ミカ・ハッキネン(Mika Hakkinen)とは元F1ドライバーであり、1998・99年のF1ワールドチャンピオンである。
概要
1968年9月28日フィンランドのヘルシンキ郊外、ヴァンターにて生まれる。
6歳の時、父親の仕事場の近くにあったサーキットでカートを見たのをきっかけにカートを始める。 父は本業のラジオ局の仕事の他にタクシー運転手を掛け持ちしながらスポンサーを探し、母もパートを掛け持ちしていた。 83年から86年まで国内カート選手権を連覇する。
88年、貨物船に飛び乗り単身渡英。 1990年、イギリスF3選手権で同国(しかも実家が道路を一本挟んだだけ)のミカ・サロとチャンピオンを争い、計9勝を挙げて見事チャンピオンとなる。
同年11月、F3の世界一を決めるマカオGPではドイツF3チャンピオンになったミハエル・シューマッハと激しいバトルを展開する。 アイルトン・セナの持っていたコースレコードを更新してPPを獲得したハッキネンは第1レグで優勝を果たす。
しかし第2レグではこの年のドイツF3チャンピオンであるミハエル・シューマッハと激しいバトルを最初から展開し、ハッキネンはミハエルに先行を許すもタイム差ではこのままでもハッキネンは総合優勝を勝ち取れたが、最終ラップでミハエルに仕掛けたハッキネンはミハエルのリアに接触しクラッシュ。
ハッキネンはリタイアを喫し総合優勝の座をシューマッハに奪われた。 ハッキネンはマシンを降りるとグローブを地面にたたきつけ悔しがり、人目をはばからず涙を流した。
F1デビューから長い苦労人時代
1991年、ロータス・ジャッドでF1デビューを果たす。 開幕戦アメリカGPではステアリングが外れるというトラブルに見舞われるも60周目にマシントラブルでリタイアするまで力走を見せた。 第3戦のサンマリノGPで初入賞を果たすもののフランスGPでは予選落ちを経験したりするなど、メインスポンサーもつかない資金不足のチームで苦戦を強いられた。 結局入賞はサンマリノの1度きりでシーズンを終了する。
1992年、ロータスはベネトンの型落ちながらフォードエンジンを手に入れ、資金不足ながらシーズン途中よりセミアクティブサスペンションを搭載したマシンで6度の入賞を果たし計11ポイントを獲得。 ランキング8位となる。 さらにベルギーGPの終盤ではアイルトン・セナと激しいバトルを繰り広げ関係者の評価を上げる。 一旦ウィリアムズと契約するもフランク・ウィリアムズのエントリー忘れで白紙に。 ロータス残留かともうわさされたが、マクラーレンと契約し移籍が決まる。
1993年はインディカーから来たマイケル・アンドレッティとのコンビで行くはずだったが結局契約でもたついたアイルトン・セナが乗ることになりハッキネンは控えドライバーとなってしまうが、アンドレッティがF1の世界に馴染めずイタリアGP後にアメリカへ帰国したため、満を持して第14戦ポルトガルGPでようやくレギュラードライバーとして登場した。 ハッキネンは予選でいきなりセナを上回る予選3位の結果を出す。(決勝ではアレジとバトルを繰り広げるもクラッシュしリタイア) 第15戦日本GPでは3位に入り初の表彰台に上った。
1994年、マクラーレンはプジョーエンジンへスイッチ。 チームメイトはマーティン・ブランドル。 シーズン序盤は主にエンジンに足を引っ張られ最初の9戦で7度のリタイアに追い込まれるも、後半戦に入ると連続入賞を挙げ、コンスタントに表彰台にも上がる様になり最終的にはランキング4位でシーズンを終える。
