ラモス瑠偉単語


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ラモス瑠偉Ramos Ruy、1957年2月9日 - )とは、ブラジルリオデジャネイロ出身の日本の元サッカー選手導者である。元サッカー日本代表

現役時代のポジションはDF→FW→MF。181cm69kg。利き足は右足。

愛称はカリオカ(リオっ子というような意味)。

概要

現役時代はJリーグ創成期の顔の一人であるスター選手であり、得点アシストに優れた情熱的なミッドフィルダーだった。日本帰化する前の本名はルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョ。日本中にショックを与えた1993年の「ドーハの悲劇」のときに日本代表の10番を背負っていた。36歳85日での日本代表における最年長得点記録保持者である。

1977年20歳で来日し読売クラブデビュー最優秀選手賞を2度取るなど活躍した。1989年日本帰化している。1993年Jリーグ開幕後は読売クラブから引き続きヴェルディ川崎に所属し、3連覇に貢献した。1996年京都パープルサンガに移籍するが、1997年にはヴェルディに戻っている。1998年に現役を引退

1989年帰化した後日本代表に選出され、アジアカップ1992での優勝アメリカワールドカップ予選などで中心選手として活躍した。

導者としては、2005年にビーチサッカー日本代表監督に就任、ワールドカップで4位に導く。その後柏レイソルコーチを経て、2006年J2東京ヴェルディ1969監督に就任、2007年J1昇格に導いて退任。その後は再びビーチサッカー日本代表監督へと戻り、2009年2011年2013年ワールドカップに出場。2009年2013年大会では共にベスト8に進出している。2014年よりFC岐阜監督に就任し、7年ぶりにJリーグ揮を執ることとなった。

ニコニコ動画では、永谷園JリーグカレーCMで有名。だが、ほぼ同時期に同じ永谷園お茶漬け海苔CMにも出演し、「日本人ならお茶漬けやろが!」というセリフがあったことで盛大な矛盾を引き起こしていたことも。

現役時代の経歴

生い立ち~来日まで

1957年2月9日ブラジルリオデジャネイロから山側に7~80キロほど離れたメンデスという小さな町で二男三女の第四子として生まれる。父親サッカー好きの公認会計士だったが、母親サッカーがあまり好きではなかったという。ブラジルらしく、男の子が生まれたら近所の人たちや戚からサッカーボールプレゼントされるという環境だったことから気が付くとサッカーを初めていた。

子供のときはどこでも場所さえあれば2対2や3対2でミニゲームをし、靴を置いてゴールに見立て足の裏に血豆ができても関係なく裸足ボールを蹴っていた。学校でもサッカーをやらなければ仲間外れにされるような環境であり、とにかく当たり前のようにサッカー頭する少年時代を過ごしていた。友達からサッカーがうまいと評判になっており、を尊敬してプレーをずっと観察し、プレーを見て盗んで真似をし、いつかえたいというのが標になっていた。

9歳となった1966年父親死去。大きなショックを受け、父親の死を受け入れることができず、憤慨し、を飛び出したという。当時住んでいたの会社から借りていた社宅だったことからリオから300キロ離れたサンパウロに住む叔母に引っ越すことになる。その後、家族を楽にさせるためにいつしかサッカー選手になりたいというのがサッカーを続ける標となっていた。

当時のポジションはDF(スイパー)で当時パルメイラスアトレティコ・マドリードで活躍していたルイス・エドムンド・ペレイラに憧れていた。ボールを奪った後に前線に出てボールを貰い、トップ下やWGに丁寧にボールを渡す、当時としては画期的なプレースタイルに感銘を受けたという。高校生になったときはほとんどの時間をサッカーアルバイトに明け暮れ、アマチュアの大会などに参加していた。が「気が狂った」と呆れるほどに連日に渡り、膨大な試合に参加していたが、CBとしては体が細身だったことからクラブのセレクションにことごとく落ちており、何度も悔しさを味わったという。

