レオポルド・ゴドフスキー(1870~1938)とは、19世紀から20世紀にかけて活動した作曲家である。
ゴドフスキーの生涯
1870年にヴィリニュス近く(現在のリトアニア、当時はポーランド領)のソズウィで生まれる。物心つく前に父親を亡くし母一人子一人となったため、祖父母宅で暮らすこととなる。3歳の時に軍楽隊についていき1年後にはその曲を正確にピアノで弾けた、といった神童っぷりを示すエピソードはこのころからあるが、アマチュア・ヴァイオリニストだった母の友人パシノック夫妻からの手ほどきを除くと、ほとんど独学でピアノを習うこととなる。しかし9歳のころにはリサイタルを開くほど、早い成長を見せた。
11歳のころ才能に目を付けた銀行家の支援でベルリン高等音楽院に入学するが、ゴドフスキーを指導したエルンスト・ルドルフがベートーヴェンやシューマンと比較してショパンを軽視したことなどから、わずか三か月で学校をやめる。これが彼の人生における唯一の正規音楽教育であった。
14歳のころから次第にアメリカとヨーロッパの両方を拠点として二つの大陸にまたがって活動する。もともとはリストに師事を受けようとしたが、アメリカから戻って来た時には彼は亡くなっており、代わりにサン=サーンスから指導を受ける。サン=サーンスは彼を養子にしたがるほど才能を褒めたが、指導に関しては演奏を聴いてコメントする程度で、レッスンをすることはなかった。その後もニューヨークやフィラデルフィアで教職に立ち、さらにはシカゴ音楽院のピアノ学部長に抜擢された。
1900年には再びヨーロッパに戻り、ベルリンでの演奏会で一躍名声を得た。その結果作曲家・演奏家・教育者としてヨーロッパで充実した日々を過ごす。しかし、第1次世界大戦のあおりを受け、再度渡米。以後活動拠点はアメリカに一本化されていった。しかし1920年代から次第に人生に陰りが見え始め、1929年に暗黒の木曜日の直撃を盛大に受ける、1930年にレコーディング中に脳卒中を起こしてピアニスト人生もほとんど断念することになる、といった具合に家庭・経済・健康の各方面で苦境に立ったまま1938年に胃がんで亡くなった。
ゴドフスキーの技巧
彼の曲は20世紀を代表するホロヴィッツやルービンシュタイン、ド・パハマンといったトップピアニストたちでも匙を投げるほど技巧的なものであった。しかしゴドフスキー自身は指が早くまわることや機械的に弾きこなすことを「メカニック」として、「テクニック」とは異なるものとみなしており、「テクニック」は肉体よりも頭を使うものと認識していた。
さらに猛練習強であり、毎日十数時間も練習にあて、小さな手にもかかわらず、10本の指の独立は完璧であった。
ただ演奏会で聴衆を前にするとしり込みしてしまい、彼のテクニックが炸裂するのは自宅での演奏であったようだ。
ゴドフスキーの音楽
曲はショパンのエチュードを左手一本で弾く、といった形容が極めて有名な「ショパンのエチュードによる53の練習曲」の知名度が突出しており、難曲でありながら全曲演奏に公式に挑戦したピアニストも両手で数えられる程度には存在している。
長年、このような曲が代表的な超絶技巧に特化したキワモノ作曲家としてあまり顧みられては来なかったものの、ここ数十年ピアノソナタやパッカサリア、ジャワ組曲といったオリジナル曲も取り上げられるようになり、この手の作曲家の中ではだいぶ知名度の高い存在となっている。
彼の音楽の最大の特徴はポリフォニー・ポリリズム・ポリダイナミクスにある。まだ左手ソロのための曲も多数残しており、この分野の発展に貢献した。しかし同時代の先進的な作曲家の作品は好まず、あくまでもロマン派の域にあり、無調や不規則リズムなどは見られない保守的なものであった。
余談
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