ミケル・アルテタ(Mikel Arteta Amatriain, 1982年3月26日 - )とは、スペインの元サッカー選手、指導者である。
イングランド・プレミアリーグのアーセナル監督。
現役時代のポジションはMF。175cm69kg。効き足は右足。
概要
スペイン・バスク州のサン・セバスティアン出身。現役時代は技巧派の守備的MFであり、柔らかい軌道のフリーキックを得意としていた。キャリアの全盛期はイングランドのプレミアリーグで過ごしており、エヴァートンFCやアーセナルFCで活躍。特にアーセナルではアーセン・ヴェンゲル監督から絶大な信頼を得てキャプテンも任され、5年間在籍。2016年に現役を引退し、その後指導者に転身している。
プレミアリーグでは結果を残したものの、当時の黄金期のスペイン代表はタレントがズラりと揃っていたこともあり、代表には縁がない。
指導者としてはマンチェスター・シティのコーチとして名将ジョゼップ・グアルディオラのもとで学んだ後、2019年より古巣であるアーセナルで監督業をスタート。一時は解任寸前まで追い込まれたものの、低迷していたチームを見事に復活させ、リーグ優勝を狙えるだけのチームへと成長させている。
シャビ・アロンソとは同じ地元出身で幼馴染という間柄。一緒にレアル・ソシエダでプレーしようという夢は叶わなかったものの、互いに違う道で選手として成功し、指導者となってからもお互いに若手監督として成功している。
現役時代の経歴
キャリア初期
バスク自治州・海沿いの美しいリゾート地であるサン・セバスティアンで生まれる。レアル・ソシエダでいつかプレーすることを幼少の頃から夢見るようなり、8歳となった1991年に地元のアンティコゴというクラブでサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。ここで親友となるシャビ・アロンソと出会い、練習後も一緒に砂浜でボールを蹴って技術を競い合い、いつか一緒にレアル・ソシエダでプロ選手としてプレーすることを目標としていた。
しかし、15歳となった1997年にシャビ・アロンソはソシエダと契約を結んだものの、アルテタはトライアルを受けてFCバルセロナの下部組織へと加入することになり、ここで親友二人はお互いの道を分かつことになる。バルサのアカデミーの寮であるラ・マシアでの生活は厳しいことで知られ、同じアンティコゴから加わった3人のうち残ったのはアルテタ一人となった。ラ・マシアでは、年齢の近いシャビ・エルナンデスやアンドレス・イニエスタと出会い、当時の監督だったルイス・ファン・ハールの哲学を学んでいる。
1999年、セグンダB(3部)に所属するFCバルセロナBでプロ選手としてデビューする。バルサBで出場機会を得られるようになり、定期的にトップチームの練習にも参加していた。だが、シ中盤にタレントが揃うトップチームではベンチ入りすら難しい状況にあり、そこに新進気鋭のシャビとイニエスタが台頭していたことからアルテタの突け入る隙は無いに等しかった。2000年にクラブの体制が変わると、アルテタの序列はさらに低いものとなり、もはやバルサでのキャリアに見切りをつけていた。
パリ・サンジェルマン
2001-02シーズンは開幕前にブラジルのロナウジーニョが加入したことにより出番が減ることも予想されたが、フェルナンデス監督はプレーメーカーとして起用。PSGはローン期間の終了時にアルテタを引き留めたいと考えていたが、結局交渉はまとまらず、契約終了と共に一度バルセロナへ戻ることになる。
レンジャーズ
2002年3月にスコットランドの名門レンジャーズFCと完全移籍で契約。移籍金は600万ポンド。加入後すぐにレギュラーを獲得すると、初めてのオールド・ファーム・ダービーとなった10月9日のセルティックFC戦ではチームを救う値千金のゴールを決める。フィジカルを前面に出すスコットランドのスタイルに当初は苦しんだものの、次第にフィットするようになり、2002-03シーズンのスコティッシュ・プレミアリーグ、スコティッシュカップ、スコティッシュリーグカップの国内三冠獲得に貢献する。
