ポール・マッカートニー(Paul McCartney)は、イングランドのリヴァプール出身のミュージシャン。元ビートルズのベーシストである。
ポピュラー音楽史上、世界でもっとも成功した作曲家。(ギネスブックによる)
ジョン・レノンとともに、ビートルズの多くの曲を作詞・作曲したことで知られる。
略歴
本名ジェイムズ・ポール・マッカートニー(James Paul McCartney)。父と曾祖父の名前もジェイムズだったので、ミドルネームのポールを通名としている。ちなみに息子の名前もジェイムズ。
誕生~ビートルズ時代
父ジェイムズはセールスマンでアマチュアのジャズミュージシャン(ピアニスト・トランペッター)。母メアリーは看護婦。
1956年、母メアリーが乳ガンで死去。メアリーのイメージはレット・イット・ビーの聖母マリア(Mother Mary)などに現れている。
1957年7月6日、ジョン・レノンと友人らのバンド、ザ・クオリーメンのライブでジョンと出会う。この時、ジョンはギターをバンジョーのチューニングで弾いていたが、ポールはジョンにレギュラーチューニングを教え、トゥエンティ・フライト・ロックなどを弾きこなした。ジョンはこれを見てポールをクオリーメンに迎え入れる。ポールは後に友人ジョージ・ハリスンをジョンに紹介し、ジョージもクオリーメンに加入。
クオリーメンは「ジョニー&ザ・ムーン・ドッグス」、「ザ・シルバー・ビートルズ」と改名を繰り返した後、1960年、「ザ・ビートルズ」となる。
当初、ポールはギタリストだったが、ベーシストのスチュアート・サトクリフが脱退した事を受けてベースに転向している。
地元リヴァプールやドイツのハンブルクでの演奏活動で実力を付けたビートルズはEMIのオーディションに合格。デビュー直前でドラマーのピート・ベストが解雇され、リンゴ・スターが加入。ピート...(´;ω;`)
1962年、ビートルズはレコードデビューする。ファーストアルバムとセカンドアルバムでほぼ1年間英国ヒットチャート1位を独占するなど空前の人気を獲得。異常人気はアメリカにも上陸、ビートルズの評価は世界的なものとなり、現代に至るまで大きな影響を及ぼし続ける史上最大のバンドとなる。
ビートルズでポールはジョンとともに曲作りの中心を担った。また、ポールのベースプレイは超絶技巧ではないが、非常にメロディアスで独創的なものであり、後進のミュージシャンに与えた影響は大きい。元はギタリストであり、ドラム・キーボードも演奏できるため、特に後期はリンゴ不在時にドラムを担当したり(バック・イン・ザ・USSRなど)様々な楽器を演奏している。
1967年8月27日、マネージャーのブライアン・エプスタインが急死。ポールはビートルズをまとめるため、中心となってバンドを牽引しようとしたが、これが他のメンバーの不評を買う。ジョンはオノ・ヨーコとの活動に夢中になり、ビートルズは急速にまとまりを失っていく。
1969年9月、非公開ながらジョンが他のメンバーにビートルズ脱退を宣言。
1970年4月10日、ポールは自らビートルズ脱退を発表。ビートルズは実質上解散する。
なお、ビートルズ時代の曲はLennon/McCartneyとクレジットされている。これはジョンとポールのどちらが書いた曲でもLennon/McCartneyとクレジットするという紳士協定によるものであり、ジョンが一人で書き上げた曲、ポールが一人で書き上げた曲、ジョンとポールで部分ごとに分担した曲など制作状況は様々である。作詞はジョン、作曲はポールと言われる事もたまにあるが、実際はそのような分業は行われていない。
ソロ活動
1970年、アルバム「マッカートニー」を発表。全ての楽器をポールが担当し、大部分を自宅スタジオで録音した手作り感のあるアルバム。作曲家・マルチプレイヤーとしての見事な才能を見せているが、批評家の評価は厳しかった。
1971年5月、アルバム「ラム」を発表。セッションミュージシャンやオーケストラの起用などはあるが、雰囲気としてはシンプルな内容で、前作同様批評家への受けは悪かった。この頃のジョンとポールは曲でお互いを皮肉りあっており、ジョンに向けたと思われる曲が数曲含まれる。ラムのジャケットはジョンの「イマジン」に収録された写真でパロディされた。
ウイングス時代
