マルゼンスキー単語

マルゼンスキー
8.4千文字の記事
  • 26
  • 0pt
掲示板へ

マルゼンスキーとは、1974年まれの日本競走馬種牡馬であったサラブレッドである。称は1970年代後半のブームを反映した「スーパーカー」。

曖昧さ回避 この記事では実在競走馬について記述しています。
このを元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては
マルゼンスキー(ウマ娘)を参照してください。

概要

戦績は8戦8勝。生涯敗で現役を終え、今なお、日本競馬界での歴代最強の一と言われる事も少なくない。
勝利の中に重賞が二つ(府中3歳Sは、後に重賞に格上げ)含まれる。
敗とは言え重賞は二勝と、戦績だけ見るとやや地味に感じられがちだが、レースの2着との合計着差が61という勝ちっぷり。そして後述するレースフィクションじみたぶっ飛んだ内容から、競走馬としてのがずば抜けていたことは疑いようもない事実だろう。
また、マルゼンスキーがあまりに強かったため、マルゼンスキーが出走を決めたレースを回避・キャンセルするが続出、中にはほとんどのが回避してしまいレース自体が不成立寸前になった事もある。
その拠に、マルゼンスキーの出たレースは、全てのレースが10頭未満であった。

 競走馬として

1970年イギリスクラシック三冠ニジンスキー。マルゼンスキーは3世代の産駒で種付け時にはまだ産駒はデビューしていなかったがこの時点で当然種牡馬としての期待も高くそれに応えて世界的大種牡馬になる。はシル。はこれも世界的大種牡馬にして、後にそのニジンスキーと非常に相性の良いニックス配合と言われたバックパサークィルは1958年米国最優秀2歳で3歳になっても大活躍を続けた名と、血統表のどこをとってもスキのない当時の世界最高準といっていい良血である。

この時点で既に、時代背景的な意味で大きな格差が生じている。血統が全てではないが、ノーザンテースト日本にやってきたのは1975年
その初年度産駒が産まれるかどうかという日本でのノーザンダンサー明期に、いきなりこんな良血日本のターフで走る事になるのである。嫌な予感しかしない

馬主兼生産者は、スケート自転車五輪競技で7度のオリンピック出場を果たし、参議院議員、日本スケート連盟会長東京五輪担当大臣、東京五輪パラリンピック組織委員長などを歴任した橋本子の父親に当たる橋本善吉氏。シルが後のマルゼンスキーを妊娠した状態で上場されたアメリカのセリにおいて「こんなすばらしいは見たことがい」と驚き、血統の良さも相まって値段は高騰するも、なんとか落札に成功する。この話で面いのは、そもそも橋本氏がシルを購入するまでの経緯が何重もの偶然を重ねたものだったことにある。

  1. そもそも橋本氏はアメリカになんか行くつもりはまるでなかった。のだが軽種馬農協企画していたアメリカ視察研修ツアーに欠員が出てしまう。人数がわないとツアーそのものがキャンセルになりその際農協旅行会社に支払うキャンセル料が馬鹿にならない(当時は海外旅行は現代とは較にならない高嶺のでもあった)。そこで橋本氏が「パスポート持ってるし行ってもいいよ」と助け舟を出した。橋本氏はの仲買人として、日の業界では有名な人物。加えて来で橋本牧場を経営していたが、ここはを中心とした牧場で、というとばんえい競馬に用いるばんを中心に生産する程度であったが、橋本氏には競走馬の生産もしてみたいという希望が以前からあり、これは好機だった。
  2. ツアーの訪問先には競走馬のセリで有名なキーランドがあり、このときは繁殖のセリが開催されていた。ツアーではこのセリは希望者のみ参加のオプションであったが、橋本氏はこれもなにかの巡り合わせだろうと、ろくろくカタログの下調べもしないままセリの会場に行ってみた。その場で、後にマルゼンスキーを管理する本郷重調教師とも知り合う。
  3. 橋本氏は「種に関わらず、盤が発達した女性はいい子供を産む」という論を持っていた。そしてキーランドでまさに自らの論に合致するに出会う。一緒に渡しセリにも同行していた夫人に対し「若い頃の母ちゃんみたいな身体だよ」と惚気けたともいう(繰り返しになるが夫人は橋本子の上である)。「よしこを買うぞ」と決めたあとで、同行していた通訳から受胎中の子も含めたその=シルの麗な背景を教えられるのだが、これが「予備知識ゼロを評価した自分の観察眼」を知識で上書きされたような気分にさせて橋本氏のプライドをいたく傷つけ(このあたりの感情は人によって様々と思われ、逆に事実を教えられることでカンの鋭さを誇る人もいるだろう。動物を見る皆無の人でもこの背景を知っていれば高いカネを惜しまないので、長年にわたりの良し悪しを見極め続けて成功した人間としてそれと一緒にしてほしくはなかったのだろう)その反動で「いくらになっても絶対競り落とす」と決意させた。もし血統背景を知らずにセリに参加していたら、あまりに釣り上がる額に驚いて降りていたかもしれない。

