ラバウル(Rabaul)とは、ビスマルク諸島・ニューブリテン島北東に位置する都市である。
概要
パプアニューギニアの東方約600km先にあるニューブリテン島の最大都市。地名の由来はニューギニアのトライ族が使うクアヌア語でマングローブを意味するラバウルから。原住民としてカナカ族が存在する。
世界有数の良港シンプソン湾、スキューバダイビング、火山など指折りの観光名所を有し、年間10~12隻の大型クルーズ船が寄港して世界各国から観光客が押し寄せる。その中にはイギリスのエリザベス女王も含まれるんだとか。またコプラやコーヒー等の産地としても有名。しかしラバウルの町が誕生する前から火山に近い立地は懸念材料だった。火山は観光資源であると同時に噴火と火山灰をもたらす自然災害の具現でもあり、火山灰によって町が壊滅する事もあった。
日本の古い資料ではラボールとも呼ばれている。日本から遠く離れた土地であるが、一部の人には一定の知名度がある。
歴史
1878年、火山の噴火でシンプソン湾が形成された事で開発の余地が生まれる。1884年にニューギニア一帯はドイツ帝国太平洋保護領に組み込まれ、シンプソン湾を中心とした街づくり計画が始動。マングローブ湿地帯が多く占めていたため、現地語でマングローブを意味するラバウルと名付けられた。
1905年にニューギニアの首都に選ばれ、1910年にドイツ植民地政府は地方裁判所、病院、税関、郵便局等の行政機能をヘルベルトスへーエ(現ココポ)から移動。マングローブを切り開いて新しい住居が続々と造られた。第一次世界大戦が勃発するとドイツ帝国太平洋保護領はオーストラリア軍と日本軍の攻撃を受けた。ラバウルへは1914年9月11日にオーストラリア軍が上陸し、ドイツ軍守備隊を撃破して占領。1919年に締結したヴェルサイユ条約でドイツは太平洋の植民地を全て失い、翌年ラバウルはオーストラリアの委任統治領となる。
支配者が変わってもラバウルは首都であり続け、数百人のオーストラリア人が移住。白人の投資で農園、バナナ園、椰子林が作られたが、それでも大半は未開の原生林で占められていた。またラバウルの火山はニューギニアで最も活発かつ危険なものであり、1937年6月6日に2つの火山が一斉に噴火。せっかく築いた街並みが無残に破壊され、507名が死亡する大損害を与えてオーストラリア政府の開発事業を粉砕してしまう。やむなく政府は首都機能をラエへと移した。
1941年3月、対日関係の悪化に伴ってオーストラリア陸軍はハワード・カー中佐率いる約700名の守備隊を派遣。その後も細々と戦力が送られ続けて最終的に1400名ほどに増加した。中には原住民によって編成された民兵部隊も含まれている。連合国は1941年中にラバウルを強力な機雷原に守られたレーダー基地にし、大規模な艦隊が停泊できる一大拠点にしようとしていたが、戦略的価値を見出せず結局実行されなかった。
大日本帝國の統治
1941年12月8日、大日本帝國が米英蘭豪の4ヵ国に宣戦布告した事で大東亜戦争が勃発。
国力に乏しい日本は戦争を遂行出来るだけの資源を得るため、フィリピン、マレー半島、インドネシアに侵攻し、東南アジア一帯を占領下に置く。これら資源地帯を連合軍の反撃から守るべく、反攻の拠点になりそうな敵基地や場所を前もって潰しておく事とした。オーストリア軍が駐留するラバウルは帝國海軍の一大拠点トラック諸島を爆撃圏内に収めている上、東から攻めてくるであろう連合軍の侵攻を防ぐ「城門」にも適していたため、井上成美中将の提案で攻略が決定。ラバウルの頭文字を取って「R作戦」と呼称された。
