ユスティニアヌス / フラウィウス・ペトルス・サッバティウス・ユスティニアヌス(483~565)とは、東ローマ帝国の皇帝である。ちなみに、ユスティニアヌスはコグノーメンなので、本名ではない。
なお、東ローマ帝国がギリシア的性格を帯びていたという立場の人物からは、ユスティニアノスと呼ばれる。
概要
ニカの乱を退け、ローマ帝国再建に近かった東ローマ帝国の皇帝。コンスタンティヌス、テオドシウスと並び、大帝を冠されている。しかし、その統治には無理が多く、彼以後の再編を招いていった。
ユスティニアヌスの台頭
現在のマケドニア共和国あたりの属州ダルダニアに生まれる。すでに帝国の公用語はギリシア語になりつつあったが、トラキア系、もしくはイリュニア系のローマ人出身である彼の家はラテン語を母語としていたという。父親の名前がサッバティウス、母親の名前がウィギランティアということ以外、両親についてはよくわからない。
彼の転機は叔父・ユスティヌスがアナスタシウス1世の没後にコンスタンティノープルで皇帝になったこと始まる。そもそもそれ以前から無学だったユスティヌスは、甥のユスティニアヌスとゲルマヌスを呼び寄せると教育を施し、自身の手足としていった。
ユスティニアヌスは近衛隊、「白の軍服組」、宮廷儀仗隊と順調に出征していき、521年には執政官となった。そして、518年にユスティヌスの即位が起きる。この時重大な働きをユスティニアヌスがしたとされるが、具体的にはよくわかっていない。とはいえ68歳の老人だったユスティヌスを以後支えていった。
ユスティヌスにはユスティニアヌスの他に、ビタリアノス、プロクロスといった側近がいたが、ユスティニアヌスはビタリアノスらを粛正し、プロクロスもすでに亡くなっていた。かくして527年に何の抵抗もなく、ユスティヌスと共同皇帝になったのであった。
そして単独皇帝に
525年、ユスティニアヌスはかの有名な踊り子・テオドラと結婚する。これはユスティヌスの妻・エウフェミアが反対するが、エウフェミアの没後にユスティヌスは法令を整備していった。プロコピウスによれば売春婦だったともされるが、文学的表現も差し引くと実態はよくわからない人物である。
テオドラは結婚後、ホスロー1世やテオデハトらに外交使節を派遣したりと、政治的指導者の一人となった。また、これが先例となって、ユスティニアヌス以後の皇帝も下層階層出身の女性を皇后にしていった。
とはいえその一方、527年にユスティヌスが亡くなる。ユスティニアヌスが単独皇帝になったのである。以後の彼といえば、対外進出である。ササン朝との戦争はササン朝優位な条約で落ち着かせてしまったものの、西方ではベリサリオス、ナルセスといった名将が、ヴァンダル王国や東ゴート王国を併呑していく。
この辺りの532年にニカの乱が起きるが、テオドラの活躍などで沈めていったようだ。
晩年のユスティニアヌス
548年のテオドラの死後、ユスティニアヌスの治世がよくわからなくなる。以後は神学的活動や静謐が基調になっていき、プロコピオスの陰口めいた『秘史』がユスティニアヌスやベリサリオスを批判的に描く。少なくとも、広大な征服地は戦費調達の重税で瞬く間にしぼんでいった。
『ローマ法』大全やハギア・ソフィア大聖堂の再建など、功績は多数あったものの、ローマ帝国の復活は一炊の夢に終わり、新しい時代が始まる。
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