しかし、繰り返すがアメリカでもの方面で有名な人物だった橋本氏が高額のを購買したことは、業界では奇行に映ったと言う。アメリカの競馬人が、これだけの日本商人が買って太平洋の向こうへ連れて行く、ということをどう思ったかはわからない。当時日本人イギリスを始めとした海外から良血を買い漁っていて、エリザベス2世も外遊した田中角栄に苦言を呈する程だったし。

そのニジンスキーの直として持ち込み母親海外で交配され、妊娠してから日本へ入日本で生まれたの事)の立場で走り始めたマルゼンスキーは、前脚の向きが外を向いていたため、いつ故障するからわからない、いわば爆弾を抱えたままデビューすることになった。

その脚の状態から、マルゼンスキーは満足調教もできず、常にセーブしながら、調整を続けられた。
しかし、そのような関係者の心配とは裏に、マルゼンスキーは新馬戦から圧勝を続ける。持って生まれたスピードが違うためか、普通レースに走るだけで、スタートから周りのがついてこれず、結果として逃げるつもりはないのに逃げる形になって、そのまま々とゴールというレースが繰り返された。

評価を高めたレース

競走馬としては実働期間約10ヶ。そんな短い競走歴で引退を余儀なくされたマルゼンスキーが、それでも最強補の一頭と挙げられるにいたる要因として、次の3つのレースが挙げられる。

.朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)

前走の府中3歳S(現:東京スポーツ杯2歳S)で、ヒシスピードハナ差で下したマルゼンスキー営は、調教不足のため接戦に持ち込まれたという反省から、初めて(かつ、競走馬として一の)一杯の調教を積み、体調を万全に整えた上で朝日杯3歳S(現:朝日杯FS)に臨むことになった。
そして当日のレースでは、スタートからすぐに先頭を奪うと、4コーナーまでヒシスピード以外は全くついていけないほどの高速ラップを刻んでいく。それどころか直線ではさらに他の5頭を突き放す一方となり、ゴール地点では2.2の着差(13身以上の大差勝ち)、レースレコードを1以上短縮する1.34.4というレコードタイム叩き出し、大楽勝劇となってしまった。
なお、2着に入ったヒシスピードも、3着以下に3・1/2身という大きな着差をつけており、マルゼンスキーを抜きにして考えれば、このが快勝という形で3歳(現2歳)チャンピオンいていたレース内容であった。マルゼンスキーは、そういったライバル達の、か前方でゴールを駆け抜けてしまったのである。

しかもこの時、上の中野渡騎手ムチを入れておらず、レース後に「本気で追ったら、あとふたつ(2)は縮まったはず」とまで言っている。当時の馬場現在より2以上時計がかかる状態だったので現在中山競馬場で走ったとしたら1.30.0を切る計算になる。なんだそれ。