1942年1月4日より準備爆撃が始まり、1月20日に帝國海軍は真珠湾攻撃から戻ってきた空母「赤城」「加賀」「翔鶴」「瑞鶴」を投入。第一次攻撃隊109機がラバウルを空襲した。対するオーストラリア軍の戦力は守備隊1500名と砲台群のみであり、ハドソン爆撃機4機とワイラウェイ練習機7機は零戦によって叩き落とされ、施設や砲台には急降下爆撃隊が襲い掛かって次々に破壊。あっと言う間に守備隊は蹴散らされ、山の中へ退避するしかなかった。航空隊は少ない獲物を奪い合うかのようにラバウル基地を攻撃。シンプソン港には輸送船1隻が停泊していたが急降下爆撃機によって被弾し、意図的に座礁して沈没を避けた。続いて第二次攻撃隊46機が発進して残っていたオーストラリア軍を駆逐。1月22日にトドメの空襲を行い、プラエド岬の沿岸砲を破壊した。
1月23日、大本営直轄の南海支隊5000名が奇襲上陸。敵は退却する際、飛行場を爆破して大穴を開けて行ったため陸戦隊は工作隊に早変わりして修復した。こうしてラバウルは制圧され、翌24日に大本営は占領を発表。逃げ遅れたオーストラリア軍兵士1000人余りが捕虜となった。
不沈空母ラバウル
1942年
東西に2本の飛行場があり、艦隊の停泊が可能なシンプソン湾まで有しているなどラバウルは日本にとって想像以上の価値を持っていた。
占領から一晩が明けた1月24日、特設水上機母艦聖川丸の水上機隊が進出し、防空用の戦闘機が到着するまでの繋ぎとする。続いて1月31日に千歳空戦闘機隊の九六式艦戦18機が進出。この旧式戦闘機によって構成された制空隊がラバウル航空隊の始祖となった。この頃はまだ零戦の数も少なかったが、2月末に9機が配備されている。2月20日、アメリカ海軍は奪取されたラバウルを攻撃すべく米空母レキシントンを基幹とした攻撃部隊を派遣。偵察機によって接近を知った日本側は陸攻を繰り出して迎撃を試みたが、対空砲火や護衛戦闘機に阻まれて16機を失う大損害を受ける。しかし予想外の反撃に驚いた米機動部隊は撤退し、ラバウルへの攻撃を断念。2月23日、フィジーから出撃したB-17爆撃機6機によって初の攻撃が行われた。
大本営の次なる攻略目標はニューギニア南東に位置する連合軍の拠点ポートモレスビーに定まり、策源地のラバウルには次々と航空機や人員が送られた。4月には山田定義少将率いる第25航空戦隊が進出している。しかし5月初旬にMO作戦が失敗に終わってポートモレスビー攻略が無期延期となってしまい、ラバウルの戦力は宙に浮いた。6月30日、ツラギ島から飛び立った横浜航空隊の飛行艇がニューヘブリディース諸島エファテ島にB-17の発進基地が完成しているのを発見。ここから出撃したB-17がラバウルに爆撃を仕掛けていると事を突き止めた。
8月7日、アメリカ軍がガダルカナル島と対岸のツラギに来襲。ガ島で建設中だった飛行場を奪われ、ツラギでは横浜航空隊はラバウルに訣別電を打って壊滅した。同日午前8時45分、ラバウルから九九式艦爆9機が発進して最初の反撃を行う。彼ら巡洋艦4隻の護衛についていた米駆逐艦マグフォードに250kg爆弾1発を命中させて乗員22名を戦死させたが、9機全てが失われた。敵の侵攻に伴って草鹿任一海軍中将率いる第11航空艦隊が進出し、ソロモン方面を担当する第8艦隊を指揮下に入れた。ラバウルはガ島奪還の前進拠点として機能し、港湾には艦艇や補給艦が並び、飛行場からは航空隊が出撃。海戦、偵察、攻撃、補給、修理などソロモン方面の帝國陸海軍には欠かせない重要拠点と化した。また西部ニューギニア方面に対する偵察機もラバウルから飛び立っている。
