ラモス瑠偉(Ramos Ruy、1957年2月9日 - )とは、ブラジル・リオデジャネイロ出身の日本の元サッカー選手、指導者である。元サッカー日本代表。
現役時代のポジションはDF→FW→MF。181cm69kg。利き足は右足。
概要
現役時代はJリーグ創成期の顔の一人であるスター選手であり、得点やアシストに優れた情熱的なミッドフィルダーだった。日本に帰化する前の本名はルイ・ゴンサゥヴェス・ラモス・ソブリニョ。日本中にショックを与えた1993年の「ドーハの悲劇」のときに日本代表の10番を背負っていた。36歳85日での日本代表における最年長得点記録保持者である。
1977年20歳で来日し読売クラブでデビュー、最優秀選手賞を2度取るなど活躍した。1989年に日本に帰化している。1993年のJリーグ開幕後は読売クラブから引き続きヴェルディ川崎に所属し、3連覇に貢献した。1996年に京都パープルサンガに移籍するが、1997年にはヴェルディに戻っている。1998年に現役を引退。
1989年に帰化した後日本代表に選出され、アジアカップ1992での優勝、アメリカワールドカップ予選などで中心選手として活躍した。
指導者としては、2005年にビーチサッカー日本代表監督に就任、ワールドカップで4位に導く。その後柏レイソルのコーチを経て、2006年にJ2の東京ヴェルディ1969の監督に就任、2007年にJ1昇格に導いて退任。その後は再びビーチサッカーの日本代表監督へと戻り、2009年、2011年、2013年のワールドカップに出場。2009年と2013年大会では共にベスト8に進出している。2014年よりFC岐阜の監督に就任し、7年ぶりにJリーグで指揮を執ることとなった。
ニコニコ動画では、永谷園のJリーグカレーのCMで有名。だが、ほぼ同時期に同じ永谷園のお茶漬け海苔のCMにも出演し、「日本人ならお茶漬けやろが!」というセリフがあったことで盛大な矛盾を引き起こしていたことも。
現役時代の経歴
生い立ち~来日まで
1957年2月9日、ブラジル・リオデジャネイロから山側に7~80キロほど離れたメンデスという小さな町で二男三女の第四子として生まれる。父親はサッカー好きの公認会計士だったが、母親はサッカーがあまり好きではなかったという。ブラジルらしく、男の子が生まれたら近所の人たちや親戚からサッカーボールをプレゼントされるという環境だったことから気が付くとサッカーを初めていた。
子供のときはどこでも場所さえあれば2対2や3対2でミニゲームをし、靴を置いてゴールに見立て足の裏に血豆ができても関係なく裸足でボールを蹴っていた。学校でもサッカーをやらなければ仲間外れにされるような環境であり、とにかく当たり前のようにサッカーに没頭する少年時代を過ごしていた。友達から兄がサッカーがうまいと評判になっており、兄を尊敬して兄のプレーをずっと観察し、プレーを見て盗んで真似をし、いつか兄を超えたいというのが目標になっていた。
9歳となった1966年、父親が死去。大きなショックを受け、父親の死を受け入れることができず、憤慨し、家を飛び出したという。当時住んでいた家は父の会社から借りていた社宅だったことからリオから300キロ離れたサンパウロに住む叔母の家に引っ越すことになる。その後、家族を楽にさせるためにいつしかサッカー選手になりたいというのがサッカーを続ける目標となっていた。
当時のポジションはDF(スイーパー)で当時パルメイラスやアトレティコ・マドリードで活躍していたルイス・エドムンド・ペレイラに憧れていた。ボールを奪った後に前線に出てボールを貰い、トップ下やWGに丁寧にボールを渡す、当時としては画期的なプレースタイルに感銘を受けたという。高校生になったときはほとんどの時間をサッカーとアルバイトに明け暮れ、アマチュアの大会などに参加していた。母が「気が狂った」と呆れるほどに連日に渡り、膨大な試合に参加していたが、CBとしては体が細身だったことからクラブのセレクションにことごとく落ちており、何度も悔しさを味わったという。
18歳となった1975年、ある草サッカーの大会でスカウトを受け、サンパウロ州1部リーグのサージFCに入団し、念願のプロサッカー選手としてのキャリアをスタートさせる。ちなみにそのときの母親の反応は「勉強しなさい」だったらしい。
