マルシャF1チームとは、かつて存在したロシア国籍のF1チームである。
概要
2009年に、イギリスF3に参戦していたマノー・レーシングがF1へのエントリーを申請、当初はマノー・グランプリとしてエントリーしたが、同年にブラウンGPのスポンサーであったヴァージン・グループが資本参加し、「ヴァージン・レーシング」としてエントリーした。
2010年用マシン、VR-01は元シムテックのニック・ワースが中心となって設計したが、貧乏なので実験用の風洞施設を使わず、CFDに基づくコンピューター・シミュレーションのみで設計を行う手法を採用した。エンジンはコスワース。
ドライバーは元トヨタF1のティモ・グロックと、GP2に参戦していた新人のルーカス・ディ・グラッシ。
予選こそHRTより速かったものの、決勝ではトラブルによるリタイヤが続出し、2010年は完走率で勝ったHRTにも負けてコンストラクターズランキング最下位に終わった。
2011年、昨シーズン後半からスポンサーとなったロシアのスポーツカーメーカー、マルシャがチーム株の一部を買収。「マルシャ・ヴァージン・レーシング」となり、チーム国籍をイギリスからロシアに変更した。
ドライバーはグロックが残留、ディ・グラッシに代わって新人のジェローム・ダンブロジオを起用した。
2011年もニック・ワースによるCFDのみで設計したマシン「MVR-02」で挑んだが、前年同様にテールエンドをHRTと争う事態になり、6月にはニック・ワースの部隊と決別。CFD頼りの開発から、従来の風洞を使用した開発へとシフト。元ルノーF1のパット・シモンズをテクニカルディレクターに迎え入れ、マクラーレンと技術提携を結んでマシン開発することとなった。
…が、結局この年もランキング最下位で終わってしまった。
2011年のシーズン終盤に、翌年からのチーム名を「マルシャF1チーム」に改める形でFIAに申請、11月に認められた。ヴァージン・グループはチーム名からは消えたものの、引き続きサポートすることを明らかにしている。
ドライバーはグロックが残留、ダンブロジオに代わって新人のシャルル・ピックを起用することに。
2012年も変わらずテールエンドを彷徨うが、参戦した12チームで唯一KERSを搭載しないマシンにも関わらず奮闘を続け、あわやコンストラクターズ10位(11位以下とはコンコルド協定による分配金が雲泥の差)獲得か…と言うところまで来たものの、最終戦・ブラジルGPにてケータハムに抜かされ無念の11位に終わる。
2013年は同期チームのHRTが消滅、マルシャ自身も「お金がない」と言う理由でエースのグロックを辞めさせざるを得ないと言う悲しみの崖っぷちからスタート。
保険屋のボンボンマックス・チルトン、フェラーリ・アカデミー出身のジュール・ビアンキと言う新人コンビでスタートする羽目に。
ようやくKERS(ウィリアムズ製)を搭載したマシンとはいえビリ争いは相変わらずだったが、信頼性は相当高く、チルトンは19戦全てを完走。ビアンキもケータハムを上回るパフォーマンスを見せ、ついにコンストラクターズ10位を獲得した。
2014年はエンジンをコスワースからフェラーリに変更し、ビアンキとチルトンのコンビを維持して挑む。貧乏は相変わらずだがケータハムを上回るパフォーマンスをしばしば発揮。
第6戦・モナコGPでは、ビアンキが荒れたレースを生き残ってついに9位獲得。ヴァージンから通算して83戦目、2010年の新興3チーム中でも初のポイントをゲットした。これには193人のスタッフもお祭り騒ぎ、シャンパン5本を開けてお祝いした模様。
しかし、台風の近づく中、鈴鹿サーキットで開催された第15戦日本GPにてチームに悲劇が襲う。コースオフしていたマシンの撤去作業中のクレーン車にビアンキが激突。頭部を負傷し意識不明の重体(その後死去)に。その後、母国GPである第16戦のロシアグランプリにはチルトンの一台のみが出走した。
第17戦のアメリカGPには財政難のため欠場。10月末にマルシャは破産を申請。売却交渉も決裂してしまいチームは消滅、約200名の従業員はすべて解雇となった。
その後消滅寸前だったが、投資家の手により土壇場で救済され2015年のエントリーに漕ぎ着けスタッフも再集結。2015年は「マノー・マルシャF1チーム」として復活(国籍はロシアから本拠地のイギリスに変更)。
しかし、シーズン通してポイントを獲得することができずコンストラクターズ最下位に終わりシーズン終了。チーム代表がオーナーとのチーム運営の方向性の違いにより離脱、チーム名を「マノー・レーシング」へ名称を変更し「マルシャ」の名がF1から消滅した。
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