ヘーゲル国法論批判単語

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『ヘーゲル国法論批判』[1]とはマルクス1844 年に新婚旅行先のクロイツナッハで書いた[2]ヘーゲルの『法哲学』に関する批判の書である。

概要

本書のテーマは「近代市民社会において、君国家)と議会市民はいかなる関係にあるべきか?」、あるいは「いかに私欲を持つブルジョワを、益を追及するシトワヤン[3]にすることができるか」ということにある。ここでは共産主義に出会う前の急進的民主主義マルクス[4]の思想が伺える。

本書ではヘーゲル『法哲学』の第三部第三章「国家」の第一節「法」の中の更に第一部門「それ自身としての内体制」が批判になっている。「それ自身としての内体制」の部門は「君権」「統治権」「立法権」の三項から構成されており、ヘーゲルは当時のプロイセン政治状況を鑑みて、「君権」では君の支配の原理を考察し、「統治権」では君による統治を補佐する官僚の原理を考察し、「立法権」では君による立法を補佐する身分制議会の原理を考察する。この君導の国家システムに対して、マルクス民主主義者としての立場から逐次的に批判を加えるのである。

19世紀前半のヨーロッパ資本主義社会が熟しきっておらず、とりわけプロイセンは、英のようにブルジョワ革命を経ていない分、前時代の君主制が強く息づいていた。若きマルクスは、ブルジョワの身分制度から排除された賤民の立場から、プロイセン君主制批判を通じて人間解放について考えていく。それは「私欲を望むブルジョワが、益を望むシトワヤンへの変貌を遂げる筋を模索する試み」であった。

しかし、この論文の中では二つの空白がある。

①賤民というのが具体的にどういうグループなのかが明確にされていない

ブルジョワからシトワヤンへ至る方法論が現実的でない

この2つの課題は、この後に書かれた論文の中でより詳細に考察されていくことになる。すなわち

'賤民=プロレタリアートの発見

'社会革を狙う急進的民主主義から更に発展し、資本主義社会を根こそぎひっくり返す共産革命へののり

このようにマルクスはこの『ヘーゲル国法論批判』を通じて、急進的民主主義者から、共産主義者へと立場を移行させていくのである。

では、以下に内容をみていこう。

第一項「君主権」

マルクスはまず、君たる権利について批判を加える。ここでマルクスは君権を批判するために、フォイエルバッハの宗教批判論理をヘーゲルの法哲学批判に応用している。(フォイエルバッハの宗教批判については長くなるので脚注で)[5]

マルクスはフォイエルバッハの宗教批判において対立させられた「秘的な」と「現世的な人間」をヘーゲル政治哲学の「秘的な国家」と「現世的な家族市民社会」と置き換えた。すなわち、国家とは元々、実際の家族市民が集まった社会集団が動的に作ったものであったのが、いつしか逆に国家理念として秘的な存在として祭り上げられ、家族市民を思弁の中の想的な動きとして見るようになってしまっているとマルクスは言うのである。この国家における家族市民社会にも、フォイエルバッハの「」と「人間」の関係と同じように二重の転倒がある。

第一にマルクスによれば、ヘーゲル家族市民社会のありかたを国家の「現[6]として描き出しているという。この「現」は、カント的な意味で、ある「物自体」[6]の表れと見なされる。しかし元々現実に存在するのは国家ではなく、家族市民社会の方である。そこには、本来は現実的で実体的なものが、不過視の実体である物自体の現であるとみなされるという第一の転倒がある。換言すると、本来は主語であるべき現実的な家族市民社会が、理念的な国家の述とみなされる転倒である。「現」の背後に「物自体」としての理念が存在し、もともとは実体であるものが現とみなされるという認識論的な転倒。すなわち国家についての認識論的な転倒である。

そして、この認識論的な転倒を強化する第二の転倒がある。というのは、家族市民社会といった現がまず認識された後に、その背後に国家という理念的な物自体を想定するのではなく、まず国家という理念的な物自体が存在し、それが家族市民社会といった現を生み出すと考えてしまうという転倒である。そこでは国家秘化が発生し、この秘的な国家から家族市民社会が発生すると考えられてしまう。ここには本来「現実的な市民社会家族から、理念的な国家が生まれる」ものが「理念的で秘的な国家から、市民社会家族が生まれる」という発生論的な転倒が起こっているのが見て取れる。

