ラフィアンとは
- ruffian - 悪漢、ごろつき、無法者という意味の英単語。
- 1972年生まれのアメリカ合衆国の競走馬。この記事ではこれについて詳述する。
- サラブレッドクラブ・ラフィアン - 上記競走馬から名前を取られた故岡田繁幸氏が代表を務めていて冠名「マイネル」「マイネ」で知られるクラブ法人。
ラフィアン(Ruffian)とは、1972年生まれのアメリカ合衆国の元競走馬である。
凄まじいスピードと強さを発揮し全米の競馬ファンを歓喜させ、あまりに悲しき最期がアメリカ競馬界を変え、とある男の与太話の種相馬眼の証明となった馬。20世紀のアメリカ名馬100選では牝馬では最高の35位に選定されている。
馬名は悪漢、ならず者の意。牝馬である彼女から汲めば、じゃじゃ馬がふさわしいか。ヤッテヤルデス!
The Black Lighting
父はアメリカの大種牡馬にして独自血統の祖であるBold Rulerの子のReviewer(レビューワー)、母は22戦して3勝したがステークスウィナーになれなかったShenanigans(シェナニガンズ)、母の父はNative Dancer(ネイティヴダンサー)という血統である。ラフィアンも「Native Dancer隔世遺伝の法則」に当てはまったのかもしれない。
ラフィアンは名前に反して非常に従順で我慢強い馬だったという。また、牡馬と見間違えるほどの大型の馬だったので、
とやんわり訂正するといったエピソードも残されている。
しかしデカすぎたせいか鈍重と思われ、生まれたクレイボーンファームでは当初期待は大きくなかったという。
実際は馬なりで3ハロン35.8を叩き出し、担当の攻め馬手をひっくり返らせるとんでもない馬だったが。
デビュー戦は大型の馬体が太目に思われたのか「こんな豚に金賭けたバカいるんですか!? ドブに捨ててるようなもんじゃないですか!」というフラグ立て安い煽りをした人間もいたらしく2番人気になったが、15馬身ちぎってコースレコードタイで勝利した。煽った人間がどう思ったかは知らない。
デビュー戦と同条件のGIIIで迎えた2戦目もレコードタイ、3戦目はRaise a Nativeが記録したレコードに0.2秒に迫るタイムで9馬身差圧勝。
ちなみに余談だが、3戦目の時に主戦のファシント・ヴァスケス騎手は騎乗停止処分を受けており、フランク・ホワイトリー師から「リードポニー(誘導馬)に乗らないとラフィアンにももう乗せないぞ」と言われたため、誘導馬に現役のトップジョッキーが騎乗するというシュールな光景が生まれたとか。
さておき、続くGIソロリティSをレースレコードで勝利。軽い怪我をしたため休養を挟んでのスピナウェイSは厩務員が「どういう結果になると思いますか」と聞かれ「13馬身差付けて勝つよ」と断言したところ本当にそれくらい(12馬身3/4)付けて戻ってきた。
ここで球節を骨折し休養となったが、ここまでにつけた着差がなんと5戦で45馬身3/4、1戦あたり約9馬身である。なんじゃこりゃ。ラフィアンは牝馬のSecretariatと噂されるようになっていた。
骨折したのは8月末だったが、最優秀2歳牝馬に選定された。そらそうよな。
ちなみにこのまま2歳戦を予定通りのローテで無敗で駆け抜けた場合、年度代表馬選定すらあり得たと言われている。前例としてはSecretariat、後年にも欧州の*アラジとかFavorite Trickの例もあるのでありえない話ではない。
