概要
ウィリアム・アドルフ・ブグロー(William Adolphe Bouguereau, 1825~1905)とは19世紀フランスの美少女画家であり、アカデミズムを代表する画家。ブグロー御大などと呼ばれる。
美少女画家ではあるが、その辺のイロモノ絵描きではない。
当時のフランス美術界において、画家としてのエリート街道を驀進し、美術界の文字通り頂点に君臨、画壇において絶大な権力を誇っていた超大物画家である。(美少女画家なのに)
また、美少女ばかり描いてて名が売れたのではなく、真面目にノンケ画家の修業をした後、偉くなり誰も文句が言えなくなった後で、趣味全開で美少女ばかり描いていたというから始末に負えない。
ブグロー御大は当時の仏画壇の超大物であり、大人気作家であった。それにも関わらず、今日の知名度はあまり高くなく、今や19世紀フランスといえば猫も杓子も印象派という具合に認知されているがこの理由は後述する。
その華麗なる作品
現実の美少女
ブグロー御大がもっとも多く描いたのが田舎の少女を題材とした作品である。
本当にこんな絵ばっかり描いていたのだが偉い巨匠なので誰も文句は言えなかった。
靴下へのこだわりに並々ならぬ情熱を感じる。
神話の美少女
西洋においては、ギリシャ神話、ローマ神話を元ネタとして多くの絵画が描かれた。
ブグロー御大も例にもれず多くの神話画を残した。何故なら神話画ならば裸体を堂々と描けるからである。
マネの草上の昼食事件で見られるように当時西洋美術では現実の裸婦はアウトであったが神話ならばセーフであった。とはいえ19世紀くらいになってくると、その辺も随分緩くなっていて、リアルヌードもわりと描かれていたりするし御大も描いていた。
草上の昼食の場合はシチュエーションが破廉恥だったことが問題になったようだ。 和姦モノはOKでも痴漢モノはアウトとかそういうようなことである。
まあ「リアルヌードはゲス、しかし神話ヌードは高尚」というレギュレーションは形骸化しつつも一応存在していた。所謂ダブルスタンダードである。
アモールとプシュケ
どこかで見たことがあると思ったあなた、多分それはサイゼリヤである。
右側の女児の羽が蝶の羽になっているのが特徴。この絵は天使の絵として紹介されることがあるが、正確には神である。
元ネタはギリシア神話及びローマ神話、左がアモール(=エロース=クピードー)という神で右がプシュケという元人間の神。プシュケが描かれる場合は蝶の羽をつける場合が多々ある。先に述べたようにプシュケは元は人間の娘であったが神の酒を飲んだことにより神となった。つまり、人から神への変身を蛹から蝶への変態と重ねているのだろう。
神話の方は成人(神)の男女なのだがブグロー御大にかかれば幼児化してしまう。
おわかり頂けるだろうか?
冷静に考えればただのペドヌードであるにもかかわらず、羽というアタッチメントを装着させることで高尚な神話画へとコンバートできることがここで示された。
ヴィーナスの誕生
これは美少女というよりは美女であるが、素人目にも御大の実力がはっきり伺える作品である。オリジナルはパリのオルセー美術館にあり、サイズは3m×2.2mと等身大の大きさ。
描かれた当時にフランス政府によって買い上げられた。
ヴィーナスといえばボッティチェリのアレが有名であるのだが、このヴィーナスというネタは西洋絵画において繰り返し、繰り返し描かれた。描かれすぎて
「またヴィーナスか・・・」
とか言われてたらしい。
「裸婦が描きたきゃヴィーナス描いとけ」というのが絵画界のお約束であったようだ。
その他
いかなブグロー御大といえども、美少女画以外を描かなかったわけではない。
これは御大が25歳のとき、駆け出し時代の作品。 元ネタはダンテの『神曲』。
こういうガチムチマジメな作品も描く。きっとまだ名が売れてなかったから趣味全開というわけにはいかなかったのだろう。
アカデミズム
美術史におけるアカデミズムとは芸術様式、スタイルを示す言葉で、画家をカテゴライズする際に用いられる印象派、象徴主義とかそういうものの一種である。
この言葉はその名のとおり、当時のフランス芸術アカデミーという国立の芸術機関の規範に沿った、技巧を重視し理論的な画面構成を行う伝統的保守的なスタイルを指す。系統的にはアングルに代表される新古典主義の直系子孫であるが、ロマン主義の流れも汲んでいる。ブグロー御大が活躍した当時の芸術の本流であった。
印象派やそのシンパの連中に言わせれば反動的体制側芸術といったところであろう。
ブグロー御大は、芸術アカデミーを構成する教育機関、エコール・デ・ボザール(美術学校)の教授であった。(美少女画家なのに)
まさにアカデミズム画家の権化のような人物である。
印象派?帰っていいよ。
御大は美に対する確固たるな信念をもっており、その枠から外れたものを容赦なく排撃した。
19世紀後半から、マネ、セザンヌといった今でいう印象派の画家達が登場してくるのだが、彼らの絵は御大の美の基準からどうしようもなく外れていた。 実際、ブグローをはじめ、ジェロームやカバネルといったアカデミズムの画家達は技巧、完成度という点では絵画史上においてその極致に到達していたであろうことは衆目の一致するところである。
今日でも「上手いが面白くない」とか「通俗的すぎる(キリッ」とかいう批判はあっても「下手」だという意見は聞いたことがない。
そんなブグロー御大にとって印象派の連中が描いた下書き以下のシロモノを美として認めることなどできなかった。
さて当時、画家として名を成すにはサロン(官展)という展覧会で作品を展示されることが一つの条件であった。そしてこの展覧会は芸術アカデミーの主催である。
もうおわかりであろう、アカデミーの偉い人でサロン審査員の御大は印象派の連中の応募作品をヒャッハーとばかりに落としまくったのだ。
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印象派 ││ /::::::::::::::::::::::::::::::i l | l i:::::::ミ. だ .し の
││ /:::::::::,,,-‐,/i/`''' ̄ ̄ ̄ `i::;|.. あ た 糞
.______」..│ /:::::::::=ソ / ヽ、 / ,,|/. っ の 絵
f ),fヽ,-、 ┌┘ | 三 i ニ`-, ノ /、-ニニ' 」') !! は.