18歳となった1975年、あるサッカーの大会でスカウトを受け、サンパウロ州1部リーグのサージFCに入団し、念願のプロサッカー選手としてのキャリアスタートさせる。ちなみにそのときの母親の反応は「勉強しなさい」だったらしい。

1977年1月、当時日本読売サッカークラブプレーしていた与那ジョージスカウトされ、「家族を助けられる」という理由で日本行きを決断する。

読売クラブ / ヴェルディ川崎

1977年4月に来日し、当時日本サッカーリーグJSL)2部に低迷していた読売サッカークラブに入団。当時の登録名は「ラモス・ソブリニョ」。来日当初は慣れない日本生活ホームシックにかかり、ブラジルに帰りたがっていたという。しかし当時読売プレーしていたポルトガル出身の選手から赤坂六本木の繁に誘われたところ、「日本に来て良かった、帰る気は失せた」と考えるようになった。

来日してしばらくするとDFからFW(左WG)にコンバートされる。新外国人選手に科せられた半年間の出場待機の期間を過ぎ、10月10日、2部リーグ第7節の松山戦で日本公式デビュー。途中出場ながらくも得点を決める。しかし当時は元々の喧嘩い性格と日本語が分からなかったことが災いし、トラブルを起こしがちだった。それでもデビューから公式戦6試合6得点と結果を残していたが、事件を起こしてしまう。1978年1月14日日産自動車戦で接触プレーの際に相手が演技で倒れたにも関わらず審はラモスに退場を宣告する。そのとき相手がラモスを見て笑っていたことに昂してしまい、グラウンドで追いかけ回してしまう。この事件により、日本サッカー協会から1年間の出場停止という異例の重い処分が下される。ラモスが出場停止だった間に読売クラブJSL1部に昇格。このときブラジルから太鼓を持って来て、スタンドで一生懸命チーム応援したという。

1979年シーズンに出場停止処分が解け、4月1日古河電工戦で復帰。本人はCBプレーしたかったらしいが、FW不足というチーム事情もあってセンターフォワードで起用される。すると、復帰した直後から2試合連続でハットトリック記録。才を開させたラモスはこの年のJSLで14得点7アシストというハイレベル数字を残し、JSL得点王とアシスト王の二冠を達成。ちなみに得点王とアシスト王の同時受賞は日本サッカー史上でラモスと釜本邦茂しかいない。さらにJSLカップでは決勝の古河電工戦でゴールを決めるなど4試合4得点の活躍により、クラブに創設以来初タイトルをもたらす。この功績が認められ、JSLベストイレブンに選出。

ラモス、与那ジョージ、そしてジャイロを加えた読売ブラジルスタイル日本サッカー界に新を吹き込み、高い技量によるパスやドリブルを駆使した魅惑的なサッカーは、多くの少年ファンを惹きつけた。こうしてラモスリーグ人気者となっていった。しかし、日本での生活にもすっかり慣れてきた1981年8月2日オートバイ事故によって左足のすねを複雑骨折し、選手生命の危機に陥ってしまう。一時は絶望しく動揺するが、後に妻となる交際相手・清水初音さんの献身的な支えで、辛い時期を乗り越え、3かほどのリハビリを経てプレーできる状態にまで回復する。

1982年JSL開幕戦で復帰したものの、今度は膝の靱帯を痛めてしまって満足プレーができずに9試合1得点に終わってしまう。1983年も体調不良で出遅れるが、シーズン後半に復調。シーズンになって復活。台頭してきた戸塚哲也とのコンビエースとしてのきを放ち、チームリーグ戦首位へと押し上げる。そしてリーグ最終節のフジタ工業戦、1点ビハインドの後半に2ゴールを決めて逆転勝利を呼び込み、読売クラブJSL初優勝をもたらす。さらにこの年シーズン10得点で2度得点王にやいている。

1984年2月初音夫人とブラジル・サンパウロにて挙式し、結婚。伴侶を得たこのシーズンも16試合9得点という成績でチームを首位に浮上させるが、リーグ戦の優勝争いが佳を迎えた11月3日ヤマハ戦で古河電工戦で、両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こしてしまう。その後、他の選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下される。その背景には日本サッカー異端児と呼ばれた読売クラブリーグ運営側とたびたび対立していたことに加え、報復行為や審判へのクレームが多かったラモスにも厳しいが向けられていた面もあったとされている。チームはその後JSL連覇と天皇杯優勝の二冠を成し遂げるが、そのときピッチに立つことができなかった。

