フランス6人組単語

7件
フランスロクニングミ
1.8千文字の記事
  • 1
  • 0pt
掲示板へ

フランス6人組とは、19世紀末から20世紀初頭に活躍した作曲たちのことである。ストラヴィンスキーと同様新古典義に属する。

概要

説明しよう!フランス6人組とは!

「実は元使の秘書!手がけたジャンルは数多く!ダリウス・ミヨー!」

「一番の有名人オシャレな曲ならに任せろ!フランシス・プーランク!」

「正直ほとんど幽霊部員共産党活動も忙しい!ルイ・デュレ!」

「印義が大っ嫌い!機関車ラグビー音楽にしちゃう!アルテュール・オネゲル!」

「6人組の紅一点!室内楽だけじゃなくて大作も聴いて!ジェルメーヌ・タイユフェール!」

ぶっちゃけ映画音楽の方が有名!でもちゃんとクラシック音楽もやってます!ジョルジュ・オーリック!」

「「「「「「6人そろってGroupe des Six!」」」」」」 

ドン

以上だっ!

まじめな概要

20世紀前半とは、第二次世界大戦後の現代音楽とまではいかなくても、印や新ウィーンといった新しい音楽が生まれ始めていた、という時期であった。それにっ向から対立したのが、従来のクラシック音楽音楽性を重んじつつも社会に根差した音楽を志向する、ドイツクルシェネク、ヒンデミットといった新即物主義や、ロシアストラヴィンスキーイタリアレスピーギ、そしてフランスの彼らといった新古典音楽であった。その特徴は簡潔で軽快な音楽性にある。

6人組はもともとパリ音楽院の同期生だったミヨー、オネゲル、タイユフェールの活動と、サティの「Les nouveaux jeunes」に加わっていたオネゲル、デュレ、オーリックの活動に、さらにサティに感銘を受けたプーランクが加わる形で一つのグループのようになった。
一方、ジャン・コクトーが著書「雄アルルカン」で反ワーグナーの立場を鮮明にしサティのような音楽を推し進めることを提唱。そのを受けた音楽批評家アンリ・コレがそのような音楽を作っていた彼らを「フランス6人組」と名付け、以降この名前が広まったのである。

とは言ったものの彼らはロシア5人組べても個々人の活動が多く、さらに音楽性もバラバラであり、全員そろって何か仕事を行ったのはたった1回だけである。というのも、彼らはあくまでもアンリ・コレがロシア5人組になぞらえてフランス6人組と名付けたにすぎず、別にグループを形成していたわけではなかったのだ。

またただでさえ20世紀前半の作曲マイナーで、さらにコンピレーションアルバムで取り上げられるのも彼らとは逆の路線だった印や新ウィーンたちであるので、ぶっちゃけクラオタでも生涯や代表作を言えるものがレアという非常に知名度の低いものとなっている。

メンバー

ダリウス・ミヨー(1892~1974
事実上のリーダー的存在。多作家でおおよそどのジャンルの曲も書いている。
パリ音楽院で学び、知り合いの詩人クローデルがリオデジャネイロ使になったときともにブラジルに行っている。
サティやコクトーの協の下フランス6人組を作り、新古典義を推し進めた。一時期はアメリカで活動していた。
フランシス・プーランク(1899~1963)
ビニェスにピアノを、ケックラン作曲を学んだ。
サティラヴェル下にあり、新古典義ながらフランスエスプリに富んだ作品を作っていった。
ルイ・デュレ(1888~1979)
もともとはシェ-ンベルクの強い作曲であった。
フランス6人組自体は加わってすぐに脱退している(じゃあ何で6人組なのかとか突っ込まないように)。
共産党機関『ユマニテ』で音楽批評欄を担当していた
アルテュール・オネゲル(1892~1955)
スイス人。6人組では積極的に反印義を推し進めた人物。
「交運動」で鉄道ラグビー音楽として表現しようとするなど即物的な作だったが、晩年はより古典的な音楽に回帰していった。
ジェルメーヌ・タイユフェール(1892~1983)
一の女性メンバー
オペラバレエ映画音楽などにも手を広げたが、小品の方が演奏される機会が多い。
ジョルジュ・オーリック(1899~1983)
易な音楽を志向し、劇場音楽映画音楽を多く手掛けていった。
オペラ座やオペラコミック座の総監督を務めていたことも。

関連動画

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 1
  • 0pt
記事編集 編集履歴を閲覧

ニコニ広告で宣伝された記事

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

フランス6人組

1 ななしのよっしん
2017/12/25(月) 00:05:56 ID: KdBGceyHxQ
まさかニコニコに6人組の記事があるとは…
作成者様ありがとうございます
👍
高評価
0
👎
低評価
0