2003-04シーズンはシーズン最初の6試合で6ゴールを挙げる好スタートを切る。しかし次第にコンディション不良に苦しむようになり、開幕時の好調を最後まで維持することはできなかった。
レアル・ソシエダ
2004年夏、スペインへ戻り、憧れのクラブだったレアル・ソシエダに移籍する。もっともシャビ・アロンソは入れ替わる形でリヴァプールFCへと移籍しており、共演は実現しなかった。しかも、チームにフィットすることができず、わずか3試合に出場したのみとなり半年でチームを去ることになる。
エヴァートン
2005年1月、移籍期間最終日にイングランド・プレミアリーグのエヴァートンFCへレンタル移籍する。以降、残りの選手キャリアをイングランドで過ごすことになる。デイヴィッド・モイーズ監督はトーマス・グラヴェセンが移籍した穴を埋めることを期待していたが、プレースタイルは違ったもののチームのスタイルにうまくフィット。エヴァートンの快進撃の立役者となり、プレミアリーグ創設後最高順位となる4位でシーズンを終え、翌シーズンのUEFAチャンピオンズリーグ出場権に貢献する。
2005年7月に移籍金250万ポンドでエヴァートンに完全移籍する。クラブは大型補強をおこなったものの、CLは予備予選で敗れてしまい、本戦出場は果たせなかった。リーグでも一度は最下位に沈むほど低迷したが、中盤で質の高いプレーを見せ続けて奮闘。2005-06シーズンのクラブのファン投票による年間最優秀選手と選手間の投票で選出される年間最優秀選手に選ばれる。 続く2006-07シーズンも好調を維持し、もはやエヴァートンの中盤の重鎮ともいえる存在となっていた。この年は何度もMOMに選出されるインパクトに残るプレーを続け、リーグ戦35試合に出場し、キャリアハイである9ゴールを記録。2シーズン連続でクラブの年間最優秀選手に選ばれ、『Sky Sports』が選出するプレミアリーグの最優秀MFにクリスティアーノ・ロナウドを抑え選ばれる。クラブからも高く評価され、2007年夏には新たに5年契約を締結する。
2007-08シーズンもティム・ケーヒルや新加入のヤクブ・アイェグベニといったアタッカー陣を司令塔として操り、多くのチャンスを作る。中盤センターを主戦場とし、レオン・オスマンやスティーブン・ピーナールと連携を取りながらゲームメイクを担ってチーム全体のテンポをコントロールしていた。この年、ノース・ウェストの年間最優秀選手に選ばれ、2008年1月にはエヴァートンの選手としては5年ぶりに、リヴァプール・エコー紙のスポーツ・パーソナリティ・オブ・ザ・イヤーを受賞。シーズン後半に腹部を負傷し、問題を解決するために最終戦を前に手術を受けた。 2008-09シーズンの開幕戦でフリーキックからゴールを決めるなど、コンディションを取り戻しつつあったが、2月22日のニューカッスル・ユナイテッドFC戦で左ヒザ十字靭帯断裂の重傷を負い、2009-10シーズンの始めの5ヶ月間チームを離れることになった。2010年1月に行われたFAカップのバーミンガム・シティFC戦に交代で出場しチームに復帰。
2010-11シーズンはホームでのマンチェスター・ユナイテッド戦での逆転ゴール、そしてリヴァプールFCとのマージーサイド・ダービーでもゴールを決めたものの、チームの不調とリンクする形で調子を落とすようになっていた。シーズン終盤戦になると、モイーズ監督の配置転換によってウイングでプレーするようになり、自由に攻撃を組み立てるスペースを得るようになったことで本来の創造性溢れるプレーが復活する。 2011-12シーズンの開幕戦でゴールを決めるが、その直後、29歳となったこともあって最後の挑戦をするために6年間過ごしたクラブを離れることになる。
アーセナル