この認識論的、発生論的二重の転倒によりヘーゲル国家観から「理念の伝記」、「トートロジー(同義反覆)」[7]、「論理学」という3つの誤りが現れてくる。

ヘーゲルの法哲学では、現実的な人間国家に到達するのではなく、かえって国家現実的な人間に到達しなければならない。ヘーゲルの法哲学は、生きた人間がその中心から外され、逆に国家という理念的な概念役となった「理念の伝記」なのである。

またヘーゲルの法哲学トートロジーるものである。なぜトートロジーになるのかというと、ヘーゲルの法哲学の中では人間国家主語、述の転倒が起きている。つまり「人間国家である」というものが、「国家人間である」と転倒され、更に人間国家の現とされるのであれば、主語についてられたことを全て述事前に内包してしまい、結局「国家国家である」ということにしかならないからである。それは現実的な人間法律という観点から捉えるのではなく、国家という概念から、そこに内包された人間という概念を捉えているだけにすぎない。

主語を分析的に分解して、その内部に示されたものをる言論理学と呼ばれる。論理学現実世界とは関係に、「A=BB=C、よってA=C」のようにトートロジー的な文章とその関係だけを扱うからである。マルクスは「ヘーゲルでは法哲学ではなく論理学の閑心事である」と言い、「[現実的な]事柄の論理ではなく、[理念的な]論理の事柄を重視する」とヘーゲル批判する。

マルクスは以上のように現実国家についてるべきヘーゲルの法哲学が認識論的、発生論的転倒によって、トートロジー論理学へと後退していることを摘する。そしてマルクスはその根底にある転倒の論理を、プロイセン国家のあり方から考察し、ヘーゲル国家有機体説を批判する。国家有機体説とは、国家が一つの生命体であるとみなす考え方である。

ヘーゲルは、国家の生命は君のうちにあり、民は人間の身体でいえば「」のような器官であると考える。として自らの生存欲求を持ち、それ自体独立した器官ではあるものの、しょせん全体の一部であり、時には犠牲となるべき器官でもある。この国家有機体説は君する以上、君主制にとっては都合のよい考え方である。ヘーゲル国家権が民にあるという理論批判し、君国家にとって必要不可欠なものであるとする。これに対してマルクスは「国家は一つの抽物に過ぎず、ただ民のみが具体物である」と明確に言う。民こそが国家であり、その原理に基づく政治システム民主制である。民主制の国家こそが、の意味での民の国家である。民主主義こそが国家人間の転倒の論理回復し、生きた人間主語体の地位に戻すのだとマルクスは断言するのである。

第二項「統治権」

ヘーゲルによれば、市民社会は三つの次元で利の衝突が起きる場所である。

①個人・家族同士による利の衝突(ホッブズの「万人の万人に対する闘争」状態)

市民が集まって作り出した身分、団体同士の利の衝突

市民と、市民の上位にある国家の利の衝突

また、際的には国家は1人の個人のように振る舞い、他の国家と利の衝突を行いうる。

ヘーゲルにとって統治の仕事とは、国家がこの③の、市民と、市民の上位にある国家の利の衝突において、欲望渦巻く市民社会の持つ矛盾を「いっそう高い見地と」をもって解決しようとする営みである。この営みを実現する役割を果たすのは、官僚機構の使命である。

マルクスから見ると、このヘーゲルの官僚観には2つの問題点があるように思われた。ひとつの問題点は、この国家の立場に立つ官僚機構が、市民社会にどのような姿勢で向き合うかがヘーゲルの法哲学ではまったく考察されていないことにある。

ヘーゲル哲学における官僚は、明らか市民社会とは別の存在である。市民社会から剥離した官僚システムが、どのようにして国家市民の対立を調停できるのかということについて、ヘーゲルは述べていない。ヘーゲルにとって官僚とは君の代理人であり、統治権の代弁者である。そんな彼らがどうして市民の利を調整できるだろうか。

