そしていつか
友人たちの躍進に
誇らしさを感じながら
自分へのもどかしさも
また抱いていたいま先頭で走る僕は
逃げているのではなく
実は彼らの後ろ姿を
追いかけているのだ少しずつ差を詰めよう
そしていつか抜き去ろう
メジロパーマーとは、1987年生まれの競走馬。1992年の宝塚記念、有馬記念に勝った名馬である。
名前を聞くと「くすっ」と笑ってしまう、愛すべき名馬であった。いわゆる馬鹿コンビの片割れとして有名。もうちょっとかっこいい異名を付けてやれよ…。
主な勝ち鞍
1991年:札幌記念(GIII)
1992年:宝塚記念(GI)、有馬記念(GI)、新潟大賞典(GIII)
1993年:阪神大賞典(GII)
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この記事では実在の競走馬について記述しています。 この馬を元にした『ウマ娘 プリティーダービー』に登場するキャラクターについては 「メジロパーマー(ウマ娘)」を参照してください。 |
概要
※馬齢表記は当時の旧表記(現表記+1歳)とします※
生まれ
1987年3月21日、メジロ牧場にて誕生。幼名は「輝峰」。競走馬名はアメリカゴルフの英雄アーノルド・パーマーから取られた。
父メジロイーグル 母メジロファンタジー 母父ゲイメセン(Gay Mecene)という血統。
父は19戦7勝。京都新聞杯などを逃げ切り勝ちした他、東京優駿では向こう正面で20馬身差をつける爆走の果てに5着に粘りこんだ「だれからも愛された逃げ馬」。種牡馬入り初年度の1982年は「種なし」状態だったが、大人の遊びを覚えて当て馬とのトレーニングを経て改善した、風変わりな奴であった。ほとんどメジロ牧場の自家生産用として繋養されているような状態であり、パーマーはその5年目の産駒である。
母は4戦1勝。母父は米国産馬で12戦5勝。
平成後期の競馬ファンから見れば地味ーに見えてしまうかもしれないが、いやいやこれこそがメジロの血統ですよ。
パーマーの種付け年、メジロ牧場はイーグルの種付けに注力していたが、パーマー含む産駒達の評価はあんまり高くなかった。何しろ彼らの同期には、父アンバーシャダイの「輝光」と、父メジロティターンの「オーロラの62」――それぞれ後のメジロライアンとメジロマックイーンがいたのである。これでは仕方ない。
幸いにも大きな病気をすることもなく、パーマーはすくすくと成長していった。育成担当の古賀末徳は「小さい時から、軽い性格、ひょうきんって言うのかな。ちょろちょろ動いては、他の馬——それが牡でも牝でも——にチョッカイを出していましたね」と回顧している。
1989年:デビュー
栗東の大久保正陽厩舎に入厩したメジロパーマーは、89年8月、函館競馬場の新馬戦で一番人気を背負ってデビューするも、出遅れた挙句6馬身差の2着。2週間後の新馬戦(当時は複数回新馬戦に出られたのである)でも2着だったが、更に2週後の未勝利戦、更に2(ryコスモス賞(オープン)を連勝する。
秋は京都競馬場に移り、10月の萩ステークス(OP)、11月の京都3歳ステークス(OP)を走るが、いずれも着外。更に骨折が発覚し、長期休養を余儀なくされた。
90年:苦節
休養は長引き、復帰はクラス再編が行われる6月になった。春シーズンを完全に棒に振った上に、なまじOP競走を勝ってしまっているため、分不相応な1500万以下クラスに放り込まれてしまう。
