 1180年)
Philippe II Auguste 1180年 ~ 1223年 ルイ7世とアデルシャンパーニュティボー2世)の長男
リチャード獅子心王・ジョン欠地王の好敵手
フィリップ2世(尊厳王) 1165年 ~ 1223年)
Louis VIII le Lion 1223年 ~ 1226年 フィリップ2世と最初の妻イザベル・ド・エノー長男
アルジョア十字軍で南へ領土拡
ルイ8世(獅子王 (1187年 ~ 1226年)
Louis IX (Saint-Louis) 1226年 ~ 1270年 ルイ8世とブランシュ・ド・カスティーユ(カスティーリャ王アルフォンソ8世の)の三男
第6回・7回十字軍
死後「聖人」に列せられる
ルイ9世(王ルイ) (1214年 ~ 1270年)
Philippe III le Hardi 1270年 ~ 1285年 ルイ9世と王妃マルグリット・ド・プロヴァンスの次男
フィリップ3世(大胆王、胆王) 1245年 ~ 1285年)
 Philippe IV le Bel 1285年 ~ 1314年 フィリップ3世と最初の王妃イザベルダラゴンの子
1284年にはナバラ女王アナとの結婚によりナバラ王位に就く
ローマ教皇をアヴィニヨンへ捕囚
次女がイングランドエドワード2世
フィリップ4世(端麗王) 1261年 ~ 1314年)
Louis X  le Hutin 1314年 ~ 1316年6月 フィリップ4世とジャンヌ1世(ナバラ女王としてはフアナ)との長男
ルイ10世(喧嘩王) 1289年 ~ 1316年)
Jean Ier le Posthume 1316年11月15日 ~ 19日 ルイ10世と2度王妃クレマンス・ド・オングリー長男
出生と同時に即位するも5日で死去
ジャン1世(遺児王) (在位と同じ)
Philippe V le Long 1316年 ~ 1322年 フィリップ4世とジャンヌ1世(ナバラ女王としてはフアナ)との次男
フィリップ5世(長王) 1292年 ~ 1322年)
Charles IV le Bel 1322年 ~ 1328年 フィリップ4世とジャンヌ1世(ナバラ女王としてはフアナ)との三男
バラでは禿頭王(le Calvo)と呼ばれる。
男子カペー家の嫡流断絶
シャルル4世(美男王) 1294年 ~ 1328年)

ヴァロワ朝(des Valois)

カペー朝フィリップ3世の4男・ヴァロワ伯爵シャルルにはじまるカペー家の分
※ヴァロワ=オルレア公爵シャルル5世の次男ルイにはじまる分
※ヴァロワ=アングレー伯爵はオルレア公爵ルイの5男ジャンにはじまる分の分

ヴァロワ家本流

王 (通称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Philippe VI de Valois le Fortuné 1328年 ~ 1350年 フィリップ3世の4男ヴァロワ伯爵とマルグリット・ダンジューの長男
英国エドワード3世(系でフィリップ4世の孫)が王位を要し「百年戦争」開戦
フィリップ6世(幸運王) 1293年 ~ 1350年)
Jean II le Bon 1350年 ~ 1364年 フィリップ6世王妃ジャンヌ・ド・ブルゴーニュの長男
ポワティエの戦いで捕虜となる
ロンドンに囚われ帰できず死去
ジャン2世(善良王) 1319年 ~ 1364年)
Charles V  le Sage 1364年 ~ 1380年
1356年から摂政王太子
フランスジャン2世(善良王)とボンヌ・ド・リュクサンブール(ボヘミアヨハン神聖ローマ皇帝カール4世の同)の長男
始めて、ドーファンDauphin)の称号を有した王太子
王が捕虜となったため摂政
シャルル5世(賢明王) 1338年 ~ 1380年)
Charles VI le Bien-aimé, le Fol/le Fou 1380年 ~ 1422年 シャルル5世と王妃ジャンヌ・ド・ブルボン長男
1393年より明らか精神障害で政務不能
シャルル6世王、狂気王) 1368年 ~ 1422年)
Charles VII le Victorieux 1422年 ~ 1461年 シャルル6世イザボー・ド・バヴィエールの5男
ジャンヌ・ダルクを見出す
百年戦争に最終的勝利
シャルル7世勝利王) 1403年 ~ 1461年)
Louis XI le Prudent 1461年 ~ 1483年 シャルル7世とマリーダンジューの長男
偏在する蜘蛛(l'universelle araigne)の方があだ名として有名
ルイ11世(慎重王) 1423年 ~ 1483年)
Charles VIII l'Affable 1483年 ~ 1498年 ルイ11世とシャルロット・ド・サヴォワの4男
ハプスブルクとの抗争勃発
子供がすべて逝しており男子くヴァロワの本流断絶
シャルル8世(温厚王) 1470年 ~ 1498年)