でも当年の年度代表馬Foregoに本当に投票で勝てたんだろうか。
Queen of the Century
骨折明けはやや気性がキツくなって拒むようなところが出ていたが、じっくりその辺りをほぐし、復帰に向けて調教を積んだ。
満を持して3歳の4月に復帰するとアローワンスとGIIIを楽勝。2戦目は一本被りすぎて競馬場やブックメーカーが赤字を出したそうな。復帰2戦目のGIIIが終わった後主戦のヴァスケス騎手はケンタッキーダービーでラフィアン同様に無敗の最優秀2歳牡馬に輝いていたFoolish Pleasureに乗るべくチャーチルダウンズに旅立ち、彼を勝ちに導くとすぐにとんぼ返りして来たという。
「ラフィアンから離れて過ごすなんてまっぴらごめんですからね!」というのはヴァスケス騎手の弁である。
この結果に完全復活の手応えを得た陣営は、ニューヨーク牝馬三冠レースであるエイコーンS・マザーグースS・CCAオークスを狙うことになる。
2歳戦と様子見のレースは全て7ハロン以下であり、8ハロン(約1600m)・9ハロン(約1800m)・12ハロン(約2400m)のニューヨーク牝馬三冠はどうか? という声もあるにはあった。
が、初戦のエイコーンSでは猛烈に競りかけてきた相手をスピードで圧倒し8馬身+レースレコード樹立、2戦目のマザーグースSは距離延長と将来を考えてスピード任せの大逃げではなくスローめに入っての溜め逃げを実践、彼女は生来の賢さと我慢強さで対応。3角付近で仕掛けると一気にちぎり13馬身半+レースレコードで圧勝。
CCAオークスは再びスピード任せに大きく前に出ると、これまた次の次元に上がるための課題として相手が仕掛けてくるまでゴーサインを堪え、相手の仕掛けを見て満を持して一気にスパート。流石に距離があったか2馬身3/4差まで迫られたが並びかけるどころか影も一切踏ませずレースレコードタイで勝利。
イメージ的にはサイレンススズカの毎日王冠みたいなものだろうか。それを12ハロンでやられたらライバルたちはどうしようもない。しかもレース後は汗一つかかずに馬房へ戻っていったらしい。
とまあぐうの音も出ない完全勝利でトリプルティアラ獲得である。競馬ファンは歓喜し、牡馬にも挑んでくれ!という声はより強まった。
マザーグースSの時計は2年前に同じコースで快速で愛されたRiva Ridgeが出した時計と0.8秒差の猛烈なものだったし、CCAオークスのレコードタイとなった2:27.8は後世10ハロンに短縮するまで並ぶものも出ず、同年のベルモントSでFoolish PleasureとAvatarの一騎討ちの末に出たタイムである2:28.2より0.4秒速い時計であった。
そのため、牡馬三冠路線走ってた連中でもぶっ飛ばせるという声も上がっていたし、「CCAオークスはSecretariat同様に最初から最後まで全力疾走したら2:24.0の時計に迫ったのでは?」「いや更新したんじゃない?」とさえ言われていた。
Seattle Slew「ないです」Affirmed「いやーキツイっす(素)」
The Battle of the Sexes
前述のようなラフィアン>>>他の3歳牡馬という見方をファンがするようになった背景としては、ブラッド・ホース誌などマスコミが
ラフィアンに勝たなきゃダービー馬だろうが無価値、果たして牡馬の皆さんはこの偉大な逃亡者に追いつくことが出来るのでしょうか?
