ペレとは、
本項では1について記述する。
ペレ(Pelé, 1940年10月23日 - 2022年12月29日)とは、ブラジルのサッカー選手である。本名はエジソン・アランテス・ド・ナシメント(Edison Arantes do Nacimento)。元サッカーブラジル代表。
概要
ブラジル・ミナスジェライス州トレス・コラソンエス出身。15歳でデビューしてから1977年に引退するまで、実働22年間で通算1363試合に出場し1281得点を記録。これらの実績から「サッカーの王様」と呼ばれている。愛称の「ペレ」は幼少期に地元でプレーしていたゴールキーパー「ビレ」の名前をうまく発音できなかったことが由来。史上最高のサッカー選手、あるいはスポーツ史上最も偉大な選手と評されている。
様々なプレーを考案し実行した先駆的存在であり、サッカーの世界的な地位を引き上げた人物でもある。また、背番号10がエースナンバーとなったり、選手交代やイエローカードとレッドカードの制度が導入されるなどその存在がサッカー競技に変化をもたらしている。
サッカー界のスーパースターの一人でブラジルの英雄。得点能力、身体能力、アイディア、パス、ドリブルなどに優れたフォワード及び攻撃的MF。なお、本人の弁によると「攻撃的MFであり守備範囲の広いFW」である。その得点数から誤解されがちだが純粋なセンターフォワードではない。
171cmと背は低いが跳躍力に秀でヘディングも強く、PK戦に際してはその超人的な反射神経を活かし、GKを務めることもあった。ブラジル代表の試合でも一試合だけだがGKを務めている。
1956年サントスFCで15歳でプロになり、翌シーズンには16歳でリーグ得点王になった。サントスでは18シーズンをすごした。サンパウロ州選手権10回優勝し、1962年、1963年にはインターコンティネンタルカップで2連覇を果たした。
1975年にニューヨーク・コスモスに移籍し、1977年に引退した。
ブラジル代表には16歳で選ばれ17歳でワールドカップに出場し、優勝に大きく貢献している。その後3度のワールドカップに出場し、2回優勝している。ワールドカップ優勝を選手として3度経験しているのはペレだけである。1970年決勝のヘディングなど印象的なゴールを多く決めている。
引退後はブラジルでスポーツ大臣などを務めた。また勃起不全(ED)のキャンペーンでも有名(ペレ自身はどちらかというとEDの反対側の住人である)。ワールドカップでペレが優勝候補に挙げると優勝できないというジンクスがある。
2021年に癌が見つかり摘出手術を受け療養が続いていたが、2022年12月29日に癌による多臓器不全で逝去。
経歴
生い立ち
1940年10月23日、ブラジル南東部のミナスジェライス州トレス・コラソンエスのファベーラ(貧民街)の黒人家庭に生まれる。出生と同じ時期に町に電気が敷設されたことから、「発明王」と呼ばれたトーマス・エジソンにちなんで「エドソン (Edson)」と名付けられる。父親のドンジーニョもサッカー選手であり、かつてはアトレティコ・ミネイロでプレーしていたが、膝の負傷もあって小規模なクラブに所属しており、低い給与でプレーしていたこともあって家庭環境は貧しかった。
1944年に父親がサンパウロ州のバウルのクラブへ移籍したことを契機に家族でバウルへ引っ越す。母親は厳格な人物でペレに対し経済的に不安定なサッカー選手ではなく高い教育を受け真っ当な職業に就くように厳しく躾けていた。本人も幼少期は飛行機の操縦士になることを夢見ていたが、やがて父と同じサッカー選手を志すようになり、母の目を盗んで父からサッカーに必要な技術や心構えを学んでいった。
1950年、ペレが9歳のときに地元ブラジルで1950 FIFAワールドカップが開催され、大本命と見られていたブラジル代表は2次リーグ最終戦でウルグアイに敗れて優勝を逃す「マラカナンの悲劇」が起きる。自宅に友人たちを招いてラジオの実況を聞いていた父は祖国の敗退に涙を流して悲しんでいた。家中は深い悲しみに包まれ、パウルの街全体も静まりかえる光景を目の当たりにしたペレ少年は、悲しみにくれていた父を励まそうと、「悲しまないで。いつか僕がブラジルをワールドカップで優勝させてあげるから」と約束を交わす。このときからサッカー選手になってブラジル代表に入ることを本気で目指すようになる。
10代になると、バウル市の内外の複数のクラブを渡り歩き、2から3チームを掛け持ちしてプレーするようになる。1952年に父が現役を引退してからは収入が途絶え、家庭は生活がますます困窮し、靴磨きや喫茶店で使用人として働いで家計を助けていた。父親からサッカーを教わったが、ちゃんとしたサッカーボールを買うことはできず、たいていは新聞紙を詰めて紐で結んだ靴下かグレープフルーツでプレーしていた。
1954年、地元のバウルACの下部組織に入団。そこで父の古くからの友人であり元ブラジル代表選手のヴァウデマールに出会い指導を受ける。ヴァウデマールはペレの才能に着目し、体のあらゆる部位を使ったボールコントロールの重要性、試合の流れを読むコツ、オフ・ザ・ボールでの動きなどを厳しく教えていた。実力をつけたペレはバウルを2回サンパウロ州ユース選手権に導く。また、地域でのフットサルの大会にも参加し、数々の大会で優勝。大人も参加した大会で15ゴールを決め、得点王にもなっている。