1985年は恩人である与那ジョージが現役を引退し、彼の持つ「ミスター・ヨミウリ」の称号を受け継ぐことになる。この年のキリンカップサッカー1985に読売クラブの一員として出場し、サントスFCウルグアイ代表相手にも高いテクニックを披露している。

1986年外国人けるという理由により、クラブフロントから日本への帰化を勧められる。一旦その話は断ったものの、家族のことも考えて半年後に日本での永住を決意する。1986-87シーズン1958年ワールドカップブラジル代表の優勝メンバーだったジノ・サニがコーチに就任。彼の導によってプレースタイルを点取り屋から一列ポジションを下げてのゲームメーカーつまりはタイプゲームメーカーへ変更する。同時に背番号も8番から10番に変更となる。このコンバートによって30歳手前にしてパサーとしての新たな才を開させ、高卒ルーキー武田修宏を点取り屋として巧みに操り、チームを3度JSL優勝に導き、4年ぶりとなるベストイレブンにも選出。さらにはアジアクラブ選手権にも優勝し、チーム初となるタイトルも獲得。

その後、ブラジルから帰した三浦知良が加入し、チーム黄金期を築いていき、読売のパスサッカー心臓ともいえる中盤の要として絶対的な存在となっていた。そして1989年11月日本国籍を取得。名前も「ラモス瑠偉」に改名する。この頃、JSLでは木村和志、史らを擁した日産との熾覇権争いに突入。1990年代初頭は二年連続の日本年間最優秀選手賞(1990年1991年)、2年連続アシスト王、3年連続ベストイレブンとキャリア円熟期に達していた。1990年カルロスアルベルト・ダ・シルバ読売クラブ監督に就任すると彼と衝突し、加茂監督率いる全日空への移籍を言する退団騒動を起こしたが、ペペ監督の就任や盟友である加藤久の説得によりチームに残留。

Jリーグ発足を控え、1992年より読売クラブヴェルディ川崎に改名。多くのスター選手を抱える人気チームとなる。最後となったこの年のJSL東西対抗戦ではMVPに選出。さらにヤマザキナビスコカップではとして強力な攻撃を操り、優勝に貢献している。

36歳となった1993年Jリーグが開幕。開幕戦となった5月15日横浜マリノス戦にもピッチに立ち、フル出場。空前Jリーグブームが訪れる中、CM出演、メディア出演など日本中から認知されるスター選手となり、Jリーグの顔と言える存在となっていた。その反面、欧州路線の導入や加藤久の起用法を巡って首と対立。自身も先のワールドカップアジア1次予選の疲労からコンディションが整わず、1stステージは不本意な成績に終わる。7月10日1stステージ第17節ガンバ大阪戦では賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈の顔面にボールを投げつけ、大乱闘となる。このとき賈秀全のみが退場処分となり、スター選手への忖度があったとして批判を受ける。2ndステージになるとビスマルクの加入によってゲームメイクの負担を分散できるようになり、これによりチームは復調。8月4日2ndステージ第3節鹿島アントラーズ戦ではJリーグゴール記録11月27日横浜フリューゲルス戦ではこの年のベストゴールにも挙げられる技ありのループシュートを決めている。圧倒的な強さを見せたヴェルディ2ndステージを制し、チャンピオンシップでも鹿島勝利し、Jリーグ初代王者の座に君臨。30試合4得点記録し、初年度のJリーグベストイレブンに選出される。