当時はまだグレード制は導入されておらず、厳密にはGIではかった。とは言え、関東所属の3歳(現2歳)がその時点での世代王者を決めるレース関西で行われていたのは阪神3歳S現在阪神ジュベナイルフィリーズだが、当時は混合戦だった)であった事には間違いなく、そのような大レースで、レース中継のカメラが思いっきり引いて撮らないと、後続のカメラ内に入りきらないというレースぶりは、見ている者にも、競馬関係者にも衝撃的でさえあった。ありえん

2.日本短波賞(現:ラジオNIKKEI賞) ※当時は中山競馬場で開催

このレースでもマルゼンスキーはスタート直後から一気に加速し、向こう正面では8身以上の大きなリードを作っていた。
しかし3コーナーの手前から突然失速し、後続のたちが猛追する中、レース前半に作った大差リードを全部吐き出してしまう。故障発生を予感させる不自然な減速に、実況アナウンサーも思わず「なんか止まった!」と言ったが、後続に並べかけられた間に再び加速し、4コーナー出口からは突き放すのみ。終わってみれば、7身差といつも通りの圧勝だった。

これは、レース前の練習(返し)の際、上の中野渡騎手が、4コーナー付近で一度止まり、馬場を確認した事を覚えていて、マルゼンスキーが自発的に止まろうとしたともいわれる。

この時の2着が、のちの京都新聞杯菊花賞レコードタイムで制したプレストウコウでありながら、「ペース配分がどうなろうと、自分が加速したい時に加速すれば、それだけで後続を突き放してゴールできる」事実を突きつけた事、さらに一般のにとってキレ・が減殺される不良馬場(当レースは、レースまでの大で芝の内側にあるダートコースが浮いたままであるほど、極度に悪化した馬場状態のレースだった)の中でそんな芸当を見せた事から、「同世代相手なら、遊んで勝ててしまう」とまで言われた。またもやありえん

このレースは、(予想としてはイマイチだが)競馬関連のデータにおいては日本の知識を持つ井崎脩五郎氏をして日本競馬史上一、重賞を遊んで大楽勝したと言わしめ、井崎氏が考える歴代最強補の1頭に挙げる理由となっている。

3.短距離S

結果として生涯最後のレースとなったこのレースは、ダート1200mであった。
デビュー以来初めてのダート戦、同じく初めての古との混合戦。そんな不安視される条件がう中、マルゼンスキーはここでも10身差の圧勝を収めた。

本来ダートは芝のレースより速度差がつきにくく、さらに当レースは古とのオープン戦であるため、古の中からダートの実が出てくる以上、4歳(現3歳)にとっては年齢的な不利もあり、着差がハデに開く事は考えにくい。
また、このレースでは前述した同世代のヒシスピード(この時点で重賞3勝、またマルゼンスキーに先んじて古を相手にダート勝利を収めダート適性をも示していた)、芝・ダート不問の走りを見せ、生涯で重賞6勝を挙げた古の実・ヤマブキオー、札幌ダートだけで4勝、翌年のこの短距離Sも制す事になるなど、札幌ダートで特に好成績を残したヨシオカザンなどが出走しており、決してレベルが低いメンバーだったわけではない。
しかも、1200mというスプリント戦である以上、常識的に考えると、そもそもレース全体の距離として大差リードを作るための物理的余裕もないはずであった。
実際、当時よりスピード化が増している現在でも「『ダート1200m・中央の古オープン戦』で、古重賞相手に、3歳が10身差で勝つ」などと言うと、多少競馬の知識があるファンなら、「ご冗談を」「それなんてゲーム世界?」というような返答が返ってくるだろう。ところが、そんな常識を覆してしまう走りを、マルゼンスキーはやってのけてしまったのである。やはりありえん