第二の問題点。官僚は市民社会から選抜された人材がなるのだが、その私欲を持つ市民ブルジョワ)がどのようにして、益のみを追及する公民シトワヤン)に到達しうるのであろうかということに関してもヘーゲルは説明していない。一応、ヘーゲルは官僚になる方法自体には①試験による認定、②君からの任命の二つの方法があると言う。しかし①試験による認定とは言っても、そのが何をもって量られるかが分からない限り、ただ形式的に官僚が登場するだけである。いかなる市民有能な官僚なのかを決めるのは君の恣意次第である。また②君による任命について、これも①と同じ事で、ヘーゲル主観的な個人の的な地位に適しているかどうかという客観的判断を下すのは君であると考える。これは国家有機体説において君が「頭」あるという論理と一貫した考えである。

ヘーゲルの構想では、ブルジョワからシトワヤンへの変貌は、君の恣意に委ねられる。すなわちブルジョワ市民が、試験をパスしたり君に認められたりした誇りを胸にシトワヤンへその姿を変えるのだ。マルクス摘する二つの問題点。すなわち「市民社会国家の間にある外的な対立の調停はいかにすべきか」ということと「その媒体となる官僚制で働くシトワヤンは自らの私欲(ブルジョワ性)をいかにするか」ということは、ヘーゲル哲学においては、どちらも君主制の頂点に立つ君の特権によって解決されるしかないのだ。

第三項「立法権」

この「立法権」についての考察においてマルクスはまず、民の権利として認められた立法権と憲法の関係について問題にする。立法権は憲法のもとで認められた権利である。そして憲法もまた法律の一つである。すると問題なのは、憲法に認められた立法権を用いて、憲法を修正できるかどうかということである。立法権を保する憲法が、自らを修正する権利を立法権に認めるというのは矛盾しているようにも思える。フランス革命でも立法権によって憲法の修正がなされたが、当時のヨーロッパ憲法では規定によってはそれは不可能であった。マルクスはこの問題に対して「憲法は民意のの表れであり、立法権によって憲法を変える権利は無条件に肯定されなければならない」という立場をとる。

この問題は「権を構成する立法権(憲法を制定する議会)」と「権によって構成された立法権(憲法によって制定された議会)」の対立と見る事ができる。前者はまったく法律のないところから種々の法律を作り出す権利を言い、後者は既存の法律を根拠にして新たな立法を行う権利である。フランス革命の際には、シェイエスが著作『第三身分とは何か?』において「憲法を制定する権」と「憲法によって制定された権」を区別し、憲法制定権を持つ議会によって、新たな憲法17911793憲法)を制定したのである。

マルクス議会根本的な機民の民意を表現することにあると考えるので、「憲法を制定する議会」の「憲法を構成する立法権」こそが根的なものだとする。しかしヘーゲルの法哲学では、議会にはそのような根的な権は与えられていない。議会はただ憲法によって定められた組みのうちで認められているにすぎない。

ヘーゲルにおける立法権は君による君権や、官僚による統治権のおまけにすぎず、一つのウソであり、儀式であるとマルクス破する。マルクスは「議会とは民の利益のためにあると」いう法的なウソ摘する。ヘーゲルにおける議会は君と官僚を補う一つの要素に過ぎず、民意は代表していないことになる。そこでは君と官僚は議会に優越することになる。議会が代表するのは「民」ではなく「君と官僚に支配される民」の代表である。マルクス議会の中にプロイセンだけでなく、国家諸機構のあらゆる矛盾の凝縮を発見したのであった。

ヘーゲルの提唱する身分制議会矛盾プロイセンのような専制君国家において民がブルジョワとシトワヤンに分裂していることによって必然的に生まれざるをえないものである。立法権を持つ議会において民は二重の分裂が発生してしまう。

第一に、代議士となった民は身分と代表の分裂に悩まされる。すなわち、身分制議会では自らが所属する身分の利益と、民の代表としてなすべき公共の利益の挟みになってしまうのである。彼は議会において身分としてはブルジョワとして、政治的にはシトワヤンとして振る舞う事を要される。

