ヨハン・ヴォルフガング・フォン・ゲーテ(Johann Wolfgang von Goethe、1749年8月28日 - 1832年3月22日)は、ドイツ古典文学の代表的文学者である。自然科学者、博学者、政治家、法律家などの顔も持つ。
概要
フランクフルトの裕福な家庭で生まれた文豪であり、ドイツ文学の地位を一人で大きく押し上げた近代ドイツ精神の指導者。
実体験をベースにした作品が多い。
生涯を通じて動物学、植物学、気象学、地学、光学などの自然研究に大きな興味を抱き、文豪の他に政治家や自然科学者としての顔を持ち、ヴァイマル公国の宰相を勤めたり、学術的な著作を多く遺した。
6人兄弟の長男だが、妹のコルネリアをのぞいていずれも幼少期に死去した。
几帳面な父親の家庭教育により、幼少期から教養に富み、特に筆跡の美しさは特筆に値するとされる。
語学の天才でギリシャ語やラテン語、フランス語やイタリア語、英語、ヘブライ語などを習得した。
多数の人物に多大な影響を与えている。ナポレオンは『若きウェルテルの悩み』を戦地にも携帯し計7回読破したと言われている。1808年にゲーテと対面したナポレオンは感極まって「ここに人あり」と叫んだ。
成人した後の親との関係性は希薄で、特に母親に最後に会ったのは彼女が死ぬ11年前だった。
イタリア旅行の後は文学活動に専念し、シラーと共にドイツ古典主義時代を築いた。
ゲーテには収集癖があったので、原稿はもちろん手紙や日記、メモなどが多く残されており、現在も研究と調査が継続的に行われている。
略歴
16歳の時に彼に法学の学位を習得させたかった父によりライプツィヒ大学に入学するが、失恋を経験し、病魔に襲われ退学する羽目になった。
5年後、今度はシュトラースブルク大学に入学。5歳年上のヨハン・ゴットフリート・ヘルダーと友人になり、大きな影響を受ける。フリーデリケ・ブリオンという牧師の娘と恋に落ち、多くの詩を彼女に捧げた。有名な「野ばら」が作られたのもこの時期。
父に学業を早く終えるよう急かされたゲーテは教会法に関する学位論文を提出したがこれは失敗したため、法学得業士の学位で満足し、1771年8月、22歳の時に故郷フランクフルトに戻った。やがて弁護士となるがすぐに飽きて文学活動に専念するようになった。
1773年7月に戯曲『ゲッツ・フォン・ベルリヒンゲン』を自費出版し文壇に華々しく登場。1777年のベルリン初演では大成功を収めた。
1774年9月、ゲーテ最初の小説である『若きウェルテルの悩み』を当初匿名で出版。多感な青年の悲劇的な恋愛模様を綴ったこの書簡体小説で若者を中心に熱狂的な反響を巻き起こした。
1775年4月にはフランクフルトの銀行家の娘である16歳のリリー・シェーネマンと出会い、ピアノを弾く彼女に一目ぼれし結婚するも、妹コルネアリアの反対もありすぐに婚約を解消した。
1775年11月、ゲーテはヴァイマルの宮内官フォン・ネーベルの紹介でカール・アウグスト公とその弟のコンスタンティンと出会い、その後ヴァイマルに永住することになる。
ヴァイマルに着いたゲーテはすぐにシャルロッテ・フォン・シュタインと知り合った。この時ゲーテは26歳でシャルロッテは33歳だった。ゲーテはしばらくするとシャルロッテ家に入り浸るようになる。ヴァイマルにとどまることを決めたのもシャルロッテの存在が大きい。後にゲーテは彼女の存在が自身の人格形成に大きな影響を与えたことを認めているが、当のシャルロッテのゲーテに対する感情は彼女のゲーテ宛ての書簡がすべて焼却されているため明らかになっていない。
賓客として招かれたゲーテは1776年6月に枢密院参事官に任命され、公国の国政に参画するようになった。
10年あまり公国の行政に携わってきたゲーテは疲弊しきり、本来の関心事である科学と芸術に没頭したいとの思いから秘かにヴァイマルを脱出。1786年9月にイタリアへ向かい、ローマを中心にイタリアに滞在し絵画を学んだ。約30年後にはこの時の日記や書簡をもとに『イタリア紀行』を著した。
1788年にヴァイマル公国に帰国するが、放蕩から帰ってきた彼にヴァイマルの人々は冷たかった。
1788年7月、クリスティアーネ・ヴルピウスという造花工場で働く23歳の女性と出会い、恋人にし、後に自身の住居に引き取って内縁の妻とした。身分違いの恋とシャルロッテを捨てたことはヴァイマルの人々に衝撃を与え怒りを買った。
1789年のクリスマスにはクリスティアーネとの間に長男アウグストも生まれている。1806年にささやかな結婚式を挙げ、クリスティアーネと籍を入れた。
やがて勃発したフランス革命に周囲の知識人はこぞって賛成の意を示したが、あらゆる政治的熱狂にアレルギー反応を示すゲーテはこれも冷めた目で見ていた。
1793年5月にはアウグスト公の指令でマインツの包囲戦に参加し、目の前で私刑にされそうになったフランス軍協力者の命を救っている。
解剖学に食指を伸ばしたゲーテは頭蓋骨から「頭蓋骨は脊椎が変形したものかもしれない」という着想を得て、人間には無いと言われていた「前顎骨」を発見し、 比較解剖学に大きく貢献。光学にも興味を示し、『色彩論』をまとめたがこれの評判は芳しくなかった。この頃は頻繁にニュートン批判を繰り返している。
1788年9月に出会ったフリードリヒ・フォン・シラーとは初対面での印象は最悪に近かったものの徐々に親交を深めた。1794年からシラーが没するまでの約11年間で交わされた書簡は1000通余りに及ぶ。
1830年10月、息子を亡くしたゲーテは『ファウスト』の完成に全力をあげる。
1832年3月、馬車に乗った際にひいた風邪が原因で体調を崩し、『ファウスト』の第2部を完成させた翌日の22日に死亡。83歳の生涯を閉じた。最期に「もっと光を!(Mehr Licht!)」と言ったとされるが、これは創作である。
言葉
- 人間は行きたいほうへ行くがよい。人間はしたいことをするがよい。 しかし、人間は自然が描いている道へ、必ずまた戻ってくるに違いない。
- 花を与えるのは自然、編んで花輪にするのは芸術。
- 偽りの自由こそ、何よりも人を隷属させる。
- 涙とともにパンを食べた者でなければ、人生の味はわからない。
- 心が開いているとき、世界は美しい。
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関連項目
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