1977年1月、当時日本の読売サッカークラブでプレーしていた与那城ジョージにスカウトされ、「家族を助けられる」という理由で日本行きを決断する。
読売クラブ / ヴェルディ川崎
1977年4月に来日し、当時日本サッカーリーグ(JSL)2部に低迷していた読売サッカークラブに入団。当時の登録名は「ラモス・ソブリニョ」。来日当初は慣れない日本の生活にホームシックにかかり、ブラジルに帰りたがっていたという。しかし当時読売でプレーしていたポルトガル出身の選手から赤坂や六本木の繁華街に誘われたところ、「日本に来て良かった、帰る気は失せた」と考えるようになった。
来日してしばらくするとDFからFW(左WG)にコンバートされる。新外国人選手に科せられた半年間の出場待機の期間を過ぎ、10月10日、2部リーグ第7節の帝人松山戦で日本公式戦デビュー。途中出場ながら早くも得点を決める。しかし当時は元々の喧嘩っ早い性格と日本語が分からなかったことが災いし、トラブルを起こしがちだった。それでもデビューから公式戦6試合6得点と結果を残していたが、事件を起こしてしまう。1978年1月14日の日産自動車戦で接触プレーの際に相手が演技で倒れたにも関わらず、主審はラモスに退場を宣告する。そのとき相手がラモスを見て笑っていたことに激昂してしまい、グラウンドで追いかけ回してしまう。この事件により、日本サッカー協会から1年間の出場停止という異例の重い処分が下される。ラモスが出場停止だった間に読売クラブはJSL1部に昇格。このときブラジルから太鼓を持って来て、スタンドで一生懸命チームを応援したという。
1979年シーズンに出場停止処分が解け、4月1日の古河電工戦で復帰。本人はCBでプレーしたかったらしいが、FW不足というチーム事情もあってセンターフォワードで起用される。すると、復帰した直後から2試合連続でハットトリックを記録。才能を開花させたラモスはこの年のJSLで14得点7アシストというハイレベルな数字を残し、JSL得点王とアシスト王の二冠を達成。ちなみに得点王とアシスト王の同時受賞は日本のサッカー史上でラモスと釜本邦茂しかいない。さらにJSLカップでは決勝の古河電工戦でゴールを決めるなど4試合4得点の活躍により、クラブに創設以来初タイトルをもたらす。この功績が認められ、JSLベストイレブンに選出。
ラモス、与那城ジョージ、そしてジャイロを加えた読売のブラジルスタイルは日本サッカー界に新風を吹き込み、高い技量によるパスやドリブルを駆使した魅惑的なサッカーは、多くの少年ファンを惹きつけた。こうしてラモスはリーグ屈指の人気者となっていった。しかし、日本での生活にもすっかり慣れてきた1981年8月2日、オートバイの事故によって左足のすねを複雑骨折し、選手生命の危機に陥ってしまう。一時は絶望し激しく動揺するが、後に妻となる交際相手・清水初音さんの献身的な支えで、辛い時期を乗り越え、3か月ほどのリハビリを経てプレーできる状態にまで回復する。
1982年JSL開幕戦で復帰したものの、今度は膝の靱帯を痛めてしまって満足なプレーができずに9試合1得点に終わってしまう。1983年も体調不良で出遅れるが、シーズン後半に復調。シーズンになって完全復活。台頭してきた戸塚哲也とのコンビでエースとしての輝きを放ち、チームをリーグ戦首位へと押し上げる。そしてリーグ最終節のフジタ工業戦、1点ビハインドの後半に2ゴールを決めて逆転勝利を呼び込み、読売クラブにJSL初優勝をもたらす。さらにこの年シーズン10得点で2度目の得点王に輝やいている。
1984年2月、初音夫人とブラジル・サンパウロにて挙式し、結婚。伴侶を得たこのシーズンも16試合9得点という成績でチームを首位に浮上させるが、リーグ戦の優勝争いが佳境を迎えた11月3日のヤマハ戦で古河電工戦で、両軍入り乱れての乱闘騒ぎを起こしてしまう。その後、他の選手は2試合の出場停止だったのにもかかわらず、ラモスに対しては翌年3月末までの出場停止という重い処分が下される。その背景には日本サッカーの異端児と呼ばれた読売クラブがリーグ運営側とたびたび対立していたことに加え、報復行為や審判へのクレームが多かったラモスにも厳しい目が向けられていた面もあったとされている。チームはその後JSL連覇と天皇杯初優勝の二冠を成し遂げるが、そのときピッチに立つことができなかった。