1971年8月、新バンド・ウイングスを結成。メンバー変更は頻繁だが、主要メンバーであるポール、リンダ、元ムーディー・ブルースのデニー・レインは解散まで在籍し続ける。
ポールの知名度と、大半の曲をポールが書き、歌っていることから、ウイングスはポールの一人バンドと見られがちである。しかし、ポールはそう見られる事を嫌い、他のメンバーの曲も積極的に取り上げている。最大のヒット曲、「夢の旅人」はポールとデニーの共作である。
1971年12月、ウイングスとしてのファーストアルバム「ワイルド・ライフ」を発表。英国チャート11位、米国チャート10位に終わり、前途多難なスタートとなる。
1973年3月、シングル「マイ・ラヴ」を発表。大ヒットとなる。
1973年4月、アルバム「レッド・ローズ・スピードウェイ」を発表。「マイ・ラヴ」の大ヒットを受け、こちらも順調にヒット。ウイングスの活動は軌道に乗り始める。
1973年6月、映画「007 死ぬのは奴らだ(原題: Live and Let Die)」のテーマ曲「Live and Let Die」を発表。
1973年12月、アルバム「バンド・オン・ザ・ラン」を発表。レコーディング直前にギタリストとドラマーが脱退するというトラブルに見舞われ、ポールがドラムを演奏している。大ヒットとなり、ウイングスの代表作となる。
同年、前年から続くワールドツアーの一環としてウイングス全米ツアー。公演回数31回、観客動員数60万人。ワールドツアー全体では観客動員数200万人。この全米ツアーの様子はライブアルバムにまとめられ、全米1位を記録。
1977年、シングル「夢の旅人」(原題: Mull of Kintyre)を発表。アメリカではチャート33位に終わったが、イギリスで記録的な大ヒットとなり、ビートルズのシー・ラブズ・ユーが持っていたシングル売り上げ記録を塗り替えた。
1979年、アルバム「バック・トゥ・ジ・エッグ」を発表。レッド・ツェッペリンからジョン・ボーナムとジョン・ポール・ジョーンズ、ザ・フーからピート・タウンゼントとケニー・ジョーンズ、ピンク・フロイドからデヴィッド・ギルモアなど豪華なメンバーを迎えたロック・オーケストラ「ロケストラ」による2曲を収録。
ウイングス解散
1980年1月16日、ウイングス初の日本公演のためポールは成田空港に着いた。しかし、空港でポールの荷物から大麻が発見され、ポールは現行犯逮捕される。ポールは10日間勾留され、日本公演は中止、ウイングスの活動も停止状態になる。
同年12月8日、ジョン・レノンが自宅前でファンの男に銃撃を受け死亡。衝撃を受けたポールは数ヶ月ライブ活動を休止。
1981年、デニーがウイングスを脱退。ウイングスは実質的に解散する。
再度ソロへ~現在
1982年、アルバム「タッグ・オブ・ウォー」を発表。プロデューサーにビートルズ時代からの盟友、ジョージ・マーティンを迎え、ビートルズ的な音に回帰。ゲストミュージシャンとしてスティーヴィー・ワンダーなどと共演。80年代、ポールは様々な大物ミュージシャンと共演を重ねる。まるでジョンの替わりを求めるように。
1983年、アルバム「パイプス・オブ・ピース」を発表。マイケル・ジャクソンと「セイ・セイ・セイ」などで共演。
1984年、自ら主演・脚本を担当した映画「ヤァ!ブロード・ストリート」(原題: Give My Regards to Broad Street)を公開。同名のサントラ盤を発表。ビートルズ時代を含めた過去曲のセルフカバーを多数収録。
1986年、アルバム「プレス・トゥ・プレイ」を発表。セールス的には不調に終わる。
1988年、当時のソ連限定でアルバム「バック・イン・ザ・U.S.S.R.」(原題: Снова в СССР)を発表。ロックンロールのスタンダードナンバーのカバーアルバム。
1989年、アルバム「フラワーズ・イン・ザ・ダート」を発表。エルヴィス・コステロと共演。久しぶりのヒットとなる。
1990年、ソロとして初の来日公演。その際、息子がファンであった宮本茂を会食に誘い、彼のサインを欲しがったという話は、ゲーム業界の伝説として語り継がれている。
1991年、カール・デイヴィスと共作でクラシック作品「リヴァプール・オラトリオ」を発表。以後現在までに4枚のクラシックアルバムを発表している。
同年、ユースとの覆面ユニット、ザ・ファイアーマンを結成し、アンビエントアルバム「ストリベリーズ・オーシャンズ・シップス・フォレスト」を発表。以後、現在までにザ・ファイアーマン名義で3枚のアルバムを発表している。