1994年シーズンは開幕から9試合連続でフル出場を続けていたが、1stステージ第10節横浜フリューゲルス戦で負傷し、中断期間を挟んで3かほど実戦から離れることになる。2ndステージからは三浦知良イタリアへ移籍したことからキャプテンに就任。日の丸をあしらったキャプテンマークを巻いてピッチに立つ。ビスマルクと共に中盤を支配しつつ、強気なゲームメイクカズが抜けた攻撃リード11月5日の18節名古屋グランパスエイト戦では麗なオーバーヘッドキックによるスーパーゴールを決める。ところが4日後の第19節G大阪戦で前半33分に左足離れを起こして交代となり、チーム2ndステージ優勝したものの、残りの3試合を欠場する。
サンフレッチェ広島とのJリーグチャンピオンシップも出場が危ぶまれたが第1戦に強行出場し、北澤豪の決勝ゴールアシストする。第2戦を前に左足の状態は悪化し、本人も最初は欠場するつもりだったが、痛み止めの注射を2本射ち、またも強行出場。満身創痍の37歳は試合満足に動くことができずにいたが、前線で1回のチャンスを待っていた。そして後半35分ゴール正面でこぼれ球に反応すると、GKの頭上を美しく抜いた芸術的ループシュートネットを揺らし、ヴェルディJリーグ連覇を決める値千金の決勝ゴールを決める。このゴールJリーグ歴史に残る伝説ゴールとして語り継がれることになる。この年のMVPこそ逃したものの、2年連続でJリーグベストイレブンに選出。

長年の盟友だった加藤久が引退松木安太郎監督が退任した1995年2ndステージ終盤に2試合連続ゴールを決めるなどステージ優勝に貢献するが、チャンピオンシップでは宿敵横浜Mに敗れ、3連覇を逃す。1996年シーズンネルシーニョ監督が成績不振を理由に辞任。すると、フロントは2年前にラモスに対して差別的な言葉を交えて底糾弾したことで毛嫌いしていたエメルソン・レオン監督に招へい。の仲ともいえるレオン監督就任にラモスは移籍を志願。19年間を過ごしたクラブを退団する。

京都パープルサンガ

1996年5月シーズン途中にも関わらずJリーグ昇格1年京都パープルサンガ電撃的に移籍する。このとき実は浦和へのレンタル移籍が内定していたが、Jリーグ三郎チェアマンから「関西サッカーを盛り上げてくれ」と懇願されたことで京都入りが実現したのだった。京都でのデビュー戦となった第17節ジュビロ磐田戦では通常の2倍の観客を動員。続く第18節ジュビロ磐田戦では開幕から17連敗という不名誉な記録が続いていたチームの連敗記録ストップさせるのに貢献する。結局リーグ最下位に終わるが、シーズン後半戦は8勝7敗と勝ち越しており、ラモス加入の効果は見られた。

40歳となった1997年京都で開幕を迎えるが、補強に失敗したチームはこの年も低迷。いよいよキャリアも終盤に差し掛かったこともあり、気持ちは低迷する古巣へと傾いていた。

ヴェルディ川崎

1997年8月、古巣のヴェルディ川崎への復帰が決定。この年から監督に就任していた加藤久からの要請に応える形で1年で復帰することになった。しかし、このときのV川崎は退団したビスマルクが埋まらず、補強の玉だった前園真聖フィットできなかったこともあって低迷していた。40歳となっても力としてチームを救おうと奮闘するが、二桁順位に終わる。また、この年にビーチサッカー日本選抜の一員としてビーチサッカー世界選手権に出場している。

1998年は怪で出遅れ、4月4日1stステージ第4節ヴィッセル神戸戦が初出場となる。1stステージは快進撃を見せるが、1stステージ第15節から2ndステージ第4節まで7連敗と大失速。シーズン終盤にはスタメンを外れ、途中出場が多くなっていた。リーグ最終節となった11月14日柏レイソル戦を最後に現役引退を表明。41歳9ヶ5日という最年長出場記録2009年中山雅史に抜かれるまで、Jリーグ記録であった。日本の22年で、JSL1部では210試合69得点Jリーグでは147試合9得点記録を残した。

1999年8月国立競技場にてJリーグでは初となる引退試合を開催。最後の挨拶ファンに向けて「生まれかわっても、日本に来て、帰化して、ワールドカップへ出たい」とながらに語った。