1995年、マクラーレンはプジョーとの契約を打ち切りメルセデスエンジン(イルモア)へスイッチ。チームメイトはナイジェル・マンセルマーク・ブランデル。 エンジンとシャシーのマッチングが上手く行かずこの年も出走した15戦中9度のリタイアを記録しランキングも7位に下げた。 さらに最終戦オーストラリアGPの予選、タイヤのパンクが原因でバックストレートエンドでクラッシュ。(前年の予選も同じ場所でトラブルが原因でクラッシュしている) この際、タイヤバリアに当たった際の衝撃で頭を強く打った上に舌を噛みきってしまい瀕死の重傷を負うが3日後意識が回復。 この入院中、後に結婚するイリヤさんと知り合う。
1996年、開幕前のテストで復帰。 この年からF1引退までの間、チームメイトはペヤング先生ことデビッド・クルサードとなる。 シーズン途中からショートホイールベースのマシンに乗り換えてから安定感が増し、16戦中13戦で完走を果たす。 この年限りでマールボロがスポンサーを降り、移籍話が取り沙汰されるも残留する。 この年ランキング5位。
1997年、ウエストがスポンサーとなりマシンがシルバーアローのマシンに変わる。 この年もコンスタントに上位入賞を果たすが、第9戦のイギリスGPではトップを走っていた残り7周でエンジンブロー。 第14戦オーストリアではスタートでトップに立つも1周目の最終コーナーでまたしてもエンジントラブルでストップ。 第15戦ルクセンブルグでは自身初のポールポジションからトップを快走中にまたしてもエンジンブローと初優勝を目前にして手の届かないレースが続き、リタイア後の「これもレースだから」や「一番大切な事は自分の体が健康である事なんだよ」というコメントがお馴染みとなってしまう。
このまままたしても初優勝はお預けかと思われたが最終戦ヨーロッパGP。 チャンピオン争いをしていたミハエル・シューマッハとジャック・ヴィルヌーヴがヘアピンで接触。 シューマッハはリタイアし、ヴィルヌーヴは完走狙いにシフトしたものの、タイヤにブリスターを作ってしまいペースが上がらない。
ハッキネンは最終ラップでヴィルヌーヴとチームメイトのクルサードを抜き(チームオーダー説もあるが詳細は不明)F1参戦99戦目にして悲願の初優勝(※当時、最も遅い初優勝)を飾る。 この年は2勝を挙げたクルサードの後塵を拝し、この年限りで引退したゲルハルト・ベルガーと同点のランキング6位でシーズンを終える。
ワールドチャンピオン獲得、そし早すぎる引退へ…
1998年、ここからミハエル・シューマッハとのタイトル争いが始まって行く。 チームは前年の途中にウィリアムズから「空力の鬼才」エイドリアン・ニューウェイが加入し、タイヤもブリジストンへとスイッチする。 その効果はすぐに現れて、開幕戦オーストラリアGPではフロントロー独占から、チームメイトのクルサードと共に3位以下を周回遅れにするぶっちぎりのワンツーフィニッシュを達成。 するとブラジル・スペインGPでもぶっちぎりのワンツーを決め開幕ダッシュに成功。 そしてモナコGPでも初優勝を果たし、ミハエルとのポイント差も22ポイント差まで開く。
しかし、この後3戦でミハエルが3連勝を決めた事で一気に3ポイント差にまで詰め寄られてしまう。(ミカはリタイア・3位・2位) ドイツとオーストリアでワンツーを再び決めて再びポイント差を開くもハンガリー・イタリアGPでミハエルに優勝をさらわれて、ついにポイントで同点に並ばれてしまう。
しかし、次戦ルクセンブルグでミハエルから鮮やかな逆転勝利を収め、タイトルに王手をかけた状態で最終戦の鈴鹿を迎える。 予選ではミハエルの後塵を拝すも、2回目のスタートでミハエルが痛恨のエンストを喫し最後尾スタートを強いられる。 3回目のスタート後、ミハエルは最後尾から怒涛の追い上げで3位まで挽回するも、32周目のホームストレートでタイヤがバーストしリタイア。 ハッキネンはそのまま最後までトップを走り切り、自身初のワールドチャンピオンを優勝で決めた。 この年はシーズン8勝・9PPを挙げコンストラクターズとのダブルタイトルを獲得。 さらにシーズン中にイリヤさんと結婚する。