「時代」という壁

しかし、マルゼンスキー誕生の少し前になる1971年、活(=生きた)の輸入が自由化。内や生産者の保護を図るため、従来内として扱われてきた持込外国産馬と同様の扱いを受けるようになった。このため、マルゼンスキーは多くのレース(後にGIに定されるようなレース)に出る事が出来なかった。その中には、クラシック競走も含まれており、ついに世代を代表するクラシックレースでマルゼンスキーを見ることはできなかった。
その遇に、上の中野渡騎手
「28頭立ての大外でもいい。賞もいらない。他のの邪魔もしない。だからマルゼンスキーを日本ダービーで走らせてくれ。そうすれば、どのが一番強いかわかる」

と周囲に漏らしたといわれる。

以降、有馬記念標に調整され、古トップレベルとの戦いを期待されたが、調教中に遂に脚の爆弾爆発。故障を発生してしまい、引退に追い込まれた。

同世代の悲劇

本来、競馬界で「同世代の悲劇」と表現されるものは、「実があるのに、ライバル相手に勝ち切れず、ビッグタイトルに手が届かなかったす事がほとんどである。 しかし、マルゼンスキーに関連したたちは、別の形での同世代の悲劇を味わう事になった。

マルゼンスキーの77年世代クラシックレースは、皐月賞ハードバージ日本ダービーラッキールーラ菊花賞プレストウコウが、それぞれ制しているのだが、
レースぶりが鮮であったが、クラシックに出走できなかったマルゼンスキーへの同情論が根強かった。
・三頭のうち、ラッキールーラプレストウコウが、マルゼンスキーに敗れたヒシスピードに、(距離不適もあったが)二度に渡って敗れた上、上記のようにプレストウコウはマルゼンスキーに直接敗してしまったことから、この年のクラシックレース自体が「(マルゼンスキーの)敗者復活レース」と揶揄されるほどだった。
・上の世代が、いわゆるやかなTTG三強世代であり、ハードバージ以下の活躍が余計にその陰に隠れてしまった。

と、上記の三頭はクラシックレース勝利していながら(特にプレストウコウは、後に最優秀四歳に選出されている)、 他になかなか例を挙げられないほど、低い評価に留まってしまった。
その低評価は、引退後もついてまわり、常にマルゼンスキーと較され続ける中、良質な肌わず種付け頭数が低迷を続け、次々に種牡馬として見切りをつけられてしまう。ラッキールーラプレストウコウ韓国に輸出される事で、一応種牡馬生活は続いたが、 ハードバージ種牡馬引退後のあまりに悲惨過ぎる末路は、新聞記事で取り上げられたほどであった。ただし、その末路はただ意味だったわけではなく、競馬界への競走馬保護への批判のうねりへと繋がり、そして、後に大レースを制したの養老施設や、引退後の助成システムが生みだされる契機となっている。
このように(マルゼンスキーに罪はいのだが)、この世代は、勝利の栄冠を手にしたにも関わらず、悲劇的な評価を被ったとして、マルゼンスキーとは別の形の不運を背負った世代として記憶されている。

種牡馬として

種牡馬としても
ニシスキー朝日杯3歳S
サクラチヨノオー朝日杯3歳S日本ダービー
スズカコバン宝塚記念
ホリスキー菊花賞
レオダーバン菊花賞
ダイカツストーム中山大障害
サクラトウコウ(重賞3勝・種牡馬としてG1を輩出)
など数々のGI重賞を輩出。
特にサクラチヨノオーは自身の出走がわなかった日本ダービーを制覇し、見事念をらした。

また、としてもライスシャワーウイニングチケットメジロブライトスペシャルウィークサクラプレジデントロイヤルタッチボンネビルレコードといった活躍を多数輩出し、BMSリーディングでも10年以上上位に入り続ける成績を上げた。

孫世代になると、
ホリスキーサクラチヨノオー重賞勝ちを複数輩出し
スズカコバン道営競馬などダートを中心に活躍
中でもサクラトウコウ産駒のネーハイシーザー天皇賞優勝し、孫世代からもG1が誕生する
種牡馬としてもも見せた。

