マシュー・カルブレイス・ペリー(1794~1858)とは、黒船来航でおなじみのアメリカ海軍軍人である。
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概要
アメリカ海軍軍人。遣日アメリカ特派大使・東インド艦隊司令長官。「蒸気海軍の父」、「熊親父」等の異名を持つ。
嘉永6年(1853年)に四隻の艦隊を率いて日本に来航し、翌嘉永7年(1854年)の再度の来航で、日米和親条約締結につなげていった、ダグラス・マッカーサーと並ぶ小中学生でも知っているアメリカの歴史上の人物。
もっとも実証研究が進んだ今、江戸幕府側もペリーの艦隊の出航時からその動向をつかんでいた、等が明らかになっていき、彼の黒船来航を幕末の重要な転換点、とみなす見方は過去のものとなりつつある。
海軍大佐クリストファー・レイモンド・ペリーとセーラの間の3男として、ロードアイランド州ニューポートに生まれる。兄に米英戦争の英雄であるオリバー・ハザード・ペリーがいる。
1809年に14歳にして海軍士官候補生として海軍に入り、1837年に海軍大佐に昇進。最初に導入された蒸気船フルトン号の艦長を務めた。1841年にニューヨーク港内における全艦の司令官となり、提督の称号を得た。
1852年に東インド艦隊司令官朝に就任し、遣日特派大使として日本遠征を命じられる。こうしてフィルモア大統領の親書を携え、バージニア州ノーフォークを出港した。
1853年に小笠原諸島に寄港後、旗艦サスケハナ号をはじめとした四隻の艦隊で浦賀沖に来航。海兵隊ら300名で久里浜海岸に上陸し、応接所で浦賀奉行・戸田氏栄、井戸弘道に大統領親書を渡し、那覇に退去した。
1854年に神奈川沖に再度来航し、横浜の応接所で幕府と日米和親条約(神奈川条約)を締結調印した。その後下田の了仙寺で日本側全権である林復斎(林大学頭)らと日米和親条約附録協定(下田条約)に調印。下田・箱館の開港、薪炭や水、食料などの供給、漂流民の救護、領事の下田駐留などを決めていった。
こうしてこの年のうちにペリー艦隊は下田を出港し、帰国後『日本遠征記』を刊行。帰国後には通商条約の不備を批判されたが、最恵国待遇の獲得などの成果で反論したという。そのまますぐ病没した。
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関連項目
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