1999年、タイヤがブリヂストンのワンメイクとなる。 ハッキネンは開幕戦でPPを取るもマシントラブルでリタイア。 第2戦のブラジルでシーズン初優勝するも、次戦サンマリノではトップ快走中にまさかの単独クラッシュを喫する。 サンマリノ・モナコと連勝していたミハエルにポイントで先行を許していたが第8戦イギリスでミハエルがストウコーナーにてクラッシュを喫し、まさかの骨折欠場に追い込まれる事となり、誰もがハッキネンの連覇を信じて疑わなかった。
しかし、そのイギリスではピットストップで左リアタイヤのナットが締まらないままピットアウトし、タイヤが脱落しリタイア。 次戦、オーストリアではスタート直後のレムスコーナーでチームメイトのクルサードに追突され優勝のチャンスをフイに(最終的に最後尾から3位まで挽回した)。 さらに次戦ドイツでは給油機の故障からタイムロスした後、インフィールド手前でリアタイヤのコンパウンドがいきなり弾けたために大クラッシュを喫し、オーストリアとドイツで優勝したフェラーリのエディ・アーバインにランキングで先行される。
ハンガリーでは優勝するもベルギーで再びクルサードとスタート直後に接触し、レース中にやる気を無くしトップを追い詰めることなく2位に終わるが再びポイントリーダーに返り咲いた。 しかし、第13戦イタリアでトップ快走中にシフトミスが原因でコースオフしリタイア。 この際、自分への不甲斐なさからピットへ帰らず森の中で号泣している所を空撮でバッチリ抜かれ国際映像で全世界に流れてしまう。
第15戦マレーシアからミハエルがレースに復帰。 復帰後即、ぶっちぎりの速さでPPを獲り、レースでもアーバインをパーフェクトアシストしワンツーフィニッシュ。 一度フェラーリ勢がバージボードの寸法違反で失格になるもリザルトが元通りとなり、アーバインに逆王手をかけられる形で最終戦鈴鹿を迎える。
ここでもPPはミハエルに奪われハッキネンは2位となるも、スタートであっさり逆転。 そのまま独走で優勝を果たしアーバインを再び逆転。 見事にF1史上7人目の2連覇を達成した。 ちなみにこのシーズンはPPを11回も取るも優勝は5回に留まった。
2000年、開幕3連勝を果たしたミハエルに対し、ハッキネンは開幕3戦連続でPPを奪うも、そのうち2戦をマシントラブルで落としてしまう。 サンマリノとイギリスで2位の後、第5戦のスペインでようやくシーズン初優勝を飾るも、開幕8戦で5勝を挙げたミハエルに完全に後れを取ってしまう。 おまけにレースの合間のプロモーション活動等で精神的に疲労困憊となっていた。 これを見たロン・デニス、およびチームは第10戦オーストリアを前にしてチームが休暇を取らせた。
そしてそのオーストリアで見事ポール・トゥ・ウィンを達成し、その後ハンガリーではスタートで、ベルギーでは終盤の劇的なオーバーテイクでミハエルから鮮やかな逆転優勝をもぎ取り、第9戦フランスから3戦連続ノーポイントを喫していたミハエルとのポイント差をついに逆転する。
しかし、第15戦アメリカで痛恨のエンジントラブルから再逆転を許し、次戦鈴鹿では熾烈な予選のPP争いの末に2位に甘んじるがスタートでミハエルを逆転する。 しかし、ピットストップで再逆転を許し、最後まで彼に喰らい付くも逆転は叶わず、タイトルをミハエルに奪われてしまった。 このシーズンは4勝、PP5回、FLは当時シーズン最多の9回を記録した。
ちなみに第13戦ベルギーでミハエルを周回遅れのリカルド・ゾンタと共にぶち抜いたオーバーテイクは「20世紀最高のオーバーテイク」と呼ばれている。
