ブルボン朝(1589~1792,1814~1830)とはフランスの王朝である。
概要
ユグノー戦争の最中にヴァロワ朝を受け継いで成立した近世フランスの王朝。アンリ4世からルイ13世、ルイ14世、ルイ15世、ルイ16世、ルイ17世まで6代、復古王政でも2代続いた。
ルイ14世の代には絶対王政と呼ばれるフランス王国の全盛期を迎えるも、フランス大革命で王朝は瓦解する。その後、王政復古でフランスに返り咲くが7月革命で再び放逐される。1848年の2月革命によってオルレアン家の統治も終わりを迎え、西フランク王国成立以来1000年以上続いたフランス王政はここに終わった。
なお、ルイ14世は1700年に自身の孫をスペイン王フェリペ5世として即位させ、スペイン=ブルボン朝(ボルボン朝)を成立させている。スペインに渡った同王朝は、300年以上経過した2018年現在、スペイン王国でなおも王家・王朝として存続し、立憲君主として君臨し続けている。
大王 アンリ4世とユグノー戦争の収束
3アンリの戦いを乗り越えて『フランスかつナヴァラ国王』としてブルボン王朝の初代仏王になったアンリ4世であったがその前途は多難であった。
ユグノー戦争はいまだ継続中で、プロテスタントのアンリに敵対するカトリック勢力は、彼の叔父であるブルボン枢機卿をシャルル10世としてフランス国王として推挙していた。そこでアンリは自らの王位を確定させるために敵対する都市を一つ一つ攻略していかなければいけなかった。
頑張りの甲斐があったのか、やがて事態はアンリへ好転していく。シャルル10世死後にカトリック勢力は後継者の指名にまごついていた。また宗教対立の平和的解決を目指すポリティーク派の支援もアンリの大きな力となった。1593年にはアンリはカトリックに改宗し、大義名分を失った反アンリ4世のカトリック勢力は瓦解に向かった。翌年アンリはシャルトルで成聖式を行い、名実共にフランス国王として認められる。最終的にユグノー戦争は1598年に信教の自由を条件付きで認めるナントの勅令で新旧教の和解が成立した。36年にもわたる宗教戦争はこれで一応の終わりを迎えた。
ようやく平和を取り戻したフランスでアンリ4世は農村へ減税を施すなど国内安定化政策を進める。。更にアンリはパリの開発を進め、その一方でシュリーを財務卿として国家財政の再建に当たらせた。アンリはブルボン家の王家としての正当性を高めるために嫡男にルイとつけてカペーの血筋を強調した。以後ブルボン朝の王はすべてルイとなる。このようにアンリ4世はイメージ戦略に熱心で、自らも死後に『人民の父』と呼ばれる人気王になった。
盤石であるかのように思われたフランス王宮であったが、かつての宗教政策で恨みを買っていたのだろうか、1610年、アンリ4世はカトリックの男に暗殺されてしまう。犯人には拷問が加えられたが、その背後関係は明らかにされなかった。
正義王 ルイ13世とリシュリュー
アンリ4世の後を継いだのはわずか8歳のルイ13世であった。幼王を補佐するための摂政には母親のマリ・ド・メディシスが就任したのだが、マリはルイが成人した後も政権を息子に渡さなかったため、母子の間に深い対立が生じてしまった。ついにはマリは大貴族を糾合して息子に戦いを挑むも、最終的には和解している。
このとき二人の間を取り持ったのが、後にフランスの名宰相となるリシュリューである。リシュリューは最初はマリの支配下にあったが後にその影響を脱する。宮廷で権力を握ったリシュリューは自らに敵対する大貴族への対応を迫られた。彼はまず決闘禁止令をだし、更に貴族から不要な武器を回収した。現在の日本でもそうだが、近代国家ではあらゆる理由においても武力を用いて良いのは公権力(警察、軍隊)に限られている。しかし当時のヨーロッパでは自分の身は自分で守るという自力救済が当たり前であった。リシュリューは武力を国家が独占することによって、公権力の増長を図ったのである。
もう一つリシュリューの頭を悩ませていたのは国内のプロテスタント問題であった。当時のヨーロッパは政治と宗教が密接に結びついており、安易に信教の自由を与えることは統治機構の崩壊を意味していた。よってリシュリューはプロテスタント弾圧に踏み切ることとなる。イングランドが仏内のプロテスタント保護を名目に軍隊を派遣してくると、リシュリューはルイ13世と共に出陣。プロテスタント都市を屈服させて、ナントの勅令で認められたプロテスタントの権利の縮小を進めた。