札幌・函館で5戦するが、エルムステークス(1500下)と道新杯(OP)で5着に入るのがやっと。初重賞挑戦の函館記念(GIII)では斤量48キロの超ハンデを貰ったにも関わらず、15頭中7着である。陣営はここで逃げ戦法に活路を見出したが、またも骨折が発覚。再度の長期休養を余儀なくされる。
パーマーが四苦八苦している一方、メジロライアンはクラシック3戦と有馬記念で2着、メジロマックイーンは菊花賞を制する大活躍を見せていた。
91年:障害転向
3月、鈴鹿ステークス(1500万下)にて復帰。特に見せ場なく5着だったが、続く条件戦とオープン戦では逃げ戦法がハマり、3着と4着に好走する。
4月末、パーマーは初のGIとなる天皇賞(春)に挑んだ。マックイーンとライアンが1番、2番人気に推される一方、パーマーは18頭中16番人気である。レースではやはり逃げるが、失速。13着に終わった。
な~んか馬の底が見えてきた気がした大久保師は、障害競走への転向を考え始めた。障害飛越練習をさせてみると意外とタイムがよかったのである。しかし、6月のクラス再編で500万下に降格することが決まったことで「もうちょっと平地で走らせてみっか」ということになり、この件は保留となる。
一年ぶりの北海道。パーマーはニセコ特別(500万下)で2着した後、十勝岳特別(500万下)を大差で逃げ切り、実に13戦ぶりの勝利を挙げる。おまけに連闘となった6月末の札幌記念(当時GIII)では、第2コーナー手前から先頭に立ち、そのまま逃げ切って重賞初制覇! やったぜパーマー!一年遅れの「夏の上がり馬」だぜ! そして、この勝利によって種牡馬引退寸前だった父メジロイーグルの現役続行も決定し、イーグルの担当スタッフは泣いて祝ったという。
……が、8月の巴賞(OP)、函館記念、10月の京都大賞典(GII)では6着5着7着。結局パーマーは障害競走に送り出されることになる。仮にも重賞勝ち馬を障害に回すとは、容赦無いな当時のメジロ牧場……。
障害試験をレコードタイムで合格した後、4歳以上未勝利は6馬身差の圧勝。2戦目の4歳以上400万円以下も2着と、なかなかの滑り出しだった。
だが、大久保師は「こりゃ駄目だ」と気づいた。生来の性格が災いしたのか、パーマーは障害を真面目に飛越していないのである! 生け垣を跨ぎ、水壕に落ち、帰ってきたら前足は腫れあがり、体中が擦過傷だらけ。「こんな危ない馬は障害には使えない」と、平地に戻すことになった。
1992年:山田泰誠との邂逅
3月末、復帰戦のコーラルステークス(OP)は4着。続く、再びの天皇賞(春)にて、メジロパーマーは運命の出会いを果たす。この年のアーリントンカップで重賞初勝利を挙げたばかりの、奇しくもパーマーと同年デビューの若手騎手・山田泰誠である。
大久保師から「ピューと逃げてくれ」「気楽に逃げてくれたらいいから」と投げやりなのか自信があるのかわからん指示を受けた山田騎手は、これまで以上のハイペースでパーマーを走らせた。結果は連覇達成したメジロマックイーンの7着だが、山田騎手は確かな手ごたえを掴んでいた。以後、特別の事情がない限り、パーマーの主戦は山田騎手で固定されることになる。
5月、新潟大賞典(GIII)。メジロパーマー&山田騎手は54kgの(比較的)軽ハンデに助けられ、ハイペース大逃げで4馬身差の完勝を遂げる。重賞を二つも勝ったのであるからもう堂々たるオープン馬である。もう使えない奴とは言わせないぜ!
大久保師は「出走できるかどうかについては皆さんの判断に任せるしかありませんね」としながらも、宝塚記念への出走を表明。ファン投票は36位であったものの、新潟での奮戦がJRA推薦委員会に評価され、推薦馬に選ばれた。
宝塚記念:まんまと逃げきり!
