ルイ14世とは17~18世紀のフランス王である。ブルボン朝の第3代にあたる。
概要
太陽王とあだ名されフランス絶対王政を築いたとされる王。「朕は国家なり」と名文句で有名。数々の戦争に明け暮れたその72年の治世は東西の国家元首の中でも(史料がはっきりとしているものの中では)一位の長さである。
とはいえ彼は後のフリードリヒ大王のように軍事に天才であったわけでもなく、中華皇帝のように専制的な王権を持っていたわけでもなかった。彼の伝説は多く誇張が含まれており、彼が死後に残した莫大な借金はフランス大革命の要因となった。
生涯
幼少期 マザランとフロンドの乱
1638年9月5日、生誕。父親はフランス王ルイ13世、母親はスペイン王女のアンヌ・ドートリッシュ。両親はあまり仲がよくなく、結婚22年目にしての嫡男であった。王位継承には血なまぐさい後継者争いがつきものであるが、王太子ルイは特にトラブルもなく1643年の父の崩御と共にフランス王ルイ14世として即位することができた。とはいえ当時のルイはわずか4歳だったので、実際に政治を預かった母アンヌ・ドートリッシュと宰相のマザランであった。マザランは先代の能吏リシュリューから薫陶を受けた優秀な人物であった。母とマザランは公然と愛人関係を結んでいたが、幼王を軽んじるでもなく熱心に政務に励んでいた。小さなルイ14世はバレエにハマり毎日熱心に練習をしていたという。
当時のフランスは三十年戦争の真っ最中であり、フランスはスペインやスウェーデン相手になかなか良い戦況を維持していた。しかし長引く戦争は国内を疲弊させ、限界を超えた課税は叛乱を誘発する。1648年、マザランが反王家派を逮捕したことをきっかけにパリの民衆が蜂起しフロンドの乱の第一幕、高等法院のフロンドの乱が始まる。三十年戦争が終結しても内乱は収まらず、ルイ14世はパリを脱出してサン・ジェルマン離宮へと避難する。結局、有力貴族のコンデ大公の助力もあってリュエイユの和をもって叛乱は鎮圧された。
しかし今度はコンデ大公が増長し始めたためマザランが彼を逮捕すると、コンデ派が結集して第二幕の貴族のフロンドの乱が始まる。当時のフランスには官職を金で買って貴族になった法服貴族と、中世以来封建的に土地を経営する剣の貴族の2種類の貴族がいた。フロンドの乱の第一幕は前者の、第二幕は後者の反乱である。マザランはフランス中を巡って乱を鎮圧しようとするが、フロンド派がスペインと手を組んだり、王族の中からフロンド派に寝返るものもあったりして叛乱は長引いた。ルイ14世自身は政治的には特に何もしておらずこの頃にバレエの初舞台を踏んだりもしていたが、宮廷から一歩も出られない生活が続き、時に民衆が「王が逃げ出してはいないか」と彼の部屋になだれ込んできたこともあった。
だが、やがてルイ14世が13歳になると成人宣言を行い親政を目指すようになった。摂政であった母は国王顧問会議の首座に移り、引き続き政治に関わることになったのだが、既に釈放されていたコンデ大公はこれが気に食わなかった。コンデ派はスペインと手を組み再び反乱軍を結集しようとしていたためルイ14世はコンデ派に大逆罪を宣告した。王家とマザランのコンビは、軍事的攻勢と相手の内部崩壊を狙う硬軟併せた戦略で1652年にはフロンドの乱を鎮圧させた。ようやく腰を落ち着けられたルイ14世は晴れてパリの地でバレエの公演を行った。演目は『夜』、役は太陽神アポロンであったという。彼の太陽王というあだ名はこの時の衣装からきているとされる。
成人期 コルベールとルーヴォワ
1654年、ルイ14世はランスの地で16歳で戴冠式を挙げた。当時の政治はいまだにマザランが主導権を握っていたがルイ14世に不満はなく、むしろマザランに連れられて実際の現場で政治や戦争(スペインとの戦いはまだ続いていた)を学び、帝王としての力をメキメキと伸ばしていった。
あるとき、戦場を視察していたときルイ14世を高熱が襲い、もはやこれまでと診断された。世の中は薄情なものでそれまで彼に媚びへつらっていた者たちは、ルイ14世の死後に王になると見なされた王弟フィリップのところに集まっていた。しかし一人の女性がルイの元を離れなかった。この献身的なマリー・マンシーニにルイは恋心を抱いた。このマリーという女性は他でもないマザランの姪であった。ルイ14世はマリーと共に幸せな時を過ごしていたのだがすぐに終焉が訪れる。マザランがスペインとの和平のためにルイ14世にスペイン王女マリア・テレサとの縁談を強要したのだ。ルイ14世は猛反対したが結局押し切られてしまった。なんといっても姪が王女になればマザランの地位は安泰なのに、それを振り切っても和平を得ようとするマザランの滅私奉公の心にルイ14世は折れざるをえなかったのだ。