日本代表

日本への帰化が認められたおよそ1年後の1990年9月北京で開催された第11回アジア競技大会のメンバーとして横山謙三監督率いる日本代表に33歳にして初めて選出される。同じく初選出となった三浦知良と共に9月26日バングラデシュ戦で日本代表デビューを飾る。すぐにカズと共に代表の中心的存在となり、1991年6月キリンカップサッカーでは3試合フル出場し、トッテナム・ホットスパー、ヴァスコ・ダ・ガマといった強クラブ相手の勝利を果たし、日本の初優勝に貢献する。

1992年3月オランダ出身のハンス・オフト監督に就任。欧州式の底した管理義と組織を重視するオフト監督に対し、ブラジル式の自由サッカーを貫いてきたラモスの関係は最悪といえ、マスコミを通じてオフト監督の管理義を猛批判し、一時は代表を外されそうになる危機となった。しかし、8月ダイナティカップ日本は見違えるようなサッカーを見せて初優勝を飾り、選手やサポーターメディアは「オフトマジック」に対して信頼を寄せ始める。それでも頑なにオフト監督を認めなかったが、将の柱哲二の説得を経てオフト監督と個人面談をおこない和解日本サッカー悲願のワールドカップ初出場と共にすことを誓う。
10月広島で開催されたAFCアジアカップ1992では、グループリーグ第3戦のイラン戦は体調不良によって途中出場となったが、その他の試合は全てフル出場。日本として抜群の存在感を見せ、日本の初のアジア王者戴冠に貢献。オフト監督ラモスに前面の信頼を寄せるまでになっていた。

Jリーグ開幕を1か前に控えた1993年4月1994 FIFAワールドカップアジア1次予選に出場。5月5日スリランカ戦では代表初ゴール記録する。このゴールは同時に36歳85日での代表最年長得点となった。順調に勝ちを重ねたオフトジャパンは、7勝1分けのトップで最終予選への進出を決め、日本サッカー悲願のワールドカップ初出場は民的関心事となっていた。

1993年10月運命1994 FIFAワールドカップ アジア最終予選がカタールのドーハで開催される。しかし、不動の左サイドバックだった都並敏史を欠いたチームはその代役探しに難航し、問題を抱えたまま最終予選に臨んでいた。日本キーマンであるラモスに対しては底的な厳しいマークを付けられ、初戦のサウジアラビア戦はスコアレスドロー、続くイラン戦では懸念材料だった左サイドを狙われて敗戦。それでもメンバー変更が功を奏した第3戦の北朝鮮戦に勝利すると、第4戦ではこれまで負け続けていた韓国を相手に勝利する。だが、この韓国戦での連勝でチームに安心したムードが漂っていたことにラモス危機感を覚えていた。そして最終戦では後に「一番サッカーを分かっている相手だった」と評したイラクと対戦。予想以上の苦戦を強いられる中、後半24分絶妙なスルーパスで中山雅史の勝ち越しゴールアシストする。残り時間、運動量の落ちたチームは防戦一方となり必死に守備に奔走していたが、後半ロスタイム悪夢の同点ゴールを許してしまう。「ドーハの悲劇」と呼ばれたこの間、ラモスは最初何が起きたのか分からなかったという。この結果、日本は最後の最後でワールドカップ初出場を逃すことになる。を打ち破られたラモスは「神様が自分たちに試練を与えたのだ」と自分を納得させた。

1994年ロベルトファルカン新体制では代表招集を辞退していたが、1995年加茂周が代表監督に就任すると、1月サウジアラビアで開催されたキング・ファハド・カップメンバーとしてドーハの悲劇以来となる代表復帰を果たす。その後も代表メンバーに名を連ねていたが、1995年8月9日ブラジル代表との試合フル出場したのが代表での最後の試合となった。