大きな顔をして乗り込んだ宝塚記念(GI)。パーマーは23.1倍の9番人気だった。
この年の宝塚は、メジロマックイーンと前年の無敗2冠馬・トウカイテイオーの再戦が大見ものとなっていたが、両馬は直前に骨折して共々回避。結果、残った13頭はGIにしては小粒……悪く言えば「がっかりムードが漂う」感じの面子だった。人気も割れており、かろうじて春天・安田記念連続2着(!?)のカミノクレッセが一番人気(単勝2.0倍)。続いてマイルCS覇者ダイタクヘリオス(5.9倍)、本年の京成杯で重賞初制覇のミスタースペイン(10.8倍)、有馬記念覇者ダイユウサク(11.5倍)という感じだった。
誰よりもがっかりしていたのがメジロ牧場の関係者で、パーマーが出るというのに応援ツアーは中止。関係者がほとんど応援に来ていないという有様だった。
ところがである。パーマーと山田騎手は暴走気味のハイペースでぶっ飛ばし、ハナに立とうとしたダイタクヘリオスとオースミロッチに先行すると、後は単騎独走。芝の生育ミスで「良馬場なのに不良馬場並に時計がかかる」異常馬場をものともせず、そのまま底知れぬスタミナで直線を押し切ってしまい、2着カミノクレッセに3馬身、3着ミスタースペインには7馬身、その他10頭に大差をつけて、先頭でゴール線を駆け抜けたのであった。人馬共にGI初制覇である。
阪神競馬場は歓声……ではなく、どよめきに包まれた。実況していた関西テレビの杉本清アナもたまげたらしく、彼にしては妙に言葉の繋がりが悪かった。おそらくTVで観戦していたメジロ牧場の人々も、歓喜する前に数秒の思考停止時間を挟んだのではないだろうか。
口取り式はGIとは思えないほどの寂しさであり、写真にはパーマー+山田騎手+大久保師+山田一蔵厩務員+メジロ商事の北野俊雄社長の1頭と4人しか映っていない。名物馬主として知られていたメジロ牧場総帥・北野ミヤが不在のGI口取り式など、この時くらいの物であろう。
グランプリホースになったとはいえ、これでパーマーの評価が上がったかというとそうではなかった。やれ「メンバーがしょぼかったから」だの、やれ「クソ馬場だったから」だの、散々な分析が行われていたためである。杉本アナが「まんまと」「まんまと逃げきり」を連呼していた影響もあるかもしれない。不憫。
秋・一転して…
メジロ牧場で休養後、秋は京都大賞典にて復帰。2番人気に推されたはいいが、徹底マークを受け、それ以前に山田騎手が前日の競走で落馬して骨折していたこともあって、オースミロッチの逆襲を許し9着に終わる。
流石に山田騎手は降ろされ、天皇賞(秋)(GI)は藤田伸二が代打騎乗。一転して10番人気になった。ここではダイタクヘリオスと並んで爆走し、1000m57.5秒の超ハイペースを作り出した挙句、ずるずると沈んでブービー(17着)惨敗。後に「大逃げの馬鹿コンビ」と呼ばれるペアが結成された瞬間であった。
1番人気のトウカイテイオーが暴走に巻き込まれて7着惨敗し、11番人気のレッツゴーターキンが勝ったことで府中はどよめきに包まれ、結果として藤田騎手を悪し様に言う声はあまりなかった(そもそも人気薄だったしね)。ただこのレース、1着との差は1.8秒とそこまで極端に離れていない。一緒に轟沈したと思われがちなダイタクヘリオスも、実は0.6秒差の8着に残って出走奨励金を持ち帰っている。
この結果を受け、ジャパンカップは回避。有馬記念に照準が合わせられた。ファン投票は17位で優先出走権は獲得できなかったが、今回も推薦馬として出走が決まった。鞍上にはかろうじて回復した山田騎手が戻ってきた。
有馬記念:爆走、そして…
有馬記念(GI)では49.4倍の15番人気。下にはイクノディクタスしかいない堂々のブービー人気である。オースミロッチ(11番)とかサンエイサンキュー(13番)とかヤマニングローバル(14番)よりも人気薄だったのだ。春のグランプリホースが。