こうしてスペインとの間に結ばれたピレネー条約によってフランスは大きな領土を得て、逆にかつて太陽の沈まない国と呼ばれたスペインの覇権は完全に終焉を迎えた。ルイ14世はスペイン王女マリア・テレサ、フランス風で呼ぶところのマリー・テレーズと結婚し、久々の平和に湧くフランス各地を巡って民衆に歓待を受けた。その光景を見ながら老臣マザランは自らの役割を終えたことを悟ったのか、病に倒れ、1661年に臨終を迎えている。ルイ14世は恩人にして師匠の死に涙を流しながらもついに政治の全権と責任を負うことを自覚しなければならなかった。
マザラン死後にルイ14世はもはや宰相は置かないと述べた。周りはそうは言っても摂政に相当する者はいるだろうとタカをくくっていたが、王は自らの方針を行動をもって証明することとなる。当時の王宮にはマザランの後継者と目されていた財務総監フーケという人物がいた。彼は王家に匹敵するほどの大金持ちであった。フーケは私財から王家に財政支援するなど好人物であったが、ルイ14世は財務監察官コルベールと図って彼を逮捕し、財産を没収してしまった。この事件によりルイ14世は有力者を排除し、コルベールの一族はこぞって栄達を果たした。コルベールも有能な人物であり宮廷の財政改革を行い、同時に保護関税を重くしたりして国内産業の振興を促した。彼の経済政策は後に重商主義と呼ばれようになる。一方で王はもう一人の有力官僚のルーヴォワの一族に軍事改革を行わせた。ルイ14世はコルベールとルーヴォワを拮抗させることで単独の有力宰相の発生を抑えたのである。
コルベールの財政改革とルーヴォワの軍事改革によってルイ14世が行ったのは戦争であった。先述の通り、ルイ14世の妻はスペイン王女である。彼女は持参金と引き換えにスペイン王家継承権を放棄する約束をしていたのだが、この金が支払われていなかった。そこでルイ14世はスペイン王フェリペ4世の崩御の際に、約束を反故にして「我が妻マリー・テレーズが王につくべきだ」と主張した。こうして1665年、遺産帰属戦争(フランドル戦争)が勃発する。ルイ14世は自ら戦場に赴き名将テュレンヌと共に進撃を続けた。フランスの勢力拡大を恐れたオランダは、イギリスとスウェーデンを誘ってハーグ同盟を結び、ルイ14世にスペインと講和するように圧力をかけた。これに屈したフランスはエクス・ラ・シャペル条約を結んで戦争を終わらせた。
これが原因でルイ14世はオランダを恨み、1672年にイギリスとオランダの戦争(オランダ戦争)に参戦してオランダの首都アムステルダムに侵攻した。ここでオランダは世紀の奇策にでる。なんとオランダは堤防を開いて自国に洪水を起こしてフランスの進撃を食い止めたのである。さらにオランダは神聖ローマ帝国、スペイン、デンマークと同盟を組み、ついにはフランスの同盟国のイギリスまで味方に引き入れルイ14世を孤立させた。ザスバッハの戦いではテュレンヌも戦死してしまい、1678年にルイ14世はナイメーヘン条約でオランダとの戦争を終わらせた。オランダから領土は一つも得られず、逆にオランダの要求でコルベールの築いた高関税が撤廃させられてしまった。一方でスペインや神聖ローマ帝国からは領土を一部奪うことに成功した。
戦争、戦争、戦争
ルイ14世はボシュエというカトリック司教の書いた『世界史序説』という書物を読み「フランスの王権は神から与えられたものだ」とする王権神授説を信じるようになっていた。さらにボシュエはフランス聖職者会議において4か条の宣言を起草した。これはフランス教会のローマ教会からの事実上の離脱宣言であり、ルイ14世もローマの軛を逃れられるとこれを支持したのだが、カトリック諸国を敵に回すことを恐れて撤回せざるをえなかった。
ルイ14世は、敬虔なクリスチャンであった当時の愛人モンテスパン夫人の影響もありカトリック信者であった。しかし度が過ぎていた。フランスは1598年のナントの勅令によってプロテスタントにも信教の自由が与えられていたが、ルイはこれを撤廃しようとしたのである。まずプロテスタントの元に兵を送り嫌がらせをして改宗を強要した。ついで1685年にフォンテーヌブロー勅令によって完全にナントの勅令を破棄してしまう。これにより職人や商人を含む20万人の亡命者がでてフランスの国力は落ち、新教徒を受け入れた周辺諸国は得をすることとなった。
コルベールはナントの勅令廃止によってせっかくコツコツ築いてきた国内殖産政策が崩れ、またルイのヴェルサイユ宮殿増築や重なる戦争によって財政は火の車となっていたことを悩んでいた。コルベールの諫言も無視し、逆にルイ14世はコルベールを罵倒するようになった。明くる1683年、コルベールは失意の中に死んだ。コルベールと両輪をなしていたルーヴォワも王に見捨てられ1691年に亡くなっている。
