ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ(محمد ابن عبد اللّه ابن عبد المطّلب Muḥammad ibn `Abd Allāh ibn `Abd al-Muṭṭalib)とは、イスラームの開祖である。
日本においては元は西欧・トルコの発音からマホメット、モハメッドなどと呼ばれる事が多かったが、現在では標準アラビア語に倣いムハンマドと呼ぶことが多い。
概要
メッカを支配していたクライシュ族、ハーシム家の一員として570年頃生まれる。フルネームは「ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ・イブン・アブドゥルムッタリブ」で、これは「アブドゥルムッタリブの息子、アブドゥッラーフのそのまた息子であるところのムハンマド」という意味。
40歳頃、山での瞑想中に天使ジブリールを介してアッラーフ(神)から啓示を授かる。当初ムハンマドはアッラーフの啓示は自分には読めないと断ったが、ジブリールがムハンマドを掴み、覆いかぶさって苦しくなったところで離すということを三度繰り返し、漸く啓示を受け入れたという。神の言葉はクルアーンとして読まれている。
ムハンマドの説く一神教は当時のアラブで信仰されていた多神教と相容れないものであり、ムハンマドは暗殺の危機から逃れるために近隣都市ヤスリブへ移住する。ヤスリブの住人は彼を指導者として向かい入れ、町の名前をマディーナと定めた。イスラムの暦であるヒジュラ暦はムハンマドの誕生日や召命ではなくこの遷都の起こった年(イスラーム共同体が成立した年)とされるが、それはイスラームの教義が神から齎されたものであり、ムハンマドはそれを伝えただけだと信じられていることと関係している。
拠点を得たムハンマドは逆にメッカへの侵攻を開始し、7年の戦争の末最終的にメッカを無血開城させることに成功した。ムハンマドはメッカを征服した時点でカアバ神殿に赴きそこに安置されていた360体の偶像を破壊したという。
ムハンマドはマディーナに戻るが、大巡礼の儀を果たすために再度メッカを訪れた。この大巡礼の後にムハンマドは病に倒れ、マディーナの自宅で晩年では一番愛したとされる妻アーイシャに看取られて没した。
全アラビア指導者を従えたとされるムハンマドの死後、イスラム教勢力では拡大と内紛を繰り返した。やがてムハンマドの側近であったムアーウィヤと、ムハンマドの甥であるアリーの勢力に別れ、これが現在に至る、イスラム教スンニ派とシーア派の原点となっている。
預言者ムハンマドが語った言行録である「ハディース」の中で、ムハンマドがたまたま聞こえてきた音楽に耳を塞いだり、楽器は悪魔の呼びかけだと語ったことが記されている。そのためイスラム教の唱歌であるナシードでは基本的な打楽器を除く楽器は使われない。また偶像崇拝を防ぐため、肖像画ではムハンマドの顔は描かれない。
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