しかしラバウルから主戦場のガ島までは非常に遠く、足の長い零戦ですら20分程度の戦闘しか出来なかった。搭乗員の疲労も大きく、損耗率は増えるばかりだった。解決策としてラバウルより更にガ島に近いブーゲンビル島のブインやバラレに飛行場が設営された。それらの拠点に物資や人員を送る集積地になったのは無論ラバウルであった。
当然アメリカ軍もラバウルは厄介な存在と認識しており、何度も夜間爆撃を仕掛けている。おかげで迎撃に上がる機の搭乗員は慢性的な不眠症に悩まされた。更にラバウル近海には既に米潜水艦が遊弋し始めており、徐々に補給線が脅かされていた。
11月20日未明、新たに設立される第八方面軍の指揮を執るため、今村均中将以下十数人が飛行艇に乗って神奈川県追浜水上基地からラバウルに移動。トラック島を経由して22日にラバウルへ到着した。今村中将に課せられた任務は、ラバウルから東へ1000kmも離れたガダルカナル島の奪還だった。着任と同時に、今村中将は自給自足体制の構築を考えていた。12月、経理部長の森田親三中将と軍医部長の上原慶中将を集め、原住民のカナカ族が何を食べているか調べるよう命じている。自活をするには未開の原生林を切り開く必要があったが、日本軍にはその専門家がいなかった。森田中将は陸軍省に問い合わせ、熱帯産業研究所サイパン支所長の山中一郎が一ヶ月の予定でラバウルに出張した。当初自活の考えは海軍に一蹴され、仕方なく今村中将は指揮下の陸軍だけで始めた。ただ陸軍の中には「畑仕事より軍事訓練を」と叫ぶ者も多かった。
12月、大本営はガ島からの撤退を検討し始めた。しかし連合軍に撤退を気取られないよう積極的な攻勢へ出る事になり、いっそうガ島への攻撃が激しくなった。
1943年
1943年1月29日、サンクリストバル島沖にてガ島に接近する米第18任務部隊を発見。ブイン、ブカ、ショートランド、ラバウルから陸攻隊が発進し、レンネル島沖海戦が生起。対空砲火によって10機が失われたが、重巡シカゴを撃沈。駆逐艦ラ・バレットを大破させる戦果を挙げた。
2月10日、日本がガダルカナル島争奪戦に敗れて撤退すると、その前線基地であるラバウルに攻撃が集中した。大本営はラバウルを中心とした防衛線を構築し、連合軍の侵攻に備えた。ガ島から退却してきた将兵はラバウルに収容されたが、他戦線への転出や本土に後送されるなどして数が減っていった。大本営に依頼しておいた農事指導班、農具修理班、野菜の種子、農具、労務者など自活に必要な人材は2月から3月にかけて続々と到着した。まず試作として、司令部付近を開墾して甘いもと野菜が植えられた。4月上旬、空母の艦載機を陸上基地に転用し制空権の奪還を目指す「い号作戦」が発動。山本五十六大将が陣頭指揮のため、ラバウルに進出した。ところが4月18日、ラバウルからブインに向かった山本長官機が撃墜され、戦死した。
5月1日、ラバウルに展開していた陸軍部隊が一斉に開墾を始めた。現地自活のため前もって開墾が始められていたが、これで本格始動した。ブーゲンビル島から撤退してきた第三八師団等がラバウルに集結し、彼らから餓島で味わった飢餓地獄を聞かされた事で、全員が自活に本腰を入れ始めた。無論、連合軍の空襲は何度も続き、その合間を縫っての農作業となった。米潜水艦の跳梁も激しくなり、輸送船の到着も数えるほどに落ち込んでしまった。9月、最後の病院船ぶえのすあいれす丸がラバウルに入港。看護婦と慰安婦は全てこの最終便で帰国した。連合軍は飛び石作戦を実行し、強固なラバウルを放置。代わりに周辺の基地や拠点を潰してラバウルの孤立化を図った。これに対抗するため、ラバウルには戦力の集結地として利用された。
