ホンタイジは漢字で書くと皇太極。これは通称であって本名は不明。
概要
女真族の統一を果たしたヌルハチの後を継いで二代皇帝になった男。女真族とモンゴルと漢人から推戴を得て清皇帝として即位する。これは女真族のハン(君主)から清皇帝となった訳ではなく、女真族のハンと漢民族の皇帝を兼任したということである。
多民族国家をまとめるために、それまで女真族のものであった八旗をモンゴルや漢人にまで広げるなどの改革も行った。
生涯
元々ホンタイジはヌルハチの後を継ぐ予定にはなかった。ホンタイジは八旗の王(ベイレ)の一人にすぎず、序列でいえば4位にあたる存在であったとされる。ホンタイジ即位までの経緯は諸説ある。一説には、元々ヌルハチ時代の女真族の君主(ハン)は八は旗王(ベイレ)の代表者にすぎず、分権統治体制にあった。しかし徐々にハンの権力が高まっていくことを恐れたベイレ達は、次代のハンには序列の高くないホンタイジを推す事によってハンの権威がこれ以上あがらないように画策したとされる。即位したヌルハチには二つの道があった。一つはベイレの代表者の地位に甘んじる安寧の道。もう一つはベイレと対立し、専制君主を目指す茨の道。ホンタイジは後者をとった。
ホンタイジの内の敵は序列1〜3位のアンバ=ベイレ、アミン=ベイレ、マングルタイ=ベイレであった。ホンタイジは即位当初は彼らの力に押され族内での支援は望む事ができなかった。これはヌルハチの挙兵時と似通っている。そこでホンタイジは族外、つまり漢人とモンゴル人の力を借りる事にした。ホンタイジはヌルハチ時代の漢人弾圧政策を切り替え、優秀な漢人を登用し、また六部などの漢人式行政システムを取り入れた。また軍事面ではモンゴルの騎馬隊を編成した。同時にアンバらから政治権力を取り除いていった。
一方で対外政策としてホンタイジは内モンゴルへの侵攻を開始した。内モンゴルにはヌルハチ時代から対立していたチャハル部のリンダン=ハンという英雄が存在した。リンダンはホンタイジに対抗して、西方に移動し内・外モンゴルのほとんどを統一することに成功する。しかし、1634年にリンダンが死ぬとチャハル部の諸王らは次々とホンタイジに帰属し、翌35年にはリンダンの息子エジェイも降伏した。チャハル部の16部49ベイレは決議のもと、ボグド=セチェン=ハンの称号を元帝国の玉璽と共にホンタイジに送った。ちなみに大元ウルス(元王朝)は朱元璋の攻撃では北帰しただけであったので、実質的にはともかく正式な滅亡はこの時になる。
これをきっかけにホンタイジはこれまでの民族名であったジュシェン(女真)をマンジュ(満州)に改め、満州族、モンゴル族諸王、漢族武将らの推戴を受けて大清皇帝の位につき、祟徳と年号を改めた。
こうして皇帝位についたホンタイジは満を持して安定した耕作地を求めて明に侵攻しようとするが1643年に病死してしまった。
- 初代ヌルハチによる建州女真の統一(マンジュ国の建国)
- 初代ヌルハチによる女真族の統一(アイシン国、後金の建国)
- 二代目ホンタイジによる皇帝即位(清王朝の成立) ←いまここ
- 三代目順治帝による北京入城(このちょっと前に明滅亡)
- 四代目康煕帝による中国統一
- 五代目雍正帝、六代目乾隆帝による領土拡大
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