この記事では実在の戦艦について記述しています。 この戦艦を元にしたSTGアプリゲーム『アズールレーン』に登場するキャラクターについては 「プリンス・オブ・ウェールズ(アズールレーン)」を参照して下さい。 |
プリンス・オブ・ウェールズ(戦艦)とは、1941年1月に就役し、第二次世界大戦で活躍したイギリス海軍の戦艦。イギリス王室の王太子が名の由来である。名前が長すぎるため、PoWと略されることが多い。
概要
プリンス・オブ・ウェールズ(戦艦)はキング・ジョージⅤ世級戦艦の二番艦。
4連装35.6cm砲2基、2連装35.6cm砲1基、合計10門の主砲を持ち、速力も戦艦としては高速な28knを記録。さらに非公式では30kn以上の速力を記録している。
これは、長門が2連装41.0cm砲4基の主砲8門、最高速度25kn。ビスマルクが2連装38.1cm砲4基の主砲8門、最高速度29knであることを考えれば、主砲の威力では劣るものの艦隊決戦における能力では他の戦艦にひけをとらない能力であった。
しかし4連装砲や射撃管制システムの複雑さから、デンマーク海峡での対ビスマルク戦では故障に悩まされることとなった。
就役~ビスマルク迎撃作戦
1936年7月29日、イギリス海軍はキャメル・レアードとバーケンヘッド両造船所に船体と機関を発注。1937年1月1日、一番艦キング・ジョージV世と同時に起工し、1939年5月3日に「プリンス・オブ・ウェールズ」と命名され進水した。装備や砲を船体に装着する艤装作業中、ドイツによる爆撃を受ける。これにより艤装作業が遅れ、1941年1月の就役後も、一部装備やシステムが整っていない状態で、第二次世界大戦の戦火に投入されることとなった。3月31日にようやく竣工し、本国艦隊に編入された。
初戦闘は1941年5月24日、デンマーク海峡における対ドイツ戦艦ビスマルク戦であった。デンマーク海峡の制海権を掌握しイギリスへの通商破壊をもくろむドイツ海軍に対し、イギリス海軍はPoW他、巡洋戦艦フッドと共に砲撃を開始する。この時のPoWは艤装が済んでいない部分もあり、作業員を乗せた状態で出撃していた。PoWはドイツ戦艦ビスマルクと、僚艦の巡洋戦艦フッドは重巡プリンツ・オイゲンと干戈を交えた。
しかし、戦闘の結果はイギリス軍の敗北だった。PoWの4連装主砲の1基が斉射後に故障、苦しい戦いを強いられる。そこへビスマルクの猛攻を受け、381mm砲弾7発を喰らう。操舵室にも直撃弾を受け中破し、航海長が戦死。その後ビスマルクを中破に持ち込むも燃料不足により、ビスマルク追撃は急遽編成された迎撃艦隊に後を任せることとなる。尚、この戦闘で僚艦であった巡洋戦艦フッドはプリンツ・オイゲンに敗れて轟沈。イギリスやアメリカと言った連合国に衝撃を走らせることとなった。
修理~ハルバード作戦
対ビスマルク戦の後、PoWはイギリス本国にて6週間の修理を受ける。
その後、1941年8月14日にアルゼンチンにて米英による大西洋憲章をPoW艦上で締結。日独から世界を開放し、貿易の自由を宣言した。ところがこの憲章は白人だけが得をする人種差別的なものだったため、日本はこれをきっかけに大東亜共栄圏の思想を主張することになった。
1941年9月、PoWは輸送船団護衛を目的としたハルバード作戦に就く。戦略上重要な作戦であり、地中海の入口ジブラルタル海峡からイタリア近海のマルタまで、輸送船団を戦艦3隻空母1隻の重武装船団で護衛。途中、イタリアの索敵機に発見されるも、イタリア艦隊が会敵に失敗。少数の雷撃隊による攻撃を受けたほか、損害なしでイタリアのマルタに無事到着した。
東洋艦隊派遣
1941年10月、日本が参戦間近であると判断し、PoWを含む最新鋭の艦船をインド沖に派遣することを決定した。チャーチル首相が派遣を決めたというのが主流だが、一方で誰が決めたのか分からないとするホラーな説もある。ロイヤルネイビーを持つ海軍国家イギリスと言えど、東洋への艦隊派遣は旧式の艦船が主であり、最新鋭艦であったPoWは東南アジア制圧をもくろむ日本にとって大きな脅威となった。
10月25日、イギリス本国からPoW、巡洋戦艦レパルス、駆逐艦エンカウンター、ジュピターが出港した。しかし、派遣されるはずであった空母インドミタブルは出港前に西インド諸島で座礁し、遅れる事に。東洋艦隊は想定よりも少ない戦力補充となった。中継点のインド洋セイロン島で駆逐艦エレクトラとエクスプレスが合流し、12月2日に東洋の一大拠点シンガポールに到着した。現地司令官のパーシヴァル中将や住民から盛大に歓迎され、岸壁に停泊。PoWとレパルスの東南アジア回航は大々的に宣伝され、南方作戦を企図する日本軍を威圧した。2隻の戦艦が出現した事は日本軍の頭痛の種となり、常時シンガポールを監視。矢面に立たされるであろう南遣艦隊に戦力を集中し、そのシワ寄せでダバオ攻略が延期になるなど作戦に多大な影響を及ぼしている。PoWとレパルスを基幹とする艦隊は「Z部隊」と命名され、侵攻してくるであろう日本軍を粉砕する任務が与えられた。あわよくば日本本土に逆侵攻する事も計画されていた。