ルイ14世はこれにかさむ財政赤字も気にすることなく再び戦争を開始する。今度はプファルツ継承戦争(アウグスブルク同盟戦争)である。ドイツのプファルツ選帝侯が崩御した際に、血縁関係のある弟のフィリップがプファルツを継承すべきだと主張したのである。フランスを警戒した神聖ローマ帝国、オランダ、スペイン、スウェーデンがアウグスブルク同盟を結成し、1688年に火ぶたが切られた。緒戦は優位に進めていたフランスであったが、ドイツの列強が同盟側で参戦。さらにイギリスの名誉革命によってオランダ人がイギリス王となったため、イギリスもフランスの敵に回った。こうなるとアメリカ新大陸のルイジアナでもフランスとイギリス間でも戦闘が開始され、世界戦争の様相を帯びてきた。多勢に無勢のフランスは1697年に諸国とライスワイク条約を結んで終戦を迎えた。これによりフランスは先の戦争で得た多くの領土を失うこととなった。
しかし戦火はいまだ収まらない。1700年、臨終間際であったスペインのカルロス王は自分の死後に国土が列強に分割されることを恐れ、あえてスペイン王家の血を引くルイ14世の孫のアンジュー公フィリップを後継者に選んだのである。これがフェリペ5世である。フェリペ5世はフランス王家と兼任することはできないという約束であったが、ルイ14世はこれを無視しようとした。これに対しすぐにイギリス、オランダ、神聖ローマ帝国がハーグ同盟を結びフランスに対抗。スペイン継承戦争が勃発した。戦火はスペインに止まらずイタリアや北アメリカ大陸にまで広がる。同盟側は同じくスペイン王家の血を引くカルロス3世を擁立したのだが、カルロス3世がハプスブルク帝国を引き継ぐことになり、今度はスペインとハプスブルクの同君国家ができることを恐れて同盟側の結束が乱れた。ついに1713〜14年のユトレヒト条約とラスタット条約でフランス王と兼任しないという約束でフェリペ5世の即位が認められたが、フランスはアメリカでのニューファンドランドとフィラデルフィアを失うこととなった。
晩年
戦争でも今ひとつ振るわないルイ14世であるが、後継者選びにも苦労させられている。なんといっても疫病の時代である。まず王太子ルイは1711年に天然痘で失う。次に後継者となった王太子ルイの子、ブルゴーニュ公ルイ(ルイ14世の孫)は1712年に夫婦共々麻疹で急死してしまう。さらにその子のブルターニュ公ルイ(ルイ14世のひ孫)も直後に死亡、そこでその兄弟であるアンジュー公ルイとベリー公ルイが候補に残ったのだが後者が1714年に事故死してしまったため、アンジュー公ルイが王太子となった。これがルイ15世である。
ルイ15世は14世にとってはひ孫にあたる。あまりに血縁関係が遠過ぎたのが気に入らなかったのか、ルイ14世は自分の実子のメーヌ公ルイとトゥルーズ公ルイを嫡子化した。しかしそれは世間から老人の胡乱な行為として冷ややかな目で見られ、メーヌ公はのちに陰謀が発覚して幽閉される運命にあった。
健啖家であったルイ14世は晩年は糖尿病に悩んでおり、歩くこともおぼつかなくなっていた。1714年9月1日に崩御。享年76歳。遺体は王家のサン・ドニに埋葬された。生涯を通じて戦争に明け暮れた太陽王の残したものは国家財政の大赤字と民衆の王家への不信であった。
そのほか
- ルイ14世は1670年にヴェルサイユにあった小規模な宮殿を大増築し、観光名所としても有名な現在のヴェルサイユ宮殿を作り上げた。ルイは宮殿の中で独自の文化世界を作り上げ貴族たちを精神的に支配しようとした。ヴェルサイユ宮殿は当時から誰でも入ることができ、それによって民衆たちは王の威光を目の当たりにすることになった。同時に飢えに苦しむ民衆にとってその余りに豪奢な宮殿は王家の暴政の象徴ともなった。
- 14世といえば「朕は国家なり」と豪語するほどの絶対王政が有名であるが、中国やオスマン帝国のような専制君主国とは程遠いものであった。確かにカペー朝の頃から比べれば王が直轄する土地は大きくなり、ヴァロワ朝を経て行政的にも統一が進んでいた。しかしそれでも国内には独自の勢力がはびこり、民衆の中にも「私はフランス人であり、フランス王は我が王だ」という一体感は乏しかった。王の権威はまだまだ発展途上にあったのだ。
- コルベールの重商主義は「貨幣を溜め込む」ことを目的とする経済政策であった。そのためには外国人が欲しがる奢侈品を作って輸出を増やし、輸入品に高関税をかけて輸入を減らす。国民が最も欲していた生活必需品の増産は後回しにされた。自由市場経済を阻害するこのような方針は後に近代経済学の父と呼ばれたアダムスミスに批判された。
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