1955年、すでにバウルを離れていたヴァウデマールの仲介によってサントスFCのトライアルを受けるチャンスが巡ってくる。このトライアウトでのプレーがサントスのルラ監督に感銘を与え、合格を勝ち取る。
サントス
1956年6月、サンパウロ州の強豪サントスFCと15歳でプロ契約を交わす。地元メディアからは将来のスーパースター候補として大々的に報じられる。しかしこのときは体重が60kgに満たない華奢な体格だったことから入団当初はリザーブチームやユースチームでトレーニングに励んでいた。9月7日のコリンチャンスとの親善試合でトップチームでのデビューを果たし、初ゴールも決める。
1957年シーズンになると、トップチームでスタメンを任されるようになる。すると、その才能が一気に開花していき、若干16歳にして36ゴールを記録し、サンパウロ州選手権(カンピオナート・パウリスタ)で得点王となる。この活躍によってクラブと正式契約を結び、さらに念願だったブラジル代表にも選出され、神童ペレの名はブラジル中に知れ渡るのだった。
17歳となった1958年はペレの人生が大きく変わった1年となる。クラブではもはや不動のエースといえる存在となっており、サンパウロ州選手権では38試合に出場し58得点を決め2年連続得点王を獲得すると共に優勝に貢献。この年のFIFAワールドカップスウェーデン大会にはチームメイトのジト、ペペ、ジウマールと共にブラジル代表に選出され、初優勝に貢献。これにより、ペレはサッカー界の世界的スーパースターとしての地位に立ち、クラブには世界中から親善試合のオファーが殺到し、定期的に世界ツアーを行うようになった。サントスFCは収容人数の少ないスタジアムしか保有していなかったことから、ブラジル国内の公式戦の他にも毎年のように世界中に遠征して親善試合を行い、必要な収入を確保しなければならなかった。また、イタリアのインテル・ミラノが獲得に乗り出し、契約を結ぼうとしたが、サントスサポーターが反乱を起こす事態に発展したことでインテルのアンジェロ・モラッティ会長はサントスの会長の要請で契約を破棄せざるを得なかった。
1959年は6週間に22試合をこなす過密日程の欧州ツアーをこなすことになる。また、クラブでのプレーと平行して兵役の義務を負わなければならず、11月には軍選抜チームに選ばれ南米軍人選手権に出場。非常に多忙な1年となった中、リオ・サンパウロ大会でヴァスコ・ダ・ガマに3-0で勝利し、チームの初優勝に貢献。サンパウロ州選手権では優勝こそ逃したものの、32試合45ゴールで3年連続での得点王を獲得。
1960年はさらに多忙を極め、サントス、ブラジル代表、サンパウロ選抜、兵役で配属された沿岸防衛部隊のチーム、そして軍選抜の合計5チームの選手として年間通算で103試合に出場。24時間に2試合に出場することが9回ほどあり、時には48時間に3試合に出場することもあった。それでも33ゴールを決めてサントスのカンピオナート・パウリスタのトロフィー奪還に貢献。中1日で開催されたACミラン戦とFCバルセロナ戦では合計6ゴールという常人離れした離れ業を見せている。
1961年3月5日、マラカナン・スタジアムで行われたリオ・サンパウロ選手権のフルミネンセFC戦において、自陣のペナルティエリア外でボールを受けると、そのままドリブルを開始し相手選手を次々に振り切りゴールキーパーを含めた6人抜きドリブルからの得点を挙げ、マラカナンの歴史上最も美しいゴール」と賞賛される。後にマラカナン・スタジアムにはこのゴールを記念したプレートが設置され、このゴールは「ゴウ・ジ・プラッカ」と呼ばれるようになる。カンピオナート・パウリスタでは、47ゴールを決め、5年連続得点王と共にタイトル連覇をもたらす。また、タッサ・ジ・ブラジルではバイーアFCを決勝で破り、サントスの初優勝に貢献。コパ・リベルタドーレス初出場へと導く。
この活躍によってスペイン・レアル・マドリードのサンティアゴ・ベルナベウ会長、イタリア・ユヴェントスのウンベルト・アニエリ会長から高額な獲得オファーが届く。特にユヴェントスは白紙の小切手を渡して好きな金額を書くように促したという。しかし、サポーターの大反乱に加えてブラジル政府が「ペレは輸出対象外の国宝である」と公式に宣言して移籍を阻止する事態にまで発展。自身もこのオファーに乗り気ではなく、サントスFCへの残留を表明する。
1962年はサントスにとってもっとも成功したシーズンとなる。初出場となったコパ・リベルタドーレスでは、決勝まで進出しウルグアイのペニャロールとタイトルを争うことになる。1勝1分で迎えた最終戦で2ゴールを決め、サントスに初の国際タイトルをもたらす。同時にブラジルのクラブが初めて南米王者となった瞬間でもあった。この勝利によってインターコンチネンタルカップ出場権も獲得し、エウゼビオを擁する欧州王者のベンフィカと対戦。ホームでの第1戦で2ゴールを決めれば、敵地リスボンの第2戦ではハットトリック及び1アシストという大車輪の活躍により、サントスをクラブ世界一へと導く。この試合をペレは「私のキャリアにおいて最高の試合」「素晴らしい内容で、生涯忘れることの出来ない芸術的な試合」と語っている。また、ブラジル国内でもカンピオナート・パウリスタとタッサ・ジ・ブラジルをそれぞれ連覇しており、この年のサントスはタイトルを総なめにしている。