1985年は恩人である与那城ジョージが現役を引退し、彼の持つ「ミスター・ヨミウリ」の称号を受け継ぐことになる。この年のキリンカップサッカー1985に読売クラブの一員として出場し、サントスFCやウルグアイ代表相手にも高いテクニックを披露している。
1986年、外国人枠を空けるという理由により、クラブのフロントから日本への帰化を勧められる。一旦その話は断ったものの、家族のことも考えて半年後に日本での永住を決意する。1986-87シーズンに1958年ワールドカップでブラジル代表の優勝メンバーだったジノ・サニがコーチに就任。彼の指導によってプレースタイルを点取り屋から一列ポジションを下げてのゲームメーカーつまりは司令塔タイプのゲームメーカーへ変更する。同時に背番号も8番から10番に変更となる。このコンバートによって30歳手前にしてパサーとしての新たな才能を開花させ、高卒ルーキーの武田修宏を点取り屋として巧みに操り、チームを3度目のJSL優勝に導き、4年ぶりとなるベストイレブンにも選出。さらにはアジアクラブ選手権にも優勝し、チーム初となる国際タイトルも獲得。
その後、ブラジルから帰国した三浦知良が加入し、チームは黄金期を築いていき、読売のパスサッカーの心臓ともいえる中盤の要として絶対的な存在となっていた。そして1989年11月、日本国籍を取得。名前も「ラモス瑠偉」に改名する。この頃、JSLでは木村和志、水沼貴史らを擁した日産との熾烈な覇権争いに突入。1990年代初頭は二年連続の日本年間最優秀選手賞(1990年・1991年)、2年連続アシスト王、3年連続ベストイレブンとキャリア円熟期に達していた。1990年、カルロス・アルベルト・ダ・シルバが読売クラブの監督に就任すると彼と衝突し、加茂周監督率いる全日空への移籍を公言する退団騒動を起こしたが、ペペ新監督の就任や盟友である加藤久の説得によりチームに残留。
Jリーグ発足を控え、1992年より読売クラブはヴェルディ川崎に改名。多くのスター選手を抱える人気チームとなる。最後となったこの年のJSL東西対抗戦ではMVPに選出。さらにヤマザキナビスコカップでは司令塔として強力な攻撃陣を操り、優勝に貢献している。
36歳となった1993年Jリーグが開幕。開幕戦となった5月15日の横浜マリノス戦にもピッチに立ち、フル出場。空前のJリーグブームが訪れる中、CM出演、メディア出演など日本中から認知されるスター選手となり、Jリーグの顔と言える存在となっていた。その反面、欧州路線の導入や加藤久の起用法を巡って首脳陣と対立。自身も先のワールドカップ・アジア1次予選の疲労からコンディションが整わず、1stステージは不本意な成績に終わる。7月10日の1stステージ第17節ガンバ大阪戦では賈秀全からファウルを受けた際、報復行為として賈の顔面にボールを投げつけ、大乱闘となる。このとき賈秀全のみが退場処分となり、スター選手への忖度があったとして批判を受ける。2ndステージになるとビスマルクの加入によってゲームメイクの負担を分散できるようになり、これによりチームは復調。8月4日の2ndステージ第3節鹿島アントラーズ戦ではJリーグ初ゴールを記録。11月27日の横浜フリューゲルス戦ではこの年のベストゴールにも挙げられる技ありのループシュートを決めている。圧倒的な強さを見せたヴェルディは2ndステージを制し、チャンピオンシップでも鹿島に勝利し、Jリーグ初代王者の座に君臨。30試合4得点を記録し、初年度のJリーグベストイレブンに選出される。
1994年シーズンは開幕から9試合連続でフル出場を続けていたが、1stステージ第10節横浜フリューゲルス戦で負傷し、中断期間を挟んで3か月ほど実戦から離れることになる。2ndステージからは三浦知良がイタリアへ移籍したことからキャプテンに就任。日の丸をあしらったキャプテンマークを巻いてピッチに立つ。ビスマルクと共に中盤を支配しつつ、強気なゲームメイクでカズが抜けた攻撃陣をリード。11月5日の18節名古屋グランパスエイト戦では華麗なオーバーヘッドキックによるスーパーゴールを決める。ところが4日後の第19節G大阪戦で前半33分に左足肉離れを起こして交代となり、チームは2ndステージを優勝したものの、残りの3試合を欠場する。
