ホモソーシャル(homosocial)とは同性間(特に男性同士)の連帯あるいは対立といった(基本的には非性的な)諸関係・関連性を意味する学術用語。
いい加減な大雑把な概要
ようは「男には男の世界がある」「男同士の話に口を挟むな」「男の友情」とかいう代物をやたら小難しく分析した学術用語である。
「一人は皆のために、皆は一人のために」
「男と男の間に口はさむんじゃねえ」
真面目な概要
社会学(特にジェンダー学)において、同性間(特に男性同士)の関係性を表す用語である。それは同性としての連帯感であったり、親愛の情であったり、あるいは対立感情であることもある。基本的には性愛関係(=同性愛)を含まない関係性として定義づけされる。よりわかりやすく「非性的な関係性」と狭く解釈することもある。[1]
より噛み砕くと「男同士の関わりあいを学術的に解剖すると、その中身はどうなっているか?」という代物であり、この「男と男の繋がり」を定義するためにイヴ・セジウィックという学者が使いだして定着した用語である。
さらにこの関係性の発露を指して「ホモソーシャルの絆(男同士の絆)」あるいはそれを望む心理として「ホモソーシャルへの欲望」という形で使われる事が多い。
軍隊や男子校、団体競技といったいわゆる体育会系の場面での発露がよく指摘されるが、いわゆるオタクコミュニティのような場における女性観にこれを見出す向きもある。
ホモという言葉が入っているため一見同性愛(ホモセクシャル)の用語に見えるが、実際には後述するように「同性愛者の存在自体を否定(というよりも後述するようにこの絆において同性愛は存在してはならない)」という極めて強いホモフォビア(同性愛嫌悪)を内包している。つまり同性愛とは180度反対の理論である。
また、「女はひっこんでいろ」という一言で説明できるミソジニー(女性蔑視)も多分に含んでいることが指摘され、その先にあるのは「異性愛を絶対的な前提とする男尊女卑な家父長制」であるとされる。
女と女の繋がり(女性のホモソーシャル)についても似たような関係性発露があると指摘する学者もいるものの、基本的には男と男の繋がりに限定された話として論じられることが多い。
セジウィックが指摘したこの関係性は「男と男の友情」のみならず「男と男の争い」でも発露している点に注意が必要。
以下、いくつか例を挙げて説明していく。
一人の女を二人の男が愛した三角関係
この用語を一般化させるに至ったイヴ・セジウィックが最初に指摘したもの。
このような状況に陥った時、その二人の男は女との関わりよりもむしろ恋敵の男との関係性に没頭する。つまり女そっちのけで相手の男との関係(ホモソーシャル)ばかりを気にかける、とセジウィックは指摘した。
この手の描写は古典現代問わず数多の作品に頻出する。
男A「こうなりゃ剣で決着をつけよう!」
女「やめて、私のために争わないで!」
男B「女はひっこんでいろ。これは男と男の問題だ」
小説でも漫画でもアニメでも、おそらく一度はこの手の場面を目にしたことがあるだろう。セジウィックの指摘は、このやりとりを学術的に解剖したものであると言える。
重要なのはここでは女の意思は一切考慮されていない。つまり女が男Aと男Bどちらを愛しているかは、AとBの間においてはこの際関係無いのである(ぶっちゃけ女がどっちも嫌いであったとしても関係が無い)。そしてこの意識には「女の意思なんか知ったこっちゃない(言いかえれば女は戦利品でしかない)」というある種のミソジニー(女性蔑視)が前提として存在していることが指摘される。そのような状況において女性は「男と男を関係させる(ホモソーシャルの発露)」ための接着剤でしかない。
おまけにもし女性が相手の恋敵を好いていると気づいた場合、その女性を振り向かせる(自分を好いてくれるようにアピールする)のではなく、恋敵を排除するという方に向かう。これもよく見られる光景である。
古典としてはシェイクスピアの『夏の夜の夢』がある。
劇中ではハーミアという一人の女性をライサンダーとディミートリアス二人の男が取りあうが、(明確にライサンダーへの愛を表明している)ハーミアの意思を知りながらディミートリアスはライサンダーを殺しに森へ入る。そして妖精たちの介入で今度はヘレナという女性を愛するようになった二人は、やはりヘレナの意思そっちのけで決闘しだすのである。
シェイクスピアの作品にはこの手のホモソーシャル的絆を描いた物が割とある(たとえば『ヴェローナの二紳士』。『オセロー』のオセローとイアーゴーにもこの手の関係性を指摘する声がある)。
また近代文学では、読書感想文で買わされる定番夏目漱石の『こころ』でもホモソーシャルの発露が見いだせる。
この作品において描写されるのはお嬢さんという共通の女性に惚れた先生とKという男性二人の強い関連性であり、その両者の言動においてはお嬢さんが先生とKどちらを好いているかは完全に二の次である。
ホモソーシャル的な絆は疑似的な同性愛か?
