ホレーショ・ネルソンと(1758~1805)とは、大英帝国の海軍軍人、貴族。トラファルガーの海戦に勝利しナポレオン戦争における英国海軍の優位を決定づけるなど、海上でいくつもの戦功を立てた偉大な提督である。
概要
イングランド、ノーフォーク州の牧師の家に11人兄弟の六番目として生まれる。母方の親族であるオーフォード伯爵ホレーショ・ウォルポールの名前を貰い名付けられる。
12歳の時に母方の伯父モーリス・サッキングが艦長を務める三等艦リゾナブルに二等水兵として乗り組み、ほどなくして士官候補生となった。
北極探検や商船勤務などを経てキャリアを積み重ね、18歳で海尉となる。ロッカー艦長指揮下のローストフでアメリカ独立戦争に参加し、実戦を経験する。このころピーター・パーカー提督の知遇を受け、彼の推薦で海尉艦長に昇進。翌年には勅任艦長に昇るなど海軍士官として出世街道を歩む。
中米での軍務で風土病に犯され身体を壊し療養に専念した間を除き海上勤務を続け、フランス革命戦争を迎える。コルシカ島攻略作戦に従事しその過程で片目を失う重傷を負う。
ジェノヴァの海戦などに参加した後、ジャーヴィス提督の下で戦隊指揮官に任命され小規模ながら複数の艦を指揮する立場でサン・ヴィセンテ岬沖の海戦に参加する。この時上官であるジャーヴィス提督の命令を無視して敵艦隊に突っ込み、結果海戦を勝利に導く。大戦果となったことやジャーヴィス提督の好意で命令無視は不問とされ、騎士に叙勲されるとともに青色艦隊少将に昇進した。
激化する対フランス戦争を最前線で戦い続け、テネリフェ島攻略作戦では右腕を失う。こうして彼は隻眼にして隻腕の提督となった。
傷が癒え現場に復帰した後は地中海における海上封鎖作戦に従事した後、ナイルの海戦でフランス艦隊を撃滅し男爵の爵位を得る。
ハイド・パーカー提督の指揮下で参加したコペンハーゲンの海戦では、「戦闘停止」の命令を示す信号旗を見えない方の目に望遠鏡を当てることで無視し強引に戦闘を継続。勝利を得た。余談だが、この時のネルソンの行動が「見て見ぬふりをする」という意味の"turn a blind eye"という言い回しの語源になっている。
この時も命令無視は問題とはならず、その後も順調に昇進を重ねる。
そして1805年。(自称)フランス皇帝ナポレオンはヨーロッパにおけるほとんど唯一の敵である英国の息の根を止めるため、三十万を超える大軍勢”アルメ・ダングルテール(イギリス侵攻軍)”をドーバーを越えてアルビオンへと送り込もうと企図していた。その障害となる英国海軍を撃滅を目指し、従属させていたスペインの海軍をも動員して大艦隊が編成される。
この仏西連合艦隊とネルソン率いる英国地中海艦隊との決戦が、海軍史に燦然と輝くトラファルガーの海戦である。
"England expects that every man will do his duty"の信号旗掲揚から始まったこの戦いでネルソンは二列分けた自らの艦隊を敵縦隊に真横から突っ込ませる積極果敢な作戦を取り、連合艦隊を分断。練度の高い英海軍の優秀な砲撃速度が最も生かせる接近戦に持ち込むことに成功する。仏西艦隊の半分以上を撃沈・拿捕しながら英艦隊は喪失艦無しという一方的な勝利を得たものの、ネルソン自身は狙撃に倒れ、戦闘の勝利を見届けた後、息を引き取った。
彼の最後の言葉は"Thank God, I have done my duty"だったと伝えられる。
その後、ネルソンの遺体は樽に入れられ本国へと帰還する。一説によると、腐敗防止のために入れられたブランデーは彼の栄光にあやかろうとする乗組員たちによって航海中に飲みつくされてしまったという。
この海戦の勝利によってナポレオン戦争における英国の海上での優位は決定的となり、ネルソンの元上官であるジャーヴィス提督が議会で演説した「フランス軍が来ないと申し上げることはできません。しかし、海からは来られないと申し上げることはできます」という言葉を証明することとなった。
英雄として迎えられたネルソンは国葬の礼を持ってセント・ポール大聖堂で葬られる。彼の最後の旗艦HMS ヴィクトリーはその後も英国海軍の精鋭として活躍を続け、現在でも世界最古の現役艦としてポーツマスにその雄姿を保っている。
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