1618年にドイツで30年戦争が始まるとフランスは新教サイドでこれに介入する。国内でプロテスタントを弾圧していたフランスがなぜプロテスタント側に立ったのかというと、ハプスブルク家が嫌いだったからである。最初は新教側への金銭的援助のみだったのが1635年にはフランス軍はハプスブルク家と直接戦争に突入している。軍隊には大量の金が湯水のように使われ、増税の嵐がフランス民衆を苦しめた。大規模な農民一揆や反塩税一揆も発生したがリシュリューはこれらの反乱を軍隊を使ってすべて鎮圧した。
太陽王 ルイ14世の絶対王政
1642年にリシュリューとルイ13世が相次いで亡くなると、ルイ14世が即位する。「朕は国家なり」と豪語した(と言われる)太陽王ルイの治世下で、カペー朝以来のフランス王家は絶対王政というピークを迎える。
とはいえフランス王に即位したばかりのルイは4歳の児童であった。そこでフランス政権を動かしたのはリシュリューの後継者となったマザランであった。マザランはリシュリューの政策を踏襲したが、その頃には既に大貴族たちの摂政への不満が臨界点を迎えつつあった。1648年にはまずパリ民衆が蜂起しフロンドの乱が始まった。リュエイユの和約でこれを収束させると、今度は貴族たちが反マザランの反乱を起こしたのである。マザランはドイツに亡命。反乱軍のトップであるコンデ親王は臨時政府をたてたが、彼の軍隊がパリで乱暴狼藉を働いたため反乱政権は短命に終わった。
フロンドの乱が終結してパリに帰ったマザランが1661年に死亡するとついにルイ14世の親政が始まった。60年代から70年代にかけてフランスは絶対王政への道を突き進んでいく。
まずルイは国政の最高意思決定機関である最高国務会議を組閣し、王族や大貴族を排除して代わりに法服貴族を置いた。その中心はル・テリエ(陸軍卿)、リオンヌ(外務卿)、コルベール(財務総監)の三人組と呼ばれる者たちである。特にコルベールは強い行政権を持ち、国内に金銭を集める重商主義をとった。
その他にもルイは多くの内政改革を行っている。
- 民事王令、刑事王令を発布し、それまで各都市に任せていた法律を、その一部ではあるが王領内で統一させた
- パリに警視総監職をおいて治安維持に務めた
- 救貧院を設置して、それまで教会に任せきりになっていた社会保障を民衆に与えた
- 軍隊改革によって近代的なフランス軍を作り上げた
その一方で国内の宗教の統一を目指したルイは、信教の自由を保証していたナントの勅令を廃止してしまった。これによって国内のプロテスタントが大量に亡命し、フランス経済に打撃を与えた。
対外的にはハプスブルク家との抗争にルイは熱をあげた。30年戦争が終わってもスペインハプスブルク家とフランスは戦争を続け、1659年のピレネー条約でようやく一時の平和が訪れた。この条約でルイはスペインの王女マリ・テレーズと結婚することになったのだが、ここでもまた一悶着起きる。スペインは多額の持参金を渡す代わりにマリの持つスペインでの権利の一切を放棄させる約束をルイと結んでいたのだが、戦争で疲弊していたスペインはこの金を支払うことができなかった。こうなるとマリがスペインに持つ領土は夫の私のものだといってルイ14世はスペインへと侵攻する。フランスの強大化を恐れたイングランド、オランダ、スウェーデンが仲介に入り1668年にアーヘン条約で和解し、フランスは豊かなフランドル地方を確保することができた。
時に17世紀は大航海時代である。フランスは先行するイングランドとオランダに追いつくべく、オランダに戦争をしかけた(オランダ戦争)。後にオランダ側に神聖ローマとスペインが参戦したため戦火は拡大。1678年のナイメーヘン条約でフランスは更に領土を拡げることに成功する。
1686年にはフランスがプファルツの継承権を主張し、出兵を企てたため、反フランス諸国で形成されたアウクスブルク同盟との間にプファルツ継承戦争が勃発した。フランスはこの戦争で西ヨーロッパのほぼ全勢力を相手に戦うこととなり、1697年のライスワイク条約でフランスは地味豊かなロレーヌ地方を失うこととなった。
しかしルイはこれに懲りる事もなくスペインで戦争の火種を燃やす。スペイン・ハプスブルク家がカルロス2世で断絶すると、次王にはルイ14世の孫のフィリップが指名された。しかしこれ以上のフランスの強大化を防ぎたい神聖ローマ、イングランド、オランダがハーグ同盟を結び、ここにスペイン継承戦争が始まった。戦火は海外植民地にも拡大し、最終的にユトレヒト条約で争いは終結した。この条約でフィリップのスペイン継承、つまりスペイン・ブルボン朝が国際的に認められたが、フランスは海外植民地のいくつかをイギリスに奪われることとなった。
ルイ14世の治世は確かにフランス絶対王政と呼ばれる黄金期を迎えたが、それでも中国の専制君主や現代フランスのような国家にはほど遠いものであった。フランス王権は国内においても数々の中世的制約をいまだ持ち続けたのである。にも関わらずルイが輝かしい王権を持つとされるのはひとえに絵画などの芸術を通した彼のイメージ戦略の勝利といえる。
最愛王 ルイ15世と最後の王 ルイ16世
1715年にルイ14世が死ぬと、次代フランス王にはルイの曾孫にあたるルイ15世が即位した。新王ルイは5歳だったため、宰相にはオルレアン公フィリップが就任した。フィリップはルイ14世の専制主義とは対照的に大貴族の復権を目指した多元会議制(ポリノシティ)と呼ばれる評議会政治を構築したが、上手くいかず結局ルイ14世システムに戻ってしまった。
当時のフランスはルイ14世の数々の戦争によって財政は危機に陥っていた。そこでフィリップはスコットランド出身の銀行家ジョン・ローに金融改革を行わせたが、これもバブルが崩壊し破綻してしまった。しかし彼が作ったローのシステムと呼ばれる経済政策は財政赤字と個人債務の縮小の効果もあった。
この時期のフランスは対外的には1733年にはポーランド継承戦争、1740年にはマリア・テレジアに対してオーストリア継承戦争を戦っている。後者はインドや新大陸での英仏植民地戦争にも発展し(ジョージ王戦争)、これ以降、欧州の戦争は欧州だけに留まらず、世界を舞台に繰り広げられていく。英仏の植民地戦争はその後も断続的に続き、ナポレオン戦争に至るまでの英仏間の争いは第二次百年戦争とも呼ばれる。
プロイセンがイギリスの支援を得てオーストリア、ロシアと7年戦争に突入すると、フランスも後者側でこれに参戦しアメリカ大陸でイギリスと戦った(フレンチインディアン戦争)が完敗する。1763年のパリ条約ではフランスはカナダとルイジアナ植民地を喪失してしまった。植民地競争に破れたフランスと対照的にイギリスは黄金期を迎えつつあり、新興国ロシアやプロイセンの躍進もあり、国際政治におけるフランスの凋落は誰の目にも明らかだった。
ルイ15世が死亡すると、後を継いだのはルイ16世であった。新王ルイはただでさえ20歳と若い上に、彼は王太子であった兄が急死して不意に即位したため、帝王学を身につけておらず無能とは言わないまでも覇気に欠ける人物であった。彼を補佐したのはモールパ伯であった。伯は財務総監にテュルゴーをつけて、穀物取引の完全自由化の王令を発布させた。いわゆるレッセフェーレ(自由放任主義)で穀物に適正価格をつけようとしたのだが、翌年には穀物価格は暴騰し、小麦粉戦争と呼ばれる大規模な食料暴動が各地で起こった。
更にテュルゴーはナントの勅令を復活させて信教の自由を再保証した一方で、フランスの財政健全化のために全身分への単一地租を提案したが、凄まじい批判を浴びて1776年にルイはテュルゴーを罷免せざるをえなくなった。
1775年にアメリカ独立戦争が勃発するとフランスはイギリスへのイヤがらせのためにアメリカを支援した。更には実際に軍隊まで送ってヨークタウンの戦いの勝利に貢献した。しかしその軍費はフランスに大きな負担として伸し掛る。ルイは貴族や聖職者への課税を求めるが強い反対にあい、優柔不断なままに失敗する。そして戦費捻出は第三身分への増税にすべて転化され、民衆は塗炭の苦しみに喘ぐ事となった。かくしてフランス大革命発生の社会的条件は既に整いつつあったのである。
国王一覧
- アンリ4世大王(Henri IV le Grand 1589-1610)
- ルイ13世正義王(Louis XIII le Juste 1610-1643)
- ルイ14世太陽王(Louis XIV Roi-Soleil 1643-1715)
- ルイ15世最愛王(Louis XV le Bien-Aimé 1715-1744)
- ルイ16世(Louis XVI 1774-1792)
- ルイ17世(Louis XVII 1792-1795)
- 復古王政
関連項目
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