2001年、開幕戦でサスペンショントラブルからクラッシュを喫すると、ブラジル・オーストリアではスタートで動けず、フランスではフォーメーションラップすらも走る事も出来ずにリタイア。 さらに第5戦スペインでは2位ミハエルに40秒の大差を付けていた最終ラップ突入直後にマシントラブルによりストップし優勝を逃すなど、とにかくマシントラブルに泣かされ続けたハッキネンのモチベーションは下がり続けた。
本人は引退を決意していたと言われているが、監督のロン・デニスに説得され2002年からの休養をシーズン中に発表。 イギリスとアメリカで優勝するも17戦中7度もマシントラブルによりリタイヤを喫し、タイトル争いからは縁遠いシーズンとなってしまった。(ランキングは5位) 結局2002年のドイツGPでF1からの引退を発表した。
1991年〜2001年の11年間、出走回数161回、優勝20回、PP26回、FL25回の成績を残す。
引退後はラリーにスポット参戦したり、DTM(ドイツツーリングカー選手権)に出場していたが2007年を最後にレースからの完全引退を発表した。
ハッキネンにまつわるエピソード
- 2代目フライング・フィンと呼ばれる。 ちなみに初代は82年ワールドチャンピオンであり自身のマネージャーでもあったケケ・ロズベルグ。 同時代に活躍したデイモン・ヒルと共にジェントルマンなドライバーとも称される。
- 特技は一輪車。 子供時代は家から小学校まで一輪車で通学し、地元ヘルシンキのサーカス学校へも通うほどハマっていた。(一輪車で自転車をぶち抜きながら学校へと通っていた伝説もある) ロータス時代にはパドックでの記者会見会場に一輪車で駆けつけたり、ワールドチャンピオンになった後に地元サーカスにゲストで呼ばれた際にその腕前を披露している。 挙句の果てにはドイツ国内で放送されたミハエル・シューマッハの引退特番でスペシャルゲストとして一輪車に乗りながら登場した後、レーストークそっちのけでミハエルの一輪車の手ほどきをしていた。
- 女性に人気があった、日本の女性ファンが本気で告白に行ったほど(軽くあしらわれたらしい) その人気ぶりは世界的で、雑誌「As+F」のドライバー人気投票で10年連続1位を取る事で実証されている。
- 津川哲夫氏のF1中継初のインタビュー相手であった。 その際にセナの走りは参考になるかと聞かれると「別にそうでもないよ」と答えた後にどんなドライバーになりたいかと聞かれたら「自分はミカ・ハッキネンだからミカ・ハッキネンになるんだ」と答えた。
- 90年マカオや99年イタリアの一件から泣き虫のイメージが強い。他にも初優勝や初タイトルの時などに涙を流している。
- ロータス時代の同僚、ジョニー・ハーバートとはイチャつくほど(実際にパドックではソッチの噂もあったらしい)仲が良かった。 92年フランスGPの時、チームが手配したホテルで2人は同じ部屋に泊まる事となったがその部屋は大きなダブルベッドが1つしかなかった。 夜、ハッキネンが休んでいると浴室から声がするので恐る恐る覗いてみると、素っ裸のハーバートがバスタブの中でアヒルのおもちゃで遊んでいる場面を目撃してしまう。 ハッキネン曰く「未だにあの場面をたまに夢で見て、うなされる事があるんだ!」との事。
- 妻だったイリヤさんは見た目は恐い感じに見えるが実際は優しいらしい。 しかし2008年に離婚したと報道されているが本人からの公式のコメントは出ていない。
- ミハエル・シューマッハが唯一敬意を払ったライバル。 本人曰く「ミカは悪魔の様に速い!僕は彼以上のドライバーを知らない」「最強の敵で最高のライバル」と言っている。 余談だがレース後の記者会見などで2人の面白い掛け合いをちょいちょい見ることが出来る。
- レース中はとにかく速く、かっこいいのだが優勝後などに見せるガッツポーズのあまりのダサさ落差には定評がある。(某テレビの総集編のナレーションではやぼったいとも表現された) だが、それがいい←