上位人気を観てみると、1番人気はトウカイテイオー(2.4倍)。前走JCでは父シンボリルドルフ以来の日本馬勝利を達成し「絶対」とまで言われていた。JC激走した馬は消しだとあれほど。2番人気はこの年のクラシック戦線でミホノブルボンの後を追い続け、菊花賞で遂に先着したライスシャワー(4.9倍)。3番人気は外国産馬故に裏街道を走ってきたライスの同期・ヒシマサルII(6.9倍)。4番人気(惜しい)は前年3着の善戦マン・ナイスネイチャ(11.1倍)。
ところがこのレースは、いわゆる「馬鹿コンビによる馬鹿コンビのための馬鹿有馬記念」とまで言われ、伝説となる。
スタートから例によって頭が高い走り方で先頭に立ったメジロパーマー。トウカイテイオーは出遅れ。この時点で観客席に嫌な感じの「ざわ…」てな雰囲気が漂う。一周目スタンド前、歓声に盛り上がったか、あのダイタクヘリオスが口を割ってメジロパーマーに競り掛ける。パーマーは譲らない。だんだんだんだんペースが速くなり、向こう正面ではなんか物凄い勢いでヘリオス・パーマーが突っ走っていく。
「あ~あ~あ~あ~、ま~たやってるよあいつら……」。ファンは苦笑した。秋天でも馬鹿逃げ、そして沈没した2頭である。後続が大きく引き離されても、ファンはまったく心配していなかった。
だがしかし、3コーナー手前から馬鹿コンビの暴走は更に激しさを増す。11秒台のラップが連発するのである。更に引き離される後続。そして、最後方でもたもたしているトウカイテイオー。観客席でもざわめきが大きくなる。だが、まだ「トウカイテイオーがピンチか?」くらいの心配であった。だが――!
さぁ三番手以下までまだ15、6馬身ある!さぁ、早く追いかけなければいけない!ここは3・4コーナー!後続馬14頭が一気に差を詰めないと、とても前の二頭は捕まりそうもない!
メジロパーマー大逃げ!宝塚の再現成るか!? 残り400mの標識を、メジロパーマー、ダイタクが切った! さぁ三番手グループはなんだ!?
堺アナがまくしたてる最中、3コーナーから4コーナーにかけて、後続の人気馬の鞍上は猛然と追い出しに掛かっていた。ちゃんと追い掛けていたのである。しかし最終直線に入ったメジロパーマーは、力尽きたダイタクヘリオスを置き去りにして駆けていく。残り200m、一人旅になったパーマー。ファンの脳裏にあの宝塚が蘇る。スタンドから湧き上がる絶叫!
残り150m地点で遂に脚が鈍るパーマー。それを見計らったかのようにレガシーワールド、ナイスネイチャ以下、後続馬が最後の進出を開始する。そしてただ一頭レガシーワールドが抜け出し、追い込み、ほとんど同時にゴール線を通過し、すぐに追い抜いて行った。ファンの大歓声、はたまた悲鳴が響く。だが、山田騎手は勝利を確信し、パーマーの首を叩いて勝利を祝福していた。テレビの前の競馬ファンは「ヒシマサルも、トウカイテイオーも、そしてライスシャワーも、どうしたんでしょうか」と、呆然と叫ぶ堺アナに「まったくだ」と同意したのであった。
写真判定が終わった。メジロパーマーはハナ差で粘り切り、ゴール板を先頭で駆け抜けていた。ついでにナイスネイチャは指定席。単勝4940円。馬連はなんと31550円! ……とても宝塚記念馬がらみの馬券とは思えん。
「春秋グランプリ連覇」はリユウフオーレル、シンザン、スピードシンボリ、イナリワンに次ぐ、史上5頭目の快挙だった。メジロ冠の有馬記念制覇はメジロデュレン以来であり、そしてこれが最後となった。メジロライアンもメジロマックイーンも2着に敗れ、勝てなかったのだ。
一時は比較することすらおこがましいとまで思われた同期の名馬2頭に、パーマーは遂に並び、「メジロ牧場 花の62年組」を形成したのである。
1993~94年:老兵は死なず
1月。92年度JRA賞では最優秀父内国産馬と、最優秀5歳以上牡馬に輝く。6歳でのグランプリ優勝ということで、引退してもおかしくはないのだが、まだまだ元気だったことで現役続行が決定した。血統的に魅力が薄いとか大久保厩舎に有力馬がいなくなるからとか、他にもいろいろ理由があったけど
始動戦は3月の阪神大賞典(GII)。メジロパーマーはナイスネイチャとタケノベルベットに次ぐ3番人気となる。……いやなんでだよ!? グランプリホースだぞ!? しかもネイチャには有馬で完勝したんだぞ!?