1963年のコパ・リベルタドーレスにおいても準決勝でガリンシャやジャイルジーニョを擁したボタフォゴと対戦し、マラカナンの第2戦でハットトリックを達成。決勝ではボカ・ジュニアーズを破り、2年連続南米王者となる。インターコンチネンタルカップではACミラン相手に勝利し、2年連続でクラブ世界一を達成。国内では、タッサ・ジ・ブラジル三連覇に加え、リオ・サンパウロ州選手権では8試合13ゴールの活躍により、サントスを初優勝に導く。
1964年のコパ・リベルタドーレスでは、サントスは準決勝の2試合でインデペンディエンテに敗れ三連覇を逃す。国内ではカンピオナート・パウリスタで優勝し、ペレは34ゴールを決めた。サントスはリオ・サンパウロのタイトルをボタフォゴと分け合い、4年連続でタッサ・ブラジルで優勝している。
1965年のコパ・リベルタドーレスでは、サントスは準決勝に進み、1962年の決勝の再戦でペニャロールと対戦しプレーオフの末に敗北。しかし、ペレ自身は8ゴールを決め、初の大会得点王に輝く。年末にはタッサ・ブラジルで5度目のリーグ優勝を果たしている。
1966年あたりから世界的なスターとなったペレに対し、対戦相手から執拗なマークを受けるようになり、終始マンマークを付けてラフプレーも辞さない激しいプレーを仕掛けられ、怪我も増えるようになる。1966年は欠場が多かったことで9年連続で獲得としていたカンピオナート・パウリスタの得点王を逃す。また、この頃は一切の財産管理を一任していた人物が投機に失敗し多額の借金を背負うことになる。ペレはクラブの役員会で事情を説明し、クラブ側に有利な条件で契約を更改するかわりに借金を肩代わりしてもらうことになった。
1969年1月、自らのルーツであるアフリカに遠征することになる。ペレは人種差別のない国で黒人が社会的に成功を収める事が出来る生きた証として崇拝の対象となり、アフリカの人々はペレの姿を一目見ようとスタジアムだけでなく空港まで押し寄せるなど各地で熱狂的に迎えられた。最初の遠征地であるコンゴはコンゴ民主共和国とコンゴ共和国の間で紛争状態にあったが、双方の指導者は試合観戦のために休戦に合意。コンゴ民主共和国代表との親善試合をおこなった1月23日は「国民のスポーツの日」と定められる。次の遠征先のナイジェリアはビアフラ戦争により内戦状態にあったが、サントスFCが安全に到着できるようにビアフラ共和国との間で戦争を一時停止することに合意。戦争を止めるという恐るべき影響力を発揮する逸話となった。このアフリカへのツアーは社会における自分の立場のあり方を考える契機になった。
この年、ブラジル国内の話題はペレの通算1000ゴール達成でもちきりだった。そして、11月19日、マラカナン・スタジアムで行われたCRヴァスコ・ダ・ガマ戦では6万5千人の観客が見守る中、後半33分にPKを決め、通算1000ゴール達成の偉業を成し遂げる。1000ゴールが達成されると、試合は中断されコメントを求められたペレは「神よ、お願いだからこの国の貧しい子供たちをお救いください」と答えている。その後、ブラジル郵政省からは記念切手が発行され、ブラジル政府は1000得点を達成したペレに勲章を与え翌日を休日とした。サンパウロ市はこの記録を記念して1995年に11月19日を「ペレの日」と定めた。
1970年代に入ってからのサントスは黄金期を支えた選手たちが次々とチームを去ったことで衰退が進み、ペレ自身も3度目のワールドカップ優勝を果たしたことでモチベーションを見失い、以前ほどサッカーを楽しめなくなっていた。逆に子供の頃に疎かにしていた学問への意欲が芽生えるようになり、試合や練習の合間に勉強を続け、大学入試資格に必要な中等教育課程を修了。大学入学試験にも合格し体育学を専攻している。1973年にはカンピオナート・ブラジレイロ・セリエAで30試合19得点を記録し、南米最優秀選手賞を受賞。
1974年は15歳の頃から18年間プレーしてきたサントスFCでの最後のシーズンとなった。ラストマッチとなった10月2日のポンチ・プレッタ戦では試合開始20分に中盤でボールを受けると両手でキャッチしてセンターサークルへと向かい、ボールを置くとピッチに跪き両手を広げ十字架のようなポーズをとり集まったファンへの感謝の意を示すと共に別れを告げる。サントスで挙げた643ゴールは、 2020年12月にバルセロナのリオネル・メッシに抜かれるまで、単一クラブで最も多くのゴール数を記録していた。
1974年11月19日には日本を訪れ、静岡県清水市、東京都と広島市で「サッカー教室」を開催している。
ニューヨーク・コスモス
サントス退団後は半引退状態となっていたが、1975年にアメリカ・北米サッカーリーグ(NASL)に所属するニューヨーク・コスモスへ移籍。2年契約で移籍金は900万ドル。この移籍にはアメリカ合衆国国務長官で熱狂的なサッカーファンのヘンリー・キッシンジャーの後押しがあった。当時サッカー不毛の地であったアメリカにサッカーを普及させることを期待されての入団となったが、その期待に見事に応え、アメリカにサッカーブームをもたらすことになる。初出場となった6月15日のトロント・メトロス戦には2万5千人の観客が集まり、ペレ加入後の北米リーグの平均観客数は2万人台を維持。加入2年目の1976年は24試合15得点という成績を残し、リーグの最優秀選手に選ばれている。