などとセンセーショナルに煽り立てたのもあるが、その当時、このセクションのタイトルに据えた「性別間の戦い」と銘打たれた1973年9月20日のエキシビションでテニスの4大大会を39回勝った当時最強の女子テニス選手ビリー・ジーン・キングが4大大会6回優勝の男子選手ボビー・リグスを破った記憶がまだ新しい時期で、性差を超えた女王というものがイメージしやすかったというのはあった。
アメリカ競馬においては牝馬がケンタッキーダービーを勝った例は当時だと今でいうフロリダダービー程の格すらないローカルレースだった時代の1915年まで遡らねばならないほどで、実はそんなに牡馬を超越した女王の例がない。
2000年代以降競馬は名牝の時代と言えるが中距離以上、いわゆる王道路線を制圧した例はアメリカではほぼないに等しい。
BCクラシックを勝ったZenyattaやプリークネスS・ハスケル招待ハンデキャップ・ウッドウォードSを勝ったRachel Alexandraも軸足は牝馬限定戦にあり、ブエナビスタやアーモンドアイ、FoundやEnableのように牡馬混合戦に軸足を置くことはなかった。
理由としては芝も含めて牝馬限定路線がガッチリ整備されており、牝馬は牡馬に挑む場合古馬も含めたすべての有力牝馬を叩き潰してやることがないので満を持して挑む、というのが定例化していたことがあった。
ダートで必要なパワーやスピードを支えるスタミナ・体の強さが芝レースより必要というのはあるかもしれない。
そのため殿堂入りした名牝でも王道路線において対牡馬で圧倒的だった牝馬はそう多くない。しかし、ラフィアンはそれを破壊するに足るスピードがある、牝馬のSecretariatだ! 競馬界のビリー・ジーン・キングになれる! さあ今すぐ行け! という期待が集まってしまったのだ。
ところでこの年の牡馬三冠は三冠を前述のケンタッキーダービー馬Foolish Pleasure、プリークネスS勝ち馬Master Derby、ベルモントS勝ち馬Avatarの三頭で分け合う形となっていた。ニューヨーク競馬協会(NYRA)は盛り上がっていい興行になると感じたか「決勝戦だ! 決勝戦をやろう!」と「Race of Champions」という企画をぶち上げて各陣営に打診した。
しかしベルモントS勝ち馬Avatarの陣営が「すまん、スワップスS出るから地元帰るわ!」と拒否して西海岸に引っ込んでしまったため、NYRAは興行を盛り上げるべくトリプルティアラを達成したラフィアンを代役に招くことにした。しかし今度はプリークネスS勝ち馬Master Derby陣営が「牝馬とやりたくない」と拒否。
……と日本の文献では言われるが、実際はモンマスパーク競馬場が横槍を出して先にラフィアン対Foolish Pleasureの40万ドル勝者総取りマッチレースで企画を立てて横取りしようとしたためNYRAが「すまん、ウチもマッチレースに切り替える! 迷惑料で5万ドル払うから招待取り消しで納得してくれ!」と言って辞退してもらったのが本当のところらしい。招待した側から「やっぱ招待しねぇから迷惑料で納得しろ」と言うのはなかなかない話である。
結局ラフィアンとFoolish Pleasureの陣営を口説き落として世紀のマッチレースの招致に成功したのはNYRAだった。
当初の企画とは趣が変わったがケンタッキーダービー馬VSトリプルティアラの女王による、ベルモントパーク10ハロンを舞台とした世紀のマッチレース開催が決まったのであった。NYRA安堵。
ちなみにMaster DerbyではなくFoolish Pleasureが選ばれたのはケンタッキーダービー馬というのはもちろん、前述した通り2歳時に7戦無敗で最優秀2歳牡馬を受賞していて最優秀2歳牝馬を受賞したラフィアンと対照しやすい存在だったというのも並べると映えるわ! と判断された部分はあるだろう。
Master Derby陣営は迷惑料貰ったとはいえ無茶振りに振り回されてしまった上で「お前んとこのだとラフィアンと釣り合わない、映えない」と言われたも同然だしなんか散々である。
ザ・グレート・マッチと銘打たれ、賞金35万ドルを賭けたこのレースを見るためにベルモントパークに5万人が駆けつけた。TV視聴者を含めると2000万のアメリカ人が見つめたという。
1番人気はラフィアンであり、ケンタッキーダービー馬Foolish Pleasureは屈辱の2番人気であった。