現在2021年6月時点)、系としての子孫はクラグオーのみであり、年間種付け数も1~2頭と勢は非常に小さな物になってしまったが、産駒のクレモナ地方重賞ののじぎく賞を制すなど、活は決して衰えていない。祖スズカコバンクラキングオーと共にクラグオー産駒のダート路線の活躍とその血をさらに代々繋がる事を期待したい。

1997年8月21日、放牧中に突如いなないて倒れ、そのまま死亡した。23歳だった。橋本氏は、マルゼンスキーを自らの次男(橋本氏自身には末子の子含め4人の子がいた)として弔い、死の3日後にシルや子の他、多数の関係者が参列した葬儀が行われ、スケート自転車競技の選手として名を馳せていた「」・子は「」の世界選手権の金メダルを入れたという。なんでも、本来ならば格の高いアルベールビルオリンピックで勝ち取った銅メダルでは、敗、つまり「金メダルしかとることのなかった」に失礼だからだという。遺骸橋本牧場に眠り、や自らの子孫の活躍を見つめている。

引退後の評価

との対決がほとんどかった事、走ったレースが全て1800m以下であった事から、そのスピードが、古G1に多い、2000mをえる要なレースで発揮されたかどうかは疑問が残る。
とは言え、圧勝に次ぐ圧勝でスピードが非常に高い事を示した事、実際にどのレースタイムとしては当時のレベルとして圧倒的に優秀だった事から、長距離はともかく、中距離以下では間違いなく、一級の実を持っていたというところで衆は一致している。

あまりの強さと人気ぶりに産地ではニジンスキーブームが到来、マルゼンスキー自身の種牡馬人気はもちろんのこと、代用種牡馬人気も沸騰した。代表格はヤマニンスキーとラシアンルーブルで、ヤマニンスキー皐月賞天皇賞(秋)優勝ヤエノムテキオークス優勝ライトカラーに加えてまでマルゼンスキーと血統が同じというラシアンルーブルオークス優勝・イソノルーブルを誕生させている。

なお、マルゼンスキーが被った持込ゆえの一連の規制については、マルゼンスキーの現役時代から以前より注されるとともに疑問のが高まっていき、次第に規制訂へ動き出す事になった。そしてマルゼンスキー引退から数年後、クラシックレース他、多くの重賞参加への門が持ち込みに対して開かれたのである。また上にもある通り、結果的にはマルゼンスキーの影により、これまで全く顧みられてこなかった引退への養老助成等も次第に充実していった。このように、マルゼンスキーが競馬界のシステムについて一石を投じ、そしてその流れを変えた事は、競馬界全体において決して小さくない功績だったと言えよう。

 


「さようなら マルゼンスキー   り継ごう おまえの強さを」

 


引退式の時にファンが用意した横断幕にはこう書かれていた。マルゼンスキーを伝える名文句として有名なものである。
※当時、引退式にまで横断幕が作られる事はほとんどかった。それだけ、マルゼンスキーの引退を惜しむが高かった事を示すエピソードと言える。

血統表

Nijinsky II
1967 鹿毛
Northern Dancer
1961 鹿毛
Nearctic Nearco
Lady Angela
Natalma Native Dancer
Almahmoud
Flaming Page
1959 鹿毛
Bull Page Bull Lea
Our Page
Flaring Top Menow
Flaming Top
*シル
1970 鹿毛
FNo.5-g
Buckpasser
1963 鹿毛
Tom Fool Menow
Gaga
Busanda War Admiral
Businesslike
Quill
1956 栗毛
Princequillo Prince Rose
Cosquilla
Quick Touch Count Fleet
Alms

クロス:Menow 4×4(12.50%)、Bull Dog 5×5(6.25%)、Blue Larkspur 5×5(6.25%)

