マジノ線とは、フランスがドイツとの国境沿いに造った長大な要塞線である。
概要
第一次世界大戦時、フランスは国内にドイツ軍の侵入を許し、泥沼の塹壕戦に発展。国土は荒廃し、勇敢な若者を多く失ってしまった。かろうじて戦勝国にはなったものの、戦争の爪痕は大きかった。ぼろぼろのフランスにとって、危険な隣人であるドイツへの対策は急務であった。
時の陸相アンドレ・マジノは凄惨な塹壕戦を避けるべく専守防衛を掲げ、ドイツとの国境線沿いに要塞線を築く事を提唱した。いわゆる欧州版万里の長城である。1927年に要塞建造が認可され、160億フランという巨費を投じて工事開始。フランスが持つ全ての技術と工夫が注ぎ込まれた。南はイタリアとの国境線、北はベルギーやルクセンブルグとの国境線まで幅広くカバーする、この長大な要塞線は彼の名前からとってマジノ線と名付けられた。全長140km、総延長340kmに達し、15kmごとに108の主要要塞群を設置。要所にはトーチカ、監視塔、旋回砲塔が置かれた。多数配備された135mm榴弾砲、75mmカノン砲M1933、37mm対戦車砲M1934などが愚かにもフランスへ侵入しようとする闖入者を狙い撃つ。砲座を囲むトーチカは3.5m厚のコンクリートであり、防御面も充実。あまりの堅牢さに戦後になっても解体できず、現在もその姿を留めている部分がある。
地下要塞部分には居住区、発電機、弾薬庫、医療室、兵器類の点検修理をするためのメンテナンスルーム、作戦司令室、食堂などを内包。それぞれの要塞は地下鉄で連結され、地上に出ずとも行き来可能となっている。地上にはマッシュルームと呼ばれる空気の取り込み口が点在する。要塞で勤務するフランス兵が快適に過ごせるよう、映画館が用意された。また迅速な物資補給を行うべく移動用の電車が準備され、加えて常時大軍が駐留。難攻不落という言葉はまさにマジノ線のために存在した。この無敵の大要塞はフランス国民に大きな安心感を与え、荒廃した国土を守る守護神となりえた。
1934年、フランスの威信をかけたマジノ線は無事完成した。ただしベルギー方面には要塞群が造られず、マジノ線の範囲外であった。「軍事予算が尽きた」「低地は地盤が緩くて地下要塞が造れない」「ベルギー関係に悪影響を及ぼす」「アルデンヌの森があるから元々侵攻不可」といった理由が挙げられる。またマジノ線に費用を吸い取られすぎたせいで、航空機や戦車といった他の兵器に予算が回らなかったシワ寄せも発生した。ちなみに維持費は140億フランと、建造費に匹敵する。
第二次世界大戦
1939年9月3日、ドイツ軍がポーランドに侵攻した事がきっかけで英仏連合軍は対独宣戦布告。第二次世界大戦が勃発する。そして1940年5月10日、ドイツ軍によるフランス侵攻が開始される。またしても国土を戦場にされてしまうフランスだったが、今度はマジノ線という守護神がいた。ドイツ軍の攻勢を挫き、すぐさま国外へと叩き出してくれる。軍民ともに大きな期待を寄せていた。
オランダとベルギーが戦場になる中、マジノ線にはプレトラ将軍率いる第二軍集団とブソン将軍率いる第三軍集団が駐留。守備兵力には現役兵が多く含まれており、錬度は高かった。しかし、マジノ線にはドイツ軍は来襲しなかった。当然ながらドイツ軍はマジノ線の存在を知っており、馬鹿正直に正面から突破しようとは微塵も考えていなかった。彼らはマジノ線を迂回したのである。代わりにベルギーが通り道にされ、唯一要塞群を造っていなかったベルギー国境線からB軍集団が侵入。更に侵攻不可とされたアルデンヌの森を強引に突破したA軍集団が続々と国内へと雪崩れ込んだ。ライン川沿いに建てられた要塞群の一部がドイツ軍と交戦したが、88mm対空砲の水平射撃によってトーチカや陣地が破壊される。この部分には地下要塞がなく、マジノ要塞の急所だった。
こうしてマジノ線とそこに常駐する大軍は期待された防御力を発揮できず、また自ら打って出る事も無かったため丸ごと遊兵と化してしまった。そしてドイツに対して何ら痛撃を与えないまま、フランスの降伏を見届ける羽目になった。何の皮肉か、フランス北東部の対独要塞群は殆ど無傷だった。かつてナポレオンが残した教訓「要塞にこもれば必ず負ける」を見事に再現してしまう形となってしまった。これマジ?
フランスが首都パリを失陥した頃、ヒトラー総統とドイツ軍の重鎮がマジノ線を見学している。
余談だが、強固なマジノ線を更に上回る要塞がベルギーにあった。ベルギー軍が擁するエバン・エマール要塞は欧州最強の要塞と言われていたが、ドイツ軍の空挺部隊によって侵攻開始わずか1日で失陥した。またマレー半島に敷いた堅陣ジットラ・ラインをイギリス軍は「プチ・マジノ」と呼称していたが、こちらも帝國陸軍第25軍の攻撃であっさり陥落している。マジノの名は呪われているのかもしれない。
その後
フランス降伏後、マジノ線はドイツ軍に接収されて一部拡張工事を受けた。しかし1944年6月6日、フランスに上陸した連合軍はマジノ線を迂回して進撃してしまい、またしても役目を果たす事は叶わなかった。
終戦後は再びフランス軍の手に戻り、いくつかの改良が施されていたが、1960年代に核兵器が登場すると無用の長物となった。老朽化のため崩壊したり、競売にかけられる等して威容が失われていった。残った要塞部分はキノコ栽培、ワインセラー、ディスコ、宅地等に使用されている。現在は観光地として一般開放されており、未だに形を留める要塞群を見学する事ができる。隣接するように博物館も建てられていて、当時の物品が展示されている。
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