両方の主戦かつFoolish Pleasureでの勝利がケンタッキーダービー初制覇だったヴァスケス騎手はかなり悩んだらしいが、ラフィアンに前述の通り惚れ込んでいたことや、Foolish Pleasureの管理調教師であるルロイ・ジョリー師が競馬界には珍しくこの手の話がわかる人であったためラフィアンを選んだ。
どっちにせよFoolish Pleasureは捨てられちゃったため、新たな鞍上ブラウリオ・バエザ騎手を招くことになった。
レースはスタート直後こそ弱点のスタートをジョリー師がマッチレースに向け特訓したFoolish Pleasureが飛び出してハナを切るが、直ぐにスピード任せにラフィアンが先手を取り、Foolish Pleasureはそれを半馬身後ろから追いかける。
その態勢になった後、しばらく走ったあたりでラフィアン鞍上ヴァスケス騎手、Foolish Pleasure鞍上バエザ騎手は共に板が割れるような不穏な音を聞き、ヴァスケス騎手は競走を止めた。
彼女の凄まじいスピードを生み出してきた右前脚が、砕けてしまったのだ……このレースの最初の2ハロンが22.2という、ケンタッキーダービーでも稀な超ハイペースだったのが祟ったのかもしれない。
レースを企画したNYRAも、ラフィアンの可能性に胸を躍らせていた観客も、信じて送り出したラフィアン陣営も、愕然とするしかなかった。
Foolish Pleasureは単走で競馬場を回ってゴール。労せず35万ドル総取りを決めたがそれどころではなかっただろう。
最期と余談
直ちに緊急手術が施されたが、様子を見るべく触診した獣医師の手が血でべっとりとなるほどの重篤な骨折であり、当時の医療技術では生存は絶望的であった。
それでも手術の結果、脚の骨を応急的に繋ぐことには成功した。しかし麻酔が切れたラフィアンは痛みに耐えかね折れた右前脚を激しく叩きつけ、ギプスが壊れるほど暴れてしまった。
こうなってはもう骨がちゃんと繋がり、治癒する希望はない、ということで予後不良、薬殺となった。
天才少女の前途は一瞬にして暗転し、消え失せたのであった……。
死後、圧倒的な強さでのトリプルティアラ達成が評価され、最優秀3歳牝馬を獲得した。通算成績11戦10勝。
翌年殿堂入りを果たし、ベルモントパーク競馬場でGIラフィアンハンデキャップが創設された。
彼女は現在、最期の地であるベルモントパーク競馬場に眠っている。
そのベルモントパーク競馬場にはラフィアン馬医療センターという世界最先端の馬専門の病院があり、Barbaroの悲劇など後年起こった事例などで積み重なった知見を元によりよい医療の発展を目指し、悲劇の死を奇跡の生存に変える術を求める研究が続いている。
獣医学の面においても、本馬のように麻酔が切れた後に暴れて傷を悪化させないように温水プールに入れる方法が考案されたり、苦痛緩和用の薬品が改良されたりと研究が進んだ。
このあと、牝馬による牡馬挑戦はより慎重になっていった。まあ結構軽率に挑戦する陣営も出ることはあるが、ダートでは性差が出やすいのか惨敗したり、ケンタッキーダービーで2着入線したが両前脚が砕け散り安楽死となったEight Bellsの悲劇が起こるなどしてより抑制的になっていくのが繰り返されている。
まあZenyattaとかRachel Alexandraみたいに勝っちゃうのもいるが、前述の通り基本的に彼女らも軸足は牝馬限定戦に置いている。
さらにはアメリカ競馬では頻繁に企画された強い馬同士のマッチレースは開催どころか企画されることすら稀になった。
前述の同年代を駆けた女傑ZenyattaとRachel Alexandraのスペシャルレースも、昔のアメリカならマッチレースとして企画されたであろう。そのくらい、彼女の凄絶な死は衝撃を与えたのである……。
その後のFoolish Pleasureだが、傷心のヴァスケス騎手はこのまま主戦を降板するに至るがその後も現役続行。
そこそこ活躍したが遅れてきた男・大種牡馬Bold RulerラストクロップのWajima(当時社台の総帥吉田善哉が一部の権利を保有)にコテンパンにされ同年代最強の座も最優秀3歳牡馬も奪われるなど超一流の称号は得られぬまま引退。
2歳時の実績も考えると一介の早熟馬の可能性もあるが、ジョリー師は明言しなかったものの、隣で凄絶な最期を遂げたラフィアンの影響はあったのかもしれない。
しかし、種牡馬としてはそこそこ健闘。その子どもたちもSeattle Slewを通さないBold Rulerの系統としてはかなり健闘していた。