2011年8月31日、移籍金1000万ポンドの4年契約でプレミアリーグのアーセナルFCへの移籍が発表される。この直前の試合でアーセナルはマンチェスター・ユナイテッドを相手に2-8という歴史的な大敗を喫しており、移籍マーケットの最終日で他の4選手と共に加入が決まったことから、アーセン・ヴェンゲル監督によるパニック・バイだと揶揄された。しかしプレミアリーグでの実績で上回るアルテタは他の選手と違ってすぐにフィットし、セスク・ファブレガスが抜けたガナーズの中盤に不可欠な選手となっていく。中盤の底で守備的なアレクサンドル・ソングと役割の分担が明確になり、プレスキックでも貢献。2012年4月16日のウィガン・アスティック戦で足首を負傷し、残りのシーズンを欠場することになるが、シーズンを通して29試合に出場し、6得点を挙げ、苦戦していたチームを4位でフィニッシュさせる。
2012-13シーズンからはロビン・ファン・ペルシーの退団によってチームの副主将に就任。30歳となったものの、円熟味を増したプレーでチームを支え、過去最多出場となる公式戦43試合に出場するなどシーズンをほぼフル稼働。中盤の底を主戦場にこの年加わった同じスペイン人のサンティ・カソルラとゲームメイクを担い、チームを17年連続のトップ4フィニッシュに導き、ファンによるアーセナルのシーズン最優秀選手投票でシーズンの4番目に優れた選手に選ばれる。
2013-14シーズンには開幕直後にレアル・マドリードからメスト・エジルが加入。シーズンの初めは負傷で欠場したが、9月末までにチームに復帰し、エジル、カソルラとの3人で中盤で魅力的なパスワークを披露しヴェンゲル監督のチームらしい創造性のあるフットボールを体現する。チームもエミレーツ・スタジアム建設に関わる負債の減少から緊縮財政が終わったことで補強に金がかけられるようになり、戦力が充実し始めた時期であった。プレミアリーグでは定位置の4位に終わったが、FAカップではファイナルに進出。決勝のハル・シティ戦ではキャプテンマークを巻いて出場し、チームの実に9シーズンぶりとなるタイトル獲得に貢献。自身にとってもイングランドに渡ってから9年目での初のタイトルとなった。
2014-15シーズンは移籍したトーマス・フェル・メーレンに代わってキャプテンに就任。開幕前のコミュニティシールドで正式なキャプテンとして初めてトロフィを掲げるが、怪我や若いフランシスコ・コクランの台頭もあって出場機会が激減。シーズンを通して公式戦11試合しか出場できず、退団も予想されたが、オフに1年間の契約延長を結ぶ。
2015-16シーズンも中盤での序列は低く、年齢による衰えも隠せなくなっていた。クラブも次のサイクルへの移行が求められた時期だったことも重なり、2016年5月15日に退団することが発表される。アーセナルでの最後の試合となったプレミアリーグ最終節アストン・ヴィラ戦では試合終了時に観客からスタンディングオベーションを受ける。そしてこのまま現役を引退。
スペイン代表
U-16、17、18、21のスペイン代表としてプレイしたことはあるが、A代表でプレイした経験はない。1999年に開催されたUEFA U-16欧州選手権とUEFA-CAF メリディアン・カップ優勝を経験しており、FIFA U-17ワールドカップにも出場し、UEFA U-21欧州選手権の予選ではキャプテンを務めた。
当時のスペイン代表では親友のシャビ・アロンソを含め、シャビ、アンドレス・イニエスタ、セスク・ファブレガス、セルヒオ・ブスケツ、サンティ・カソルラ、ダビド・シルバ、フアン・マタなど中盤にタレントが揃いすぎていたため最後まで縁が無かった。2009年2月に招集される予定だったが、膝十字靭帯の負傷により、代表メンバー発表前に名前がリストから外れている。そういった事情からエヴァートンサポーターを中心にイングランド代表に招集させようという動きもあったが、本人はスペイン代表にこだわったこともあって実現せず。
個人成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