日本代表通算32試合1得点

個人成績

シーズン クラブ リーグ 試合 得点
1975 サージFC
1976 サージFC
1977 サージFC
読売クラブ JSL2 4 5
1978 読売クラブ JSL1部 0 0
1979 読売クラブ JSL1部 15 14
1980 読売クラブ JSL1部 15 7
1981 読売クラブ JSL1部 9 1
1982 読売クラブ JSL1部 13 1
1983 読売クラブ JSL1部 14 10
1984 読売クラブ JSL1部 16 9
1985 読売クラブ JSL1部 18 7
1986ー87 読売クラブ JSL1部 15 4
1987ー88 読売クラブ JSL1部 17 4
1988ー89 読売クラブ JSL1部 17 3
1989ー90 読売クラブ JSL1部 22 5
1990ー91 読売クラブ JSL1部 21 2
1991ー92 読売クラブ JSL1部 18 2
1993 ヴェルディ川崎 Jリーグ 30 4
1994 ヴェルディ川崎 Jリーグ 26 3
1995 ヴェルディ川崎 Jリーグ 23 2
1996 ヴェルディ川崎 Jリーグ 9 0
京都パープルサンガ Jリーグ 10 0
1997 京都パープルサンガ Jリーグ 10 0
ヴェルディ川崎 Jリーグ 10 0
1998 ヴェルディ川崎 Jリーグ 29 0

個人タイトル

引退後・指導者の経歴

現役引退初期

引退後は評論家解説者として活躍し、セルジオ越後氏ばりの辛口評論を繰り出している。また、テレビバラエティ番組やドラマにも出演するなどタレント活動もおこなっている。

引退直後の1999年2月フットサル日本代表に招集。同年3月マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に将として出場し、4位となる。スター選手として抜群の知名度を持つラモスの参戦によりフットサルへの関心が高まることとなった。

2000年にはブラジル政府より「リオブランコ勲章」を贈られている。

2001年5月Jリーグ入りをして2年前に発足した沖縄かりゆしFCテクニカルディレクターTD)に就任。選手の導だけではなく、人脈を活かして補強やチームの強化にも携わり、選手として自らピッチに立ったこともあった。就任1年にして沖縄県社会人リーグ優勝を成し遂げ、九州サッカーリーグ初昇格を果たす。2002年には参入初年度にして九州リーグ優勝。しかし、チーム運営を巡ってクラブ運営と対立し、10月に解任となる。ラモス解任がきっかけとなって年末には選手が大量離脱する騒動に発展。
翌年2月に退団した選手を中心にFC琉球が創設され、チームの設立に尽力している。

2004年7月JFA認S級ライセンスを取得。ここから本格的に導者として活動するようになる。

ビーチサッカー日本代表監督

2005年リオデジャネイロで開催される2005 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場するビーチサッカー日本代表監督に就任。沖縄県における2泊3日の強化合宿をしただけで大会に臨んだ準備不足により厳しい結果になることが予想されたが、日本代表グループリーグ2位で突破し、さらに準々決勝でウルグアイに4-3で逆転勝ちし、ベスト4入りを果たすという大快挙を達成。最終的に4位という成績を残し、ビーチサッカーの普及に大きく貢献する。

柏レイソルコーチ                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                        

2005年9月J1リーグ柏レイソルコーチに就任。11月21日には古巣である東京ヴェルディを相手に勝利し、愛してやまない古巣をJ2降格に追いやるという皮な結果となる。しかし、J1J2入れ替え戦でヴァンフォーレ甲府相手に大敗し、J2降格となる。監督早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、シーズン終了後に退任となる。

東京ヴェルディ監督

2006年J2リーグに降格した東京ヴェルディ監督に就任。「1年でのJ1復帰」を標に掲げ、するヴェルディを救うために並々ならぬ意欲を見せるが、力の大半が入れ替わったうえに補強した外国人選手がことごとく失敗、加えてAFCチャンピオンズリーグ出場のによって日程が過密となりメンバーを固めることができず、結果は7位となり1年でのJ1復帰は果たせなかった。