そして12月8日、日本は連合国に対して宣戦布告を行う。シンガポールに停泊していたPoWには司令官トーマス・フィリップス中将が座乗し、夕方にZ部隊を率いて出港。マレーに上陸中の日本船団を撃滅するため勇躍進撃した。しかしシンガポール基地は日本軍の爆撃にさらされており、フィリップス中将が航空支援を求めたにも関わらず戦闘機を出し渋った。これがPoWの命運を分けてしまう。
対する日本側は航空偵察でPoWとレパルスの出撃を知り、緊張が走った。新鋭艦PoWは非常に強大で、南遣艦隊の戦艦金剛と榛名では歯が立たない。長門であれば主砲口径の大きさから火力面では対抗できるが、速力はPoWの方が上で、しかもこの時長門は瀬戸内海にいた。つまり日本側には対抗のすべが無かったのだ。このため戦艦榛名艦内では悲壮感が広がり、7隻の重巡と水雷戦隊による絶望的な夜戦まで企図された。それほどまでにPoWは脅威だった訳である。
マレー沖海戦
詳しくは→マレー沖海戦
1941年12月10日、宣戦布告のわずか3日後に日本は、陸軍を援護する目的で海上艦船への攻撃を敢行する。
日本海軍は戦艦金剛、榛名の2隻を中心とする第二艦隊を北方に配置していたが、位置的に攻撃は間に合わないと判断された。一説にはPoWとの砲撃戦は圧倒的不利として、射程圏ぎりぎりまで接近していたものの砲撃を行うことはなかったとされる。
対しイギリス海軍は、日本海軍は金剛のみの戦艦1隻を中心する艦隊と予想し、会敵次第砲撃を開始する予定であった。しかし、イギリス海軍の予想とは異なり、日本海軍は九六式陸攻や一式陸攻といった攻撃機による爆撃を開始。POWには対空兵装があったものの、故障や命中力不足などにより日本機の迎撃に失敗。
日本攻撃機は250kg爆弾や500kg爆弾及び魚雷を投下、爆弾数発と魚雷4本がPoWに直撃した。
その後PoWは徐々に速力を落とし左舷より浸水、艦長は総員退避命令を出したものの、艦長や東洋艦隊司令長官トーマス・フィリップス大将は艦に残り、ともに海中へと没した。
沈没のその後
PoW沈没後、イギリス駆逐艦エクスプレスが乗員の救助にあたったが、イギリス側は大将や大佐といった将校、また840名の戦死者を出す大損害を被った。
しかし、日本の攻撃機は救助中のエクスプレスを攻撃することはなく、日本は人道的判断を行ったと称賛されることになった。その後攻撃機の乗組員より、ほとんどの機が爆弾を使い果たしており、単純に攻撃できなかっただけであったと判明し、イギリス側が落胆したというエピソードがある。その後、PoWが沈没した地点に戦死者を弔う花束を投下している。
また日本海軍は、PoWと僚艦であった巡洋戦艦レパルスをサルベージし、日本海軍の艦隊に組み込む計画もあったが、これは頓挫している。
現在PoWはマレー沖の海底68mに完全に横転している状態であるが、大きな爆発もなく比較的艦の形が原形をとどめているという。
大艦巨砲主義の終焉
PoWは、世界で初めて航空戦力だけによる攻撃で沈没した戦艦となった。
過去にビスマルクが攻撃機の雷撃によるスクリュー損傷を起こしているが、あくまで攻撃機は艦隊決戦の補助戦力とみなされ、PoWが沈没するまでは砲による艦隊決戦を想定した大艦巨砲主義が、世界中の海軍のドクトリンであった。
しかしマレー沖海戦や、同様に攻撃機によって行われた真珠湾攻撃の結果を重く見た米英連合国は、空母艦載機を主戦力とした航空主兵主義へとドクトリンを転換。日本も航空戦力の重要性を認識することとなった。
現在は核抑止による相互破壊確証にドクトリンが転換しつつあるが、それでも航空主兵主義が世界中の軍隊の教義となっている。
余談
ちなみに日本によってPoWが轟沈させられたと聞いて一番ショックを受けたのはチャーチルだが、一番怒り狂ったのはヒトラーだったという話がある。彼は日本がPoWを轟沈した事実に怒り、報復のためにイギリスに援軍を送るとさえ言ったらしい。
嘘か誠かはさておき、ヒトラーがアーリア人至上主義者である以上、白人至上主義者でもあり劣等民族である日本人が白人のイギリスを打ち負かした事に我慢ならなかった事、ヒトラーはそもそもイギリスに理解があり開戦寸前までイギリスだけとは戦争を避けようとしていた事が背景に考えられる。
一方で空母の重要性を認識し、工事が中断していたグラーフ・ツェッペリンの建造再開を命じた。レーダー提督も主力艦は航空攻撃で簡単に失われると悟り、マレー沖海戦の直後に行われたツェルベルス作戦では航空支援を要請している。
関連項目
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