関連動画

関連商品

マルゼンスキーに関するニコニコ市場の商品を紹介してください。

関連コミュニティ

関連項目

【スポンサーリンク】

  • 26
  • 0pt
スマホ版URL:
https://dic.nicovideo.jp/t/a/%E3%83%9E%E3%83%AB%E3%82%BC%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%AD%E3%83%BC

この記事の掲示板に最近描かれたお絵カキコ

お絵カキコがありません

この記事の掲示板に最近投稿されたピコカキコ

ピコカキコがありません

マルゼンスキー

102 ななしのよっしん
2021/07/02(金) 19:46:13 ID: gzUCZd0lLJ
>>101
三冠馬って括りの最強補で「元祖」なら幻のことトキノミノルが居るぞ
103 ななしのよっしん
2021/07/03(土) 05:36:11 ID: 7JWkhuXWO5
最近競馬関連の大百科駄に質の悪い内容に変えて回ってるやつがいるな
104 ななしのよっしん
2021/07/03(土) 05:42:35 ID: Pab3o10ukS
>>103
なんかを貶したような内容の多いね
エアシャカールオサイチジョージかひどすぎ
105 ななしのよっしん
2021/07/25(日) 09:00:25 ID: 1pfHJCwJIQ
もとより、野球にたとえなくてもいい気はする
たとえるとズレるからね
106 ななしのよっしん
2021/08/01(日) 17:17:38 ID: Tw9J0OsqQF
長いこと競馬見てるけど、98世代にマルゼンスキーの末がいることを初めて知ったわ
107 ななしのよっしん
2021/09/03(金) 03:58:23 ID: D6hUAdUTVT
>>101
ホスピタリテイに関しては一勝ったフロストキング自体が1回と2回ジャパンカップ動画しかないからどう評価したらいいか解りづらいしな
当時のカナダチャンピオンみたいだしめちゃくちゃ乱暴に言えばチーフベアハートみたいなもんと思えばいいんだろうか?
108 ななしのよっしん
2021/10/06(水) 22:30:34 ID: Hv9hTmQSBA
短波賞の再加速がられること多いけど短距離Sがぶっちぎりで頭おかしいと思うんだ
ダート1200mで10身差ってなんだそれ
109 ななしのよっしん
2021/10/07(木) 20:33:48 ID: gzUCZd0lLJ
あれに関してはマルゼンスキー以上になぜか参戦してきて馬券人気通りにボロ負けしたヤマブキオ営が一番おかしいと思う
110 ななしのよっしん
2021/10/21(木) 03:36:05 ID: VMRmjoRRdd
たまにマルゼンは強いと戦ってないから強いとは言いきれない、勝ったが強いみたいなのを見かけるけど
このの恐ろしいところは同世代のが弱いに見えてしまうってのがあるんだよね
いくらマルゼンやTTGに千切られたとはいえ菊花賞含め重賞5勝2着2回、うち京都新聞杯レコード勝ちで2着の片方である天皇賞アクシデントありの中でテンメイの2着なプレストウコウが弱いな訳はいんだけどな・・・
ちゃんとそういう強いに勝ってるんだよって事は知ってて欲しい、プレストウコウの名誉の為にも
111 ななしのよっしん
2021/10/21(木) 20:53:08 ID: I/0TR46ERY
>>109
ヤマブキオーは、短距離Sのあと賞、函館記念を連勝してるんで、
もともと北海道滞在に調子を併せてきてた部分はあると思います。
んで、短距離Sにマルゼンが出てくるなら手合わせ願いたい、
ルゼンは初ダートだし走りは未知数、
もし勝ったら「マルゼンスキーに勝った」として箔がつく……って営の思惑、というか欲も多少はあったんじゃないですかね。
トウショウボーイが出てきてたらどうなんだろう?)


この時のヤマブキオーの走破タイム、1:11.8は、
当時の良馬場におけるD1200としては、一般的な勝ち負けのタイムですし、
ヤマブキオーなりには出し切ってる感じはするんですよね。
(省略しています。全て読むにはこのリンクをクリック!)

急上昇ワード改