第二の分裂は、国家の一員としての公民の人格と、市民社会の成員としての私人の人格の分裂である。市民社会では市民国家というコミュニティの一員であると同時に、国家の支配外に暮らす私人でもある。第一の分裂は代議士にのみ起こりうるものであるが、第二の分裂は全ての民に共有されるものだ。このような二重の分裂のもとにおいては、私人(ブルジョワ)である市民人(シトワヤン)として行動するためには自らのブルジョワ性を否定するしかない。これはブルジョワがシトワヤンとして行動するときには、ブルジョワ本来のあり方から疎外されるということに他ならない。ブルジョワが自ら私人としての立場を捨てて人として振る舞うことを、マルクスは孤立した原子に例えて「シトワヤンの原子論的なあり方」と形容する。

結論として

中世において、王族、貴族民などなど政治的身分と市民的身分は等しいものであった。しかし近代市民社会の登場によって、こうした身分の違いは意味を持たなくなった。それに取って代わったのは、と教養である。資本主義社会では政治的身分よりも貨幣のほうた強いのだ。ヘーゲルはそのような近代資本主義社会においてもなお、中世的な身分制議会を構想していた。マルクスは本書において、これを批判したのである。

マルクスは、ブルジョワ(私人)である個人がシトワヤン(人)として、あたかも、それ自体が独立した原子であるかのように政治的につく代表制議会こそが、市民社会国家が分離した近代資本主義社会にもっともふさわしいものだと考えた。またヘーゲルが二院制議会を提唱したのに対してマルクスは一院制をとりあげる。

ヘーゲルが身分に基づく二院制を良しとしたのは、一院制の場合、議員たちが君でなく民の立場につき君向かう可性があったからだ。そこで、絶対的に君の立場にある貴族による上院と、民の立場にある下院を必要とした。ヘーゲルにとって人民とは常によからぬことを企む否定的な知性を持った賤民に過ぎなかったのである。このように書くとヘーゲルがいかにも前時代的な思考をしているように思われるかもしれないが、ヘーゲルが生きた18世紀プロイセンはまだまだ中世の香りの強い国家であり、政治的・歴史的制約もあった。

19世紀人であるマルクスはこうしたヘーゲルの人民観を「奴隷根性」と揶揄し、「賤民の見方」があると考えること自体が「賤民の見方」であると述べた。「ブルジョワ(私人)をどうやってシトワヤン(人)にするか」という課題についても、ヘーゲルはそれは君の恣意と偶然性に依存した官僚制と身分制議会によってなされると言うのに対して、マルクス人間体とした民主主義国家によってなされると提唱する。

マルクスは、ヘーゲルがあげる国家の三要素。すなわち君権、統治権、立法権の中でとりわけ立法権を重視した。というのも、立法権のみが市民国家へと進出する契機であるからだ。民主的な国家立は、この立法権を通じてなされると彼は考える。政治プロの代理人に任せるのではなく、あくまで民の代表としての政治家を選ぶ。そこでは当然、普通選挙が要されることになる。普通選挙によって選ばれた民の代表が一院制議会の下で立法権を行使して新たなる憲法を制定する。こうして国家市民社会の分裂は回避され、シトワヤンとブルジョワは融合を果たすのである。

しかしマルクスはやがてこの急進的な民主主義的としての立場を放棄することになる。マルクスは自らがしたブルジョワのシトワヤン化が現実的に不可能であると認識するようになったからだ。そしてやがて彼は急進的民主主義による社会革ではなく、よりラディカル(根こそぎ)な社会革の可性を、国家でなく市民社会の中から見つけることになる。すなわちそれこそが、共産主義である。

