ポーランド王国とは、1025年から1569年或いは1795年まで、ポーランドを中核として存在した王国である。
概要
10世紀頃まで、ポーランド平原にいた公国群を統合してピャスト朝ポーランド公国が成立。その後、神聖ローマ帝国との外交的な対等を実現すると、ポーランド王国となる。その後、内紛と外憂で衰退するも、14世紀にはハールィチ・ヴォルィーニ大公国(現在のベラルーシ南部・ウクライナ西部・モルドヴァ辺りに存在した)を吸収する。
ピャスト朝断絶後、ヤギェウォ朝のもとで、リトアニア大公国との人的同君連合を築いてその盟主として君臨。1466年には、ドイツ騎士団を従属させた。リトアニアとの一体化を進め、1569年ルブリン合同によって、物的同君連合である、ポーランド・リトアニア共和国へと発展した。1572年にはヤギェウォ朝が断絶すると、選挙王制となる。
16・17世紀は共和国絶頂の時であった。人口増加著しい西欧に対し、穀物を中心とした輸出品で国庫は潤った。共和国の元で、黄金の自由と呼ばれる議会制民主主義を達成し、また、西欧が三十年戦争で疲弊する中で、三十年戦争に直接関与しなかったことで国力を温存することに成功した。1618年にはデウリノの和約で最大版図を実現するに至る。
然し、周辺国が絶対王権への道を進む中で、選挙権を持つ貴族の強大化は内紛の原因となる。折しも、西欧に新大陸からの穀物が流入し始め、共和国の経済は悪化していった。このような中で中小貴族が没落していく一方大貴族(マグナート)が買収する金権政治が横行した。更に、ウクライナ・コサックの叛乱を始まりとしたロシア・ツァーリ国との争いや共和国の弱体化を狙ったスウェーデン王国との戦争によって、国内は大荒れし、大洪水時代と呼ばれる衰退の時代となる。
第二次ウィーン包囲ではオスマン帝国の侵攻を食い止めたことで、中興を果たすが、後にザクセンとの同君連合が組まれると、大北方戦争に巻き込まれ、バルト帝国最後の輝きを見せたスウェーデン王国に全土を荒らされ、勝利者側にたったものの国家財政が逼迫する。16世紀の覇権国家同士が共倒れし、周辺では1701年にはプロイセン王国が、1721年にはロシア帝国が成立し、オーストリアは支配領域の再編を果たすといった周辺国の強大化に対抗できないままでいた。大北方戦争中にスウェーデンに君主を押しつけられたことが先例と成って周辺国の内政干渉が激化。ポーランド継承戦争では、ポーランドは周辺国の勢力争いの場と化した。
周辺国の中でも、ポーランドに最も影響を持ったのがロシア帝国だったが、これを危険視したプロイセン王国はオーストリアを誘って、三国で第一次分割を行う。
時の国王、スタニスワフ・アウグスト・ポニャトフスキはポーランドの再興を夢見て、1791年に極めて先進的なヨーロッパ史上初の民主主義成文憲法(一般に5月3日憲法)を発布したが、これが絶対王政に対する脅威であるとの危機感を覚えたロシア、プロイセン、オーストリアの三国による第二次更に第三次分割を決行。ポーランド王国は消滅した。
領域
ポーランド・リトアニア連合 |
他の同君連合 |
周辺国
- 神聖ローマ帝国
- ドイツ騎士団/プロイセン公国/プロイセン王国
- シロンスク公国(シレジア公国)
- ボヘミア公国/ボヘミア王国
- ハンガリー王国
- リトアニア大公国
- モンゴル帝国/ジョチ・ウルス(キプチャク・ハン国/金帳汗国)
- キエフ・ルーシ(キエフ大公国)
- オスマン帝国
- モルダヴィア公国
- スウェーデン王国
関連動画
ポーランドの歴史を一気に示す3DCGアニメ映像。ポーランドの著名なイラストレーター/アニメーターのTomasz Bagińskiによって制作されたもの。ポーランドの政府機関によりYoutubeで公開されており、下記はニコニコ動画に転載されたもの。1795年ポーランド王国消滅は4分25秒頃。
関連項目
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