上記では男2に女1という三角関係において、男性同士が女そっちのけで男同士の関係性を重視しだすということを見てきた。
一方で、いわゆる「男の友情」といった場面を見た場合、それは時には抱きついたりじゃれあったりといったスキンシップとして外に発現することがままある。それは全く関係の無い第三者からは「男同士がイチャついている」という風に見え、それは一周回って同性愛者がパートナーと行うそれと似通ったものが多い。
ならばここである疑問が沸く。
ホモソーシャルに基づく絆は「性的関係」が無いだけで実際には「疑似的な同性愛」なのではないか?という疑問である。その論理構造を明らかにしたのが、一般社会より強いホモソーシャルの絆を発現させるスポーツ界に対する研究である。
結論からいえばこれは、「俺達は全員同性愛者じゃないからじゃれあっても平気」という極めてホモフォビックな論理構造を持つ。以下、ホモソーシャルの絆の中でも「キス」という行為にまで発展する、ヨーロッパサッカーを例に挙げて説明する。
サッカーの劇的場面における選手同士のキス
ホモソーシャルの絆は、軍隊や男子校、団体競技といったいわゆる男臭い場で頻出し、また強く発現することが指摘される。
その中でもヨーロッパサッカーは、キスといった極めて性的な行為までスキンシップとして行うことから、研究対象として分析されている。
サッカーでは激しいプレイの後やゴールを決めた選手がチームメイトに抱きついてキスをする場面が時折見られる(実際にどのような光景かは関連動画参照)。しかし彼らは別に同性愛者ではない(と主張する。本当かどうかは知らない)し、キスをした相手を性的対象として愛しているわけでも当然無い。
この事象もホモソーシャルの絆で説明される。つまりサッカーでゴールを決めるといったような男同士の究極的友情が発現し結実する場面においては、キスやハグといった本来性的なアピールでさえ熱い友情として許容される、という具合である。
しかしここで問題になるのが同性愛の存在である。もしキスをした当事者が同性愛者だった場合、これは友情とは明確に異なる性的関係を示すことになる。しかしそれは「男の友情」というホモソーシャルの絆においては許容され得ない。よってこの手の行為の前提には「男は全て異性愛者である(同性愛者などというものはそもそも自分たちの世界に存在してはならない)」という暗黙の、そして一般社会よりはるかに強いホモフォビアが内包されている。
この辺りはスポーツに限った事ではなく、このことは次項で説明されるような「オカマの排除」へ繋がっている(後述)。
日本ではこの手の場面をもって「ホモだ」などと茶化すようなコメントが見られるが、実際には「俺らは全員が男の異性愛者」という暗黙の、そして絶対的な前提が根底にある。つまり同性愛とは対極の行為なのである。むしろこの意識が(競技として女性が排除され、ホモフォビックな言動として同性愛が排除されるという具合に)完遂されているからこそ、キスといった一見男らしくない行為にまで先鋭化できるのである(このあたりは日本では岡田桂が指摘し論文化している)。
女性や女性性・同性愛者の排除
前述したようにホモソーシャルの絆には「俺達は全員男で異性愛者」であるという暗黙の大前提が存在する。その結果として出てくるのが女性の排除、そして「男らしくない存在(これには同性愛も含む)」の排除である。
典型的なケースとしては学校(男子校や男子のコミュニティ)でお菓子作りが好きな男子や容姿が中性的(=女っぽい)な男子がオカマとレッテル張りされてからかわれたり、いじめられたりといった具合である。
これらは男性同士の関連性において「男で異性愛者以外の何か」を示唆する存在であり、そのため明確な拒絶を見せることが指摘される。なお、ホモソーシャルの絆が顕著に表れる世界では、これらへの排除・攻撃のために性的行為が持ち込まれるケースがままある。噛み砕いていえばこいつは男ではないから性的に犯しても平気というロジックが働いている(「お前オカマだろ。しゃぶれよ」というような具合)。
一方女性同士の関連性では一般的に短髪やジーンズ履き(つまり女らしくない言動)だからといってそれが直接的には蔑視の対象にはならないあたりが注目される。