就任2年2007年服部名波浩を始め土屋征夫、佐藤介などを獲得。大補強をおこなったことで失敗が許されないシーズンとなったが、フッキ&ディエゴブラジルコンビの攻撃力を武器に開幕ダッシュスタート。しかしその後守備の不安定さからクラブワーストタイの7連敗を喫したことで一時は解任論が噴出するが、こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更したことで守備の立て直しに成功。以後は安定して勝ち点を得られるようになり、フッキが42試合37得点という驚異的なゴールラッシュを見せたこともあり8連勝を記録するなど追い上げを見せ、最終節で優勝は逃したが2位の成績でJ1復帰を果たす。

シーズン終了後に監督を退任し、2008年よりエグゼクティディレクター(ED)としてフロント入り。2008年4月からは常務取締役を兼務。2009年4月に同職を退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーという肩書に就任したが、同年末の契約切れにより退任。

ビーチサッカー日本代表監督(2回目)

2009年7月9日、ビーチサッカー日本代表監督に4年ぶりに就任。今回は前園真聖チームに加え、11月UAEで開催された2009 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。グループリーグを2勝1分の首位で通過するが、準々決勝でポルトガルに敗れ、ベスト8での敗退となる。

その後もビーチサッカー日本代表監督を続け、2011年イタリアで開催された2011 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。大会の2か前に最の妻である初音夫人が他界し、悲しみの中で揮を執ることになった。グループリーグでは祖国であるブラジルと同じ組み分けとなったが、結果は3戦全敗という厳しい結果に終わる。

2013年9月、タヒチで開催された2013 FIFAビーチサッカーワールドカップ監督として3大会連続で出場。ロシアパラグアイコートジボワールと同居したグループリーグを1勝1分1敗の2位で突破。準々決勝では前回に続いて優勝補のブラジルと対戦するが、1点差で敗れベスト8での敗退となる。大会終了後、4年間続けてきた監督の座から退任する。

FC岐阜監督

2014年1月21日J2リーグFC岐阜監督に就任。藤澤信義Jトラスト社長支援を受けたチーム川口能活、三都アレサンドロといった元日本代表を含む大補強をおこない、第36節磐田戦から5連敗を喫するなど終盤に息切れしたものの、開幕前の評判通りの高い攻撃力を発揮し、残留争いに巻き込まれることなく前年から4つ順位を上げた17位でシーズンを終える。ラモス監督就任、川口らの加入によって岐阜試合における均入場者数は3,059人増の7,584人とアップしていた。

2年2015年長男ラモス・ファビアノがFC岐阜SECOND監督に就任。しかし、シーズンを通して得点力、守備力両面で振るわず、特に総失点数は71は断トツでのリーグワーストとなった。それでも12勝を挙げていたこともあり、20位でJ3リーグ降格は免れるのだった。

2016年も守備の問題は解決されず、第14節から第31節までの18試合で1勝5分12敗と大きく負け越し、第20節から5連敗となった第24節の後の7月22日監督を解任となる。
この年の12月29日、自宅で脳梗塞によって倒れ、緊急搬送される。その後リハビリを経て2017年2月事退院。

ビーチサッカー日本代表監督(3回目)

2018年2月、3度となるビーチサッカー日本代表監督に就任。2019年11月にはパラグアイで開催された2019 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。開催パラグアイスイスアメリカと同居したグループリーグを3戦全勝の首位で突破。準々決勝ではウルグアイを破り、自身が監督を最初に務めた2005年以来となるベスト4進出を果たす。準決勝のポルトガル戦も善戦するが、PK戦の末に敗れ、決勝進出を逃す。大会終了後の12月監督から退任。

その後

2018年8月1日加藤久と共に日本サッカー殿堂入りを果たす。

2020年2月、古巣である東京ヴェルディチームダイクターに就任。

2025年12月大腸がんステージ3であることを告白。同年2月10日医者から告知を受け、放射線治療をおこない、7月28日に手術を受けている。

プレースタイル

ブラジルで居た頃はリベロ、来日してから若い頃は点取り屋、ベテランになってからはとキャリアによってポジションと役割が異なっているが、攻守にわたるオールラウンドな力を持ち、正確なボールコントロールとパス・シュート技術に加え、冷静な判断力と勝利のために体をることをいとわず、味方を叱励して勝利に向かっていくリーダーシップを兼ね備えていた。