サンフレッチェ広島とのJリーグチャンピオンシップも出場が危ぶまれたが第1戦に強行出場し、北澤豪の決勝ゴールをアシストする。第2戦を前に左足の状態は悪化し、本人も最初は欠場するつもりだったが、痛み止めの注射を2本射ち、またも強行出場。満身創痍の37歳は試合中満足に動くことができずにいたが、前線で1回のチャンスを待っていた。そして後半35分ゴール正面でこぼれ球に反応すると、GKの頭上を美しく抜いた芸術的なループシュートでネットを揺らし、ヴェルディのJリーグ連覇を決める値千金の決勝ゴールを決める。このゴールはJリーグの歴史に残る伝説のゴールとして語り継がれることになる。この年のMVPこそ逃したものの、2年連続でJリーグベストイレブンに選出。
長年の盟友だった加藤久が引退、松木安太郎監督が退任した1995年は2ndステージ終盤に2試合連続ゴールを決めるなどステージ優勝に貢献するが、チャンピオンシップでは宿敵横浜Mに敗れ、3連覇を逃す。1996年シーズンにネルシーニョ監督が成績不振を理由に辞任。すると、フロントは2年前にラモスに対して差別的な言葉を交えて徹底糾弾したことで毛嫌いしていたエメルソン・レオンを監督に招へい。犬猿の仲ともいえるレオンの監督就任にラモスは移籍を志願。19年間を過ごしたクラブを退団する。
京都パープルサンガ
1996年5月、シーズン途中にも関わらずJリーグ昇格1年目の京都パープルサンガに電撃的に移籍する。このとき実は浦和へのレンタル移籍が内定していたが、Jリーグの川淵三郎チェアマンから「関西のサッカーを盛り上げてくれ」と懇願されたことで京都入りが実現したのだった。京都でのデビュー戦となった第17節ジュビロ磐田戦では通常の2倍の観客を動員。続く第18節ジュビロ磐田戦では開幕から17連敗という不名誉な記録が続いていたチームの連敗記録をストップさせるのに貢献する。結局リーグ最下位に終わるが、シーズン後半戦は8勝7敗と勝ち越しており、ラモス加入の効果は見られた。
40歳となった1997年も京都で開幕を迎えるが、補強に失敗したチームはこの年も低迷。いよいよキャリアも終盤に差し掛かったこともあり、気持ちは低迷する古巣へと傾いていた。
ヴェルディ川崎
1997年8月、古巣のヴェルディ川崎への復帰が決定。この年から監督に就任していた加藤久からの要請に応える形で1年で復帰することになった。しかし、このときのV川崎は退団したビスマルクの穴が埋まらず、補強の目玉だった前園真聖がフィットできなかったこともあって低迷していた。40歳となっても主力としてチームを救おうと奮闘するが、二桁順位に終わる。また、この年にビーチサッカー日本選抜の一員としてビーチサッカー世界選手権に出場している。
1998年は怪我で出遅れ、4月4日の1stステージ第4節ヴィッセル神戸戦が初出場となる。1stステージは快進撃を見せるが、1stステージ第15節から2ndステージ第4節まで7連敗と大失速。シーズン終盤にはスタメンを外れ、途中出場が多くなっていた。リーグ最終節となった11月14日の柏レイソル戦を最後に現役引退を表明。41歳9ヶ月5日という最年長出場記録は2009年に中山雅史に抜かれるまで、Jリーグ記録であった。日本の22年で、JSL1部では210試合69得点、Jリーグでは147試合9得点の記録を残した。
1999年8月、国立競技場にてJリーグでは初となる公認引退試合を開催。最後の挨拶でファンに向けて「生まれかわっても、日本に来て、早く帰化して、ワールドカップへ出たい」と涙ながらに語った。
日本代表
日本への帰化が認められたおよそ1年後の1990年9月、北京で開催された第11回アジア競技大会のメンバーとして横山謙三監督率いる日本代表に33歳にして初めて選出される。同じく初選出となった三浦知良と共に9月26日のバングラデシュ戦で日本代表デビューを飾る。すぐにカズと共に代表の中心的存在となり、1991年6月のキリンカップサッカーでは3試合にフル出場し、トッテナム・ホットスパー、ヴァスコ・ダ・ガマといった強豪クラブ相手の勝利を果たし、日本の初優勝に貢献する。
1992年3月、オランダ出身のハンス・オフトが監督に就任。欧州式の徹底した管理主義と組織を重視するオフト監督に対し、ブラジル式の自由なサッカーを貫いてきたラモスの関係は最悪といえ、マスコミを通じてオフト監督の管理主義を猛批判し、一時は代表を外されそうになる危機となった。しかし、8月のダイナスティカップで日本は見違えるようなサッカーを見せて初優勝を飾り、選手やサポーター、メディアは「オフト・マジック」に対して信頼を寄せ始める。それでも頑なにオフト監督を認めなかったが、主将の柱谷哲二の説得を経てオフト監督と個人面談をおこない和解。日本サッカー悲願のワールドカップ初出場と共に目指すことを誓う。