この結果にパーマーと山田騎手が憮然としたかはわからないが、レースでは実に鮮やかな勝利を収めた。例によって単騎独走し、2周目の第3コーナーで後続を引き付け、ベルベットとネイチャと競り合いになる。しかしパーマーの二の脚を前に、ベルベットとネイチャは失速。そのままさし返して半馬身差でゴールしたのである。
またもう一度メジロパーマーが伸びる!もう一度メジロパーマーが伸びる!このあたりがメジロパーマーの恐ろしいところ!もう一度出た出た出た!また出たぞ~!
メジロパーマーだまたメジロパーマーだ!またまたメジロだメジロだ!強い~~!強い~~!
余勢を駆って天皇賞(春)に向かったが、ここには帰ってきたメジロマックイーンと、生涯最高の仕上げであったライスシャワーがいた。パーマーはこの2頭と、ライスに先着した実績を持つマチカネタンホイザに次ぐ4番人気。まぁかろうじて1桁オッズだし、いいか…。
史上最高レベルのステイヤー二頭を向こうに回し、パーマーは果敢に逃げ、最終直線まで一歩も引かなかった。最後は抜け出したライスシャワーに置き去りにされたものの、マックイーンに3/4差、後続のタンホイザを6馬身離した3着に粘りこみ、グランプリホースの面目躍如と相成った。
が、これが1993年最後の輝きとなった。宝塚記念、京都大賞典、スワンステークス(GII)(何故出たし)、ジャパンカップ(GI)は10着9着11着10着。有馬記念ではメジロライアンの主戦だった横山典弘に乗り代わりとなるが、ギリギリ掲示板外の6着だった。
翌1994年も現役続行。有馬から一か月後の日経新春杯(GII)では山田騎手が戻り、60.5kgの酷量を背負いながら2着に突っ込む。すわ復活か、と思われたものの、右前脚に屈腱炎が見つかり、休養に入る。しかし年齢も考慮し、遂に9月での引退が決まった。
競走馬としての総評
二度の骨折、障害転向、春秋グランプリ制覇……。とにもかくにも波乱万丈な競走生活であった。「障害競走に出走した馬が、平地GIを勝利した」史上唯一の例というサクセスストーリーの持ち主でもあり、馬鹿コンビでの大逃げ漫才で笑いも取ってみせる、色々とネタが多い馬であった。
馬券的には一切信用出来ない馬であり、宝塚記念に勝った馬でありながら、その後一回も一番人気になっていない。ハイペースで潰れない逃げ馬と言えば聞こえは良いのだが、なまじ展開が落ち着いてしまうと終いの脚が無いために直線で交わされ、そうするとやる気を失って沈没して掲示板にも残れないという極端な馬であり、怖くて買えない馬だったというのが馬券師の見解である。
だが、同じような脚質だったツインターボに比べるとちゃんとGIに二回も勝っており、強い時には間違いなく強い馬であった。92年宝塚も有馬も「展開のあやで勝った」とは言えない、強いレースである。
ちなみに勝利したレースはすべて右回り(障害レースは除く)という、徹底した右回り巧者であった。
種牡馬入り後
種牡馬入りしたことはしたが、時は外国種牡馬御三家の群雄割拠期。トニービン、ブライアンズタイム、そしてサンデーサイレンスという、日本競馬の血統を塗り替えた歴史的種牡馬を前にしては流石に分が悪いなんてものではない。競争の高速化の波にも着いていけず、活躍馬を殆ど輩出できないまま、2002年に種牡馬引退となった。唯一の活躍馬メジロライデンが障害馬だったのは何かの皮肉だろうか。
2012年4月、25歳で死亡。当時から屈指の個性派として、ニコニコ動画でもあの有馬記念の動画を中心として大人気のメジロパーマー。これからも希代の逃げ馬として長く語り継がれて欲しい名馬である。
運命の相棒・山田泰誠について