ゲームメーカーとしてはボール扱いとテクニックに優れ、広い視野からの柔らかなスルーパスと、芸術的ループシュートを得意としていた。常に冷静で、視野が広く、的確なプレー選択ができ、必要なときには創造性を発揮して状況を打開する。当時は現代サッカーべてプレッシャーが厳しくなったというのはあるが、1対1で相手を翻弄するプレーできるのが持ち味だった。ブラジル出身なこともあって遊び心のあるプレーマリーシアも織り交ぜ、Jリーグ初年度ではビスマルク麗なリフティングによるパス交換を見せている。

元がDFだったということもあって守備に奔走することを嫌っておらず、自分のボールを失うと、火の玉の火力がさらに強まり、自分のゴール前まで自分で取返しにいくタイプだった。その反面、熱くなり過ぎてダーティーな削りをおこなうことも多かった。

ちなみに本人が一番好んだポジションリベロであり、現役時代もいつかこのポジションをやりたいという願望があったと明かしており、リベロであればヨーロッパでもプレーできたと自信を見せている。

人物・エピソード

Jリーグカレー

Jリーグブーム中の1993年サッカー少年の「まさお」がカレーを食べるとラモスに変化するという奇抜なCMが流れ、当時大きな話題となった。

時は流れ、2024年Jリーグ公式Jリーグの日2024において「Jリーグカレー復刻企画が展開。当時「まさお」を演じた子役が今度はお父さん役として出演している。

ちなみに当時、Jリーグカレーの他にも永谷園CMに数多く出演しており、お茶漬けCMではホットドッグを食べに行こうとするサッカー少年たちに「日本人ならお茶漬けやろが!」と怒る演出が話題となった。また、「煮込みラーメン」のCMでは交のあった和田アキ子と共演している。

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ラモス瑠偉

22 ななしのよっしん
2013/05/26(日) 11:45:33 ID: A2JeK+jHN1
いや、カレーやろ
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23 ななしのよっしん
2013/05/31(金) 00:35:16 ID: OgkVtmJFr/
伝説キックターゲットをあげてください
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24 ななしのよっしん
2015/06/24(水) 23:21:54 ID: e5AAe8FqHP
個人的に帰化するなら1986年メキシコ大会の予選以前に帰化して欲しかったな
アメリカ大会の予選の時は全盛期の実力を過ぎ去っていたから
仮にメキシコの時の予選なら予選突破して木村和と一緒にワールドカップピッチに立てたはず

ちなみにラモス木村和より1歳年上
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25 ななしのよっしん
2015/08/14(金) 23:26:33 ID: 7YCs4I/5UD
最近某高校球児のおかげでまた知名度が上がったね
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26 ななしのよっしん
2021/02/25(木) 23:11:18 ID: bfR9mFgBVM
ぐるナイのアバター大喜利で確変を起こしたことで話題に。

三人でも
四人でも
何人でも
ラモス
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27 ななしのよっしん
2021/07/24(土) 18:48:54 ID: PgLiaskV28
まさかの孤独のグルメに出演、流石老けたなぁ
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28 ななしのよっしん
2022/05/05(木) 14:49:57 ID: DBZFMUouAq
>>27
いかりや長介竹中直人スティーブ・ジョブスに似てかった?
まあ現役から30年近いしな。
当時はJリーグの顔と言ってもいいくらいいろんなところで引っりだこだった。
JリーグカレーCMとか今だとかなり上位の賞取れそうだよな。
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29 ななしのよっしん
2023/12/09(土) 13:33:27 ID: N9OEim2yvW
ここまで日本サッカーを想っているならばJFA会長になってほしかった
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30 ななしのよっしん
2024/05/14(火) 22:38:44 ID: pnz/hRVymk
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31 ななしのよっしん
2025/12/20(土) 10:35:02 ID: pnz/hRVymk
《直腸がんステージ3を初告白ラモス瑠偉が明かす体重20キロ減の壮絶闘病10カ
https://www.news-postseven.com/archives/20251219_2082461.htmlexit
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