ヴァロワ=オルレアン公爵家(de Valois-Orléans)

王 (通称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
le Père du Peuple 1498年 ~ 1515年 シャルル6世ルイ・ドルレアンの孫
オルレアシャルルと3番の妃マリー・ド・クレーヴの息子(=シャルル5世の曾孫)
ルイ12世(民衆王) 1462年 ~ 1515年)

ヴァロワ=アングレーム伯爵家(de Valois-Angoulême)

王 (通称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
François Ier le Père et Restaurateur des Lettres 1515年1月25日 -
1547年5月31日
アングレーム伯シャルルドルレアンと、サヴォイアフィリッポ2世ルイーズ・ド・サヴォワの長男(=シャルル5世の玄孫)
ルイ12世クロード王妃とする
フランソワ1世(人文王にして回復者) 1494年9月12日 -
1547年5月31日
Henri II  1547年 ~ 1559年 フランソワ1世と王妃クロード・ド・フランス(ルイ12世)の次男。
ノストラダムスがその死(事故死)を予言?
王妃はカトリーヌ・ド・メディシス
アンリ2世 1519年 ~ 1559年)
François II 1559年 ~ 1560年 アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシスの長男
王妃スコットランド女王メアリー・ステュアートイギリス王位者)
フランソワ2世 (1544年 ~ 1560年)
Charles IX 1560年 ~ 1574年 アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシスの3男
グノー戦争の勃発
シャルル9世 1550年 ~ 1574年)
Henri III 1574年 ~ 1589年 アンリ2世王妃カトリーヌ・ド・メディシスの4男
反対勢により暗殺される
男子くヴァロワの正統は断絶
アンリ3世 1551年 ~ 1589年)

ブルボン朝

※「ブルボン」を名乗る血統は何度か異動があるもののいずれもカペー家の血統

王 (通称、別称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Henri IV le Grand(le bon roi Henri) 1589年 ~ 1610年 ルイ9世王の男系十世孫
ブルボンヴァンドームアントワーヌとであるナバラ女王ジャンヌダルブレ(フランスフランソワ1世のの子)の息子
バラ王としてはエンリケ3世
グノー戦争を終結させるも暗殺
アンリ4世大王(良王アンリ)百 1553年 ~ 1610年)
Louis XIII le Just 1610年 ~ 1643年 アンリ4世マリー・ド・メディシスの長男
宰相リシュリューを登用
王妃スペイン王女アンヌ・ドートリッシュ
ルイ13世(正王) 1601年 ~ 1643年)
 Louis XIV le Roi-Soleil 1643年 ~ 1715年 ルイ13世とアンヌ・ドートリッシュスペイン国王フェリペ3世の)の長男
王妃血縁を理由に孫(フェリペ5世)
スペイン王に就ける(スペイン継承戦争
ルイ14世(太陽王)百 1638年 ~ 1715年)
Louis XV le Bien-Aimé  1715年 ~ 1774 ルイ14世の曾孫、大王太子ルイの孫
ブルゴーニュルイとマリー・アデライード・ド・サヴォワの長男
「最王」は愛人の多さから
ルイ15世(最王) 1710年 ~ 1774年)
Louis XV 1774年 ~ 1792年(位) ルイ15世の孫
ルイ・フェルディナン王太子とマリージョゼフ・ド・サクスポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の)の三男
王妃マリー・アントワネット
フランス革命の勃発・位・処刑
ルイ16世百 1754年 ~ 1793年)
Louis XVII ※(1793年 ~ 1795年) ルイ16世マリー・アントワネットの次男
王党派が名上の王と見なす
タンプル閉死
(ルイ17世) 1785年 ~ 1795年)

フランス第一帝政 (ボナパルト朝)

皇帝 (別称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Napoléon Ier Bonaparte 1804年5月 -
1814年4月14日位)
1815年3月20日 -
1815年6月22日下)
コルシカ出身の軍人
投票により即位
皇后ジョゼフィーヌ・ド・ボーアルネ
のちオーストリア皇女マリーテレーズ
ナポレオン1世 (1769年 ~ 1821年)
Napoléon II 1815年6月22日 -
1815年7月7日
ナポレオン1世の長男
下の終焉にあたり便宜上即位
ナポレオン2世
ライヒシュタット
1811年 ~ 1832年)

