フランス6人組とは、19世紀末から20世紀初頭に活躍した作曲家たちのことである。ストラヴィンスキーと同様新古典主義に属する。
概要
説明しよう!フランス6人組とは!
「実は元公使の秘書!手がけたジャンルは数多く!ダリウス・ミヨー!」
「一番の有名人!オシャレな曲なら俺に任せろ!フランシス・プーランク!」
「正直ほとんど幽霊部員!共産党活動も忙しい!ルイ・デュレ!」
「印象主義が大っ嫌い!機関車やラグビーも音楽にしちゃう!アルテュール・オネゲル!」
「6人組の紅一点!室内楽だけじゃなくて大作も聴いて!ジェルメーヌ・タイユフェール!」
「ぶっちゃけ映画音楽の方が有名!でもちゃんとクラシック音楽もやってます!ジョルジュ・オーリック!」
「「「「「「6人そろってGroupe des Six!」」」」」」
ドン!
以上だっ!
まじめな概要
20世紀前半とは、第二次世界大戦後の現代音楽とまではいかなくても、印象派や新ウィーン楽派といった新しい音楽が生まれ始めていた、という時期であった。それに真っ向から対立したのが、従来のクラシック音楽の音楽性を重んじつつも社会に根差した音楽を志向する、ドイツのクルシェネク、ヒンデミットといった新即物主義や、ロシアのストラヴィンスキー、イタリアのレスピーギ、そしてフランスの彼らといった新古典主義音楽であった。その特徴は簡潔で軽快な音楽性にある。
6人組はもともとパリ音楽院の同期生だったミヨー、オネゲル、タイユフェールの活動と、サティの「Les nouveaux jeunes」に加わっていたオネゲル、デュレ、オーリックの活動に、さらにサティに感銘を受けたプーランクが加わる形で一つのグループのようになった。
一方、ジャン・コクトーが著書「雄鶏とアルルカン」で反ワーグナーの立場を鮮明にしサティのような音楽を推し進めることを提唱。その影響を受けた音楽批評家のアンリ・コレがそのような音楽を作っていた彼らを「フランス6人組」と名付け、以降この名前が広まったのである。
とは言ったものの彼らはロシア5人組に比べても個々人の活動が多く、さらに音楽性もバラバラであり、全員そろって何か仕事を行ったのはたった1回だけである。というのも、彼らはあくまでもアンリ・コレがロシア5人組になぞらえてフランス6人組と名付けたにすぎず、別にグループを形成していたわけではなかったのだ。
またただでさえ20世紀前半の作曲家はマイナーで、さらにコンピレーションアルバムで取り上げられるのも彼らとは逆の路線だった印象派や新ウィーン楽派たちであるので、ぶっちゃけクラオタでも生涯や代表作を言えるものがレアという非常に知名度の低いものとなっている。
メンバー
- ダリウス・ミヨー(1892~1974)
- 事実上のリーダー的存在。多作家でおおよそどのジャンルの曲も書いている。
- パリ音楽院で学び、知り合いの詩人・クローデルがリオデジャネイロ公使になったときともにブラジルに行っている。
- サティやコクトーの協力の下フランス6人組を作り、新古典主義を推し進めた。一時期はアメリカで活動していた。
- フランシス・プーランク(1899~1963)
- ビニェスにピアノを、ケックランに作曲を学んだ。
- サティやラヴェルの影響下にあり、新古典主義ながらフランス風エスプリに富んだ作品を作っていった。
- ルイ・デュレ(1888~1979)
- もともとはシェ-ンベルクの影響の強い作曲家であった。
- フランス6人組自体は加わってすぐに脱退している(じゃあ何で6人組なのかとか突っ込まないように)。
- 共産党の機関紙『ユマニテ』で音楽批評欄を担当していた
- アルテュール・オネゲル(1892~1955)
- 両親はスイス人。6人組では積極的に反印象主義を推し進めた人物。
- 「交響的運動」で鉄道やラグビーを音楽として表現しようとするなど即物的な作風だったが、晩年はより古典的な音楽に回帰していった。
- ジェルメーヌ・タイユフェール(1892~1983)
- 唯一の女性メンバー。
- オペラやバレエ、映画音楽などにも手を広げたが、小品の方が演奏される機会が多い。
- ジョルジュ・オーリック(1899~1983)
- 平易な音楽を志向し、劇場音楽や映画音楽を多く手掛けていった。
- オペラ座やオペラ・コミック座の総監督を務めていたことも。
関連動画
関連項目
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