1977年、ニューヨーク・コスモスは大手映画配給会社ワーナー・ブラザースを買収したスティーブ・ロスの豊富な資金力によって西ドイツからフランツ・ベッケンバウアー、ブラジルからカルロス・アウベルトが加わり、スター軍団を実現させる。そして36歳となったペレにとってこれが現役最後のシーズンとなった。NASL記録となる62,394人の観客をジャイアンツ・スタジアムに集めた6月のタンパベイ・ロウディーズ戦ではハットトリックを達成。現役最後の公式戦となった8月28日のシアトルサウンダーズに勝利し、ニューヨークコスモスを2度目のNASL王者に導く。10月1日、ジャイアンツ・スタジアムに古巣でサントスFCを招いての引退試合を開催。7万5千人の観衆が詰掛けたこの試合でペレは前半はコスモスの選手として後半はサントスの選手としてプレー。前半に1得点をあげ自らの引退の花道を飾る。試合後のセレモニーでは「愛を!皆に愛を!世界に愛を!」の言葉で締めくくり、現役生活を終える。
実働23年で通算1363試合出場、1281ゴール。公式記録として残っているものの中では、世界最高の記録である。
ブラジル代表
1957年7月7日、マラカナン・スタジアムでのアルゼンチン戦において16歳9か月の当時の史上最年少でブラジル代表にデビュー。さらにこのデビュー戦で初ゴールをマーク。このときのゴールは現在に至るまでブラジル代表の最年少ゴールとなっている。その後は所属クラブでも代表でも活躍を続け、代表チームに定着していく。
1958年6月にスウェーデンで開催された1958 FIFAワールドカップのメンバーに最年少の17歳で選出。背番号は10が与えられた。大会直前のテストマッチで膝を負傷した影響でグループリーグ最初の2試合を欠場、第3戦のソ連戦でワールドカップ初出場を果たす。17歳でのワールドカップ出場は1982年のワールドカップ・スペイン大会で北アイルランドのノーマン・ホワイトサイドによって塗り替えられるまで史上最年少記録であった。
準々決勝のウェールズ戦では後半21分にワールドカップ初ゴールを記録。17歳239日でのゴールは現在もなおワールドカップの史上最年少得点記録となっている。このゴールが決勝ゴールとなりブラジルは準決勝へ進出。準決勝のフランス戦では後半7分、19分、30分に立て続けにゴールを決めてハットトリックを達成。
決勝では開催国のスウェーデンと対戦。後半10分に浮き球で相手DFをかわしてからのボレーシュートを決める。このゴールは自身の全キャリアの中でもベストゴールのひとつだったと語っている。終了間際にはマリオ・ザガロとのパス交換から駄目押しとなるヘディングシュートを決め、2ゴールの活躍によってブラジルに悲願のワールドカップ初優勝をもたらす。大会通算6ゴールを決めた17歳の出現に世界中が注目するようになり、ペレは世界中の新聞や雑誌の表紙を飾り、「新たなキングの誕生」と称され、世界規模のスターへとのし上がるのだった。
1959年3月にはエクアドルで開催された南米選手権(現在のコパ・アメリカ)に出場。ブラジルは決勝でアルゼンチンに敗れて準優勝に終わるが、ペレは準決勝のパラグアイ戦でハットトリックを決めるなど、大会8ゴールを記録し、大会得点王と大会最優秀選手の個人タイトルを総なめにする。
1962年6月、チリで開催された1962 FIFAワールドカップに出場。世界最高のプレイヤーと認知されていたことから注目が集まる中、グループリーグ初戦のメキシコ戦で1ゴール1アシストの活躍を見せる。しかし、第2戦のチェコスロバキア戦で前半25分にミドルシュートを放った際に太ももの筋肉を負傷。当時は選手の交代が認められていなかったことからピッチに残ったが、まともにプレーできる状態ではなく長距離からのシュートを試みるのみとなった。以降の試合は欠場となったが、ブラジルはガリンシャの活躍によって大会連覇を成し遂げる。
1966年7月、イングランドで開催された1966 FIFAワールドカップに出場。大会前に怪我を負っていた中、グループリーグ初戦のブルガリア戦で3大会連続となるゴールを記録。しかし、この試合でブルガリアからの執拗なマークによって負傷。第2戦のハンガリー戦を欠場し、第3戦のポルトガル戦で戦列に復帰するが、この試合でもファウルを辞さない度を越したラフプレーを受け続け、前半途中に膝を負傷。プレー続行不能となってしまう。ペレを失い10人となったブラジルはエウゼビオの2ゴールによって敗れ、グループリーグ敗退に終わる。25歳と選手としてのピークを迎えての大会をラフプレーによって終わらされたペレは「サッカーは暴力によって汚された」と非難し、ラフプレーの横行とそれを見逃すレフェリーに嫌気がさしてしまい「二度とワールドカップ」には出ないと宣言する。
当初はブラジル代表を辞退する意向を表明していたが、1969年初頭に前言を撤回して代表に復帰。1970ワールドカップ南米予選では6試合6ゴールの活躍を見せる。