10月に広島で開催されたAFCアジアカップ1992では、グループリーグ第3戦のイラン戦は体調不良によって途中出場となったが、その他の試合は全てフル出場。日本の司令塔として抜群の存在感を見せ、日本の初のアジア王者戴冠に貢献。オフト監督もラモスに前面の信頼を寄せるまでになっていた。
Jリーグ開幕を1か月前に控えた1993年4月、1994 FIFAワールドカップ・アジア1次予選に出場。5月5日のスリランカ戦では代表初ゴールを記録する。このゴールは同時に36歳85日での代表最年長得点となった。順調に勝ち星を重ねたオフトジャパンは、7勝1分けのトップで最終予選への進出を決め、日本サッカー悲願のワールドカップ初出場は国民的関心事となっていた。
1993年10月、運命の1994 FIFAワールドカップ アジア最終予選がカタールのドーハで開催される。しかし、不動の左サイドバックだった都並敏史を欠いたチームはその代役探しに難航し、問題を抱えたまま最終予選に臨んでいた。日本のキーマンであるラモスに対しては徹底的な厳しいマークを付けられ、初戦のサウジアラビア戦はスコアレスドロー、続くイラン戦では懸念材料だった左サイドを狙われて敗戦。それでもメンバー変更が功を奏した第3戦の北朝鮮戦に勝利すると、第4戦ではこれまで負け続けていた韓国を相手に勝利する。だが、この韓国戦での連勝でチームに安心したムードが漂っていたことにラモスは危機感を覚えていた。そして最終戦では後に「一番サッカーを分かっている相手だった」と評したイラクと対戦。予想以上の苦戦を強いられる中、後半24分絶妙なスルーパスで中山雅史の勝ち越しゴールをアシストする。残り時間、運動量の落ちたチームは防戦一方となり必死に守備に奔走していたが、後半ロスタイムに悪夢の同点ゴールを許してしまう。「ドーハの悲劇」と呼ばれたこの瞬間、ラモスは最初何が起きたのか分からなかったという。この結果、日本は最後の最後でワールドカップ初出場を逃すことになる。夢を打ち破られたラモスは「神様が自分たちに試練を与えたのだ」と自分を納得させた。
1994年のロベルト・ファルカン新体制では代表招集を辞退していたが、1995年に加茂周が代表監督に就任すると、1月にサウジアラビアで開催されたキング・ファハド・カップのメンバーとしてドーハの悲劇以来となる代表復帰を果たす。その後も代表メンバーに名を連ねていたが、1995年8月9日のブラジル代表との親善試合にフル出場したのが代表での最後の試合となった。
個人成績
| シーズン | 国 | クラブ | リーグ | 試合 | 得点 |
|---|---|---|---|---|---|
| 1975 | サージFC | ||||
| 1976 | サージFC | ||||
| 1977 | サージFC | ||||
| 読売クラブ | JSL2部 | 4 | 5 | ||
| 1978 | 読売クラブ | JSL1部 | 0 | 0 | |
| 1979 | 読売クラブ | JSL1部 | 15 | 14 | |
| 1980 | 読売クラブ | JSL1部 | 15 | 7 | |
| 1981 | 読売クラブ | JSL1部 | 9 | 1 | |
| 1982 | 読売クラブ | JSL1部 | 13 | 1 | |
| 1983 | 読売クラブ | JSL1部 | 14 | 10 | |
| 1984 | 読売クラブ | JSL1部 | 16 | 9 | |
| 1985 | 読売クラブ | JSL1部 | 18 | 7 | |
| 1986ー87 | 読売クラブ | JSL1部 | 15 | 4 | |
| 1987ー88 | 読売クラブ | JSL1部 | 17 | 4 | |
| 1988ー89 | 読売クラブ | JSL1部 | 17 | 3 | |
| 1989ー90 | 読売クラブ | JSL1部 | 22 | 5 | |
| 1990ー91 | 読売クラブ | JSL1部 | 21 | 2 | |
| 1991ー92 | 読売クラブ | JSL1部 | 18 | 2 | |