まとめ

「君権」「統治権」「立法権」の国家の三要素についてヘーゲル批判

ヘーゲルの法哲学の問題点をマルクスは以下のように

「君権」:「理念的な国家」と「現実的な市民」の転倒が起きている

「統治権」:官僚がシトワヤンに至るには君の恣意次第になってしまう

「立法権」:議会は君による支配の一要素に過ぎなくなっている

以上をし、ブルジョワがシトワヤンになるための近代市民社会には普通選挙による代表制議会が必須であるとマルクスは言う。

ヘーゲル:君の立場に立った中世的な議会=身分制議会、君体、二院制、上院貴族からの選抜etc

マルクス市民の立場に立った近代的な議会=代表制議会民主体、一院制、普通選挙etc

しかし代表制議会にも限界を感じる→急進的民主主義から共産主義

 

関連項目


参考文献

脚注

  1. *ヘーゲル国法論批判は、ヘーゲルの著作『法哲学』を批判する論文であるので『ヘーゲル哲学批判』とも呼ばれる。これは後述する『ヘーゲル法哲学批判序説』の本論にあたるが、この本論自体はマルクスの生前に出版されず、また思想的にも序説の方が先んじていた。ここでは序説と区別する意味で法論批判で通す。
  2. *せっかくの新婚旅行で何を書いているんだろう。
  3. *市民。ここでは私欲よりもの利益を優先する公民という意味。
  4. *マルクス民主主義というと何だかミスマッチに思えるかもしれないが、当時のヨーロッパでは共産主義と急進的な民主主義というのはほぼ同義であった。かの有名な「共産党宣言」も「民主主義者同盟」というパンレットに強いを受けているように、19世紀の欧州では、共産主義民主主義双子の関係にあったのだ。
  5. *フォイエルバッハの宗教批判を一言で表せば「宗教本質人間であり、とは人間のことであり、学とは人間学である」ということになるだろう。人間として想定するものは全て人間の内面的な本質投影されているにすぎないのだ。例えば「は永遠である」とか「は全知全である」のような言葉ですら、人間本質人間の自己意識)の規定だと言える。つまりこれらの言葉は本来「人間は永遠である」とか「人間は全知全である」というべきであった。これが社会において「転倒」されて捉えられていることをフォイエルバッハは摘する。この転倒という言葉はフォイエルバッハの宗教批判において重要句となる。 本来、人間についてられるべきところをと言い換えることで、主語と述において二重の転倒が生まれている。 まず第一の転倒として主語と述それぞれの転倒がある。「人間は〜である」という文章が「は〜である」と言い変わる。つまり、主語が現世的な「人間」から、秘的な「」へと仮託されることにより、「現世と秘の転倒」が行われている。また述においても、元は人間の自己意識についての特性としてられていたことが、特性としてられることにより、人間特性特性の転倒が行われている。これら主語、述の転倒は両者とも「人間について言っていることが、についてのことに転倒している」という意味で、認識論的転倒と呼ぶ。 また「は永遠である」とか「は全知全である」といった言葉は、が本当に永遠であったり全知全であると思われているから言われている訳であるが、実際にはこのというのは人間であった。とすると、(という)主語から(「永遠」とか「全知全」という)述がでてきたのではなく、逆に(「永遠」や「全知全」という)述から、(虚構の存在としてという)主語がでてきたということになる。ここでは主語が述を生み出したと装っていたものが、実は述主語を生み出していると理解できる。現実人間特性特性から発生したかのように思い込まされるという意味で、この転倒のことを人間の関係についての発生論的な転倒と呼ぶ。
  6. *物自体、現カント哲学の前提的概念である。物自体とは、専門用を用いて説明すると、認識主観から独立に、それ固有の存在としてのあり方をしているもののこと。これは物質そのものではなく、その本質および精の働きのことをす。その物自体が私たちが認識できる形で表れることを現という。私たちが毎日を生きていてで認知できるものはすべて現である。しかし私たちが主観的に認識できる物質の背後には、私たちが認識することのできない本質的かつ観念論的な不可視の存在がある。すなわち物自体なのである。ここでは「国家」と「人民」の、「現」と「物自体」の転倒が起きているとマルクス摘している。
  7. *トートロジー(同義反覆)とは「A=A」というような、主語と述が同じことを言っている文章のことを言う。ex)「カエルとはつまりカエルのことである」「宗教というのは宗教だ」

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