---|---|---|---|---|---|
1999ー00 | バルセロナB | セグンダB | 6 | 0 | |
2000ー01 | バルセロナB | セグンダB | 16 | 2 | |
パリ・サンジェルマン(loan) | リーグ・アン | 6 | 1 | ||
2001ー02 | パリ・サンジェルマン(loan) | リーグ・アン | 25 | 1 | |
2002ー03 | レンジャーズ | S・プレミアシップ | 27 | 4 | |
2003ー04 | レンジャーズ | S・プレミアシップ | 23 | 8 | |
2004ー05 | レアル・ソシエダ | リーガ・エスパニョーラ | 15 | 1 | |
エヴァートン(loan) | プレミアリーグ | 12 | 1 | ||
2005ー06 | エヴァートン | プレミアリーグ | 29 | 1 | |
2006ー07 | エヴァートン | プレミアリーグ | 35 | 9 | |
2007ー08 | エヴァートン | プレミアリーグ | 28 | 1 | |
2008ー09 | エヴァートン | プレミアリーグ | 26 | 6 | |
2009ー10 | エヴァートン | プレミアリーグ | 13 | 6 | |
2010ー11 | エヴァートン | プレミアリーグ | 29 | 3 | |
2011ー12 | エヴァートン | プレミアリーグ | 2 | 1 | |
アーセナル | プレミアリーグ | 29 | 6 | ||
2012ー13 | アーセナル | プレミアリーグ | 34 | 6 | |
2013ー14 | アーセナル | プレミアリーグ | 31 | 2 | |
2014ー15 | アーセナル | プレミアリーグ | 7 | 0 | |
2015ー16 | アーセナル | プレミアリーグ | 9 | 0 |
指導者としての経歴
マンチェスター・シティコーチ
引退後すぐの2016年7月、マンチェスター・シティのアシスタントコーチに就任し、ジョゼップ・グアルディオラ監督の参謀として働くことになる。ペップ・グアルディオラとはFCバルセロナのアカデミー時代からの顔見知りで、最後の年を迎えていたアルテタは再び連絡を取り合い、一緒に働くことを決めた。
2018年9月19日、UEFAチャンピオンズリーグのオリンピック・リヨン戦では、グアルディオラがベンチ入り禁止処分を受けていたことにより監督代行を務めている。
シティではペップの右腕としてプレミアリーグ優勝2回、FAカップ優勝1回、EFLカップ優勝2回を達成した。2018年、アルテタは前監督のアーセン・ヴェンゲルの退任に伴い、アーセナルの監督の候補として挙げられたが、最終的にはウナイ・エメリが就任した。
アーセナル監督
2019年12月20日、成績不振で解任となったエメリの後任として古巣であるアーセナルFCの監督に就任。クラブが方向性を見失っていると考え、エメリ政権下で構想外になっていたメスト・エジルをチームに戻すなど改革を施す。だが、2020年3月13日にCOVID-19に感染していることが判明し、ファーストチームの選手全員とコーチ陣を含むかなり多くのアーセナル関係者が政府の方針に従い彼との最後の接触日から14日間の自宅待機となる。結局、2019-20シーズンは、25年ぶりにトップ6入りを逃し、欧州カップ戦出場圏外となる8位でリーグ戦を終える。一方、FAカップでは決勝まで進出すると、チェルシーFCを下して監督としての初タイトルを獲得。これによりアルテタは、アーセナルにおいて主将と監督の両方でFA杯優勝を果たした最初の人物となった。