- 劇場版ガールズ&パンツァーに登場する継続高校の車長、ミカの名前の由来はこの人である。
- 「爆走! ミカ・ハッキネン」という公式(?)テーマソングがある。 ミカミカハッキ♪←
ミハエル・シューマッハとのライバル関係
90年のマカオから98年~2000年のタイトル争いとそのライバル関係は数々の名勝負を生んできた。 それをいくつか紹介しようと思う。
- 98年オーストリア ミカは3番手スタートから燃料満タンのマシンながら好スタートを切り、トップへ。 ミハエルも予選4位から2位へと上がり直接対決となる。 2ストップ作戦で、燃料の軽いミハエルが終始ミカを追い回すが、攻め過ぎが祟り17周目の最終コーナーでコースアウト。 しかも、ピットレーンの入り口を過ぎたところでコースオフをしたため、フロントウィングを無くしたまま、1周回る羽目となる。 ミカはそのまま独走で優勝しマクラーレンのワンツー。 ミハエルは最後尾から必死に追い上げ、最終盤にアーバインに譲ってもらい、何とか3位でゴールした。 余談だがミカはこれが結婚後初優勝となった。
- 98年イタリア ミハエルがシーズン初PPを獲得するも、セカンドロースタートのマクラーレン2台が強烈なスタートを決めてワンツー体制となる。 しかし、ミカのマシンバランスが悪くクルサードを先行させるが、クルサードはその後、17周目のグランデで派手にエンジンブロー。 その際、オイルをもろに被ったミカの隙を見逃さずミハエルがかわす。 ピットストップ後、マシンが完調になったミカが2.7秒差まで追いすがったが、最終盤に来たロッジアの進入でブレーキが甘くなり大スピン。 ここでミカはペースを落として4位でチェッカー。 フェラーリは88年以来となるモンツァでのワンツーを決めた。
- 98年ルクセンブルグ フロントロー独占からフェラーリがワンツーで先行。 アーバインがミカの前を蓋するも14周目のビードルシケインでパス。 その後ミカは最速ラップを出し続け、28周目の1回目のピットで最大8秒差を付けられていたミハエルを僅差で逆転。 2回目のピットでも順位は変わらず、そのままゴール。 いつもは独走で先行逃げ切りのパターンが多いミカにしては珍しくピット戦略で逆転し、終始僅差で戦いぬいた貴重なレースである。
- 99年マレーシア イギリスで右足を2か所骨折したミハエルの復帰戦。 予選でダントツの速さを見せてミハエルがPPを奪い、フロントローもフェラーリが独占。 スタート後にタイトル争いをしているアーバインを先行させマクラーレン2台を抑えに回る。 ソフトタイヤで1ストップのミハエルは、完全にミカをあしらい切った後、チャンピオンをミカと争っていたアーバインに優勝を譲りゴール。 右足にビスを入れて復帰後初レースにもかかわらずミハエルは格の違いを見せつけた反面、ミカは不慣れな高温多湿の気候にダウン寸前でゴールし表彰台でうなだれる結果となった。
- 99年鈴鹿 アーバインとのタイトル決定戦。 しかし、予選からミハエルとの完全な一騎打ちとなる。 1回目のアタックで2人とも1/1000秒まで全くの同タイムをたたき出し、2回目ではミカが逆転。 3回目で再びミハエルがトップに立つとアーバインがヘアピンでクラッシュを喫し、赤旗が出る。 最終アタックではミハエルがタイムを更新するもミカはアタック中のアレジとシケインでニアミスしスピン。 その結果、ポールはミハエルに。
しかし、レースではスタートでミカがダッシュを決めた反面、ミハエルはホイールスピンで出遅れ。 ミカはそのままミハエルを置いてけぼりにして優勝し、自力で2連覇を決めた。 あまりにも無抵抗にミハエルがミカに負けたために、レース後一部メディアから「アーバインにタイトルを獲らせたくなかったのでは?」という憶測まで生まれた。