1999年、アルバム「ラン・デヴィル・ラン」を発表。ロックンロールのカバーアルバム。新曲も3曲。
この年、娘のステラ・マッカートニー(ファッションデザイナー)がクロエから独立、ブランド「Stella McCartney」を立ち上げる。
2005年、アルバム「ケイオス・アンド・クリエイション・イン・ザ・バックヤード」を発表。全ての楽器をポールが担当。
2007年、アルバム「追憶の彼方に~メモリー・オールモスト・フル」を発表。
2012年、アルバム「Kisses on the Bottom」を発表。ジャズのスタンダードナンバーのカバーをメインに、オリジナル2曲も収録。
10代の頃、ポールは「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」の中で、幸せな夫婦生活と、庭いじりをして日々を過ごすような悠々自適の生活を送る60代の自分を夢想した。
それとは裏腹に、現実のポールの60代は離婚を巡って法廷闘争に悩まされる時期が続いた。離婚問題もようやく決着したが、ポールは現在も精力的な活動を継続しており、当面悠々自適の生活に入るつもりはなさそうである。
ポール死亡説
ビートルズ時代後期、ポールはすでに死亡しており、今いるポールは本人そっくりの別人だという噂が広まった。今から考えると冗談の様な話だが、いくつか「根拠」が見つかったとされ、信じた人も多かったようだ。
代表的な「根拠」
- サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンドのジャケットでポールの頭上に掲げられた手は東洋では死を意味する。
- サージェント~のジャケットの花壇に花でベースギターがかたどられており、これはポールの葬儀を意味する。
- サージェント~の衣装でポールは「OPD」と書かれたワッペンを付けているが、これはOfficially Pronounced Dead(公式に死亡を宣告)を意味する。
- サージェント~の裏ジャケットでなぜかポールだけ背中を向けている。
- ストロベリー・フィールズ・フォーエバーの最後に聞こえるジョンのつぶやきは"I buried Paul."(私はポールを埋葬した)と言っている。ちなみに実際はcranberry sauce(クランベリーソース)と言っている。特に意味なし。
- マジカル・ミステリー・ツアーのジャケットでポールの衣装だけが黒であり、これは死を意味する。
- 映画マジカル・ミステリー・ツアーのラストシーンでポールだけ胸に黒いバラを付けている。
- アビイ・ロードのジャケットで、ポールだけが裸足である。これは死人を意味する。また、ポールは左利きなのに右手でタバコを持っている。他のメンバーも、ジョンは神父、リンゴは葬儀屋、ジョージは墓掘り人を意味し、ジャケット全体がポールの葬儀を表している。
- アビイ・ロードのジャケットで、停まっているフォルクスワーゲンのナンバーが「28IF」であり、もし(if)生きていたら28歳だったという意味である。実際はポールは27歳だった。
つまり…どういうことなんだキバヤシ!
「本物のポール・マッカートニーは66年に死んだ!今いるポールは、なぜか楽器と歌がプロ並にうまい、極秘そっくりさんコンテストの優勝者だったんだよ!」
結論
もちろん、ポールは生きていた。
当初は噂を面白がっていたポールも、あまりに騒ぎが大きくなったためLIFE誌に声明を発表。騒ぎは沈静化した。
このような噂が広まった背景として、ビートルズが67年以降、スタジオでのアルバム制作にかかりきりでライブ活動を停止していたことがある。ライブ休止には裏の事情があるのでは、という想像からこのような憶測が生まれたらしい。
93年発表のライブアルバム「ポール・イズ・ライブ」のジャケットでポールはアビイ・ロードの横断歩道をちゃんと靴を履いて歩き、停まった車のナンバープレートは「51 IS」(51歳です)となっている。クランベリーソース。
主な使用楽器
ベース
ギター
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関連項目
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