| 1993 | ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 30 | 4 | |
| 1994 | ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 26 | 3 | |
| 1995 | ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 23 | 2 | |
| 1996 | ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 9 | 0 | |
| 京都パープルサンガ | Jリーグ | 10 | 0 | ||
| 1997 | 京都パープルサンガ | Jリーグ | 10 | 0 | |
| ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 10 | 0 | ||
| 1998 | ヴェルディ川崎 | Jリーグ | 29 | 0 |
個人タイトル
- 日本最優秀選手賞:2回(1990年、1991年)
- JSL得点王:2回(1979年、1983年)
- JSLアシスト王:3回(1979年、1991年、1992年)
- JSLベストイレブン:6回(1979年、1983年、1987年、1990年、1991年、1992年)
- Jリーグベストイレブン:2回(1993年、1994年)
- Jリーグ功労選手賞 (1998年)
- 日本プロスポーツ大賞・殊勲賞(1993年)
引退後・指導者の経歴
現役引退初期
引退後は評論家・解説者として活躍し、セルジオ越後氏ばりの辛口評論を繰り出している。また、テレビのバラエティ番組やドラマにも出演するなどタレント活動もおこなっている。
引退直後の1999年2月、フットサル日本代表に招集。同年3月、マレーシアで開かれた第1回AFCフットサル選手権に主将として出場し、4位となる。スター選手として抜群の知名度を持つラモスの参戦によりフットサルへの関心が高まることとなった。
2000年にはブラジル政府より「リオ・ブランコ勲章」を贈られている。
2001年5月、Jリーグ入りを目指して2年前に発足した沖縄かりゆしFCのテクニカル・ディレクター(TD)に就任。選手の指導だけではなく、人脈を活かして補強やチームの強化にも携わり、選手として自らピッチに立ったこともあった。就任1年目にして沖縄県社会人リーグ優勝を成し遂げ、九州サッカーリーグ初昇格を果たす。2002年には参入初年度にして九州リーグで優勝。しかし、チーム運営を巡ってクラブの運営と対立し、10月に解任となる。ラモス解任がきっかけとなって年末には選手が大量離脱する騒動に発展。
翌年2月に退団した選手を中心にFC琉球が創設され、チームの設立に尽力している。
2004年7月、JFA公認S級ライセンスを取得。ここから本格的に指導者として活動するようになる。
ビーチサッカー日本代表監督
2005年、リオデジャネイロで開催される2005 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場するビーチサッカー日本代表の監督に就任。沖縄県における2泊3日の強化合宿をしただけで大会に臨んだ準備不足により厳しい結果になることが予想されたが、日本代表はグループリーグを2位で突破し、さらに準々決勝でウルグアイに4-3で逆転勝ちし、ベスト4入りを果たすという大快挙を達成。最終的に4位という成績を残し、ビーチサッカーの普及に大きく貢献する。
柏レイソルコーチ
2005年9月、J1リーグの柏レイソルのコーチに就任。11月21日には古巣である東京ヴェルディを相手に勝利し、愛してやまない古巣をJ2降格に追いやるという皮肉な結果となる。しかし、柏もJ1・J2入れ替え戦でヴァンフォーレ甲府相手に大敗し、J2降格となる。監督の早野宏史よりもメディアに取り上げられるなど話題性はあったが、シーズン終了後に退任となる。
東京ヴェルディ監督
2006年、J2リーグに降格した東京ヴェルディの監督に就任。「1年でのJ1復帰」を目標に掲げ、愛するヴェルディを救うために並々ならぬ意欲を見せるが、主力の大半が入れ替わったうえに補強した外国人選手がことごとく失敗、加えてAFCチャンピオンズリーグ出場の影響によって日程が過密となりメンバーを固めることができず、結果は7位となり1年でのJ1復帰は果たせなかった。