- 00年ハンガリー ポイント争いが首位のミハエルから4位のバリチェロまで10ポイント差にひしめいていたこの1戦。 ポールはミハエル、ミカは3位からスタートする。 ミハエルは悪くないスタートを切るが、3位のミカがミハエルのスリップに入り1コーナーでインにマシンをねじ込みトップに立つ。 そのままミカはお得意の先行逃げ切りの体制に持ち込み優勝。 ミハエルとクルサードをポイントで逆転し、ポイントリーダーとなった。
- 00年ベルギー ミカはスパで3年連続のPP、ミハエルは渋滞と黄旗の影響で予選4位から発進。 ウェットレースが宣告されSC先導でスタートする。 路面が乾きだし、ドライタイヤへ交換した13周目のリエージュコーナーの濡れた縁石に乗りミカがスピン。 ミハエルに先行を許し、10秒以上のリードが生まれていた。 しかし2度目のピット後、ミカが1周1秒を詰めるペースで、タイヤがオーバーヒート気味のミハエルを猛追し、40周目についに追いつく。 40周目のケメルストレートでミカが仕掛けるがここはミハエルが抑える。 41周目、オールージュからスリップに入ったミカはミハエルのインに入り、周回遅れのリカルド・ゾンタを挟みながらレ・コンブでついにオーバーテイクに成功する。 このオーバーテイクは「20世紀最高のオーバーテイク」と称された。
次戦イタリアでの記者会見でゾンタはこの瞬間を振り返り、「ミハエルのスペースはアウト側に空けていたが、ミカがインから飛び込んでくるとは思わなかった。 驚いたね…、あいつらクレイジーだと無線で言ったよ」と説明した。 この時、その当事者である’あいつら’はその時と全く同じポジションに座り、笑いながらその話を聞いていた。
- 00年鈴鹿 3年連続で鈴鹿はミハエルとミカの完全な一騎打ちとなる。 まずは予選。 2回目と3回目のアタックではミハエルが先手を討つも、これを僅差でミカが更新しあうという展開となる。 そして最終アタック、ミハエルは0.009秒差でタイムを更新。 ミカもセクター1をマイナス表示で通過するが、本人が最も重要としていたシケインの立ち上がりで上手く加速が出来ず、タイムを更新できなかった。 ちなみに98年から3年連続で鈴鹿でのポール争いは、実質この2人しかしていない。(3年連続予選3位のクルサードを最低0.4秒引き離すほど別格だった)
決勝のスタートは、この年もポール発進のミハエルをミカが逆転してレースが始まる。 その後、3位以下を完全に置いてけぼりにしてレースを支配していく。 1回目のピットでは順位は変わらなかったが、その後雨がちらつき始める。 そして2回目のピットストップでも先手を打ってミカがピットへ入るが、出た後に4台もの周回遅れに引っかかった上に雨の影響を受けタイムロス。 ミハエルは周回遅れに引っかかる事無く、インラップを飛ばしに飛ばしてピットインし逆転に成功。 ミカは最終ラップでファステストを出すも1.8秒届かず2位に。 一方、ミハエルは優勝でフェラーリに21年ぶりのドライバーズタイトルをもたらした。
- 01年イギリス この年マシントラブルに泣き続けていたミカが、僅差でシルバーストーン初ポールのミハエルの隣でスタートしてレースが始まる。 そのまま両者の一騎打ちとなるが、ミカはピタリとミハエルに追走する。 そして5周目の1コーナーでミハエルがミス、ミカはその隙を見逃さずに並びかけ次のマゴッツでオーバーテイクに成功する。 トップに立ったミカはファステストを連発しあっという間にミハエルを置いてきぼりにし、20周目に26秒まで差を広げた。 そのまま独走でミカは、悲願のシーズン初優勝を果たした。
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