メジロパーマーと言えば山田泰誠、というのがある年代以上の競馬ファンの共通認識だろう。若手時代にパーマーと巡り合った山田騎手の、愛馬に欠ける愛情はすさまじく、他厩舎所属であるパーマーに一日一度は合いに行っていた。骨折によって乗り代わりとなった92年秋天は「俺が乗っていないパーマーは負けろと思って見ていた」らしい。
有馬記念優勝の副賞として貰ったマツダ・アンフィニMS-8に「パーマー号」と名付けたこともよく知られている。山田騎手はパーマー号入手をきっかけに師匠の田中良平調教師から運転免許取得を認められ、その後は騎手名鑑の「愛車」欄に、他の騎手がそれぞれの車種名を記載する中、堂々と「パーマー号!」と記載していた。
山田騎手はパーマーの引退後、3回目のGI級勝利は成らず、2003年をもって現役を引退。現在は調教助手として活動している。時は流れ2022年5月、競走馬の美少女擬人化アプリゲーム『ウマ娘プリティーダービー』にメジロパーマー(ウマ娘)が実装されたことを知った山田助手はゲームをダウンロードし、隙間時間でパーマー(ウマ娘)の育成を数十回繰り返していたという。
血統表
メジロイーグル 1975 鹿毛 |
メジロサンマン 1963 鹿毛 |
Charlottesville | Prince Chevalier |
Noorani | |||
*パラデイシア | Aureole | ||
Chenille | |||
*アマゾンウォリアー 1960 鹿毛 |
Khaled | Hyperion | |
Eclair | |||
War Betsy | War Relic | ||
Betsy Ross | |||
メジロファンタジー 1981 黒鹿毛 FNo.1-x |
*ゲイメセン 1975 黒鹿毛 |
Vaguely Noble | *ヴィエナ |
Noble Lassie | |||
Gay Missile | Sir Gaylord | ||
Missy Baba | |||
*プリンセスリファード 1975 鹿毛 |
Lyphard | Northern Dancer | |
Goofed | |||
*ノーラック | Lucky Debonair | ||
No Teasing | |||
競走馬の4代血統表 |
クロス:Hyperion 5×4(9.38%)、Aureole 4×5(9.38%)、Nearco 5×5(6.25%)
関連動画
関連項目
JRA賞最優秀父内国産馬 | ||
優駿賞時代 | 1982 メジロティターン | 1983 ミスターシービー | 1984 ミスターシービー | 1985 ミホシンザン | 1986 ミホシンザン |
|
JRA賞時代 | 1980年代 | 1987 ミホシンザン | 1988 タマモクロス | 1989 バンブービギン |
---|---|---|
1990年代 | 1990 ヤエノムテキ | 1991 トウカイテイオー | 1992 メジロパーマー | 1993 ヤマニンゼファー |1994 ネーハイシーザー | 1995 フジヤマケンザン | 1996 フラワーパーク | 1997 メジロドーベル |1998 メジロブライト | 1999 エアジハード |
|
2000年代 | 2000 ダイタクヤマト | 2001 該当馬無し※1 | 2002 トウカイポイント | 2003 ヒシミラクル | 2004 デルタブルース | 2005 シーザリオ | 2006 カワカミプリンセス | 2007 ダイワスカーレット |
|
※1.該当馬無しを除く最多得票馬はナリタトップロード。 | ||
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