1970年6月、メキシコで開催された1970 FIFAワールドカップに出場。29歳となっていたペレにとっての4度目のワールドカップであり、この大会が彼にとっての最後のワールドカップになると予想されていた。前回から大きくメンバーが入れ替わったブラジルはペレを筆頭にリベリーノ、ジェルソン、トスタン、ジャイルジーニョ、クロドアウドという攻撃陣を擁していた。
グループリーグ初戦のチェコスロバキア戦で胸トラップからのゴールを決めると、第3戦のルーマニア戦では2ゴールを記録。この大会でのペレはこれまでのストライカーではなく、前線のタレントたちを活かすゲームメーカーとしての役割を担っていた。そのためこれまでの爆発的な得点力こそ影を潜めたものの、試合における彼の影響力は絶大なものがあり、チームがペレを中心に回っていることは明らかだった。
準決勝のウルグアイ戦では、トスタンからのパスから裏へ抜け出すと、先にボールに触れようとした相手GKをフェイントで欺き、最後は角度のないところからシュート。このシュートはわずかにゴール左に外れたものの、このシーンは「史上もっとも美しいノーゴール」として有名になり、自身もゴール以上に有名になったと誇らしげに語っている。
全勝で勝ち進んできたブラジルは決勝でイタリアと対戦。前半18分にヘディングで先制ゴールを決めれば、後半26分にはジャイルジーニョのゴールをアシスト。試合終了間際にもカルロス・アルベルトの4点目をアシストし、1ゴール2アシストの活躍によって見事ブラジルに3度目のワールドカップ優勝をもたらし、ジュール・リメ杯の永久保持という栄誉も得る。試合終了後には興奮した観客がピッチに乱入し選手達を担いでウイニングランを行い優勝を祝福。このときのブラジル代表は南米予選から本大会決勝までを全勝で勝ち抜くという快挙を成し遂げていることから「ワールドカップ史上最強のチーム」の呼び声が高く、攻撃の中心として躍動し続けたことからこの大会は「ペレのための大会」と称されている。
3度目のワールドカップ優勝から1年後の1971年7月18日、マラカナン・スタジアムでのユーゴスラビア戦を最後に代表引退を表明。ペレを惜しむサポーターたちに対し、14年間着用した背番号10のユニフォームを脱いでスタンドに向かって振り、またそのユニフォームで涙をぬぐった。ブラジル代表としては国際Aマッチ92試合に出場し77得点を記録。50年以上にわたり代表チームの最多得点記録を保持したが、2023年9月にネイマールがその記録を塗り替えた。
引退後
現役引退後は指導者とはならなかったものの、依然としてサッカー界における影響力は大きく、FIFAの大使、フェアプレー委員会の一員として世界中で広報活動に携わり、世界中にサッカーを普及するための親善大使のような存在となっていた。一方でサッカー以外の事業にも携わるようになり、芸術面での才能を生かし、映画出演を度々行っている。他にも特技のギター演奏を生かして楽曲を制作し、著名なミュージシャンに演奏されたこともある。
また、国際連合児童基金(ユニセフ)の親善大使に任命され子供の基本的権利の保護を訴えたイベントに関わっている。
1980年9月24日に行われたベッケンバウアー引退記念試合に出場。
1986 FIFAワールドカップの際、ブラジル代表のメンバーとして現役復帰する話が浮上するが、結局は実現しなかった。
1990年9月31日、生誕50周年を祝してイタリア・ミラノにあるスタディオ・ジュゼッペ・メアッツァで記念試合が行われ、ブラジル代表の10番として世界選抜と対戦し前半42分までプレー。これが最後の試合出場となっている。
1993年、自身が経営するマーケティング会社がブラジル全国選手権の放映権を獲得するにあたりブラジルサッカー連盟 (CBF) から100万ドルの賄賂を要求されたとして、ブラジルサッカー界の腐敗ぶりを告発。これにより、CBF会長のリカルド・テイシェイラとFIFA会長のジョアン・アベランジェと対立することになる。
1993年5月15日、Jリーグ開幕戦のヴェルディ川崎と横浜マリノスの試合を長沼健日本サッカー協会副会長の隣席で観戦。日本サッカーの新たな船出を涙を流して喜び、川淵三郎Jリーグチェアマンと抱き合ったと言われている。
1995年、フェルナンド・エンリケ・カルドーゾ大統領の下でスポーツ大臣に就任。ペレはブラジル史上初の黒人閣僚として1998年までの3年間この職務を務める。在任期間中は、「オリンピック・ヴィレッジ」と呼ばれる各地方政府と協力してスポーツ施設を建設する公共事業やヨーロッパにおけるボスマン判決のブラジル版ともいえるペレ法の制定に取り組み、、1998年4月29日に可決され、3年後の2001年3月26日から施行される。
1998年、サッカーにおける功績と数々のボランティア活動を讃えられイギリス政府から大英帝国勲章を授与される。
2001年、関係が悪化していたアベランジェFIFA会長との間で和解が成立し、8年間に及ぶ対立に終止符が打たれる。
2002年、製薬会社のファイザーから依頼を受けて勃起不全 (ED) 治療のスポークスマンを務める。
2005年6月2日、かねてから犬猿の仲とされていたディエゴ・マラドーナがアルゼンチンでホストを務めるテレビ番組「10番の夜」に第1回ゲストとして出演。マラドーナとの和解ムードを漂わせたが・・・。