2020年9月10日、役職名がヘッドコーチからファーストチームマネージャーに変更された。これにより監督としてチームの指揮・指導に留まらず、チームの運営や分析、選手獲得、ハイパフォーマンス、医療などあらゆる要素の権限を有することになる。前年の中断明けから構想外となっていたエジルを放出するなど、戦力の見極めを断行するも、2020-21シーズンもUEFAヨーロッパリーグの準決勝において、前任者のウナイ・エメリ率いるビジャレアルに敗北、プレミアリーグでは一時15位に陥落するなどチームを低迷させた。最終的に8位でシーズンを終え、UEFAヨーロッパリーグの出場権も逃しチームは26年振りにヨーロッパの舞台から去ることになる。一部からは監督としての資質を疑問視する声も出始める。
任期3年目である2021-22シーズンはプレミアリーグ年間最高額であり、チーム歴代最高額である総額1億6000万ポンドの補強を敢行。ところが、主力に怪我人や相次いで新型コロナ陽性になるなど主力が大量に起用不可能となり思うような布陣が組めないこともあって67年振りに開幕3戦で全敗し、この間無得点9失点とチームをプレミアリーグ単独最下位の20位に低迷させてしまう。いよいよ解任かと騒がれ始めたが、フロントはアルテタに対する信頼を強調する。すると、徐々に離脱者が復帰し、新戦力のベン・ホワイト、冨安健洋、アーロン・ラムズデールといった新戦力がフィットするようになり、チーム状態が向上。ノース・ロンドン・ダービーでの快勝などもありプレミアリーグ監督で唯一9月を全勝で終え、プレミアリーグ月間最優秀監督に選出される。また、規律違反を繰り返していたピエール=エリック・オーバメヤンからキャプテンを剥奪したうえ、さらにチームから除外する非常な処分を下し、放出。エースへの妥協を許さない措置でチームを引き締める。その後も厳しいアウェイでの連戦が続いた2022年3月を4戦3勝で終え、シーズン二度目となるリーグ月間最優秀監督を受賞。CL出場権のトップ4入りは果たせなかったものの、アルテタ政権はポジティブな空気に包まれていた。
2022-23シーズンもマンチェスター・シティ時代のコネクションを活かしてガブリエウ・ジェズスとオレクサンドル・ジンチェンコの獲得に成功。また、オーバメヤンの移籍後空白だったキャプテンには23歳のマルティン・ウーデゴールが就き、若きチームを象徴することとなった。前年を上回るスカッドを手にしたこともあり、プレシーズンからの好調を維持して開幕5連勝で単独首位となり8月唯一の全勝をしたため自身3度目となる8月のプレミアリーグ月間最優秀監督を受賞。11月から12月のリーグ戦では4戦全勝と好調を維持し、自身4度目となる11月/12月のプレミアリーグ月間最優秀監督を受賞。一時は無敗優勝を達成した2003-04シーズンを上回るペースで勝ち点を積み重ね、優勝争いに加わっていく。しかし、3月にウィリアン・サリバ、冨安と守備陣に故障者が相次いだことが影響してシーズン終盤に失速。最後はマンチェスター・シティに引き離されたものの、シーズンを2位で終え、クラブを7年ぶりのCL出場へと導く。
2023-24シーズンは開幕直前のFAコミュニティシールドでシティ相手に勝利し、監督として3つ目のタイトルを獲得。カイ・ハフェルツ、デクラン・ライスとまたも大型補強に成功したチームは開幕から安定した戦いぶりを続け、2023年11月25日にはシーズン初めてプレミアリーグの首位に立つ。シーズン後半戦に入るとガブリエウ・ジェズスの不調によって懸案事項となっていた1トップにハフェルツが回ったことでチーム力はさらに強力され、サリバとガブリエウ・マガリャインスのCBコンビを擁する守備陣はリーグ最高クラスの強度を見せる。終盤三つ巴の優勝争いのライバルであったマンチェスター・シティ、リヴァプール双方に1勝1分の無敗で勝ち越しを含む対ビッグ6無敗と強豪相手に一度も負けない勝負強さを見せた。また、プレミアリーグ発足以降のアーセナル史上最多勝利数であるリーグ戦28勝をするなど記録ずくめの素晴らしいシーズンを送った。かし、最終節までもつれた優勝争いの末に勝点差わずか2及ばずにマンチェスター・シティの四連覇を阻止できず2季連続の2位に終わる。
監督としての成績
シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 順位 | 獲得タイトル |
---|---|---|---|---|---|
2019-20 | アーセナル※ | プレミアリーグ | 8位 | FAカップ | |
2020-21 | アーセナル | プレミアリーグ | 8位 | FAコミュニティシールド | |
2021-22 | アーセナル | プレミアリーグ | 5位 | ||
2021-22 | アーセナル | プレミアリーグ | 5位 | ||
2022-23 | アーセナル | プレミアリーグ | 2位 | ||
2023-24 | アーセナル | プレミアリーグ | 2位 |
※シーズン途中での就任。
プレースタイル
元々は10番タイプの攻撃的MFだったが、後に一列下がった位置で攻撃を組み立てる、プレーメーカー型の守備的MFとなる。サイドハーフとしてプレーすることもあり、エバートンでは、サイドでボールをキープして正確なパスをゴール前に送るという仕事を務めることが多かった。
最大の武器はキックの正確さであり、長短織り交ぜたパスで攻撃陣を自在に操り、攻撃のテンポをコントロールしつつアタッカーの長所を引き出していた。また、プレスキックのスペシャリストとしても知られ、柔らかい軌道のフリーキックからゴールを演出してきた。セスク・ファブレガスのようにゴール前に飛び出すような動きは得意ではなかったが、ミドルシュートからゴールを奪う場面も見られた。
守備は読みを活かしてインターセプトし、スペースをカバーする動きにも長けていた。一方、守備の強度そのものは強くはないため、1対1の局面になると劣勢を強いられていた。
指導者としてのスタイル
戦術面はマンチェスター・シティ時代に師事していたジョゼップ・グアルディオラの影響を受けており、一見、選手が自由自在に動き回っているようだが、ボールがハーフウェイラインを越えたら残すDFはふたり、サイドにトライアングルをつくるという原則は徹底させている。選手のポジショニングなど細かい部分にもこだわるタイプの指揮官で、攻守両面でポジショニングはかなり細かく、ビルドアップの部分にも様々な工夫が施されている。
基本的にポゼッションサッカーを好んでいるものの、そこまで繋ぐことにこだわりすぎておらず、試合によっては守りを固めてカウンター狙いになることもある。 守備の局面では前線からハイプレスをかけて積極的にボールを奪いにいき、自分たちが試合をコントロールしようとすることが多い。ビルドアップは左右非対称で、攻撃時に左はサイドバックを中央に絞らせ、ウイング・サイドバック・インサイドハーフが頻繁にポジションチェンジをおこない、右はサイドバックは低い位置に残ってウイングを相手SBと1対1の状況を作らせることを重視する。ただし、ウイングがハーフスペースに移動したときはサイドバックが大外から攻撃参加する。そのため、従来の上下のアップダウンを得意とする典型的なサイドバックをあまり重用しておらず、ベン・ホワイトや冨安健洋などマルチロールなDFを好んで起用している。
マネジメント面においてはクラブを取りまく関係者全員の連帯こそがクラブが成功するために不可欠な必要条件という考えを大前提としている。そのため、規律を重視し、チームに悪影響を及ぼしたり、規律違反を繰り返す選手は例えエース級であっても容赦なく干してしまう。対戦相手の分析や前の試合での反省を踏まえて入念な対策を講じる傾向にある。一方、ストラクチャーが崩れるのを恐れるためか試合中の交代策は慎重。
人物・エピソード
- 2010年、ミス・スペインに選ばれた経歴のあるアルゼンチン系スペイン人の女優・モデル・テレビ司会者のロレーナ・ベルナルと結婚。2人の間には3人の息子がいる。
- スペイン語、バスク語、カタルーニャ語を流暢に操り、英語、完璧ではないがフランス語とイタリア語も話すことができる。現在はポルトガル語を学んでいる。
関連項目
親記事
子記事
- なし
兄弟記事
- 0
- 0pt