ラップランド戦争とは、第二次世界大戦中のラップランド地方で行われた一連の戦闘である。
関係国はフィンランド、ナチスドイツ、ソビエト連邦。
経緯
ソビエト連邦から理不尽な要求を受け、それを拒否したフィンランドは1939年11月30日にソ連軍の侵略を受ける(冬戦争)。フィンランド軍は寡兵ながらも敢闘し、ソ連軍に12万以上の犠牲を与えて独立を守りきった。しかし国力に乏しいフィンランドに戦闘の継続は難しく、1940年3月13日に泣く泣く講和を申し入れた。その結果、モスクワ講和条約が締結され、工業地帯のカレリア地方やハンコ岬を取り上げられた。この事は少なからず遺恨を残し、失地回復のためにナチスドイツとの関係を深めていく。
1941年6月22日、ドイツ軍がソビエト領に侵攻して独ソ戦が生起。この機に乗じてフィンランドは不当に奪われたカレリア地方及びハンコ岬の奪還を企図し、ソ連に宣戦布告した。フィンランドの主張は「これはフィンランド・ソ連間の問題で、冬戦争の継続」で、カレリア地方の奪還を目的としたものだと強く訴えた。ゆえにこの戦いは継続戦争と言われている。フィンランド軍は準備が整っていない敵の隙を突き、8月にカレリア地方を奪還。12月にはハンコ岬を奪還し、冬戦争以前の国境線を取り戻した。こうしてフィンランドは戦争の目的を達成したが……。
しかし運命はフィンランドに味方しなかった。1942年12月のスターリングラード攻防戦で敗退したのを機に、ドイツ軍を始めとする枢軸軍は連戦連敗。逆にソ連軍が勢いを盛り返してきた。そして1944年6月9日、ついにフィンランド領内へソ連軍が侵攻。ドイツ軍と協同で迎撃するが、ソ連軍は冬戦争の頃とは比較にならないほど強化されており苦戦。それでも粘り強い抵抗を見せたが、抗しきれず講和を持ちかける。9月2日、フィンランドはドイツとの断交を宣言。これを機に袂を分かつ時が来たと悟ったドイツ軍はビアク作戦を発動し、ムルマンスク攻略用に駐屯させていた山岳第20軍22万人をノルウェーへと退避させる事とした。
9月19日、休戦条約が成立。ソ連軍の進撃は止まり、フィンランドは助かったかに思われた。しかしソ連は休戦条約締結の条件に、約3週間(10月6日まで)でフィンランド領内からドイツ軍を追い出す事を提示してきたのである。これが守られなかった場合、侵攻を再開すると脅しをつけて。これによりフィンランド軍は領内のドイツ軍22万名と戦う事になった。戦いの舞台になった地名を取って、ラップランド戦争と呼ばれる。
ラップランド戦争
国内のドイツ軍を掃討すべく、フィンランド軍はヒャルマー・シーラスヴォ中将を司令官とした6万名の部隊を編成。ドイツ軍との戦闘が始まった。今までともに戦ってきた仲間に銃を向けるという事で、両軍の士気はとても低かった。それでも彼らは軍務を果たすため、互いに激しく撃ち合った。戦闘の後には炎上する車両や死体が残され、負傷者は捕虜になった。ところが、一連の戦闘で戦死した者は一人もいなかった。彼らは戦うふりをしていたのである。
フィンランド軍司令官エリック・ハインリッヒス大将とドイツ第20山岳軍団のロタール・レンデュリック上級大将は事前に撤退の打ち合わせをしており、ソ連に戦っているふりがバレるまでの間は「ドイツ軍は速やかにフィンランド領内から撤退し、フィンランド軍はそれを支援する」という取り決めがされていたのだ。フィンランドの脱落を見越していたドイツ軍が、あらかじめ撤退作戦の段取りを決めていた訳である。ソ連は両軍の動きを監視していたが、これを欺くために撃破した車両や重傷者を道路に放置。見事、ソ連を欺いてみせた。序盤の戦闘は「まやかし戦争」と呼ばれ、9月半ばまでは撤退作戦は順調に推移していった。しかしながら他方面のドイツ軍にとって、フィンランドの単独講和は裏切り行為に他ならなかった。ノルウェーから飛来した独爆撃機や、フィンランド湾に展開したドイツ海軍の重巡リュッツォウなどがフィンランド軍を攻撃し、損害を出している。事情を知っているのはあくまで領内のドイツ軍だけだった。