2006年、スイスのダボスで開催された世界経済フォーラムに出席し、「ボールは世界を変えられるか:開発におけるスポーツの役割」と題する講演をおこなう。
2010年8月1日、選手時代に在籍したニューヨーク・コスモスが再建されることに伴い、同クラブの名誉会長に就任。
2009年、リオデジャネイロの2016年夏季オリンピック開催地選定を支援。7月には、ナイジェリアのアブジャで開催されたアフリカ各国オリンピック委員会連合総会において、リオ2016のプレゼンテーションを主導。
2012年、エディンバラ大学から「人道支援と環境保護への多大な貢献、そしてスポーツ界での功績」を称えられ、名誉学位を授与される。
2016年3月、イリノイ州北部地区連邦地方裁判所にサムスン電子を提訴し、ランハム法違反による虚偽広告と州法に基づくパブリシティ権侵害を理由に3,000万ドルの損害賠償を求める。
2018年、世界中の貧困や権利を奪われた子供たちに力を与えるために努力する慈善団体、ペレ財団を設立。
2021年、定期健診の際に上行結腸に結腸がんが見つかり、9月4日に摘出手術を受けたあと約1カ月間入院。その後もがんとの戦いは続き、何度か入退院を繰り返す。
2022年12月29日、大腸がん進行などによる多臓器不全により82歳で死去。
同日、ボルソナロ大統領はペレの功績を称えるとともに3日間の服喪を布告。
2023年1月2日にサントスのビラ・ベルミロ・スタジアムで葬儀がおこなわれる。
2023年2月末には生前の功績が称えられてザ・ベストFIFA特別賞が贈られる。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1956 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 0 | 0 | |
| 1957 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 29 | 36 | |
| 1958 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 38 | 58 | |
| 1959 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 32 | 45 | |
| 1960 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 30 | 33 | |
| 1961 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 26 | 47 | |
| 1962 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 26 | 37 | |
| 1963 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 19 | 22 | |
| 1964 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 21 | 34 | |
| 1965 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 30 | 49 | |
| 1966 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 14 | 13 | |
| 1967 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 18 | 17 | |
| 1968 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 21 | 17 | |
| 1969 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 25 | 26 | |
| 1970 | サントス | カンピオナート・パウリスタ | 15 | 7 | |
| 1971 | サントス | カンピオナート・セリエA | 21 | 1 | |
| 1972 | サントス | カンピオナート・セリエA | 16 | 5 | |
| 1973 | サントス | カンピオナート・セリエA | 30 | 19 | |
| 1974 | サントス | カンピオナート・セリエA | 17 | 9 | |
| 1975 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 9 | 5 | |
| 1976 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 24 | 15 | |
| 1977 | ニューヨーク・コスモス | NASL | 31 | 17 |
個人タイトル
- 南米年間最優秀選手(1973年)
- 北米サッカーリーグ最優秀選手賞(1976年)
- カンピオナート・パウリスタ得点王 : 11回(1980年, 1982年)
- コパ・リベルタドーレス得点王(1965年)