10月12日以降、ラバウルは熾烈な空襲にさらされた。150機から400機に及ぶ戦爆連合が毎日のように爆撃していったのである。11月1日、連合軍がタロキナ地区に上陸。帝國海軍は迎撃のため、トラック島に在泊していた重巡部隊をラバウルに進出させたが、この重巡部隊を脅威と捉えた連合軍は艦載機によるラバウル空襲を実施。在泊艦艇に大きな損害が生じてしまった。敵の注意を引き付ける重巡部隊は、南東方面艦隊司令草鹿中将によってトラックに送り返されたが、一部の艦艇は「ろ号作戦」支援のため現地に留まり、能代率いる第2水雷戦隊や阿賀野がタロキナへの逆上陸を支援している。しかし「ろ号作戦」が終了すると、それらの艦艇もトラックに引き揚げていった。
ラバウルには150機程度の航空機があり、また大鷹型航空母艦による献身的な航空機輸送や、第2航空戦隊から抽出された艦上機の応援を受けて常にまとまった数の機が迎撃に上がっていた。12月15日から27日にかけて行われたマーカス岬及びツルブへの攻撃、敵機との交戦によって稼動機は戦闘機約80機と艦爆十数機にまで減少した。水上戦力は駆逐艦7隻と潜水艦9隻しかなく、制海権は連合軍に奪われていた。
1943年末、今村司令の防空壕が被弾。これを機に方面軍は地下要塞の建造に着手した。
1944年
連合軍の飛び石作戦と海上封鎖により、ラバウルは孤立。ニューブリテン島西部の戦闘に増援すら送れなくなってしまった。2月17日夜、弱体化したラバウルの隙を突くかのように湾内へ敵艦が侵入。艦砲射撃を加え、4隻の輸送船が失われた。2月19日、トラック島が大規模な空襲を受けて機能を喪失すると、在ラバウル航空兵力はトラックへと転用されてしまい、ラバウルには1機の海軍機も残らなくなった。航空兵力が無くなった事を知るや否や、連合軍は低空からの焼夷弾攻撃を実施。ラバウルを防衛すべく、第一七師団が後退の形でラバウルへと移動した。敵の苛烈な攻撃を前に、「ラバウル方面軍の玉砕も近い」と誰もが覚悟していた。トラック島壊滅の報を聞いた海軍は、陸軍から甘いもの栽培方法を教わって農業を開始。急速に農地を拡大させたが、陸軍と歩調は合わせていなかった。敵機は、海岸線に近い林の中に山積みされた被服や軍需品、医薬品を狙って空襲してきたため、3月頃に内陸のジャングルへ輸送された。
当時の敵情判断は、「連合軍の主力は海から侵攻してくる」としていた。方面軍と海軍は協同で敵を迎撃し第一七師団は西部を、第三八師団は東部の堅持して撃滅を狙った。タロキナ地区まで失陥し、今や末端の兵にまで「本格的な来攻があれば全員玉砕は免れない」と直感していた。一方、第三八師団長は「敵の主力はホーランジアにあり、後方のラバウルに大出血覚悟で攻めてくるとは思えない」と思っており、敵の来攻が近いと流布しているのは兵士の士気を高め、怠けさせないためだとしている。この考えは見事的中していた。連合軍は昭和18年8月のケベック会談で、攻略の中止を決めていた。堅牢な要塞と9万人の陸海軍が自活するラバウルを前に、連合軍の参謀たちは攻略する手立てを思いつかなかった。