i'/ /^~i f-i |三 彡 t ̄ 。` ソ ハ_゙'、 ̄。,フ | ). を
,,, l'ノ j ノ::i⌒ヽ;;|  ̄ ̄ / _ヽ、 ̄ ゙i )
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マネ、セザンヌ、ルノワールなどの落選させられた画家たちは
「畜生、あの野郎、いつか殺してやる・・・」
と、恨み骨髄であったという。
略歴
1825年11月30日フランス、ラ・ロシェールにて生まれる。
未来の大画家だけあって、やはり幼い頃から絵が上手かったようだ。
画家となることを商売人の父親には反対されるが、母親は理解を示したという。
1846年 エコール・デ・ボザール入学
国立美術学校に入学。入試の成績は100人中99位・・・。
なんかギリギリなんスけど・・・・・。
きっと何かの間違いですよね!?
1850年 ローマ賞 受賞
やはり入試の成績は何かの間違いだったようだ。やればできる子なんです。
ローマ賞は芸術アカデミーが主催する芸術家向け新人賞。一等になるとルネサンス芸術の聖地たるイタリア留学が与えられる。
受賞すれば将来は安泰!!とは限らないがかなりの箔がつくのは間違いなく、若き芸術家が切望する狭き門だった。 カバネルは1845年に受賞、かの巨星ドミニク・アングルも1800年の受賞者である。しかし、ドラクロワなどは何度も挑戦するがとれず終い。つまり取れなくても巨匠になる人は巨匠になるのである。
また、実は一等賞じゃなくて次点だったのだが、特例によりイタリア留学が認められた。ちなみに一等賞をとったのはポール・ボドリー。
この時ブグロー御大25歳。これから4年間、29歳までイタリアで学生生活である。将来はほぼ約束されているので、この歳で学生でも大丈夫なんだからね!!
1857年 サロンで一等賞
54年にパリに帰ってきた御大は地道に画家としてのキャリアを積み、この年のサロンにて一等賞となる。これで完全に一流画家の仲間入りである。
また、この年に長女アンリエット誕生、2年後の1859年に長男ジョルジュが誕生、4年後の1861年には次女ジャンヌ・レオンティヌが誕生する。
この間仕事も順調でまさに順風満帆の人生といったところ。
1866年 入籍
相手は先述の3人の子の母親、マリー・モンシャブロン。
え、今まで入籍してなかったんですか?
1872年 二女死去(11歳)
1875年 長男死去(16歳)
気の毒にも立て続けに幼い子供たちを亡くしている。
御大が子供の絵を多く描いていたという事実は、このようなことの影響も大であったろう。決してロリコンというわけではないのだ。決してロリコンというわけではないのだ。(大事なrya
1876年 フランス芸術アカデミー会員となる
フランス芸術アカデミーは国立学術機関たるフランス学士院を構成する5つのアカデミーの一つ。(他は科学とか文学とかそんなの)
画家に用意された椅子は当時14席で任期は終身。ゆえに会員の物故により欠員ができなければ新会員の選出は行われない。
ちなみに2歳年上のカバネル先生は1863年に会員になっている。カバネルすげえ。
この時御大51歳である。
1877年 三男死去(1歳)、妻死去
前年に生まれたばかりの三男と、長年連れ添った妻が逝去する。
1881年 フランス芸術家協会 絵画部門長となる
1900年 二男死去(31歳)
これで長女以外はみんな親より先に死んでしまったことになる。
画壇においては大成功だった御大も家庭的には決して順風なわけではなかった。
1905年 ラ・ロシェルにて没 享年80
死後の評価
生前はフランス美術界の頂点、すなわち世界の美術界のトップに君臨したブグロー御大であるが、その死後は全くと言っていいほど彼と彼の作品は等閑視されていた。
あまつさえ彼の属していた(と見做された)アカデミズムというカテゴリーは20世紀美術界においては罵倒と同義となっていたのだ。御大亡き後、天下をとった印象派の陰謀であることは言うまでもない。
かの佐伯祐三が、描いた絵をヴラマンクというフォービズムの巨匠に見せたところ
「アカデミズムの手先のおフェラ豚め!!」
と一喝され、ボコボコにされたという小話はあまりにも有名である。そうアカデミズムとは殆ど売国奴扱いなのであった。
そんなこんなで20世紀を通じアカデミズムの画家たちは存在を無視され、教科書や美術史から抹殺されていくことになる。このため、その実力と実績に比べて現在では不当なほど知名度が低い。印象派の陰(ry
ただ、近年は昨今の萌えブームの影響もあり、御大をはじめとするアカデミズムの画家たちの再評価が進みつつあるという。一応言っておくと、美少女ばかり描いていたのは御大だけで、他のアカデミズムの画家たちは専らマジメな絵を描いていた。
アカデミズム=美少女ではないことは注意が必要である。
さすがです御大。
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