- 大英帝国勲章(1997年)
- FIFA選定20世紀最優秀サッカー選手(2000年)
プレースタイル
体格は小柄だったものの、身体能力が抜群で、バランス感覚に優れ自身より大柄な相手ディフェンダーの激しいタックルにも当たり負けしなかった。また、小柄ながら並外れた跳躍力で打点の高いヘディングも得意としており、さらに100メートルを10秒台で走る俊足を持ち合わせているなど、サッカー選手に必要な全ての才能を持ち合わせている。
初期のキャリアでは、彼は様々な攻撃的なポジションでプレーした。センターフォワードとしてプレーすることが多かったが、彼の幅広いスキルにより、インサイドフォワードや セカンドストライカーとしてもプレーすることができた。キャリア後期には、ストライカーの背後でプレーメイクする役割を担い、攻撃的ミッドフィールダーとして機能することが多かった。
俊足とアフリカ系黒人選手特有の瞬発力や脚の筋力を生かし、リズムを急激に変えることでDFのマークを外すドリブル突破を得意としていた。ドリブルの際には大きなストライドでなく常に足下にボールを置きながら細かなステップでコントロールしていた。相手を抜く際には変則的な動きや予測不可能な方向転換を使いこなし、単なる技術的な要素にとどまらず、相手ディフェンダーを揺さぶり、スペースを生み出す戦術的な意味もあったと言われている。
正確なスルーパスやフリックパスでチームメイトを活かす一方で、相手ディフェンスを崩すためのパスのアイデアも豊富でした。彼の視野の広さとゲームを読む力は歴代のサッカー選手の中でも最高クラスとされている。シュートは多彩で、フィニッシュに関する選択肢を何通りも持っており、強烈なキックだけでなく、優れた位置取りや冷静な判断力を持って、ゴール前でのチャンスを最大限に活かしていた。
彼のプレーには計り知れない創造性があり、予測不可能なプレーが数多く見られ、相手がどう反応するかを直感的に読み、他の選手が思いつかないような方法でゴールを狙ったり、アシストをしたりすることができた。状況に応じてプレースタイルを変えることができる選手であり、試合の流れや相手の強さ、チームの戦術に合わせて最適なプレーを選ぶ能力を持っていた。本人も「サッカーで一番大事なことはインスピレーション」と語っている。
攻撃を牽引しつつも、時にはディフェンスラインに戻るなど、守備でも貢献ができ、チーム全体のバランスを保つことを考えていた。
おもな影響
- 1958 FIFAワールドカップの際に「背番号10」を付けていたことでその後、全世界のサッカー界において背番号10はエースナンバーとして定着する。なお、この大会でペレが10番を付けていたのはくじ引きで決まったものである。
- 1966 FIFAワールドカップでは相次ぐ悪質なラフプレーによって負傷を負わされ、プレー続行不可能となったペレは途中でピッチを後にし、当時は試合中の選手の交代が認められなかったことからブラジルは10人で戦うことになり、試合に敗れている。そのためFIFAは試合中の選手の交代と横行するラフプレーを抑制するためにレッドカードとイエローカードの導入を決める。
- 彼の登場により、ブラジル国内のみならず、世界各国で「○○のペレ」という異名が付く選手が出現するようになる。
- 現在では当たり前となっているが、企業の広告塔として活動したのもペレが最初であると言われている。
- ブラジルのスポーツ大臣として利権者たちと対決して腐敗を告発し、一時期ブラジルサッカー界の近代化のための旗手となった。1999年には、タイム誌の選ぶ「20世紀の最も影響力のある100人」の一人に選ばれるなど、サッカーやスポーツの枠を超えた影響力のある人物と評価されている。
- FIFAワールドカップの優勝予想はことごとく外れている。
評価
「自己紹介の必要はありません。あなたのことを知らない者などいませんから」
「日本はペレを通じて世界のサッカーを知った。サッカーをスポーツの枠を超えた存在にした」
釜本邦茂(日本)
人物・エピソード
- 1966年、1994年、そして76歳となった2016年と三度結婚している。さらには何度か不倫をしており、不倫関係で生まれた子供を含めて7人の子供を授かっている。
- 長男のエジーニョもGKとしてプロサッカー選手となったが、膝の怪我もあって1999年に引退。2005年に麻薬密売に関わっていた容疑で逮捕され、刑務所に収監されている。
- 努力家で、非常に負けず嫌いな人物である。また、ピッチの上でも外でも自分を神のような存在であろうとする人物とも評されている。
- 根っからの音楽好きで、1960年代前半から数百の楽曲を作曲しており、常時レコーダーを持ち歩いていた。
- 父親のドンジーニョはサッカー選手にとって有害とされているたばこと酒を一切やらず、父の影響を受けてペレも現役時代はたばこと酒を口にしなかった。
- 初来日は1972年でサントスFCの一員として国立競技場で日本代表と対戦。1974年9月14日にニューヨーク・コスモスの一員として二度目の来日を果たし、引退記念試合として日本代表と対戦。このときは国立競技場に7万人を動員し、同競技場が初めて満員になった興行といわれている。また、7,000万円ともいわれる純益を出し、資金繰りに行き詰まっていた日本サッカー協会を救い、慢性赤字から脱却したといわれている。1984年には釜本邦茂引退試合に「助っ人」として参加。
