マダム・タッソー(Madame Tussaud)ことマリー・タッソー(Marie Tussaud, 1761年12月1日 - 1850年4月16日)とは、フランスの蝋人形作家である。
概要
1761年、アンナ・マリー・グロシュルツとしてフランス・ストラスブールに生まれる。
父ジョセフは軍人だったが、彼女が生まれる前に戦死。母アンヌはスイス・ベルンに移住し、ドイツ人の医者、フィリップ・クルティウスの家政婦として働く事となった。
クルティウスは蝋細工の名手として知られ、当初は医療教育用模型(ムラージュ)を製作していたが、やがて人の姿を映しとる蝋人形を手掛けるようになった。彼は幼いマリーに蝋細工の技を伝授し、マリーは『伯父』と慕った男の弟子として、その才能を開花させてゆく。最初に制作した蝋人形は1777年、哲学者ヴォルテールを象った作品だったという。
写真技術のない当時、蝋人形は絵画以上に真に迫る作品として、高い地位の人々に好まれた。マリーはルイ16世の妹・エリザベートの美術の家庭教師として、1780年からヴェルサイユ宮殿で過ごす事となる。
しかし1789年、フランス革命が勃発。王党派であるという疑いを招き、1793年にマリーは逮捕、死刑を宣告された。母と共にラ・フォルス牢獄に投獄されたものの、卓越した技量をかわれて助命。代わりに革命政府への忠誠の証として、ギロチンの犠牲者達のデスマスクを作る「仕事」につかされた。
ルイ16世、マリー・アントワネットなど、かつて仕え、知遇を受けた王族貴族の首級と向き合い、死相を蝋に写し取るという凄惨な体験が、彼女にどれだけの衝撃を与えたかは不明である。しかしその後ロンドンにおいて「恐怖の部屋(Chamber of Horrors)」と題した、実体験に基づいたグロテスクな展示を行っている。
1794年、クルティウスが死去。彼は自らが製作した蝋人形コレクションと財産を遺し、翌年マリーは技術師のフランソワ・タッソーと結婚した。夫婦仲は良好で、2人の男子を設ける喜びも得た。
この間もマリーの「仕事」は続き、かつて革命を実現したものの、殺害・処刑されたマラーやロベスピエールのデスマスクも製作した。
1802年、マリーは長男を伴って渡英。蝋人形展示の興行を打って好評を博したが、ナポレオン・ボナパルトの台頭によって仏英の間に戦争が勃発、帰国出来なくなる。フランスに遺した母と夫との再会は最後まで叶わず、後年成長した次男を呼び寄せる事が精一杯だった。
イギリスでの地方巡業は人気を博し、30年の長きに渡った。その後もたびたびロンドンで蝋人形展示が開催される。そして1835年、常設展示を可能とする蝋人形館、通称「マダム・タッソーの館」がベーカー街に開館した。
当時マリーは既に70代だったが、老いてなおその腕は衰える事なく、1838年には回想録を執筆するなど、積極的に活動を続けた。1842年には、自身の蝋人形を制作。これは現在でも展示されており、黒衣に身を包んで眼鏡をかけた老女としての姿を見る事が出来る。
1850年、ロンドンで死去。享年88歳。
補遺
「マダム・タッソーの館」は、ロンドンにおける観光名所の一つである。様々な偉人・有名人の蝋人形が展示されており、国内外に多数の分館が存在する。
なお先述した「恐怖の部屋」はその後も人形を変えながら、拷問、死体、殺人を始めとした犯罪など陰惨な内容で見る者を震え上がらせたが、2016年に閉鎖。現在はシャーロック・ホームズを題材としたアトラクションになっている。
日本でも2013年、東京・お台場のデックス東京ビーチに「マダム・タッソー東京」がオープン。映画のスターや歴史上の人物、文化人、スポーツ選手など、多岐にわたる蝋人形と身近に接する事が出来る。
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関連項目
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