王政復古 (ブルボン家)

王 (別称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Louis XVIII 1814年3月 -
1815年3月19日
1815年7月8日 -
1824年9月16日
ルイ・フェルディナン王太子とマリージョゼフ・ド・サクスポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の)の四男(=ルイ16世の次
ルイ18世
プロヴァン伯爵
1755年 ~ 1824年)
Charles X 1824年 ~ 
1830年8月2日位)
ルイ15世の孫
ルイ・フェルディナン王太子とマリージョゼフ・ド・サクスポーランド王(兼ザクセン選帝侯)アウグスト3世の)の五男(=ルイ16世の末
七月革命により位・亡命
シャルル10世
アルト伯爵
1757年 ~ 1836年)
Louis Antoine
1830年8月2日 シャルル10世と妃マリーテレーズ・ド・サルデーニュ(サルデーニャ王ヴィットーリオ・アメデーオ3世の)の長男
七月革命により、シャルル10世が退位文書に署名をしたのちも、妻マリーテレーズの強硬な反対により20分署名が遅れたため、この間王位に就いていたと見なされることがある。通称ルイ19世。
ルイ・アントワーヌ
 (アングレー)
1757年10月9日 -
1836年11月6日
Henri d'Artois 1830年8月2日 -
1830年8月16日
シャルル10世の次男ベリーシャルルフェルディナンと両シチリ王女マリーカロリーヌの長男
シャルル10世と叔父ルイ・アントワーヌが退位宣言に署名したのち、王位についていたと見なされることがある。通称アンリ5世。
アンリダルトワ 1820年9月29日 -
1883年8月24日

七月王政 (ブルボン=オルレアン家)

ブルボン=オルレアはルイ13世の次男(ルイ14世フィリップをはじまりとする分

王 (通称) 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Louis-Philippe Ier
(roi des Français)
1830年7月29日-
1848年2月24日位)
オルレア公爵フィリップ・エガリテの子
(=ルイ13世の男系五世孫)
二月革命により位・亡命
ルイ・フィリップ1世
フランス人の王)
(1773年10月6日
-1850年8月26日

フランス第二帝政 (ボナパルト朝)

皇帝 在位 (生年) 血縁関係・その他備考
Napoléon III 1851年12月2日-
1870年9月4日位)
ナポレオン1世の甥(の子)
第二共和政大統領ののちクーデターで即位
戦争に敗れ位・亡命
ナポレオン3世 1808年 ~ 1873年)

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1 ななしのよっしん
2012/05/06(日) 21:00:09 ID: 8OfhRGQRsi
ランスで戴冠した25人って誰だっけ
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2 ななしのよっしん
2015/06/20(土) 23:20:18 ID: Tk/vlPcbRP
初代のユーグ・カペーは別にして、ボナパルト以前の王が全33人いる中で

ベールアンリフィリップ・ルイ・ジャンシャルルフランソワ

の7つしか名前が出てこない。
しかもロベールは1人、フランソワは2人だけ。

ルイとシャルルアンリは、ラピュタドーラ一家メンバーとして出てきたっけな。
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3 ななしのよっしん
2016/08/30(火) 03:24:39 ID: 4sK6oXanrx
今もルイ20世とかアンリ8世とかナポレオン8世とか
皇帝は存続してるんだな
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4 ななしのよっしん
2016/08/30(火) 08:03:05 ID: XkrUs4Dchf
まあ、中央アジアヨーロッパの場合は特にそうだが、王国家って独立してるからね。

国家上級国民を有とする株式会社、王族は民に雇われてるプロの経営者一族って感じ。
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5 ななしのよっしん
2017/09/02(土) 17:30:33 ID: OuBZRhYwZo
そういえばなんでアンリ4世が出したユグノー認める命名前
ナントの「勅」なんだろ。
最近だと教科書で王に直ってるポイけど
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6 ななしのよっしん
2017/12/13(水) 12:32:39 ID: JjV5h6Tabs
が向こうで éditて訳されてるからじゃ? éditが勅と訳されたという事なんでしょう
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7 ななしのよっしん
2022/09/02(金) 19:08:29 ID: FPZvbc9/7N
英語版ラテン語wikipediaを見ると、ここの表で埋められてない場合も、ほぼ全ての王にあだ名がついてる
けどナポレオン1世とナポレオン3世には
何ゆえ? やっぱボナパルトは特別なんですかね?
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