- 東日本大震災後の2011年10月には被災地を訪問し、児童にサッカーボールを贈るなどして励ました。
- 2013年にブラジルで起きた抗議デモの際、人々にデモを止めてブラジル代表チームを応援するよう呼びかけた。
- 生涯で2度強盗事件に見舞われている。
- 短く刈り上げたヘアスタイルは、父親への敬意を示しており、メキシコで「ペレカット」として流行したことがある。
- アルゼンチンのスーパースターであるディエゴ・マラドーナとは、両者並び立つ存在として評価され、お互いに偉大な選手として一定のレベルで認め合う存在ではあるが、1982 FIFAワールドカップでアルゼンチンが2次リーグのブラジル戦で敗れて敗退が決まった際にペレがマラドーナに対して「マラドーナは人間性に欠けるところがあるため、そのサッカーの才能を台無しにしてしまった」、「私は、マラドーナが世界のサッカーファンから称賛を受けるだけの十分な偉大さを持っている人間かどうか、大きな疑問を持っている」と手厳しく批判し、これでマラドーナもペレに対して悪感情を抱くようになり、長年事あるごとに批判や非難の応酬を繰り返すようになった。
- フランス・フットボール誌がバロンドールが始まった1956年から受賞のチャンスがあったとしたらどの選手が受賞していたかを徹底的に分析した結果、ペレは最多記録の7回受賞したと明かしている。
- チームメイトの退場などにより、サッカーの王様もキャリアの中で4試合ほどゴールキーパーをしたことがある。そのうち2試合は公式戦だった。
- 1968年のコロンビアとの親善試合の際、審判がペレの退場を命じると、この判定に怒ったサポーター達が暴徒化。結局は審判が逆に退場となり、ペレはピッチに戻る事になった。
- 映画に出演し俳優デビューもしており、1979年、ブラジル映画の「Os Trombadinhas」、1981年、シルベスタ・スタローン主演の「勝利への脱出」に出演している。
- 2002年のF-1ブラジルグランプリでゲストに招かれ、チェッカーフラッグを振る役を任された。しかし最終ラップでスタッフと打ち合わせしている間に1位のミハエル・シューマッハ、2位のラルフ・シューマッハが通過してしまい、3位からようやくチェッカーを振るという珍事となった。
- サントスの本拠地であるVila Belmiroスタジアムにあるペレが使用していたロッカーは、ペレが引退した後開かれたことはなく、ロッカーの鍵を持っているのは唯一ペレだけだと言われている。
関連動画
関連項目
- サッカー
- サッカー選手
- ブラジル
- サッカーブラジル代表
- FIFAワールドカップ
- フランツ・ベッケンバウアー - ニューヨーク・コスモスでのチームメイトであり、プライベートでも親友である。
- ディエゴ・マラドーナ
- ジーコ
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- アリエン・ロッベン
- アレッサンドロ・デル・ピエロ
- アンドリー・シェフチェンコ
- アンドレア・ピルロ
- アンドレス・イニエスタ
- アーセン・ヴェンゲル
- イケル・カシージャス
- 伊東純也
- 稲本潤一
- 井原正巳
- ウェイン・ルーニー
- 内田篤人
- エリック・カントナ
- 大久保嘉人
- 岡崎慎司
- 岡野雅行
- 小笠原満男
- 小野伸二
- オリヴィエ・ジルー
- カカ
- 柿谷曜一朗
- ガブリエル・バティストゥータ
- ゲルト・ミュラー
- 酒井宏樹
- 佐藤寿人
- 澤穂希
- シャビ
- シャビ・アロンソ
- ジネディーヌ・ジダン
- ジャンルイジ・ブッフォン
- ジーコ
- 鈴木隆行
- スティーヴン・ジェラード
- セルヒオ・ブスケツ
- セルヒオ・ラモス
- 孫興民
- 田中マルクス闘莉王
- 田中陽子
- ダビド・シルバ
- ダビド・ビジャ
- ティエリー・アンリ
- ディエゴ・マラドーナ
- ディディエ・ドログバ
- デニス・ベルカンプ
- トニ・クロース
- 豊田陽平
- トーマス・ミュラー
- ドゥンガ
- ドラガン・ストイコビッチ
- 中澤佑二
- 中田英寿
- 中村憲剛
- 中村俊輔
- ネイマール
- 原口元気
- ハンス・オフト
- パオロ・マルディーニ
- パベル・ネドベド
- 藤田譲瑠チマ
- フランク・ランパード
- フランク・リベリ
- フランチェスコ・トッティ
- フランツ・ベッケンバウアー
- 古橋亨梧
- ペペ(ポルトガルのサッカー選手)
- 本田圭佑
- 毎熊晟矢
- 松井大輔
- 松田直樹
- マリオ・ザガロ
- マルコ・ファン・バステン
- ミシェル・プラティニ
- 水沼宏太
- 山瀬功治
- ユルゲン・クロップ
- ヨハン・クライフ
- ラウール・ゴンサレス
- ラドミール・アンティッチ
- ラモス瑠偉
- ルイス・フィーゴ
- ルーカス・ポドルスキ
- ルート・フリット
- ロナウジーニョ
- ロナウド
- ロベルト・カルロス
- ロベルト・バッジョ
- ロベルト・フィルミーノ
- ロマーリオ
- ヴェスレイ・スナイデル
▶もっと見る
- 5
- 0pt