4月、今村大将の司令部が移動。市街地から東南約10kmの図南嶺(となんれい)という場所に移された。ここは決戦を指揮するのに最適な立地だった。敵が上陸してきた時に備え、ラバウル湾には逆上陸用の大発等を収めた洞窟を造った。非常に堅牢に造られたからか、現在でもその姿を見る事が出来る。去年末から始められていた地下要塞建造も着実に芽を出し始めていた。病院施設は地下に収容され、数は15ヶ所に及んだ。5500人の収容能力があった。この頃、海軍内に餓死者が発生。これでようやく自活に理解を示した南東方面艦隊は6月1日に「ラバウル自活生産体勢確立要領」を発令して本格的に農作業に加わった。
10月、今村大将は「剛部隊決戦教令」を発布。敵が上陸してきた場合、これだけは心得よという十項目をまとめた30ページほどの小冊子であった。三回目の開戦記念日となる12月8日には全将兵に「決戦訓」を発布。統帥思想を徹底させ、士気を鼓舞した。これに伴って対戦車爆雷の量産が始まり、終戦までに八万個が作られた。これは使い道が無くなった爆弾を改造したものだった。
年末、ジャングル内に運び出した軍需品や食糧品を地下洞窟へ収容した。しかし湿度の高い洞窟内は保存状況が悪かった。これを解決するため、米を長期保存する方法を懸賞付きで募集している。農耕、訓練、築城の三つを方面軍は「必勝行事」と呼称し、日曜日を除いて2万5000名の兵員が作業に当たった。とはいえ重機が無いので、洞窟の掘削は全て人力だった。岩壁に立ち向かうツルハシやシャベルはすぐに丸くなり、それを修理班や鍛冶屋が直した。作業員の大半はマラリアに罹患していたが、めげずに作業を続けた。今村大将が残した手記には「7万の各人が、地下に六畳の部屋を作り、そこに住み、物資を貯蔵して生き、かつ戦ったとも言える大工事を成し遂げた」と綴られている。血と汗と涙の結晶と呼べる地下洞窟は、連合軍の爆撃から物資や人員を守りぬき、被害を最小限に抑えた。
1945年
昭和20年に入っても連合軍の熾烈な爆撃は続けられた。しかし堅牢な地下要塞はビクともしなかった。今村大将はこの時の様子を「米軍航空隊は、全く無効の大量爆弾を毎日空費していることになった」と残している。今村大将は週に一度は進捗状況を確認して回り、兵をねぎらった。日に日に地下要塞は拡充されていき、通信施設や発電所、通信線までもか地下に収容されたのを見て「ラバウル地下要塞は真に難攻不落になったと確信するようになった」と評した。地下は楽園だったが、地上は地獄だった。敵機は動くものを見るとすぐに撃ってきたので、移動には慎重を要した。
農耕以外にも養鶏も推奨され、数日に一回は卵を得られるようになった。飢餓で人肉食が横行していたニューギニア戦線と比べると、ラバウルは天国そのものだと言えよう。今村大将も進んで養鶏を行い、エサになる蜂の巣をジャングルまで探しに行き、ヒナに与えていた。森田親三中将によると「服装も食べ物も住まいも階級差はあまり無かったので、お互い気易い気分だった」という。連作すると作物の量が減るので、焼き畑も行われていた。陸稲、甘いも、タピオカ、ナス、カボチャ等が栽培され、兵士の胃袋を満たす十分な量が支給された。もっとも、陸稲や米類は備蓄に回され、主食は甘いもとなっていた。動物性タンパク質の摂取にはカタツムリ、カエル、ヘビ、ネズミ、コウモリ、トカゲ等を使用した。無い無い尽くしのラバウルでは工夫を凝らし、様々な試行錯誤が繰り返された。特に便利だったのが椰子蜜だった。これは食用油、アルコール、灯油、砂糖の代用品になった。
3月初旬、ラバウルに程近いズンケンに連合軍が上陸してきた。ここには20代の成瀬健民少佐率いる500人程度の大隊が守備していた。構成しているのはガ島の生き残りや、内地からの未教育補充兵と寄せ集め部隊だった。夜間斬り込みで抵抗したが、3月27日に第三八師団司令部へ送られた訣別電を最後に消息を絶った。4月末にはオーストラリア軍が各地に出現し、エレベンタ地区周辺で戦闘が生起した。自給自足体制は拡充され続け、8月には全将兵の85%分の食糧を確保していた。