就任2年目の2007年、服部年宏、名波浩を始め土屋征夫、佐藤悠介などを獲得。大型補強をおこなったことで失敗が許されないシーズンとなったが、フッキ&ディエゴのブラジル人コンビの攻撃力を武器に開幕ダッシュにスタート。しかしその後守備の不安定さからクラブワーストタイの7連敗を喫したことで一時は解任論が噴出するが、こだわり続けた4-4-2から3-5-2へとシステムを変更したことで守備の立て直しに成功。以後は安定して勝ち点を得られるようになり、フッキが42試合37得点という驚異的なゴールラッシュを見せたこともあり8連勝を記録するなど追い上げを見せ、最終節で優勝は逃したが2位の成績でJ1復帰を果たす。
シーズン終了後に監督を退任し、2008年よりエグゼクティブディレクター(ED)としてフロント入り。2008年4月からは常務取締役を兼務。2009年4月に同職を退任すると、5月には東京Vスーパーバイザーという肩書に就任したが、同年末の契約切れにより退任。
ビーチサッカー日本代表監督(2回目)
2009年7月9日、ビーチサッカー日本代表監督に4年ぶりに就任。今回は前園真聖をチームに加え、11月にUAEで開催された2009 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。グループリーグを2勝1分の首位で通過するが、準々決勝でポルトガルに敗れ、ベスト8での敗退となる。
その後もビーチサッカー日本代表の監督を続け、2011年にイタリアで開催された2011 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。大会の2か月前に最愛の妻である初音夫人が他界し、悲しみの中で指揮を執ることになった。グループリーグでは祖国であるブラジルと同じ組み分けとなったが、結果は3戦全敗という厳しい結果に終わる。
2013年9月、タヒチで開催された2013 FIFAビーチサッカーワールドカップに監督として3大会連続で出場。ロシア、パラグアイ、コートジボワールと同居したグループリーグを1勝1分1敗の2位で突破。準々決勝では前回に続いて優勝候補のブラジルと対戦するが、1点差で敗れベスト8での敗退となる。大会終了後、4年間続けてきた監督の座から退任する。
FC岐阜監督
2014年1月21日、J2リーグのFC岐阜の監督に就任。藤澤信義Jトラスト社長の支援を受けたチームは川口能活、三都主アレサンドロといった元日本代表を含む大型補強をおこない、第36節磐田戦から5連敗を喫するなど終盤に息切れしたものの、開幕前の評判通りの高い攻撃力を発揮し、残留争いに巻き込まれることなく前年から4つ順位を上げた17位でシーズンを終える。ラモスの監督就任、川口らの加入によって岐阜の主催試合における平均入場者数は3,059人増の7,584人とアップしていた。
2年目の2015年は長男のラモス・ファビアノがFC岐阜SECONDの監督に就任。しかし、シーズンを通して得点力、守備力両面で振るわず、特に総失点数は71は断トツでのリーグワーストとなった。それでも12勝を挙げていたこともあり、20位でJ3リーグ降格は免れるのだった。
2016年も守備の問題は解決されず、第14節から第31節までの18試合で1勝5分12敗と大きく負け越し、第20節から5連敗となった第24節の後の7月22日に監督を解任となる。
この年の12月29日、自宅で脳梗塞によって倒れ、緊急搬送される。その後リハビリを経て2017年2月に無事退院。
ビーチサッカー日本代表監督(3回目)
2018年2月、3度目となるビーチサッカー日本代表監督に就任。2019年11月にはパラグアイで開催された2019 FIFAビーチサッカーワールドカップに出場。開催国のパラグアイ、スイス、アメリカと同居したグループリーグを3戦全勝の首位で突破。準々決勝ではウルグアイを破り、自身が監督を最初に務めた2005年以来となるベスト4進出を果たす。準決勝のポルトガル戦も善戦するが、PK戦の末に敗れ、決勝進出を逃す。大会終了後の12月に監督から退任。
その後
2018年8月1日、加藤久と共に日本サッカー殿堂入りを果たす。
2020年2月、古巣である東京ヴェルディのチームダイレクターに就任。