重要なのはその排除される対象が、実際にジェンダーが男性ではない(トランスジェンダー)とか、同性愛者(ゲイ)であるとかは全く関係が無い(男らしくない、という事自体が問題なのである)。逆に同性愛者であったとしても、それを隠して「異性愛者のフリ」をすることで、極めてホモフォビックなホモソーシャルの絆へ参画しているケースもある(後述のロビー・ロジャースのようなケースが典型だが、男子校でも普通に見られる。ただし当事者にとっては極めてストレスフルな行為であり、メンタルヘルスに悪影響を与える事が指摘されている)。
こういったホモソーシャルな場では、同性愛者・或いは女っぽい男という誤解を避けるために「より男らしく」を求めることになる(そしてそれは女性への侮辱や、同性愛者への差別的発言として現れていることがたびたび指摘される)。
プロスポーツとホモソーシャル
思い切りホモソーシャルが発現する団体競技のプロ選手においては、同性愛者であるとカムアウトすることさえかなり稀で、中にはその手の行為が問題になったケースもある。以下は一例。
- ゲイであることを告白した元サッカーアメリカ代表のロビー・ロジャースは2013年のインタビューで「サッカー界でのカミングアウトは不可能」と述べており、またロッカーは数多くの差別的発言にあふれていたと証言している。彼の証言は上記のようなキス行為が、同性愛では無くホモソーシャルの絆に基づくものであるという証左でもある。
- NBAのジェイソン・コリンズは北米の四大プロスポーツで初の現役カムアウトであるが、したのは2013年の現役最晩年で、翌年引退している。団体競技での現役選手カムアウトは世界的にも極めて稀である。
- 日本人野球選手の多田野数人は、ゲイビデオに出演していたことが判明。大学卒業時のドラフトではどこも手をあげず(AVなのでこれ自体はある程度仕方ないにしても)、渡米した後にまで「自分はゲイではない」と明確に否定するに至っている。
崩れゆくホモソーシャルの世界
もっとも上記の状況はここ十年足らずで劇的に変化してきている。
「男らしさ」「女らしさ」の伝統的価値観が崩れ、「男は外・女は家事」「女は男の三歩後ろ」といった従来の性別役割分担がもはや社会からも望まれなくなりつつあり、それどころか趣味も見た目も多様化した結果「男らしさ」の定義すらも曖昧になり、男女の境界が急速に崩れゆく中で、上記に説明したようないわゆる「女はすっこんでろ」といったノリも徐々に古臭い雰囲気を帯びはじめている(もちろん今でも存在はするが)。
同性愛についても同様である。各国で同性結婚も含めた社会制度の整備が進んだ結果、「周囲に存在しない幻想の世界」から「リアルな隣人」に急速に可視化され、結果「全員が異性愛者」であるという暗黙の前提を持つホモソーシャルの絆は、もはや存在自体を許容されなくなりつつある。
直近では2017年9月にアメリカ軍空軍士官学校長のJay Silveriaが、校内に書かれた人種差別的メッセージを批判するスピーチの中で性の多様性を訴えて、話題となった。
スポーツの世界では上記したように現役選手のカムアウトは極めて稀ではあるが、同性愛を理由に差別待遇をしたら即座に問題となるくらいにはなっている。
イヴ・セジウィックが1980年にこの用語を提唱して40年足らずだが、その間にホモソーシャルのあり様も急速に変質してきていると言える。
今後別の形で再形成されるのか、それともそれ自体が崩壊するのかは注目に値する。
関連動画
サッカーにおけるホモソーシャルの発現例。左:激しく交錯した相手選手と。右:動画前半部分。
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関連コミュニティ
ホモソーシャルに関するニコニコミュニティを紹介してください。
関連項目
脚注
- *厳密には性的行為がこのホモソーシャルの世界観に持ち込まれる事があり、性的行為と完全無縁の関係性では無い。体育会系部活での性的いじめはその典型例である。これは相手の男性性への攻撃という意味合いを多分に含んでいる。この手の性的暴行と同性愛はある程度切り離して考えなければならない。
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