ボヘミア(Bohemia)とは、現在のチェコ共和国の西部および中部を指す歴史的地理呼称である。山地に囲まれているため、地理的には「ボヘミア盆地」と呼ばれることもある。中心都市はプラハ。
概要
ラテン語では Bohemia (ボヘミア)、ドイツ語では Böhmen (ベーメン)、チェコ語では Čechy (チェヒ)と称されるが、日本語では「ボヘミア」と呼ばれることが多い。
元々、この地にはケルト人の一派であるボイイ人(Boii)が住んでいたとされ、ラテン語名の Bohemia はこのボイイ人に由来するとされる。その後、スラヴ系の民族が西方から移住し、このボヘミアに定着するようになった。中世に神聖ローマ帝国が成立すると、ボヘミア地方の領主はこれに臣属し、「ボヘミア王国」として認められた。細かい点を除くと、このボヘミア王国の版図が現在のボヘミア地方の範囲を指す。
神聖ローマ帝国との関係が深まったこともあり、中世には多くのドイツ系住民がボヘミア王国へと移住した。彼らの多くはザクセン、バイエルンなどとの国境地帯に定住し、その子孫は後に「ズデーテン・ドイツ人」と呼ばれるようになった。また、11世紀から14世紀にかけてボヘミア各地に多くの都市が建設され、プラハを中心にユダヤ人も多数暮らすようになった。
一方、ボヘミア王国の東モラヴィア地方は「モラヴィア辺境伯領」、北東のシレジア(シュレージエン)地方は「シレジア公国」、北西のルサティア(ラウジッツ)地方は「上ルサティア辺境伯領」および「下ルサティア辺境伯領」となったが、後にボヘミア国王がこれらの君主を兼ねるようになり、カレル1世(神聖ローマ皇帝としてはカール4世)の時代には「ボヘミア王冠諸領」として一体化が図られた。広義の「ボヘミア」はこれらの領土を含む。ルクセンブルク家の事実上の世襲となっていたが、その後ハプスブルク家の世襲となる。
ただし、上下ルサティアは1635年にザクセンへと割譲され、シレジアの大部分はオーストリア継承戦争(1740-1748)および七年戦争(1767-1763)によってプロシア(プロイセン)へと奪取されたため、「ボヘミア王冠諸領」の面積は減少した。ボヘミア王国およびモラヴィア辺境伯領の全部と、シレジア公国のごく一部がハプスブルク家に残されたが、これが現在のチェコ共和国とほぼ同じ輪郭となった。
1867年のハプスブルク君主国内の「妥協」により、ツィスライタニア、すなわちオーストリア帝国の一部となる。1919年のチェコスロヴァキア独立によって全土がチェコスロヴァキア領となるが、1938年のミュンヘン会談によってドイツに接する国境地帯(ズデーテン)がナチス・ドイツに割譲され、1939年には残る領土も「ボヘミア・モラヴィア保護領」としてドイツ支配下に入った。1945年のドイツ敗戦により、再びチェコスロヴァキアの一部となる。この間の民族主義的な動きによってボヘミア内のドイツ人およびユダヤ人の数は激減し、スラヴ系のチェコ語を話す「チェコ人」が大多数を占める単一民族的な地域へと塗り替えられた。そして、1993年の「ビロード離婚」により、チェコ共和国の一部となる。
現在のチェコ共和国において「ボヘミア」と「モラヴィア」との区別はそこまで重要な意味を持っていない。ただし、歴史的な呼称であるため、都市名の一部に痕跡を留めているものもある。
- チェスキー・クルムロフ(Český Krumlov):世界遺産で知られる南ボヘミアの都市。「ボヘミア地方のクルムロフ」という意味である。
- チェスキー・ブジェヨヴィツェ(České Budějovice):同じく南ボヘミアの都市。「ボヘミア地方のブジェヨヴィツェ」という意味である。なお、ドイツ語ではベーミッシュ・ブートヴァイス(Böhmisch Budweis)と呼ばれるが、これも同様の命名。バドワイザーというビール名の由来となった。
雑学
- 自由奔放な芸術家を指して「ボヘミアン」という場合があるが、これはフランス語に由来する用法である。フランスではロマ(いわゆるジプシー)の多くがボヘミアからやってきた流浪の人と考えられたため、このような用語が誕生した。
- ボヘミア地方は牧畜が盛んであったほか、鉱業や各種の手工業が発達した。とりわけ日本では「ボヘミアン・グラス」で知られている。
- ボヘミア国王は神聖ローマ帝国内で長らく唯一の国王であり、選帝侯の一角を占めていた。その重要性から「ボヘミアを制する者は欧州を制する」とまで云われていた。
- 神聖ローマ帝国の一部であり、ドイツ語を話す住民がかなりの割合を占めていたため、歴史的には「ドイツの一部」と認識されることも多かった。1848年の三月革命後、フランクフルトでドイツ憲法を制定する国民議会が開催されることになった際、ボヘミアの歴史家フランティシェク・パラツキーもこれに呼ばれたが、ボヘミアのドイツ化を招くことを懸念し、これを辞退したとされる。
- アーサー・コナン・ドイルによるシャーロック・ホームズ・シリーズの短編小説『ボヘミアの醜聞』(A Scandal in Bohemia)には「ボヘミア国王」なる人物が登場するが、当時のボヘミア国王すなわちオーストリア皇帝フランツ・ヨーゼフ1世とは年齢が一致しないため、誰がモデルなのかを巡ってシャーロキアン間の論争がある。
関連項目
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