だがそれも90年代中盤~00年代前半あたりまでで、現在は大舞台ではめったに見ない。
Foolish Pleasureの件で結果的に乗り捨てをかました側・食らった側になったヴァスケス騎手とジョリー師であるが、彼女の死から5年後、1頭の伝説的牝馬Genuine Riskとともにラフィアンすらなし得なかったケンタッキーダービー制覇・牡馬三冠ロード完走・完全連対という大偉業を果たす。
別に仲は壊れなかったようだ。ジョリー師は神的にいい人だったんですねぇ。
アメリカ競馬に多大な影響を与えた悲劇であったが、それは彼女のみにとどまらなかった。父と母も、2年後に骨折が原因で他界してしまった。これは偶然なのだろうか? たぶん偶然だが、不穏な感じではある。
ちなみに父はレコードを複数回樹立したBold Ruler産駒らしい快速馬であったが現役時代に3回の骨折、引退後を含めると4回骨折したことになるがその脚の脆さが祟り大成出来ずに引退、母も現役時代でも骨折しその最期となった致命傷も含め生涯で2回骨折するなどラフィアンは脚の脆い家系の生まれであった。
そのラフィアンも500kgを優に超える馬体の割にはこれマジ? ってなるくらい脚は細かったらしい。
また、1990年の3歳牝馬の中心にいた快速牝馬で、ラフィアンの再来と呼ばれたGo for Wandもブリーダーズカップ・ディスタフで古馬最強牝馬のBayakoaと激しい競り合いを繰り広げ、残り200mで右前脚を骨折し亡くなった。
距離こそ9ハロンだったが、奇しくもこの年のブリーダーズカップはベルモントパークで開催されていた……。
ただの偶然と片付けるには、奇妙すぎる符号である。
ラフィアン総帥にして、すごい相馬眼を持つとされる岡田繁幸は、名門クレイボーンファームでの修行時代にあんまり注目されていなかった彼女に「間違いなく走るぞ!」とただ一人、折り紙を付けていたと語っている。それが本当かどうかは知らないが、彼女に感銘を受けたのは事実なようで、彼が創設した一口馬主クラブ、サラブレッドクラブ・ラフィアンは彼女の名前を戴いている。マイネル・マイネ軍団として名の知れた一口馬主クラブである。
血統表
Reviewer 1966 鹿毛 |
Bold Ruler 1954 黒鹿毛 |
Nasrullah | Nearco |
Mumtaz Begum | |||
Miss Disco | Discovery | ||
Outdone | |||
Broadway 1959 鹿毛 |
Hasty Road | Roman | |
Traffic Court | |||
Flitabout | Challedon | ||
Bird Flower | |||
Shenanigans 1963 芦毛 FNo.8-c |
Native Dancer 1950 芦毛 |
Polynesian | Unbreakable |
Black Polly | |||
Geisha | Discovery | ||
Miyako | |||
Bold Irish 1948 黒鹿毛 |
Fighting Fox | Sir Gallahad III | |
Marguerite | |||
Erin | Transmute | ||
Rosie o' Grady |
クロス:Discovery 4×5×5(12.5%)、Sir Gallahad III 4×5(9.38%)
- 父ReviewerはDubai Millenniumやシーキングザパールの父であるSeeking the Goldの伯父にあたる。
- 半兄Icecapadeはハンデ戦重賞で活躍し、種牡馬としても第1回ブリーダーズカップ・クラシックを優勝したWild Againや記事内でも名前を挙げた2歳で年度代表馬になったFavorite Trickの父で種牡馬として活躍したClever Trickらを輩出して大成功を収め、Northern Dancerを通さないNearctic直系の主流になった。
- 半弟Buckfinderは種牡馬としてそこそこ活躍し貴重なBuckpasserの血を広めた。
- また超優秀な繁殖牝馬であった半姉Laughter(父Bold Ruler)の牝系からはセレスハントの父*コロナドズクエストやケンタッキーダービー馬Orbらが出ている。ラフィアンの子も走ったのだろうか……。
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