モーリッツ・モシュコフスキ(1854~1925)とは、19世紀後半から20世紀にかけて活躍した作曲家・ピアニスト・指揮者である。
概要
プロイセン王国のブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)のポーランド系ユダヤ人の家に生まれる。幼いころから才能を示し、音楽教育を受けることとなった。一家がドレスデンに移るといわばピアノの修行に励むこととなり、まずはドレスデン音楽院、続いてベルリンに移りシュテルン音楽院、最後にテオドール・クラックの新音楽アカデミーで長年音楽教育を受けることとなった。
ピアニスト・指揮者として成功をおさめていく一方で1875年からベルリン音楽院で教鞭をとり、フランク・ダムロッシュ、ホアキン・ニン、アーネスト・シェリング、ホアキン・トゥリーナ、カール・ラッチムンド、エルンスト・ジョナス、ヴィルヘルム・ザックス、ヘレネ・フォン・シャック、アルベルト・ウルリッヒ、ヨハンナ・ヴェンゼルと多くの教え子たちを育てていったのである。
さらに1897年にパリに移り、こちらでもヴラド・ペルルミュテール、ワンダ・ランドフスカ、トーマス・ビーチャム、ヨーゼフ・ホフマン、ギャビー・カサドシュと多くの弟子をとった。
しかし次第に広まりつつある20世紀初頭の印象派や神秘主義といった20世紀初頭の音楽に嫌気がさし弟子をとるのをやめ、さらに私生活でも2人の妻はともに新しい夫の下へと移るなど暗雲が立ち込めていった。彼の作った曲はすべて著作権を売却する羽目になり、さらに購入していた国債が第1次世界大戦の結果すべて無駄になるなど、ついには貧乏にあえぐようになる。見かねた彼の友人や弟子たちは支援を行ったが、その恩恵にあずかる前に胃がんでこの世を去ることになったのである。
作曲家としてはほとんどすべてのジャンルを手掛けたが、やはりピアノ曲を多く書いている。ここ日本では、バイエル、チェルニー、ハノン、ブルグミュラー、クレメンティ、クーラウなどに比べればあまり使われないものの、全音から出版されている練習曲集を思い出す人も多いだろう。特に「15の練習曲」はその難易度から多くの有名なピアニストも取り上げている。しかし、決してそれだけにとどまらない作曲家であり、昨今の環境で次第にピアノ協奏曲などが取り上げられ、次第に音楽教育作品にとどまらない彼の音楽性を知ることができるようになりつつある。
関連動画
関連商品
関連項目
- 0
- 0pt