ところが、フィンランドの首都ヘルシンキに置かれた連合国管理委員会にソ連軍のツダノフ大将が派遣されてからは状況が一変。ツダノフ大将は両軍の戦闘が演技であると疑っており、9月19日に詳細な報告まで要求してきた。シーラスヴォ中将とハインリッヒス大将は巧みに追及をかわし続けるが、戦場を飛び回るソ連軍の偵察機が監視を強めているのは明々白々だった。9月26日、重要な撤退路であるロヴァニエミ市をドイツ軍が先に確保。フィンランド軍も確保を考えていたが、先にドイツ軍が動いた事で戦わずに済んだと安堵。だが、これがソ連軍の逆鱗に触れた。「10月1日午前8時までに本気で戦わない場合は休戦条約違反と見なし、侵攻を開始する」と宣言。フィンランド軍は対応に追われる羽目になった。
10月1日早朝、フィンランド軍はスウェーデン国境に近い港町トルニオとケミの攻略を開始。ここを押さえればドイツ軍の退路を断ち、フィンランド湾の主導権を握る事が出来た。まずトルニオへの上陸が行われた。不慣れな上陸戦だったが、午前7時50分までにトルニオ市内と港湾施設を掌握。警備していたわずかなドイツ兵は撤退していった。タイムリミット10分前に作戦が成功した事で、ソ連に再度侵攻の口実を与えずに済んだ。この作戦によって、フィンランド軍とドイツ軍は袂を分かつ時が来たと判断。レンデュリック上級大将は本当に戦闘をするよう命令を下した。それは、まやかし戦争の終わりを意味していた……。
まやかし戦争の終わり
翌日の10月2日、さっそく本格的な戦闘が始まった。残ったケミを巡って両軍が激突。戦車を有するドイツ軍にフィンランド軍は敗退し、占領したばかりのトルニオへ退却。ドイツ軍がそれを追撃し、再度戦闘が始まった。トルニオ市内で両軍が戦っている頃、フィンランド軍の別働隊が南側よりケミに迫っていた。退路を断たれる危険性を感じ取ったドイツ軍は同月6日に退却した。
またドイツ軍が先んじて占領したロヴァニエミ市でも戦闘が発生。重要な撤退路であるため、現地を守備する第7山岳師団はフィンランド軍の戦車師団を相手に善戦。味方が撤退する時間を稼いだ後、10月16日に第7山岳師団も退却。その途上、フィンランドの離反に激怒したヒトラー総統はラップランドに対し焦土命令を発令。これに従ったドイツ軍は建物を焼き払っていった。その後、ロヴァニエミ市内に入ってきたフィンランド軍は、焼け野原と化した土地を目の当たりにした。住民にも犠牲者が出ているかと思われたが、実際は全員生存していた。ヒトラー総統からの命令文には「住民を殺せ」とは書かれていなかったため、焼き払う前に注意を促し、住民が脱出した後に焼き払ったのである。しかも避難所となりうる教会や学校はわざと残した。このためドイツ兵に殺された住民は一人もいなかった。現地の将兵による独断ではあったが、レンデュリック上級大将は咎めなかった。しかし難民10万名を生み出す結果となってしまい、戦後レンデュリック上級大将は戦争犯罪人として20年の懲役を言い渡されている。ソ連軍の難癖のような文句は続けられたが、フィンランド側は巧みに追及をかわし続けた。
11月1日、フィンランド軍の戦力は6万名から約2万名に減らされた。これは休戦条約の条項によるもので、軍の掃討能力が低下。ハインリッヒス大将は反論したが、ソ連は全く取り合わなかった。小国とはいえ粘り強いフィンランドを一刻も早く無力化したかったソ連の思惑に起因していると思われる。この隙を突いてドイツ軍は次々にノルウェーへと脱出。ただでさえ少ない戦力を更に削減されたフィンランド軍はまともな戦闘が行えなくなり、皮肉にも多くのドイツ軍将兵が助かる結果となった。そのくせソ連は「フィンランドは真面目に戦っていない」と非難し、リュティ大統領の後任となったマンネルヘイム大統領が謝罪を繰り返している。
そして1945年1月19日、フィンランド軍は国境線を確保。ドイツ軍の完全駆逐宣言を行った。こうして望まぬラップランド戦争は幕を閉じた。とはいえ領内には逃げ遅れたドイツ兵が散在していて、彼らが最後に国境線を渡ったのは4月25日だったとされる。既に完全駆逐宣言をしていたフィンランドは「領内にドイツ兵はもういない」として、彼らの脱出を手助けした。4月27日、フィンランド北西端のキルピスヤルヴィで発生した斥候部隊同士の戦闘を最後にラップランド戦争は終結した。
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