2025年12月に大腸がんのステージ3であることを告白。同年2月10日に医者から告知を受け、放射線治療をおこない、7月28日に手術を受けている。
プレースタイル
ブラジルで居た頃はリベロ、来日してから若い頃は点取り屋、ベテランになってからは司令塔とキャリアによってポジションと役割が異なっているが、攻守にわたるオールラウンドな能力を持ち、正確なボールコントロールとパス・シュート技術に加え、冷静な判断力と勝利のために体を張ることをいとわず、味方を叱咤激励して勝利に向かっていくリーダーシップを兼ね備えていた。
ゲームメーカーとしてはボール扱いとテクニックに優れ、広い視野からの柔らかなスルーパスと、芸術的なループシュートを得意としていた。常に冷静で、視野が広く、的確なプレー選択ができ、必要なときには創造性を発揮して状況を打開する。当時は現代サッカーと比べてプレッシャーが厳しくなったというのはあるが、1対1で相手を翻弄するプレーできるのが持ち味だった。ブラジル出身なこともあって遊び心のあるプレーやマリーシアも織り交ぜ、Jリーグ初年度ではビスマルクと華麗なリフティングによるパス交換を見せている。
元がDFだったということもあって守備に奔走することを嫌っておらず、自分のボールを失うと、火の玉の火力がさらに強まり、自分のゴール前まで自分で取返しにいくタイプだった。その反面、熱くなり過ぎてダーティーな削りをおこなうことも多かった。
ちなみに本人が一番好んだポジションはリベロであり、現役時代もいつかこのポジションをやりたいという願望があったと明かしており、リベロであればヨーロッパでもプレーできたと自信を見せている。
人物・エピソード
- 1984年に結婚した初音夫人との間に一男一女を授かっている。2011年7月19日に初音夫人と死別。ラモスの希望により、初音夫人の葬儀・告別式は2人の結婚式が行われた聖イグナチオ教会でおこなわれた。2015年11月に再婚。
- 日本に帰化した経緯は本人の発言が時代によって異なっている部分があるが、帰化した理由は読売クラブへの恩返しのためであり、日本代表に選ばれることは考えていなかった。
- 「日の丸」への愛着は日本人以上に強く、ドーハでのイラン戦の際には国歌斉唱が終わった直後にユニホームの袖の日の丸に口づけし気合を入れている。
- 松木安太郎とはお互い現役だった頃から六本木や新宿に飲みに行った仲で、松木がいなかったら日本に残っていなかったとまで語っている。
- キャリアのほとんどを過ごした東京ヴェルディに並々ならぬ愛情を持っており、自ら「緑の血が流れている」と公言するほど。自身は「ヴェルディ」ではなく「読売」と呼称している。
- 読売グループのクラブ運営撤退後、経営危機に陥った東京Vの行く末を案じており、親交のある明石家さんま氏に対し5億円でクラブのオーナーにならないか持ちかけたことがある。
- 現役時代から歯に衣着せぬ言動で物議を醸しており、一時はメディアからラモスを日本から追い出す動きがあったほど。1998 FIFAワールドカップの際は再三の決定機を外した城彰二に対して辛辣な批判をし、城が当時所属していた横浜マリノスとの直後の対戦ではマリノスのサポーターから「ラモス何様」という横断幕が掲げられた。
- NHKの連続テレビ小説に2度出演しており、2002年の「さくら」にレオナルド役として出演。2025年2月28日放送の「おむすび」第105回には本人役として出演している。
Jリーグカレー
Jリーグブーム真っ只中の1993年、サッカー少年の「まさお」がカレーを食べるとラモスに変化するという奇抜なCMが流れ、当時大きな話題となった。
時は流れ、2024年Jリーグ公式Jリーグの日2024において「Jリーグカレー復刻」企画が展開。当時「まさお」を演じた子役が今度はお父さん役として出演している。
ちなみに当時、Jリーグカレーの他にも永谷園のCMに数多く出演しており、お茶漬けのCMではホットドッグを食べに行こうとするサッカー少年たちに「日本人ならお茶漬けやろが!」と怒る演出が話題となった。また、「煮込みラーメン」のCMでは親交のあった和田アキ子と共演している。
関連動画
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関連項目
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