8月14日夜、ラバウル方面軍は阿南陸軍大将より「明日8月15日正午、天皇陛下御自ら、全国民に向かい、詔勅を放送あらせられる。同時これを謹聴すべし」との電報を受け取った。そして翌15日正午、今村大将以下幕僚は服装を正して防空壕内の無線電信所で天皇の放送を聞いた。しかし雑音ばかりで、ついに一語も聞き取れなかった。午後3時頃、南東方面艦隊が受信した詔勅伝達電報が今村大将の机に置かれ、いよいよ日本が降伏した事を知った。各所からすすり泣く声が聞こえてきた。今村大将は部隊長約60名を食堂に集め、別辞を述べた。今村大将は将兵に自活の続行を命じ、「将来日本が賠償すべき金額を幾分なりとも軽減する事を図る。これは我々の外地における最後の奉公である」と締めくくった。
終戦から復員
オーストラリア軍から、9月6日に降伏文書調印式を行うとの通告が送られてきた。当日、今村大将一行は沖合いに仮泊している英空母グロリアスに出向。その飛行甲板で豪軍第一軍司令官ダイク・スターディ中将との間に降伏文書の調印を行った。9月10日、オーストラリア軍がラバウルに進駐。陸海軍の将兵は武装解除され、1万2000名ずつに分けられて八ヶ所の集団キャンプに送られた。食料は相変わらず自活でまかなわれたが、豪軍に人手を取られて以前より不活発になってしまった。貯蓄されていた兵器や弾薬は全て海没処分され、12月中旬に完了した。やがて日本政府が、外地に展開している部隊や邦人を引き上げる準備をしている事がラバウルにも届いた。最後尾の帰国は昭和24年春頃になるという。今村元大将は、将兵たちが路頭に迷わないよう知識人や専門家を集め、中学卒業程度の知識を兵に教え込んだ。ラジオやニュースで知った新憲法をガリ版に刷り込み、配布した事もあった。社会への関心を高めるために「かがみ」という雑誌まで出版されていたとか。
ソ連への態度によって在満州の部隊が帰国できなくなり、急遽ラバウル方面の引き上げが優先される事になった。加えてアメリカが約200隻のLSTを貸与してくれたので加速度的に計画が進行。昭和21年初頭には輸送船がラバウルに来るだろうと言われ、将兵は喜んだ。実際、2月から復員船が現れている。こうして将兵たちは逐次帰国の途についた。数が多かったため、復員船に充てられたのは葛城や鳳翔といった空母だった。
その後
終戦後、ラバウルはオーストラリアの管轄下に戻った。日本軍がラバウルを強固な港湾都市に発展させていたため、世界で最も優れた港の一つとしてニューギニアの交易拠点となった。1975年にニューギニアがオーストラリアから独立した際、ラバウルの領有権はパプアニューギニア政府に移った。ラバウルには、日本政府とパプアニューギニア政府が協同で建立した「南太平洋戦没者の碑」が建てられている。戦争遺跡や日本軍兵器の残骸が所々に残されている他、ココポ博物館では当時のを偲ぶ貴重な品々が展示されている。
1994年9月19日、再び活火山が噴火。街が火山灰に埋もれてしまう悲劇に見舞われ、5名が死亡した。また空港も破壊されてしまい、南東へ約50km離れたトクアに新たな空港が作られた。だがモンスーン風によって舞い上がる火山灰で時折封鎖される事があるなど火山の存在は影を落とし続けている。
関連項目
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