ホリスキーはとは、1979年生まれの日本の競走馬である。菊花賞で世界レコードを打ち立てたが、その後さっぱり勝てなかった。
栃木から来た馬
馬産の中心から外れた栃木産馬であったが、父マルゼンスキー、母オキノバンダ、母の父オンリーフォアライフというかなりの良血で、それなりに期待されていた。
デビューは4歳になってから、1月末の新馬戦であったが、これは11着と惨敗。続く未勝利戦は9馬身もの大差をつけて圧勝。持ち前の強烈な前足の蹴り込みでダート1700メートルを駆け抜けた。
続く400万下若草賞は惜しくも2着。続く400万下、800万下を連勝し、順調に出世しているように見えたが、次走800万下4歳中距離Sをこれは5着。雲行きが怪しくなってきた。
次走日本ダービーはオープン初出場なが5番人気に推されたが、バンブーアトラスの前に9着と敗退。その後休養に入った。
大輪乱れ菊
それまで騎乗していた加賀武見騎手からデビュー時に騎乗していた菅原泰夫騎手に乗り替わり、10月30日の1300万下オパールSに出走。これを2着と好走し、菊花賞に出走すべく京都へと向かった。
この時点で800万下を勝っただけのホリスキーは賞金が足りず、菊花賞に出走できるかは正直怪しかった。しかし、それでも京都へ向かう気迫が通じたか、なんとか出走することができた。
本番でホリスキーは9番人気であった。重賞どころかオープンでもまともに走っていないことを考えればむしろ高評価である。
この日の京都は良馬場ながら芝が荒れに荒れ、さながらダートコースのようになっていた。ダートに素質を見せていたホリスキーにとってこれは好条件であった。
レースは黄金の馬ハギノカムイオーが大逃げを打ち、ハイペースの中をホリスキーは中団から見守る形となった。
そして最後の直線、失速するカムイオーをしり目にホリスキーは猛烈なスピードで先頭に立ち、そのままゴール板を通り過ぎた。
タイムは3分5秒4、菊花賞レコードどころか、当時の芝3000メートルの世界記録であった。ちなみにホリスキーの重賞での勝利はこの菊花賞だけである。
菅原騎手は前年のミナガワマンナに次いで2年連続で人気薄から菊花賞を制覇。マルゼンスキーにとっては初年度産駒での自身が果たせなかったクラシック制覇であり、額面以上に大きな勝利であった。
黄金世代の憂鬱
その後ホリスキーは有馬記念を避けて中山のオープンに出走したが、これを3着と取りこぼし、明けて初戦のAJCCもアンバーシャダイの前に6着。目黒記念、アルゼンチン共和国杯と連続で負けてしまった。
だが、ホリスキーはステイヤーである。続く春の天皇賞は当然期待され、2番人気に推されたが、1番人気のアンバーシャダイの前に2着。悔しい敗北後、脚部不安で休養、シーズンを終えた。
6歳となってAJCCで戦線復帰したが、ここは惜しくも2着。続くオープンエイプリルSでおよそ1年半ぶりの勝利をつかみ、次走天皇賞春では圧倒的な1番人気となった。
しかし、伏兵モンテファストの前に今度は3着。次走は宝塚記念となったが、こちらは10着。次走は2000メートルに短縮された秋の天皇賞だったが、ここでは15着と最下位に沈み、これを最後に現役を引退した。
脚部不安と同世代の層の厚さに苦しめられ、ついに菊花賞以外の重賞を制することはできなかった。
引退後
引退後は種牡馬に転身。マルゼンスキーの後継種牡馬として大いに期待され、女傑ユキノサンライズを筆頭に5頭の重賞馬を出した。ダート巧者だったことから地方でも多くの活躍馬を出している。
全体の傾向としてはクズが少なく、安定して走る出す優秀な種牡馬で、1991年にはサイアーランキング8位に入るなど、現役時代とは打って変わって安定した成績を残している。
その後2000年シーズンを持って種牡馬を引退。同年11月に老衰で世を去った。
ホリスキーが一発屋だという人もいるが、世界レコードを樹立し、その後も勝てないまでもいいレースをしている。一発屋というにはあまりに強い、ホリスキーはそんな馬である。
主な産駒
- ユキノサンライズ (1987年産 牝 母 サリュウジョウ 母父 *カラード)
- シンホリスキー (1988年産 牡 母 シンサーザンクロス 母父 *ボンモー)
- ストロングカイザー (1988年産 牡 母 ダンフリースシチー 母父 アローエクスプレス)
- ロンシャンボーイ (1989年産 牡 母 ファーストヒダカ 母父 *ファーストファミリー)
- ラガーチャンピオン (1990年産 牡 母 ハーモニーゼア 母父 *リイフォー)
関連動画
関連商品
関連コミュニティ
関連項目
- 1
- 0pt
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%9B%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC