マルチナ・ヒンギスはスイスの女子テニス選手である。90年代後半における最強選手の一人。非常に若くしてランキング1位に立ち、天才少女の名をほしいままにした。
概要
Martina Hingis | |
基本情報 | |
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国籍 | スイス |
出身地 | スロバキア:コシツェ |
生年月日 | 1980年9月30日 |
身長 体重 |
170 cm 59 kg |
選手情報 | |
利き手 | 右 |
バックハンド | 両手打ち |
デビュー年 | 1993年 |
引退年 | 2017年 |
テニス選手テンプレート |
名前の由来は誕生当時活躍していた同国出身のマルチナ・ナブラチロワ(当時既にチェコスロバキアから米国に亡命済み)から。90年代テニス界の天才少女と言えば彼女のこと。後の選手たちのようなパワーは無いものの、組み立てで勝負するテニスはチェスや詰め将棋に例えられ、「ゲームの天才」と謳われた。
現役第一期(2003年まで)
1994年に14歳でプロデビュー。翌年には既にツアー初決勝を経験している。1996年には16歳にしてツアー初優勝を挙げ、強豪の一角を占めつつあった。翌1997年の活躍は鮮烈で四大大会シングルス全てに決勝進出、全仏以外の3大会で優勝。年間優勝回数12回は以降誰も達成していない数字である(二桁タイトルすら2007年ジャスティーヌ・エナンの10回と2013年セリーナ・ウィリアムズの11回しか出ていない)。
その後はリンゼイ・ダベンポートやウィリアムズ姉妹のパワーテニスに対抗できなくなったとされる。確かにシングルスでの四大大会優勝はその後98年と99年の全豪オープンしか無く、ダベンポートには99年から2000年にかけて直接対決6連敗を喫しているが、ランキング1位争いでは常に優勢に進めていた。2001年終盤まで断続的に1位に立ち、最終的に在位期間は200週を超えている。ここまで長期に渡って1位に立てたのは格下選手に対して取りこぼしが少なかったことが大きい。当時の雑誌記事でもベスト8進出前の敗退が非常に少なかったことが報告されている。
2003年序盤に踵の故障を理由に引退。22歳での早すぎる引退は非常に惜しまれた…が、しかし彼女はそのまま終わらなかった。
現役第二期(2006年~2007年)
2006年から現役復帰。ワイルドカードでの出場となった全豪オープンではいきなりベスト8進出。この後の東レパンパシフィックオープンではマリア・シャラポワを下して決勝進出している(エレナ・デメンティエワに敗れて準優勝)。この年はツアー最終戦に出るところまでランキングを戻し、年末最終ランキングは7位となった。
翌2007年は前年準優勝の東レパンパシフィックオープンで優勝。準決勝では前年決勝で敗れたデメンティエワを下しており見事雪辱を果たした。しかしその後は精彩を欠き、決勝進出もなくなった。腰の怪我の影響で10月にはシーズンを終えていたが、11月に入って自身の年齢と健康状態を理由に2度目の引退を発表。合わせて同年ウィンブルドンのドーピングテストでコカインの陽性反応が検出されたことも発表しているが、本人は薬物の使用は否定している。この件については後にITFから処分を受けることになった。
ほぼ2年の短い復帰だったが、シングルスで3回、ダブルスで1回のツアー優勝があった。四大大会では復帰直後の全豪オープンでミックスダブルス優勝を挙げているが、シングルスではベスト8が3回あったのみで、それ以上は進めずに終わっている。上位選手の一人ではあったが、かつてのような女王争いに絡むところまでは戻れなかった。とはいえ彼女が一定の成功を収めたことはキム・クライシュテルスやジュスティーヌ・エナンの現役復帰判断にも影響したものと思われる。
現役第三期(2013年以降)
2013年、ダブルス専業で二度目の現役復帰。2014年にはツアー3勝、全米オープンで準優勝など見事な活躍を見せている。この年の年末ランキングは11位。2015年には全豪オープンミックスダブルスで2度目の優勝を挙げると、ウィンブルドンと全米オープンでは女子ダブルス、ミックスダブルスの両部門を制覇。最終的にツアー10勝、ランキング2位でシーズンを終えた。この勢いのまま2016年の全豪オープンでも女子ダブルスで優勝、ランキングも1/18には1位タイに立っている。全仏オープンでは女子ダブルスこそ序盤で敗退したが、ミックスダブルスではしっかり優勝して、この部門のキャリアグランドスラムを達成した。リオデジャネイロ五輪では女子ダブルスで銀メダルを獲得。ミックスダブルスでロジャー・フェデラーと組む可能性が報じられていたが、残念ながらフェデラーの欠場でこちらは実現しなかった。
これらの活躍でまだシングルスでもやれるのではないかという声が上がりそうだが、ランキング1位のまま引退を発表。本人の弁によれば今度こそ完全な引退になるということで、復帰の意思はないらしい。
人物像
良く言えば天然小悪魔、悪く言えば子供のように直情的なところがある。
1999年全仏オープン決勝のステフィ・グラフ戦ではラインジャッジへの猛抗議で大ブーイングを浴びてしまい、有利に進めていた試合をぶち壊してしまう。終盤にはアンダーサーブを繰り出すなど拗ねたようなプレーを見せたことで観客の反感をさらに煽ってしまい、そのまま逆転負けしてしまった(なお抗議で判定は覆らなかったが、後にミスジャッジであったことは認定されている)。四大大会の中で全仏オープンだけシングルス優勝が無かったヒンギスにとって、キャリア晩年のグラフとの決勝は大チャンスだったのだが、自滅でフイにしてしまった上、その後は四大大会タイトルからも見離されてしまった。
全仏オープンでの観客からの大ブーイングは同年の全豪オープン決勝が伏線になっているという説もある。このときは決勝前に対戦相手のフランス人選手アメリ・モレスモについて「男みたい」と侮辱コメント。しかもこの発言のあとモレスモがレズビアンであることが発覚してしまうオマケ付き。
一応この時期まだ18歳なので、精神的な幼さというより、実際に幼かった=あまりに若くしてテニス界の頂点に立ってしまったが故の悲劇だったのかもしれない。が、それにしても失言は多かった。
私生活ではいろんな男性と浮名を流しまくった上、2度の婚約解消を経てようやく2010年に今の夫と結婚。しかしこの夫に対するDV疑惑が報じられたこともあった。
日本との関わりではヨネックスのラケットを使用しており、来日機会も多く、親日家として扱われることが多い。シングルスでの2度の引退前の最後の優勝はいずれも東レパンパシフィックオープンだった。
主な実績
シングルス
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ダブルス
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関連動画
関連項目
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